12月 第1日曜日 その3
一柳さつきは大目玉をくらっていた。
「さつきぃ、調子に乗るやつだとは思っていないが、進学先が決まってるからって気が緩み過ぎじゃないか? ソフトでいい成績残しても、団体行動や時間を守れないやつには推薦なんぞもらう資格はない!」
「すみません……。急病人が知り合いだったもので、つい……」
深々と頭を下げるさつきの後ろでは、チームメイトたちが固唾を呑んで見守っている。あまりどやさない泉原が声を荒げているからだ。
「名が滲透するおど、世間の目は厳しくなっていく。もっと言えば、悪評が一人歩きすることだってある。これから名高いプレイヤーになるつもりがないのか、お前は!」
「いえ! あります!」
がばっと頭を上げ、さつきは鋭い目つきを泉原に向ける。しばらく黙って睨めっこを続けた二人だったが、泉原は「他は解散」と言ってロッカールームを指指した。
五十路は過ぎているとはいえ、元プロ野球選手である泉原はガタイがいい。気迫も充分だ。解散指示を受けたチームメイトたちは、おずおずと散っていく。
今日は遠征ということで、レンタルのマイクロバスが一台。あとはリトユニ関係者や保護者が出す車に数人ずつ振り分けられている。さつきはリナパパの車で帰る予定だ。そのリナが最後に一度振り返ってから出て行った。
「さつき」
「はいっ!」
さつきはびしっと背筋を伸ばした。
「お前には期待している。正直、プレイに関しては何も心配していない。だが、俺が心配してるのは、お前がソフト以外のものに夢中になることだ」
「ソフト以外に……ですか?」
不思議そうに繰り返すさつきに、泉原はゆっくり頷いた。
「誰だって好きなものには夢中になる。だが、猪突猛進で純粋なお前は、他に夢中になるものが出来た時、ソフトと両立するのが難しくなるだろう。要因になるようなものがあるなら、今のうちに切り捨てろ。お前の萎びたプレイなんぞ誰も望んでないからな」
「切り捨てる……」
真っ先に過ぎったのは、朱兎の笑顔だった……。
さつきにとっては、朱兎は憧れの存在だ。朱兎の表情や行動一つで、身体が勝手に動いてしまう。物心ついた頃からソフトボール一筋だったさつきには、それがただの憧れなのか、それともそれ以上の感情なのかは分からない。
テレビの向こうの選手になら、いくらでも憧れはいた。いつかこんなプレイがしてみたい、いつかこんなプレイヤーになりたい……。そう思える選手は何人もいた。
だが、目の前の人物に憧れを抱いたのは朱兎が初めてだった。しかも、ソフトボールにも野球にも関係ない人物だ。
さつきはあの写真にひかれた。泳ぎが苦手なさつきが大好きだった『人魚姫』の絵本に出てきたような、あの一枚に……。
だから朱兎はさつきにとって特別な……。
「心当たりがあるようだな」
ハッと我に返る。泉原が腕組みをして見下ろしていた。
「い、いえ……」
さつきは思わず目を逸らした。隠し事も嘘をつくのも好きではない。だが朱兎への特別な思いが何なのかすら自分さえ分からないまま切り捨てるなどできっこない……。
「花岡緋馬の妹だろ? さっきの」
「え……監督もご存じだったんですか?」
さつきが視線を戻すと、泉原は深いため息をついた。
「ったく、どうしてどいつもこいつも花岡なんだ……。いいか? ピンチの時ほど燃えるのはマウンドだけにしろ。お前はすぐ熱くなるからな。自分の感情をコントロールできないままなら、お前にはソフトで生きていくのは無理だと思ったほうがいい」
言い終わると今度は泉原が目を逸らした。「行っていいぞ」と顎で出口を指す。さつきは何も返せないまま「申し訳ありませんでした。失礼します」と頭を下げた。
誰もいないロッカールームで独り、さっさと着替えを済ませて荷物をまとめるさつき。バッグのファスナーを閉める前に、念のためスマホを覗いた。朱兎からの連絡はまだなかった。『家に着いたら』と約束したのだから当たり前なのだが……。
「別にそこまで言わなくても……」
泉原と朱兎の顔が交互に浮かぶ。ぼそっと呟いて、スマホをバッグに戻した。腑に落ちない部分は多々あるが、泉原はリトユニを優勝に導いてくれた恩師だ。自分のことを充分理解した上での厳しい忠告なのも頭では分かっている。
「さつきー」
支度を終え選手専用口を出ると、リナが車の中から手招きをした。運転席ではリナパパも『乗りな』と親指を後部座席に向けている。
「ごめんリナ! リナパパ、お待たせしましたー」
さつきが駆寄ると、スライドドアがピーピー鳴りながら開いた。七人乗りだが、三列目のシートはチームメイトたちの荷物でいっぱいだった。リナが大きなお目々を見開いて「監督、大丈夫だった?」と心配そうに問いかけてくる。
「うん、まぁ怒られてもしょうがないからね……。リナパパ、お願いしまーっす」
飛び乗ると、リナパパが「あいよー」と陽気に答えた。三人を乗せた車はゆっくり動き出す。
「あれ? あのお嬢ちゃん、さっき話した子かなぁ? あんなとこで何してんだろ」
精算機に優待カードを翳していたリナパパが独り言をこぼした。さつきとリナも窓の外に視線を向ける。白いハットに白いコートを着た女性が、駐車場の外の花壇に座り俯いていた。ハットと横髪で顔は見えないが、首元を流れる栗毛をさつきが見間違えるわけがない。
「リナパパ、止めてください!」
出口のバーが上がり、発進しかけたリナパパを制す。「え、止めるの?」と戸惑うリナパパが完全に停止させるのも待たず、さつきはサイドドアをこじ開けた。
「朱兎さんっ!」
駆寄ると、朱兎がゆっくり顔を上げた。その名の通り、ウサギのように目を真っ赤にしていた。
「さつきちゃん……」
「どうしたんですか! また具合が? 凪さんは? 凪さんが送ってくれるんじゃなかったんですか?」
矢継ぎ早の問いかけに、朱兎はただふるふると首を振るだけだった。後から後から流れる涙が、真っ白なコートに落ちていく。
「朱兎さん、何があったんですか? 凪さんとはぐれちゃったんなら、あっちの車であたしたちと一緒に……」
さつきは朱兎の肩に手をかけた。朱兎は再び顔を伏せてしまった。小さく震えるその姿は、怯える白ウサギのようだった。
「ダメみたい……」
嗚咽混じりに、朱兎が呟いた。
「え? 何ですか?」
「私、さつきちゃんがいてくれないとダメみたい……」
さつきの心臓が、何かに打ち抜かれた瞬間だった……。




