10月 第1土曜日
花岡朱兎は土曜日は『スタジオcats』にて、小学生にダンスを教えている。
スタジオcatsは三歳から大人まで、幅広い年齢層が通うレッスンスタジオである。体操教室の他に、新体操・クラシックバレエ・モダンバレエ・ジャズダンス・タップダンス・ヒップホップなど、多彩なコースがある。
朱兎の受け持つ小学生向けジャズダンスコースは三つに分かれており、午前十時からが低学年クラス、午後一時からが中学年クラス、そして四時からが高学年クラスだ。それぞれ二時間ずつレッスンし、間に入れ替わりと休憩が一時間というスケジュールである。
「だるっ!」
高学年クラスの子供たちが帰ってまもなく、朱兎は思わず吐き出してしまった。いわゆるモンスターペアレンツからの苦情が入ったからだ。教室用の携帯電話をぶん投げたくなったが、チーフインストラクターが「どうしたの?」と声をかけてきたのでぎりぎり思いとどまった。
「もー、千晶さーん! いつものことですよぉ。『なんでうちの子がセンターじゃないのか』って……」
「あー、また佐藤さん? あの子のお母さん、低学年クラスの時からぐちゃぐちゃ言ってくるのよね。あの子自身がもっと頑張ってくれてるんなら話は別だけど、お母さんが舞台に立たせたいからやらされてるって感じだもんなぁ」
「分かります。発表会に出るなら誰だっていい役やりたいだろうけど、あの子自身にやる気感じられないですからねぇ。はぁ……」
チーフインストラクターの千晶は、同じジャズダンスコースの中高生クラスの担当。朱兎より四つ年上で、この教室の先輩卒業生でもある頼れるお姉さんだ。
愚痴りながらスタッフルームへ向かう。千晶は苦笑しつつ、レオタードにTシャツスタイルの朱兎の肩をぽんぽんと叩いた。
「気にしないで? 朱兎ちゃんは今まで教わる側だったしまだ勤めて半年だけど、長くインストラクターやってればこんなのしょっちゅうよ? むしろ年々増えてるかなぁ。それだけ親が真剣なんだろうけど」
「はぁ、そうですか……」
その点、うちは平和だったんだろうな……と思い返す朱兎。ダンスと新体操という種目すら違うものの、負けん気が強く、誰よりも努力と実力で這い上がったのだから、どんな結果も受け入れてきた。母も教室にクレームを入れたことなど一度もない。
スタッフルームで着替えを済ませ、汗ばんだTシャツやらタオルやらを雑にリュックへ押し込む。桜色のリュックはぱんぱんに膨らんだ。Tシャツを脱いだ際に乱れたポニーテールを軽く整え、ロッカーを閉める。
「お先でーす」
「お疲れ様ぁ。また来週ねー」
チーフの千晶に手を振り、朱兎はスタジオを後にした。十月の六時過ぎはとっくに暗い。一歩踏み出すと、頭頂部に冷たいものが当たった。
「うわっ、雨降ってんじゃーん……」
とはいえ小降りだ。傘はないが、幸い今日はフード付きのパーカーを羽織っている。自宅マンションまでは五分ちょっと。これくらいならさほど濡れずに帰れるだろう、とフードを被った。
日中より一段と存在感をアピールしているコンビニが目に止まったが、今日は夏鶴もバイトでいないし、たまにはナポリタンでもいっかな……と、はなおかに立ち寄ることにした。
昼休憩が一時間あるとはいえ、あまり満腹にすると午後のレッスンに響く。ゆえにレッスンフルコースな土曜日は、週で一番夕飯が恋しい曜日である。
スタジオからはなおかまでは徒歩十分程度。お腹減ったぁ……と、物心ついた頃から通い慣れた道を気だるげに歩く。すれ違った自転車がかん高いブレーキ音をたてた。
「花岡さんっ!」
呼ばれて振り向く。深い青の自転車がUターンし、併走してきた。生徒ではない。見慣れない少女だった。
少女は小雨の中ずっと走っていたのか、一本結びにしている黒髪がだいぶ濡れていた。前髪から滴が滴るのも気にせず、自転車からぴょんと飛び降り朱兎を覗き込む。小柄な朱兎よりも十センチ近く背が高い。身長のわりに顔つきが幼いので中学生だろうか……。
誰? と首を傾げる朱兎の様子を察することなく、少女はつぶらなお目々をめいっぱい開き、「やっぱ!」と嬉しそうに頬を上げた。
「すごい! 本物?」
その言葉で朱兎は察する。フードで前髪しか見えていないし汗でメイクがほとんど落ちてるとはいえ、緋馬と間違えられるのは久しぶりだ。
少女は大興奮で「嘘っ、マジ? サイン? 写真?」などと、カゴの中でずぶ濡れになっているバッグの中をあさりながら独り言を言っている。
突然のプロ野球選手との遭遇にプチパニックなのだろうが、顔だけでなく服装も見て判断してくんないかなー……と、自分のワンピースの裾をチラ見した。空腹&理不尽なクレームで、若干ご機嫌ななめな朱兎。
「よく間違えられるけど、違うよ?」
誰と、とは言わずとも通じるだろう。朱兎はフードを取り、ぷるんとポニーテールを見せつけた。声と髪型で、ようやく緋馬ではないことを分かってくれたらしい。ハッと息を飲み、急にしょんぼりと肩を落とした。
「あ、すいません……。ドルフィンズの花岡さんとそっくりだったもので……」
