12月 第1日曜日 その2
花岡朱兎は思い出していた。料理も菓子作りも得意な、バニラのような凪の甘い香りを……。
ずっと勝っていた子に初めて負けた、中三の秋。わんわん泣く自分を、あの時もこうして抱きしめてくれていた。あの時は大好きなプリンを差し入れに持ってきてくれた。八年経ってもなお、変わらない香りがする……。
「凪……帰ってきてたの……? 日本に……」
声が震えている。苦しいのは抱きしめられているからではない。鼓動が早鐘を打っているからだ。
「うん、二年前にね。本当はもっと早く会いに来たかった……」
澄んだ声が耳元に心地よい。あの頃よりも少しふくよかになった凪の身体に身を委ね、目の前で揺れるピアスを見つめながら問う。
「二年前? どうして、どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの? 私、ずっと凪に謝りたくて……」
「謝る? 謝るのはわたしのほうだよ。何も言わずに、酷い別れ方しちゃったから……。だからずっと謝りたくて。でも、取り返しのつかないことしちゃったから、もう絶対許してもらえないと思って、会いに行く勇気がなかった……」
そんな消極的な言葉とは裏腹に、凪の腕がぎゅっと朱兎を包む。いつもそうだった。天真爛漫な朱兎とは真逆で、凪はおとなしくて冷静な子だった。だけど、朱兎に関してだけは情熱的で積極的だった。
「たくさん話したいことがあるの。たくさん聞きたいことがあるの。凪は、凪はなんであの時……」
「朱兎ちゃん、それは……」
被せて制止した凪が、客席を見上げた。
「朱兎さんっ!」
凪の視線と声の方向が同じだった。息を切らし、さつきが駆寄ってくるのが見えた。試合を見終えて帰る観客の間を逆流しながら、一気に階段を駆け下りてくる。
「大丈夫ですかっ? 朱兎さん! また具合悪くなっちゃったんですかっ?」
「さつきちゃん……」
左足の感覚がなくなっている朱兎は、凪の腕を掴んでゆっくり身体を離した。凪は黙ったまま、そっと朱兎を近くの客席に座らせた。昔からそうだ。凪はほとんど表情を変えない。
「大丈夫大丈夫、またちょっとふらふらしちゃっただけ……」
「またって……。だって、ちょっと顔赤いですよ? 目だってちょっと潤んでるし……。医務室連れて行きましょうか?」
隣に座り、さつきが心配そうに覗き込んでくる。朱兎は黙って見下ろしている凪をちらっと見てから「大丈夫だってぇ」とさつきに笑ってみせた。
「大丈夫じゃないです! あぁっ、あたしってばお水持ってくればよかったぁ! ううん、やっぱり医務室行きましょう! 朱兎さんくらいなら、あたし全然運べますから!」
「お、大げさだって……ひゃっ!」
断りの言葉も聞かず、さつきは軽々とお姫様抱っこをした。
「おおおおお下ろして下ろしてー! 怖いよぉ」
「安心してください! これくらいなら、医務室まで全然余裕ですから! 凪さん、この方のバッグ、医務室までお願いします!」
叫ぶや否や、さつきはものすごい勢いで階段を駆け上がっていく。観客たちは何事かとざわつき始めた。
じたばたもがいていた朱兎がぴたりと動きを止めた。コンコースを抜け、なおも走り続けるさつきに問いかける。
「さつきちゃん、凪のこと知ってるの……?」
「え? はい。……朱兎さんこそ、お知り合いだったんですか? 凪さんはリトユニの専属カメラマンですよ」
「専属カメラマン……」
考えてみれば、リトユニの監督と凪は同じ姓だ。凪の父がプロ野球選手だったことは知らなかったが、凪は朱兎の大会でよく写真を撮ってくれていた。それを仕事に活かしていてもおかしくはない。
「そういえば朱兎さんと凪さんは同い年ですよね。凪さんはあんま自分のこと言いたがらないので知りませんが、学校同じだったとか? あ、でも監督と凪さんは二年前までアメリカにいたし違うか……。あ、医務室ありましたよ! もうすぐですからねー」
「う、うん……」
朱兎はお姫様抱っこの恐怖や羞恥心よりも、凪のことを聞きたいほうが大きく勝っている。道場破りのように「すいませーん!」と声を張り上げるさつきに、医務室の看護師がぎょっとして振り向いた。
ベッドに寝かされた朱兎は、身体はなんでもないのになぁ……と思いつつ、看護師の問診に一つずつ答えていく。首を傾げた看護師は下瞼を引き下げ「軽い貧血かなぁ」と呟いた。
「た、多分そうだと思います。でももうなんともないので!」
「そのようですね。起き上がってふらつきがなければお帰りいただいて大丈夫ですよ?」
「はーい、ありがとうございまーす」
看護師は白いカーテンをしゃっと閉め「お大事に」とベッドを離れた。さつきが心配そうに覗き込んでくる。まだ泥だらけのユニフォームのままだ。行方不明になっては監督に怒られるだろうに、本当に純粋で猪突猛進な少女だ。
「さつきちゃん、今日の私のファッションどう?」
