12月 第2木曜日 その2
花岡朱兎と同じ顔の緋馬が、ひっくひっくと嗚咽を漏らしながらテレビを指指す。見ればワイドショーでは、メジャーリーグの映像が流れていた。本郷蝶太郎の姿はどこにもない。
「え、なに? 本郷さんがどし……」
『電撃移籍の泉原隼選手! 帰国し、ドルフィンズとの契約に至った経緯を尋ねられるとー……?』
テンションも声も高い女性リポーターの声が途切れる。場面が変わり、今度は記者会見の映像に変わった。
『ドルフィンズといえば本郷蝶太郎でしょう? 彼のおかげでドルフィンズはリーグ優勝できたようなもんじゃないですか。でも日本一になれなかったのは、他にパッとしたピッチャーがいないからですよ。俺なら本郷とダブルエースでドルフィンズを日本一にできます』
パシャパシャとフラッシュが降り注がれるのは、凪の兄・泉原隼……。
「この人が凪の……」
朱兎は先日まで、凪に兄がいることすらも知らなかった。海外の野球など興味がなかった朱兎が泉原隼の存在など知るわけがない。
まじまじと画面を見つめた。涼しげな目元は凪にとても似ている。だが、アメリカ帰りのビッグマウスは、口数の少ない凪とは似ても似つかなかった。
「どうせぼくなんか、ぼくなんか……」
ふえーん、と膝頭に額をくっつけて丸まる緋馬。わけがわからない朱兎は、慌てて隣に座る。
「ど、どうしたのよ! なんで泣いてんの? この人がどうしたの? この人に何か言われたわけ?」
緋馬はぷるぷる首を振る。ウルトラポジティブ思考の口からこぼれたネガティブ発言。同じ顔が泣いていると、心がぎゅっとなる。よっぽどのことがあったのだろう。理由も聞かぬうちから、伝染したように朱兎まで泣きそうになってきた。
「これ……」
緋馬が座面に置いてあったスマホを差し出してきた。受け取り覗き込む。メッセージアプリが開いてあった。
『花岡緋馬:ねーねー! 泉原隼がうちに移籍だってー! 今テレビで会見やってるよー!』
『本郷蝶太郎:知ってるよ。昨日隼から電話あったから』
『花岡緋馬:なーんだ知ってたのかぁ。チョタの高校時代のライバルだもんねー』
『本郷蝶太郎:メディアはライバルライバルって書き立ててたけど、俺にとっては隼はずっと憧れの存在だよ』
二人のやり取りは続く。
『花岡緋馬:えー、妬いちゃうなぁ! でも今はぼくだけでしょー?』
『本郷蝶太郎:同い年だけど隼が俺の憧れの存在なことには変わりないよ。緋馬には憧れの存在いなかったって言ってたから、そういうの分かんないかもしれないけど』
『花岡緋馬:どーゆーこと? ぼくより好きってこと?』
『本郷蝶太郎:うーん、緋馬にはちょっと難しいかな? これから会見場のホテルに迎えに行かなくちゃいけないから、帰ったらまた連絡するよ』
『花岡緋馬:えー! 浮気デートじゃないよねー?』
……最後の一行に既読マークはついていなかった。
「なんだぁ、心配したじゃない! 別に浮気でもなんでもないでしょ。憧れだってちゃんと書いてあるし」
ほっとした朱兎がけらけら笑ってスマホを返すと、緋馬は頬を濡らしたままぎろりと振り向いた。
「だって、憧れって好きってことでしょ? チョタはぼくより泉原隼が好きなんだ……。しかもずっと前から……」
再びうわーんと膝に顔を埋めてしまう。思えば緋馬の憧れといえば、野球選手ではなく『かわいい服』だった。そんな緋馬に好きと憧れの違いなど分かるわけがない。
「まぁ急いでたんでしょうよ。帰ったら連絡するって言ってるんだし、その時に本郷さんと直接話したらいいじゃない? こないだ会った感じだと、本郷さんめっちゃ緋馬のことかわいいんだなって伝わってきたけど? 嫉妬なんて……」
「ちゃんと人を好きになったことない朱兎には分かんないよ!」
両膝の間でくぐもった緋馬の声が遮る。変声期前の少年のようなショタボイスだが、腹の底から怒りが溢れているかのような響きだった。