そう頭を下げた少女の肩越しに金属バットが見えた。そして先週末、はなおかを覗き込んでいた少女がいたことを思い出す。顔や自転車までは覚えていないが、侍のようにバットを背負うのが流行っているわけでもない限りあの時の少女に間違いない。
「好きなの? 野球」
気まずそうにお辞儀をし再びサドルにまたがろうとする少女に、朱兎はフードを被り直し、笑顔で問いかけてみた。間違えられるのはめんどくさいが、緋馬ファンは邪険にしたくないのだ。
「はい! 野球もソフトボールも好きです!」
一転、少女はびしっと背を伸ばした。体育会系のノリだ。ころころ変わる表情がかわいい。
「そうなんだ? もしかして、練習の帰り?」
「はい! ソフトのクラブチームに入ってまして、今日は練習試合です」
「そっかそっか。頑張ってね!」
「ありがとうございます! あの……」
再び気まずそうに視線を泳がす少女。朱兎は「何?」と首を傾げた。小雨とはいえ濡れるので早く帰りたい。そして腹を満たしたい。
「しつこくてすいませんが、花岡選手のご親戚ですか? この前、喫茶店から出てきませんでした?」
「……えっとぉ……」
「ま、間違ってたらごめんなさい! そ、その……先週の帰りもこの商店街通ってて、偶然『はなおか』って喫茶店の前通った時、お姉さんと目が合った気がしたんですけど……」
街ですれ違っただけの少女には期待を裏切るようで申し訳ないが、知り合い以外に花岡緋馬の兄妹だと言う義理はない。バレてしまった時は仕方ないとしても、自分から名乗って緋馬に迷惑がかかることがあってはいけないからだ。妹の夏鶴など、似ていないのをいいことに、他人だと言い張っているらしい。
「ごめんね、覚えてないや」
純粋な少女に嘘をつくのは後ろめたかった。でも、目が合ったことを覚えていないという嘘だけで、緋馬の親戚というのを否定しているわけではない。
「え、じゃあ……」
「雨降ってるし、風邪ひかないように気を付けてね? それじゃ!」
ツッコまれないうちに足を速める。ダンスや体操を習っている朱兎の周りの子供たちは野球になど興味がないので面倒なことになったことはないが、下手に野球好きな子供は遠慮ないお願いをしてくることがある。写真をくれだの会わせろだの言われては堪らない。
ちらりと振り返る。追いかけてくる気配がないのを確認し、念のため遠回りしてはなおかの扉を開けた。
閉店間際と天候で客がいないのをいいことに、父の虎吉がカウンター席に座っていた。ベルの音で気付き、「おう、お帰り!」と隣席の椅子をひいてくれた。手にしているタブレットを覗き込めば、案の定野球中継。ドルフィンズのピッチャー越しにショートを守る緋馬の姿がちらりと映った。
「勝ってんの?」
「今日はダメだな。リーグ優勝は決まってるとはいえ、このままじゃ二連敗だぞ?」
「ふぅーん」
椅子に腰かけながらぼてぼてのショートゴロを捌きベンチに駆け戻る緋馬の姿を見て、先程の罪悪感が蘇る。栗毛まで同じで、自分がドルフィンズのユニフォームを着ているみたいだ。自分たちも瓜二つだと認めているのだから、親戚じゃありませんという嘘など通用するわけがない……。
「ママぁ、ナポリターン」
厨房に叫べば、母の鷹枝が「ただいまが先でしょ?」と顔を出した。朱兎や緋馬と同じどんぐり目を細めて呆れている。双子は母親似。誰がどう見ても厳つい虎吉とは親子とは思えない。ちなみに、妹の夏鶴の目つきの悪さだけは虎吉譲りだ。
「あー、ただいま。お腹ぺこぺこだから早くねー」
「もぅ、パパといい娘といい……」
「えへへ。美人なママぁ、お願いしまーす」
朱兎がわざと甘えた声を出すと、鷹枝はぶつぶつ言いながら水を置き顔を引っ込めた。
鷹枝は五十を過ぎているとは思えないほど若くみえる。年相応だし、どうみても喫茶店のマスターというより血の気の多いトラック運転手か大工のほうが似合う虎吉とは不釣り合いだ。鷹枝の美魔女っぷりからするに、双子は母譲りの童顔らしい。
「ねぇパパ、小さい頃は緋馬のほうがかわいかったと思うけどさ、今はどっちがかわいいと思う?」
唐突な質問に、虎吉は厳つい顔を更に顰めた。
「あー? 何言ってんだよ。そりゃ娘たちのほうがかわいいに決まってんだろ! 朱兎はかわいい系だし、夏鶴は奇麗系じゃないか。身内贔屓じゃないぞ?」
「そうかなぁ……」
振り返り、パネルコーナーを見つめる。朱兎にはない、緋馬の八重歯を羨ましく思っていた頃があった。
「どうしたんだよ、急に」
「んーにゃ、別にぃ」
向き直ってコップの水を一気飲みする。無得点でちょっぴり不機嫌な父の隣で、卑屈になりかけている自分がいることに気付いた。
自分は自分だ。『花岡緋馬の妹』であるのは事実だが、そう言われるのが好きじゃない。
そう言われるようになったのは、ここ二年くらい前。緋馬が有名になっただけでなく、自分が選手を引退せざるを得なくなってからだ。
両親に比べられたことは一度もないが、比べているのはむしろ朱兎自身と周りだけ。子供の頃から新体操で輝かしい成績を残してきたからこそ、今の自分を無価値に思ってしまう……。
「もっと似てなきゃよかったのにな……」
ぽつり呟いて頬杖をつく。誰が悪いわけでもない。
ただ、雨に濡れた少女の落胆の顔を思い出すと、朱兎の胸にちくりとトゲが刺さるのだった……。