12月 第2火曜日
花岡朱兎は職員室へ戻ると、滑り込むようにデスクに突っ伏した。
昨日麗緒と協力して作成した資料を元に行われた性教育の授業が、想像以上に朱兎の精神疲労を襲ったのだ。
「今日はずいぶんお疲れね、花岡先生。まだ一時間目よ?」
音楽科教師の幸まりあが心配そうに覗き込んできた。まりあは先輩教員であり、星花OGで朱兎の四期上の先輩でもある。
「まりあせんぱーい! もうっ、先輩はよくにこにこできますよねぇ。大変だったんですよー? みんな興奮しすぎて授業崩壊寸前だったんです。東さんみたいな生徒にも冷静に対応できるまりあ先輩が羨ましいですよぅ……」
ぐちゃぐちゃのデスクにでろーんとのびる朱兎を見て、まりあは抱擁感たっぷりに「慣れよ、慣れ」と背を摩る。
「花岡さんは赴任して、まだ一年も経ってないんですもの。何事も経験の積み重ねよ? それに、私たちの代にも、東さんみたいな破天荒はたくさんいたから……」
言ってまりあは、ふふふっと意味深に微笑んだ。朱兎は「でもぉ……」とふにゃふにゃ身体をくねらせている。
「それに、あなただって相当おてんばさんだったじゃない? 花岡朱兎さん?」
頭をぽんぽんされ、朱兎はがばっと身を起こす。始末書や風紀委員のお世話にこそなったことはない朱兎だが、授業中の居眠りと早弁で毎日注意され、試験の度に赤点で職員室へ呼び出され、担任に叱られてもえへへと笑ってごまかすような生徒だった。
講師として戻ってきた母校で、指導するとはこんなにも重労働なことだったのかと思い知らされた朱兎。
頭を抱えさせていた存在だったのだと気付いた今、卒業生や恩師も多い職員室ではほじくり返してほしくない話題ナンバーワンである。
「と、とにかくですねぇ、同じ授業をあと何クラス分やらなきゃいけないのか数えただけで白目むきそうなんですよぅ」
「ファイトファイト。学生時代から体力には自信あったでしょう? それじゃ、頑張ってね? は・な・お・か・せ・ん・せ」
体力の問題じゃ……と返す間もなく、まりあは教科書を抱え職員室を出て行った。同時に始業の鐘が鳴る。朱兎も慌ててファイルを手にわたわたデスクを立った。
二時間目は二年A組。忍らのいるクラスではないものの、先程までの授業を思い返すと、扉にかける手が重くなってしまう……。
恥ずかしそうに耳を塞ぐ生徒はまだいい。単語一つにキャーキャー反応するやかましい生徒もまだましだ。
問題は、『女同士の場合はどうやってするんですかー?』や『具体的にはどんな行為ですかー?』だのと、いちいち男子中学生並みの質問をしてくる生徒だ。
大学もスポーツ推薦で入った朱兎は、まさかケガをきっかけに保健体育を指導する立場になるなど思っていなかったため、保健の教育学は『習ったっけ?』レベルである。そんな朱兎が、前日の麗緒との打ち合わせと資料以外の質問に答えられるわけがなく……。
同席していた保健医の麗緒もあまりの質問の露骨さに呆れていたが、白目をむく寸前の朱兎に変わり『はいはい、くだらん質問はおいといて次行くぞー』と授業を進めてくれた。へなへなと教室の隅に座り込んだ朱兎は、実に開始から十分でのノックアウトであった。
あの惨状がまた繰り返されるのかと思うと職員室へ回れ右したい願望しか湧いてこないが、自分は保健体育科の講師だ。いずれは行わなければならない授業だ。朱兎は大きな深呼吸を一つし、「はーい、座って座ってー」とテンション高く乗り込んだ。
※
「あらぁ、さっきよりクマが酷くなってるわねぇ」
げっそりと職員室へ戻った朱兎の顔を、すれ違ったまりあが覗き込んだ。耳に入らない朱兎はよろよろ通り過ぎる。
「ふぇぇぇ……今日はあと二クラス、あと二クラス……」
譫言のように自分に言いきかせながらデスクにつく。やっとこさ座ったところで、「花岡先生」と野太い声に呼ばれた。
「部員から聞いたんやけど、一柳さつきがリトユニ辞めたゆー噂、知っとる? 花岡先生、あの子と知り合いなんやろ? ほんまに辞めたんかなぁ」