起き上がり、ベッドの縁に腰かけた。髪を整え、スカートをひらつかせてみる。唐突な質問にさつきの目がまん丸になる。それでも「え、えっと……」と口を開いた。
「すごく似合ってます。あたしだったら白いコートなんて絶対汚すから買ってもらえないですけど、インナーのセーターともバッチリ合ってるし、足が奇麗だからやっぱりスカートが似合いますよね! いつも思いますけど、朱兎さんの服はどれも高級そうで趣味がいいです!」
「えへへ、あんがと。そのうちさつきちゃんも、こういう服似合う大人になるよぉ」
ほとんど緋馬が買ってくる服なんだけどね……と心の中で付け足し、足先をグーパーしてみた。感覚が戻っている。まったく、人騒がせな体質だ……。
「立てますか? 監督に事情話して、一緒に車乗せてもらえるよう頼んでみます」
「いーよいーよ、もう立てそうだし」
「いいえっ、朱兎さんちから一時間半くらいかかったでしょ? 心配だからあたしに任せてください!」
がしっと手を握られ、朱兎は「じゃ、じゃあお願いしようかな……?」と苦笑いする。症状はすぐに治まったものの、今まで外出先では起こらなかったのが最近になって二度も表れたのが気になったからだ。
幸いにも、二度ともさつきがいてくれたから治まったようなものだが、これが独りで電車に乗っている最中とかだったら……と想像すると肝が冷える。
「わたしの車で送ろうか?」
カーテンを開けると、朱兎のバッグを抱えた凪が立っていた。左足……と思い、反射的にさつきの腕を掴んだ。だが、感覚は残ったままだった。さつきが「朱兎さん?」と振り返る。
「さつき、朱兎ちゃんはわたしが送る。監督がカンカンだから、もう戻ったほうがいい」
「えー! あたしも乗っけてってくださいよー、凪さぁん!」
「ダメ。君たちはまだ反省会があるでしょ。今戻るって監督に連絡しておくから」
「えぇー……」
ダダをこねるさつきだが、凪の冷たい視線に降参し「分かりましたよ……」と若干すね気味。
「朱兎さん、おうち着いたら連絡くださいね? 栄養のあるもの食べてゆっくり休んでくださいね?」
名残惜しそうに小さく手を振るさつき。左足は指先までちゃんと感覚あるのだが、さつきがいなくなると思うと、朱兎こそちょっぴり心細くなってしまった。
「うんうん。大丈夫だって! さつきちゃんこそ、帰ったらゆっくり休んでね? 今日はお招きありがとう」
「はい! こちらこそ、来てくれてありがとうございました。……んじゃ凪さん、朱兎さんをよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、さつきは医務室の扉に手をかけた。だが、すぐにくるっと振り返る。
「そういえば、お二人はどんな関係だったんですか? まさかお知り合いだとは思いませんでした」
さつきが二人を見比べた。キャラ的にも陰陽な朱兎と凪。仲が良かったとは、ましてや恋人同士だったとは夢にも思わないだろう。
朱兎はちらっと凪を見た。相変わらず無表情だ。耳元がおさげからピアスに変わった。うっすらとだがメイクもしているし、服装だって大人っぽい。
だが、リアクションの薄さと何を考えているか分からないところは変わっていない……。
「凪も星花の中等部にいたんだよ。クラスは違うけど、ね?」
当たり障りのない答えを返すと、凪もこくんと頷いた。さつきの声が「えー!」と医務室内に響く。
「なんだぁ、凪さんってばなんにも教えてくれないんですもん! そうならそうと、あたしが星花受けるって決めた時、凪さんも出身だって教えてくれてもよくなかったですかー?」
「……わたし、卒業はしてないから。転入したのも中二の春だし」
「えー、だからって……」
「早く戻りな。『完封したからって調子に乗るな』ってドヤされるよ」
「うー……」
さつきは物言いたげに朱兎を一瞥し、今度こそしぶしぶ出て行った。しんと静まり帰る室内。事務机に座っていた看護師に礼を言い、二人も医務室を後にした。
「凪は一緒に帰らなくていいの? 写真とか撮るんじゃないの?」
「気にしないで。監督にはメッセ入れといたから。それより体調は?」
パンプスの中の指を動かしてみた。大丈夫そうだ。「ぜーんぜんっ」とへらり笑う。
「そう。でも駐車場まで歩くのしんどいだろうから、車回して来るよ。近くのゲートで待ってて」
「えー、大丈夫なのにぃ」
「いいから。すぐ戻る」
朱兎にバッグを手渡し、凪は一人すたすたと駐車場へ向かって行った。朱兎は再会にまだ半信半疑でその背中を見送る。ほっぺたを摘まんでみた。びにょーんとよく伸びた。ちゃんと痛みも感じる。
夢ではなさそうだ。突然いなくなったり突然現れたりの凪にまた会えた。
もう一生自分の前には現れてくれないだろうと思っていた凪が……。
最寄りのゲートを抜け、駐車場出口まで来た。心がまだふわふわしている。何から話そう……あれこれ話題を思い浮かべながら、朱兎は花壇に腰かけた。




