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12月 第2木曜日

 


 試練の性教育も三日目が終わった。花岡朱兎の精神的ヒットポイントが赤く点滅している。ロールプレイングゲームなら、回復アイテムを摂取しなければ旅が終わってしまうところだ。いっそ保健室で寝てやろうかと思うほどに疲弊していた。

 だが午後からはダンス講師としての仕事が待っているのでそうも言っていられない。重い身体を引きずりながら職員室を後にした。

 まだ五時間目だ。廊下はシンと静まり返っている。校舎を出たところで、用務員の倉田の姿が見えた。倉田は脚立を担いだまま、大きなリュックサックを背負った女性と話し込んでいた。

 普段ならば元気いっぱいに『お先でーす!』と挨拶して帰る朱兎だが、のろりと会釈をして通り過ぎようとした。そんな朱兎の姿を見るなりぎょっとした倉田が「花岡先生、大丈夫か?」と声をかけてきた。

「は、はぁい。ちょっと疲れただけなんでだいじょぶでーす……。んじゃお先でーす……」

「いや、全然大丈夫そうには見えないが……」

 へらりと笑ってみせたつもりなのだが、それが逆に倉田の不安を増加させたらしい。朱兎は舟こぎのような会釈をもう一度して校門へと足を向けた。

「朱兎ちゃん」

 倉田と話していた女性が呼び止めてきた。朱兎の足が自然と止まる。透き通った声のほうへ振り向いた。

「そうか、花岡先生と泉原さんは同期生だったな」

 そう言うと、大きなリュックサックを背負った泉原凪の肩越しで、倉田がにっこり微笑んだ。

「凪……なんでいんの……?」

 疲労と驚きとで、朱兎の声はかさかさに乾いていた。一瞬悲しげに眉尻を下げた凪だったが、倉田に「どうもありがとうございました」と微笑みながら頭を下げた。

「泉原さんは在籍期間が短かったし、ここは広いからな。昇降口の一番奥に、来客用のスリッパがあるから使うといい」

 倉田はそう言って脚立を担ぎ直し、裏庭に続く道へ消えて行った。朱兎は先程まで閉じかけていたどんぐり目を見開いたまま固まっていた。

 なぜ凪がここに? 疑問と同時に、凪の父である泉原の言葉が蘇る。『凪にもさつきにも、今後関わらないでくれ』と……。

 鼻っ柱の強いさつきは、そんな泉原に反抗するようにリトユニを辞めた。だが、父に言われるがままに朱兎をスタジアムに置き去りにするような凪が目の前に現れ、動揺しないわけがない。

 倉田の姿を見届けた凪がゆっくり振り返る。ぽつり「ごめん」と苦笑した。

「そんなに怯えないでよ……。今日は朱兎ちゃんに会いに来たわけじゃないから」

 朱兎の心にちくりとトゲが刺さった。さつきでもあるまいし、父に従順な凪が逆らって自分に会いに来るなど有り得ない。そうは分かっていても、ちょっぴり残念に思ってしまう自分がいた。

「お、怯えてなんかないよぉ。びっくりしただけ……。じゃ、じゃあなんでここに?」

「うん、まぁちょっと仕事でね」

 もともと口数の少ない物静かな凪ではあったが、たまにこうして曖昧にしか答えない時があったのを思い出す。中学生の時の朱兎は純粋になんでどうしてと突っ込んで聞いていたものの、お互い大人になったのでさすがの朱兎も追求することはしなかった。

「そっかそっか、仕事かぁ。私もこれからもう一つの仕事に行くんだ。ダンス講師の仕事もしててね、ほら、私がずっと通ってたスタジオキャッツ。あそこで教えてんだー」

 トゲが刺さったのを悟られないように、朱兎は「すごいでしょー!」とおどけて胸を張る。

「そっか。うん、朱兎ちゃんにぴったりだね。……それじゃ、約束の時間に遅れちゃうから」

 突然の再会と疲労とで、朱兎はとっさに「あ、うん……」としか返せなかった。凪がくるりと背を向け、校舎へと踏み出す。

 だが、その足は一歩で止まった。

「朱兎ちゃん、ごめん」

 凪は振り返らずに続ける。五時間目の終了を告げるチャイムが響いた。

「この前は、置いて帰ってごめん」

 それだけ言うと、凪は今度こそ歩き出した。

「私はまた会えて嬉しかったのに……。凪は違うの?」

 凪の背に問いかける。その問いは凪の足を止めた。

 父の指図のまま置いて帰ったことは分かっている。だから置き去りにした謝罪が欲しかったわけではない。朱兎はただ、凪の口から聞きたかっただけなのだ。凪の意思ではないことを……。