「な、なに? 八つ当たりしないでよ。私だって好きになったことくらい……」
「中学ん時、朱兎によくお手紙くれてたの泉原隼の妹でしょ? でもあん時朱兎は新体操にしか興味なかったじゃん。朱兎が甲子園見てなくて知らないだろうと思ったから、あの子は北高のピッチャーの妹じゃないかなってぼくが言っても『ふーん』って聞き流してたし。あの子が朱兎のこと大好きだってのはすっごい伝わってきたけど、朱兎はあの子のこと『いて当たり前』くらいにしか思ってなかったの、知ってるんだかんね!」
一気に言い放つと、緋馬はがばっと顔を上げた。「だから、朱兎だけには言われたくない!」と付け足した。しばし睨み合う。付けっぱなしのテレビからは『えー、次は気になるクリスマスまでのお天気でーす』と呑気な声が流れている。
「そ、そんなことない! 私は凪のこと『いて当たり前』なんて思ってなんかない! 現に凪が突然いなくなって寂しかったもん! こっちこそ、憧れと好きの違いも分からない緋馬だけには言われたくない!」
「よく言うよ! 泉原隼がアメリカ行く時にぼく教えたよね? 家族で行っちゃうらしいよって! 妹も一緒に行っちゃうって心配にならなかったから『突然いなくなった』なんて呑気なことが言えるんだよ! 好きだったらいなくなっちゃわないか心配になるでしょ、ふつー!」
「それは……」
朱兎は返す言葉がなかった……。
プレイ中よりも真剣な表情の緋馬。蔑むような視線に居たたまれなくなり、俯くしかできなかった。
「チョタも朱兎も言うように、確かにぼくは憧れと好きがどう違うのか分かんないよ。誰かに憧れたことがないからね。でも、チョタのことはほんとに好きなんだ。いなくなってほしくない。誰かに取られたくない。ずっとそばにいてほしいんだ……」
最後は消えそうな涙声だった。純粋がゆえの不安の涙に、朱兎の胸が申し訳なさでいっぱいになる。それは緋馬にもだが、中学の頃の凪にもだった。
おとなしい凪は言い出せなかったのだろう。アメリカに経つことを。さよならを自分から言いたくなかったのかもしれない。双子の兄が野球をやっている朱兎なら、甲子園で話題になっていた隼がアメリカへ行くことを耳にし、『凪は行かないよね?』と言ってくれるのを待っていたのかもしれない……。
「終わった?」
二人同時に声のほうへ振り向く。いつの間にそばにいたのか、呆れ顔の夏鶴が双子を見下ろしていた。
「な、夏鶴! 聞いてたの?」
「……二人して『いつからいたの?』って顔しないでくんない? なんかリビングうっさいなーとは思ってたけど、バイトの支度で急いでたからそれどころじゃねぇよ。おにぃ、俺もうバイト行かなきゃだから早くお土産」
真顔で手を出す夏鶴。普段はプレゼントなど要求しない妹の意外な行動に、まだ涙の乾かない緋馬が「あ……う、うん」とソファの下に散らばった紙袋をあさり出す。
「これ、日本じゃまだ売ってないらしいから買ってみたんだけど……」
緋馬が差し出したのは長方形の黒い箱。受け取った夏鶴は「香水じゃん」とさっそく中からビンを取り出した。一吹きシュッと手首にかけると、花を近付ける。貴公子を連想させる、さっぱりとした香りが漂った。
「うん、いい感じ。おにぃにしてはよく知ってたじゃん」
「でしょでしょー。それはチョタが教えてくれ……」
言いかけて、また萎んだ風船のようにしゅんと俯く緋馬。蝶太郎との関係どころかドルフィンズの選手だということすらも記憶していない夏鶴が「チョタって誰?」と朱兎に向く。
「ひ、緋馬のチームメイトよぉ! 緋馬とめっちゃ仲良しなの! ね、ね?」
ネガティブついでにボロが出ないよう、朱兎は緋馬の肩をばんばん叩き同意を促す。朱兎の慌てようを不審に思いつつも、「ふーん」と興味なさげな夏鶴。
「おにぃ、あんがと。さっそくつけてくか」