一柳さつきと聞いてのっそり振り返れば、たこ坊主……のような田辺が見下ろしていた。朱兎のやつれ顔にぎょっとして「どしたん!」と声を上げる。男性教員に性教育の難しさを吐露するわけにもいかず「大丈夫です……」と返すしかなかった。
「……リトユニ辞めたのはほんとみたいですよ。だからうちのソフト部に練習しに来るって言ってました……」
「へぇ! 噂はほんまやったんかぁ。そりゃリトユニは気の毒やけど、うちとしては将来のエーススラッガーをフライングで育てられるんや。誘ってみるもんやなぁ。がははっ、もうけもうけ。……それにしても、なんで今のタイミングで辞めたんやろな。花岡先生、なんか知っとる?」
「さ、さぁ……」
挙動不審に目を逸らし、「つ、次は一年何組みだっけなー……」とわざと多忙なふりをする。いや、精神多忙なのは事実だ。まだ二時間目が終わったばかりだというのに、二日間寝ずに働いているくらいの疲労度なのだ。
内容もさることながら、今は田辺と会話する気力すらない。クラスごとに束ねたプリントと参考資料を取り出すと、それが目に入ったのか、田辺は急に「お、おうっ!」と妙な雄叫びをあげた。
「そ、そそそそその……今度俺にも教えてな! 頼りにしてるで、花岡せんせー!」
「え? え? え? どっちの……」
どっちの話し? と尋ねる間もなく、田辺はすたこらさっさと自席へ戻って行った。スキンヘッドの後頭部も耳も、ゆでだこのように真っ赤っかである。容姿こそ雄々しい田辺も、さすがに『ティーンズの赤裸々体験談』という参考資料の表紙に面食らったのだろう。
これは『参考に……なるかどうかは分からんが』と言いながら麗緒がどこからか拝借してきた小冊子である。裏表紙には、朱兎も知っている高校生向けファッション雑誌『ぷりぷりティーンズ』の七月号特別付録と書かれていた。しかも発行年を見れば五年前、すなわち朱兎が現役女子高生の時代に発行されたものであった。
当時の生徒が学校に持ち込んで、何らかの形で没収されたものなのだろう。表紙のイラストには、横座りで純白のブラジャーを片手で覆い、悩ましげに上目使いをしている少女が描かれている。イラストとはいえ、紺のプリーツスカートからのびた白く細い足が艶めかしい。
朱兎は改めてまじまじ眺める。自分の時代には、純白の下着を身に付けている子のほうが希であった。よく見かけたのは淡い色だったが、透けて困らないのかわざとなのか黒を身に付けている子もいた。
朱兎はといえば、中一の頃に白のスポブラを付けていたことでいじられたことがあり、母にピンクが欲しいとねだると『朱兎はぺったんこだからまだそれでいいでしょ?』と言われ、それもそうかと納得したことはあった。
「中一……」
さつきはもうすぐ中一だ。脳内で、バットを侍のように担いださつきが振り返る。そのさつきの肩を、上下漆黒の下着姿の忍ががしっと掴んだ。
「だだだだだだめだめっ!」
ポニーテールを左右にぶんぶん振り、朱兎は急いで立ち上がった。近くのデスクの教員たちが、何事かと驚いてこちらを向く。
ハッと我に返り「すんませーん……」と周囲にぺこぺこ会釈をしていると、白衣を翻した麗緒がずかずかやってきた。
「行くよ、花岡先生」
十分でノックアウトされた朱兎が逃げないように迎えに来たのだろう。心なしか、麗緒もやつれてきているように見える。「口開けて」と言うのでおとなしく言う通りにあーんと開けると、紅茶の香りが広がるチョコレートが舌の上で溶けていった。
「しっかりしてよね? 保健体育の花岡先生!」
バシッと背を叩かれ、飲み込みかけたチョコレートが喉に貼り付いた。朱兎がむせ込んでいると「ほれっ、チャイム鳴るぞ」と麗緒に引きづられた。
自分すら持ち合わせていなかった正しい性の知識……。正しい知識で思春期真っ只中の生徒を救うのが自分の役目である。白目むいて泡吹いてる場合ではない。
教室の前で一瞬歩みを止める。麗緒と目が合った。同時に頷き、扉に手をかける。
「はいはーい、座って座ってーぇ」
……この十五分後、ノックアウトされた朱兎の代わりに麗緒が授業を続けたのは言うまでもない……。