「凪はいつもそう、いつもそうだよ。中三の時もあの試合の時も、この前だって今だって、いっつもいっつも、私の気持ちごと置いてけぼりにする……」

 凪がそっと振り返る。校舎から、教室移動する生徒の声が漏れてきた。

「そんなつもり……」

 途中で言葉を切った凪は、朱兎の泣き出しそうな顔を見て続けることができなかった。

「私は凪のこと、いっつも分かんなかった。凪が私のこと好きってこと以外、なーんにも分かんなかった。今だってそう! 凪は何も教えてくれない。お父さんに止められて、はいそーですねって私と関わらないようにしてるんでしょ? だから中途半端に現れては、またふらっといなくなるんだ!」

 自分でも意外だった。責めるような言い方はしたくなかったのに……。疲労がそうさせているのか、朱兎は感情の高まりをコントロールすることができなかった。

 口を引き結んだまま、凪の表情は変わらない。しばらくの沈黙の後、凪は再び「ごめん」と目を逸らした。

「……もういいよ。お父さんの言いつけに叛くつもりもないんでしょ? それならもう私も凪のこと知ろうとするのやめる。凪の意思がないなら、私もお父さんの忠告通り凪に関わるのやめる!」

「……朱兎ちゃん、ごめん……」

 目を合わそうとはしないが、凪はポケットから名刺入れを取り出すと、中の一枚を朱兎の右手に握らせた。

「わたしの連絡先。仕事、変えたから」

「……いらない。こんなの私にあげたら、お父さんに怒られるよ?」

 困ったように眉尻を下げる凪の胸元に名刺をつき返す。凪は俯きながら後ずさりした。

「父さんはもういいんだ……。時間のある時に電話くれればちゃんと話す。……じゃ、ごめん。急ぐから」

 踵を返し、凪は校舎へと吸い込まれていった。名刺を戻そうとした右手を下ろし、「なんなの……?」と呟く朱兎。疲労度が二割増しになった気分だった。

 ※

 回復アイテムとして大量のコンビニスイーツとアイス、それと栄養ドリンクを一本買ってマンションへ帰宅した。ダンス教室まではあと二時間程ある。仮眠も取りたいところだが、これだけ甘い物があればなんとかなるだろう。

「ただい……」

 玄関にはスニーカーが脱ぎ散らかされていた。自分のものではない。几帳面な夏鶴はいつも揃えて脱ぐので珍しく慌てていたのかな、なんて思いながらリビングの扉を開ける。

「ん?」

 真っ暗だった。カーテンも閉め切っており、光といえば奥のテレビが明るく映し出されているだけだった。

「ちょっと夏鶴、なんで電気つけないわけぇ?」

 ホラー映画でも見ていたのかと思ったが、テレビはワイドショーが流れている。意味が分からん、と思いつつ照明のスイッチをオンにした。

 明るくなったリビング。ソファに人影が一つ見えた。三角座りをし、恨めしそうにこちらに振り返る。

「しゅーぅちゃーぁん……」

 朱兎の顔を見るなり、ぽろぽろと涙を流すのは兄の緋馬。優勝旅行先のハワイから直接帰ってきたのか、ソファの下には、英語で書かれたお土産の袋が大量に散らばっていた。

「え、えっ? 何? ど、どうしたの?」

 朱兎はスイーツたちの入ったコンビニ袋をテーブルに雑に置き、ソファの上で小さく丸々緋馬に駆け寄った。小さい頃は自分よりも泣き虫だった緋馬の泣き顔は何年ぶりだろうか……。

「チョタが、チョタが……」


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