いそいそと一旦自室に戻る夏鶴。残り香が消えぬうちに「んじゃ」と玄関を出て行った。
謝罪のタイミングを逃した朱兎は罰が悪く、ひとまずテレビを消す。視線を泳がせていると、ダイニングテーブルに置きっぱなしのアイスが目に止まった。
「あぁっ、アイス溶けちゃうー! せっかく買ってきたのにぃ」
慌てて立ち上がる。まだ着たままのコートの裾を、すんすん鼻をすする緋馬がむんずと掴んだ。
「ぼくも食べたい」
半分脅しのようなジト目でねだられては、謝罪のタイミングを逃した朱兎に断る権利はない。今日は散々だなぁ……と小さくため息をついた。
「……分かった分かった。じゃあプリンソフトあげる」
プリンは朱兎だって大好物だ。だが詫びの印なので致し方ない。カラメルプリンを模したアイスがコーンに乗っているソフトクリームを一つ差し出す。二つ買っておけばよかったなぁ、と自分はチョコミントバーアイスをテーブルに残した。スイーツたちは冷蔵庫へ。
まだご機嫌斜めの緋馬がソフトクリームにかぶりつく。普段の緋馬ならば、放っておけばけろっとする。朱兎は様子を伺いつつコートを脱いだ。
「なんか落ちたよ」
アイス片手に、緋馬が白い紙を空中キャッチした。さすがの反射神経だ。コートのポケットからスマホを取り出した時に滑り落ちたのだろう。渡そうとした緋馬の手が止まる。
「……なぁんだ、連絡取ってたんだ」
それは無理矢理握らされた凪の名刺だった。緋馬は、ふてぶてしく「ほい」と突き出す。朱兎の反応を窺っているようだ。受け取り、朱兎も初めて目を通した。
「え? 専属マネージャー……?」
泉原凪、その肩書きには『泉原隼専属マネージャー』とある。フリーカメラマンも兼業しているらしく、依頼受け付けの連絡先が記載されていた。
「マネージャーって球団にいるんじゃないの?」
「うん、いるよ。でも、球団とは別に個人で雇ってる人もいる。球場までの運転とかお金の管理とか雑用とかね。泉原隼めー。妹にマネージャーやらせてるなら、わざわざチョタがお迎えいかなくてもいいじゃんかー!」
ぶつぶつ言ってはいるが、だいぶ落ち着いてきたらしい。プリンソフト様々だ。今度はチョコミントを一口かじった朱兎が動揺する番だった。
「凪にはさっき、学校であったの。仕事で来たって言ってた。……それにしても、仕事変えたってまさかリトユニ辞めたなんて信じられない……」
父に従順な凪の『父さんはもういいんだ』という言葉が蘇る。兄の仕事に携わることで、リトユニカメラマンを辞めることを許されたのだろうか……?
いや、だとしたら余計に『もういいんだ』という言葉がそぐわない……。
「朱兎ぅ、ぼーっとしてないで電話してみてよぉ。『マネージャーならお兄ちゃんのお迎え行ってやれ』ってー。ぼくのチョタに行かせるなよってー」
あっという間に最後の一口になったプリンソフトのコーンをぽいっと口の中へ放り込んだ緋馬は「もう一個ないの?と回復の兆し。朱兎は情報処理が追いつかず、おねだりを無視して名刺を見つめ続ける。
「ねぇってばぁ。朱兎が電話しないなら、ぼくが電話するよ?」
「あっ、ちょっとぉ!」
素早くスマホと名刺を奪い取り、顔認証でのロック解除を試みる。しかしさすがの瓜二つ双子でも、スマホは騙されてくれなかった。諦めず、緋馬はにっこりしてみたり顰めっ面してみたり。
「ちぇっ、だめかぁ」
「だめに決まってるでしょーが。自分が本郷さんにかければいいでしょー?」
「だって、運転中だったら危ないじゃん」
「凪だって電話出るか分かんないのよ? 仕事で約束がどーのって言ってたんだから」
「ふーん、仕事ねぇ……。あっ、電話電話!」
サイレントモードにしたままのスマホがブーブーと震え出した。慌てて緋馬から奪い取る。「誰? 泉原妹?」と覗き込んでくる緋馬の口にチョコミントバーを押し込む。
画面には『さつきちゃん』の表示。半分がっかり、半分ホッとする朱兎だった。




