12月 第1日曜日 その4
「さつきー?」
一柳さつきがハッと我に返ったのは、車から降りてきたリナに声をかけられた時だった。
花壇に腰かけ涙を流し続ける朱兎を見下ろしていたさつきは、首だけリナに向く。
「リナ……悪いけどあたしの荷物お願いしていい? 後でリナんちに取りに行くから」
「え、それはいいけど……」
リナは困惑気味な目を、さつきと朱兎に行ったり来たりさせる。ハットを被っているし、横髪で朱兎の顔はリナには見えない。『誰なの?』と今にも問いかけてきそうなのを察したさつきは「とにかくお願い!」とリナの両肩を持って回れ右させた。
「わ、分かった。んじゃ気を付けて帰ってよ?」
何が何だかなリナに説明できないもどかしさを抱えつつ、さつきは「ありがと」と頷く。震える朱兎の背を摩り、車に戻って行くリナを見届けた。
「朱兎さん……?」
さつきは隣に腰かけ、嗚咽しか返ってこない朱兎にそっと寄り添う。スタジアム前の時計台を見上げれば、一羽のカラスと目が合った。
駐車場もほとんど空っぽになり、冬の短い陽も傾いてきた。涙を拭いてあげようにも、タオルもティッシュもバッグの中だ。リナと共に先に帰ってしまったのだ。
「ごめんね、さつきちゃん……」
久しぶりに聞いた声はずいぶん鼻声だった。それでもさつきは一安心できた。このまま泣き止まなかったらどうしよう、バスがなくなっったらどうしよう、倒れてしまったらどうしよう……などと、柄にもなく最悪の想像ばかりしていたからだ。
「ううん! 謝ることなんて何もないですよ! 何か飲みますか? あそこの自販機で温かいものでも……あっ」
言って思い出す。スマホも財布もバッグの中だということを……。
「ありがと、大丈夫……。さつきちゃんこそ何か飲む? 寒い中付き合わせちゃったから冷えたでしょ?」
朱兎は言いながらチーンと鼻をかんだ。バッグをあさり、高級そうな財布から千円を差し出してくる。
「いえいえ、あたしはぜんっぜん寒くないですから。朱兎さんこそ、何か飲めば落ち着きますよ? コーヒーですか? 紅茶かココアがいいですか?」
千円を受け取り、ありったけの作り笑顔で問いかけた。本当は心配も聞きたいこともたくさんある。でも、今は憧れの人の支えになりたい一心だった。
赤目で見上げてきた朱兎も、バレバレの作り笑顔。すでに心配かけているが、もう大丈夫とでも思わせたいのだろう。「えっとねぇ……」と悩んでいる。
「そうだな……さつきちゃんが飲みたいもの買ってきてくれる?」
「あたしの飲みたいの、ですか?」
そう言われても……と付け足そうとしたが、自販機のサンプルの中に『チルタイム』というパッケージを見つけた。前々から飲んでみたいと思っていたエナジー系のドリンクだ。
以前コンビニで見かけた際、母に買ってとねだったら「あれは大人の飲み物よ」と却下された。そう言われると飲んでみたくなるのが子供心。しかも、今の朱兎に元気をチャージできそうだ。
ダッシュで購入したはいいが、肝心の『温かいもの』では全くない。心の中でやっちまった……としょんぼりするさつき。その表情とパッケージですでにバレたらしく、朱兎は「冷たくてもいいよ」とチルタイムを受け取った。
「さつきちゃんのは?」
「いえ、あたしは……」
「一緒に飲もうよ。今日の圧勝に乾杯しよ?」
「……はい!」
釣り銭を戻してくるので、さつきは再び自販機へダッシュする。同じ物を購入し「いただきます!」とプルタブを押し上げた。
生まれて初めてのエナジードリンクは、炭酸がキツくてちょっぴり大人の味がした……。
「はー……身体にしみるねぇ」
「ぷっ! おじさんくさいです、朱兎さん」
「いやいやぁ、このしみる感じが分かればさつきちゃんも大人の仲間入りだよぉ」
朱兎があははっと元気に笑うので、さつきもやっと落ち着いてきた。一気に飲み干し、わざと「っかー!」とビールを浴びたおっちゃんの真似をする。
「うまいうまい! さつきちゃんのお父さんはお酒飲むの?」
「飲みますよ。うちはお母さんも結構飲むので、あたしもきっと強いです」
「へぇ、じゃああと八年経ったら飲みに行こうか!」
「ほんとですかー? 嬉しいなぁ、朱兎さんに飲みに誘ってもらっちゃった!」
「うふふっ、さつきちゃんはかわいいなぁ」
赤目以外はすっかりノーマルモードに戻った朱兎が、自分より背の高いさつきの頭をなでなでする。子供扱いは大嫌いだが、今だけはくすぐったい嬉しさを噛みしめようと目を閉じるさつき。
