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12月 第1土曜日

 


 泉原凪は出かける支度をしていた。

 今日は試合も練習もないため、リトユニメンバー数人で『遊戯館レオンレオン』という複合アミューズメント施設に遊びに行くとのこと。せっかくだからソフト以外の写真も欲しいとの依頼で、凪はメンバーに同行することとなった。

「凪」

 リトユニの監督であり父である泉原が自室の扉をノックしてきた。凪はピアスを付けようとした手を止め「はい」と扉を開けた。

「……出かけるのか? どこへ行くんだ」

「どこって、今日はリナたちが遊びに行くから撮影してほしいって言われてて……」

 思い出したのか、泉原は「あぁ」と言って呆れ笑いを浮かべた。

「そういえばスタッフがそんなこと言ってたな……。出かける支度が出来ているならちょうどいい。撮影は断りなさい。しゅんが日本に帰ってきてるらしいから、これから飯に行くぞ」

「え、兄さんが? でも……」

「隼のやつ、一昨日帰ってきてたらしい。さっきニュースで見て驚いたよ。電話したら『そうだけど、連絡しなきゃまずかった?』だと。まったく、誰のおかげでメジャーに行けたと思ってるんだか……。そういうわけだから、支度出来たら車を出してくれ。空港近くのホテルだ」

「……はい」

 一方的に話し続けた泉原は、凪の返事も聞かずに階段を降りて行った。父の背を見届けてから扉を閉める。

 四つ年上の兄の隼はメジャーリーガー。まだまだスター選手とまでは言い難いが、一昨年日本に帰って父と二人暮らしになった妹をいつも気にかけてくれる優しい兄だ。

 両親は凪が中学二年の時に離婚している。隼の進路について、傲慢で野球馬鹿な泉原についていけなくなった母は、子供たちを置いて出て行った。

 それから凪は家のことを全て任された。引っ越しも転校もして、習い事も辞めざるを得なかった。甲子園常連校のエースだった兄のために、健康に留意した食事も勉強した。

 だが、環境の変化は悪いことばかりではなかった。引っ越したおかげで、大好きな朱兎と同じ星花に通えた。料理を勉強したおかげで、大好きな朱兎に弁当を作ってあげられた。母と離ればなれになった寂しさを埋めてくれたのは朱兎との時間だけだった。

 家庭では、傲慢な父と兄のケンカが絶えなかった。だが、現役当初からの高収入でいい暮らしをしてこれたのは父のおかげだ。反発する兄もそれを分かっているからこそ、いつも食い縛り我慢してきた。

 今日もそうだ。いつもそうだ。いつもこうして言いなりになってしまう。父の言うことは絶対なのだ。凪はスマホを手にし、リナに謝罪のメッセージを送った。

 ほどなくして『ざんねーん』と泣き顔のスタンプが送られてきた。『ごめん、楽しんで』と送信し、コートのポケットへスマホを突っ込んだ。

 地下駐車場から玄関へ車をつけ、父へ電話をかける。『今行く』とだけ言って通話は切れた。

「凪、お前も年頃なんだから、もう少しちゃんと化粧したらどうだ?」

 後部座席に座るや否や、凪のナチュラルメイクに注文を入れる泉原。凪はミラーに映る自分をちらっと一瞥し、「薄いかな……」と呟きハンドルに手をかけた。

「二十三といったら、お前の母さんはもう俺と結婚してたぞ? もう少し色気のある格好して、彼氏のひとつでも作ったらどうだ」

「……そうだね」

 そうは言ったものの、母は高収入だった父とだから二十三で結婚できたようなものだ。今のご時世、二十三で未婚など珍しくもなんともない。凪は内心そう思いつつ車を発進させた。

 隼の泊まっているという空港近くのホテルまで、車で二時間ほど。親子の会話はほとんどが一方通行だ。凪は相槌と、たまの意見だけ。それも求められてきた時のみ発言する程度だ。

「ところで、さつきのことだが」

 高速道路に入ったところで、泉原が話題を変えた。

「うちを辞めた」

「……え? うちを、って……」

 ルームミラー越しに目が合った。泉原は険しい顔で続けた。

「リトユニを、だ。さつき本人からは月曜日に『辞めます』と電話があった。どうせ猪突猛進なあいつのことだ、まずは親御さんと話せと言って切った。今朝、親御さんから正式な退団届が届いたそうだ。さつき本人が頑固だから、親が説得したところで変わらなかったんだろう」

「……そう……」

 凪はなんとなく察しがついた。

「最後に忠告したのが気に入らなかったんだろう。あいつはきっとダメになる。いい目といい腕を持っているのにもったいないが、所詮は子供だ。ソフトを諦めて、普通の女子中学生になればいいさ」

「最後の忠告って……」

「まぁそういうことだ。……着いたら起こしてくれ。少し眠る」

 勝手に話を切り上げ、泉原は瞼を閉じた。凪はアクセルを踏み続けながら、さつきの顔を思い出す。

 出会ったのは昨年の春。まだ五年生になったばかりだったが、一人だけ飛び抜けた才能を持っていたのを覚えている。あどけない一面を残しながらも、気迫とプレイは中学生にも劣らなかった。

 スタッフたちはみな、一年生の頃からソフトボールを一番楽しんでいたのはさつきだったと口を揃える。天真爛漫で負けず嫌いなところが成長の要因だったとも言っていた。

 物静かな凪に、人なつっこく一番最初に話しかけてきたのもさつきだった。『そのピアス、すごく素敵ですね!』と、マーメイドのピアスを憧れの眼差しで見つめていた。あの時の表情をカメラに収めていなかったのを後々悔やんだ。

 ……そのさつきが、今憧れているのは……。

『花岡朱兎とは二度と会うな。また精神科に通いたいか? 本人にも、お前とさつきには近付くなとさっき忠告してきた。かわいい娘と教え子の人生をめちゃくちゃにされたら困るからな。全部お前たちのためだ。分かるな?』

 先週末の試合の後、球場の駐車場で父に言われた言葉が蘇る。コーチたちの車で帰るはずの父が、わざわざ凪の車で帰ると言い出したのだ。駐車場の出口で凪を待つ朱兎の俯いた姿は、今でも凪の胸を締め付ける……。

 あれ以来、朱兎には会っていない。置いて帰ったことの謝罪もできぬままだ。連絡先も交換していないし、朱兎は帰国してからの凪の自宅を知らない。朱兎に謝罪する唯一の手段は『はなおか』へ凪が出向くことなのだが……。

 もう一度ルームミラーを一瞥する。首を垂れ下げた父が映っている。昔から、父の言うことは絶対だ。反抗することも、拒否することも許されない。

 ただ、感情だけは押さえられなかった。中三の冬、突然決まったアメリカ行きを朱兎に言えぬまま別れてから、凪は毎晩涙が止まらなかった。泣くなという命令に従おうとしても、止めることは叶わなかった。

 不眠症と拒食症の症状が出たのは、アメリカに移住して一ヶ月経った頃だった。兄はすぐにメンタルクリニックに連れて行こうとしたが、『そんな弱気ではこっちで生きて行かれないぞ』と父が止めた。

 六年後、父がアメリカの少年野球チームの監督を解雇されたのと、リトユニからオファーが来たのと、兄がトレードで移籍することになったのとが重なり、父と凪だけが帰国するのが決まった。

 いつも気にかけてくれていた兄と離れ、六年ぶりに日本へ帰ってきた。スマホの中の画像でしかなかった朱兎の近況をすぐに調べた。まだ大学で新体操を続けていた。大学三年になっても中学生の時とほとんど変わらない容姿に、凪の『会いたい』という思いは一気に膨らんでいった。

 久しぶりに動く朱兎を見たのは、全国大会への切符をかけた選手権だった。三階席からひっそりと見つめていたのに、演技中の朱兎と目が合った……気がした……。

 ……が、その直後、朱兎は着地に失敗して立ち上がれなくなった。蹲る小さな朱兎……。

 わたしのせいだ、わたしが見に来てしまったから……。

 凪は逃げ出した。やっぱり会いに行くべきじゃなかったと後悔した。自分を責めた。許されない罪ばかりを重ねてしまう自分を呪った……。

 リトユニのカメラマンを始めたのは同じ頃。父の提案だった。元々カメラは好きだったので、仕事にできるのは少し嬉しかった。

 花岡という名は否が応でも耳に入ってきていた。父が野球中継をつければ、同じ顔の緋馬が映るからだ。近い将来大リーグに移籍するであろう隼のライバル、本郷蝶太郎の投球内容を父はとても気にしていた。

 つい二ヶ月前のことだ。試合を撮影していると、さつきが栗毛の女性と話している姿が見えた。後ろ姿だったが、凪が見間違えるわけがない。すぐに朱兎だと気付いた。

 それから、凪はさつきの言動を意識するようになった。そして先月のあの夜、はなおかへ入って行くさつきを目撃した。

 見送りに出てきた朱兎は眩しい笑顔で、新体操を引退した後遺症もなさそうだった。何も知らず嬉しそうなさつきが羨ましかった。でも、自分には朱兎の隣にいる資格はない……。

 思い切ってさつきに聞けばよかった。『どういう関係なの?』と。叱咤ところで間に入れるわけでもないので、凪に聞く勇気はなかった……。

 なのに、いつの間にか凪は観客席に来ていた。朱兎に話しかけていた。許されないことばかりしておきながら、大好きな朱兎の前に現れてしまった……。

『どうしてもっと早く会いにきてくれなかったの?』

 朱兎の声は震えていた。まるで吸い寄せられるかのように凪に身を預けてきた。自分も、もっと早くこうしたかった。華奢な朱兎の身体を抱きしめたかった。

 きっとやり直せる、そう思った直後だった……。

「なぁ」

 凪の肩がびくっと跳ねた。父がいぶかしげに覗き込んでいた。青と白の飛行機が目の前を過ぎて行く。ホテルが見えてきた。

「大事なものは、時に邪魔になるもんだ。守るものがあるから強くなれる。だが、守るものがあるからこそ、守れないものもある。そう思わないか?」

 意味深な問いかけに「さあ……」と分からないふりをすると、後部座席からフンと鼻を鳴らす音が聞こえた。

「お前にはまだ早い質問だったな。いずれ分かるさ。俺の苦労もな」

 凪はなんと返したらいいか分からず、黙って空港前を通過した。ホテルに着くと父を先に降ろし、駐車場に車を止める。

「あれ……」

 降車しようと助手席に置いておいたバッグに手を延ばすと、スマホの画面に不在着信の通知が見えた。メッセージも一つ届いている。

 送り主は、さつきだった。

『話があります。連絡ください』







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