「私ね、左足がないの」
朱兎が唐突に意味不明なことを言った。さつきは思わず「え?」と左足に目がいく。
「実際にはあるの。……って、意味分かんないよねぇ」
足元に視線を感じた朱兎が、両足をぷらぷら浮かせた。右も左も均等に動いている。どういうこと? と視線を上げると、朱兎は切なげに笑った。
「さつきちゃんといるとね、左足が戻ってくるの。おかしいでしょ? 自分の自尊心に振り回されて、消えたり戻ったりすんの」
べこっ、と缶の凹む音がした。さつきがお間抜けに口を開けていると、朱兎はぷらぷらさせたままの両足を見つめながら語り出した。
それはまるで、物語の中のお話しのようだった。黙って聞いていたさつきだったが、半信半疑……いや、半分以上信じ難い話しだった。
「信じられないよねぇ。私も意味分かんないし、誰にも分かってもらえないだろうから、家族にも言ってないんだ……。さつきちゃんが初めてだよ?」
「なんで……なんであたしなんかに?」
「うーん、そうだなぁ……黙っててもよかったんだけど、さつきちゃんにそばにいてほしいから、かな……?」
顔が熱くなっていくのと同時に、さつきの握っていた缶がぐしゃりとつぶれた。二人の頭上を、数匹のカラスがカァカァと飛んでいく。
「え、え、え? それは、どどどどどどどういう……」
「あー、ごめんごめん。どういうもこういうもないの。ただ、さつきちゃんがそばにいてくれると元気になれるなーってだけの話し」
けろりと言われても、さつきの鼓動はちっとも治まらない。ハットを浅く被り直し、朱兎は小さくため息をついた。
「さっきね、監督がここに来たの。『凪にもさつきにも、今後関わらないでくれ』って言われちゃった……」
「監督って……泉原監督ですか? なんでそんなこと朱兎さんに……」
大目玉のくらった直後の『どうしてどいつもこいつも花岡なんだ』という泉原の台詞がさつきの脳裏に蘇った。
「私が関わると悪影響なんだってさ、凪にもさつきちゃんにも。父親としても監督としてももっともらしいこと言ってたけど、あーゆーのを毒親って言うのよねぇ。凪も凪だよ、お父さんの言う通りにしちゃってさぁ。はー……」
言い終えて、大げさに肩でため息をつく朱兎。缶の側面をぺこぺこ鳴らしてモヤ付きを表している。冷静さを取り戻してはいるようだが、今度動揺するのはさつきのほうだった。
「酷いです! あたしにだって凪さんにだって、選ぶ権利はあるはずです。それを朱兎さんにも強要するなんて! ダメですよ? 朱兎さん、あたしの前から絶対いなくなったりしちゃダメですからね?」
「あはは……ありがと。やっぱさつきちゃんは頼もしいなぁ。うん、いなくなったりしないよ? 来年、学校でも会うしね」
「ほんとですか? 今年度で退職とかしないでくださいよ? 絶対いなくなったりしないでくださいよ? 約束ですよ?」
「うんうん。約束! さっきの話し、言わないって約束してくれたら、私も約束守るよ」
お互いに小指を差し出す。絡めた朱兎の小さな小指がやけに冷たくて、さつきはその小指ごとぎゅっと握りしめた。
のどかな田園風景にぽつんと佇むスタジアムを後にする。スマホも財布も先に帰ってしまったさつきが事情を話すと、「私のせいだもん」と言う朱兎が帰りの交通費を出してくれた。最寄り駅までのバスはすでにガラガラで、二人仲良くシートに並んだ。窓側で外を眺める朱兎の横顔は、どこか付き物が落ちたように見えた。
「あの、聞いていいですか?」
夕日の眩しさに目を細めて問いかけると、朱兎は座り直しながら振り返った。
「うん、なあに?」
「その……なんで泣いてたんですか? あたしや凪さんに関わるなって言われたからですか? それとも、他にも傷つくようなこと言われたんですか?」
朱兎の表情が一瞬曇った。
「うーん、なんでだろうなぁ。自分が情けなかったのかなぁ。よく分かんないや、あははっ」
すっかり赤目も引いていつもの朱兎なのだが、情けなかった以外の理由を隠している気がして、さつきはモヤ付きを覚えた。でも今はそれ以上掘り下げる時ではない気がして、「そうなんですね……」と納得したふりをするしかなかった。
さつきはなんだか寂しくなり、再び窓に顔を向けようとした朱兎の手にそっと触れる。暖かい車内のおかげか、朱兎の手は先程より温かい。振り返った朱兎がにっこり握り返してくれた。
この人のそばにいたい……。改めてそう思った。




