11月 第4金曜日 その3
花岡朱兎は左足の感覚を失っていた。
凪が、凪が帰ってきていた……。
やっぱり、あの二年前の大会で見かけたのは間違いじゃなかった……。
ミスで靱帯損傷してしまったあの日。いつもなら演技に集中していて客席など視界に入らないのだが、投げたクラブをキャッチしようと飛び上がった瞬間、三階席にある凪の姿が目に入ってきてしまったのだ。
凪が日本に帰ってきていた……?
自分の演技を見に来てくれていた……?
動揺して着地に失敗したなんて恥ずかしくて情けなくて、誰にも言えなかった。ケガの痛みよりも、自分に対する怒りが何百倍も勝った。
凪は中学二年の春に星花女子に転入してきた。同じクラスではなかったのだが、新体操で活躍していた朱兎を小学生の頃から知っていたらしく、毎日ファンレターをくれた。
ずっと朱兎に憧れていたという凪。ある日『付き合ってほしい』と告白してきた。それから毎日朱兎に弁当と手紙をくれた。
いつも近くで応援してくれていた凪との別れは突然だった。三年の三学期、さよならも言わず海外へ引っ越していってしまったのだ。
その名の通り、波風も立たせず静かにいなくなってしまった凪……。
高等部に上がってからは、新しい出会いと忙しさとで、正直存在は薄れかけていた。ふとした時に思い出すことはあっても、引っ越し先も連絡先すらも誰も知らないので忘れるしかなかった。
ただ、思春期の朱兎がスランプだった頃に支えてくれた大きな存在であったことは確かだ。
そして、恋も愛も知らなかった朱兎の、最初で最後の……。
「さつきちゃんは、私のどこが好き?」
朱兎は焦っていた。このままでは目の前にある店に戻ることすらできない。ハンドルをぐっと握りしめ、左足の感覚が戻るのを待つ。真剣に覗き込むと、さつきは唐突な質問に目を丸くした。
「どこって……。なんでですか? 突然」
「いいから。いっぱい言って? 私がもういいって言うまでいっぱい! 御礼はなんでもするから」
「え、えー? えっと……」
動揺するのは当然だ。しないほうがおかしい。朱兎もそれは分かっている。自分の弱さが生んだ、この奇妙な体質の回復を、事情も知らない小学生に手伝わせようとしているのだから。
「えっと、ジャンプ力がすごいところ。か、かわいらしいところ……? 若く見えるところ? あと……あと、優しいところ。えっと、あと……」
さつきは自転車を支えながら、一生懸命指折り捻り出している。付き合いの浅いさつきには荷が重いだろうが、自己顕示欲が回復しないと左足は言うことをきいてくれないので背に腹は代えられない。
「あとは……」
「あとは?」
「うーん、ないことはないと思うんですけど……。逆に、朱兎さんは自分のどこが好きですか? 自慢できるとことか」
「自慢できるとこ……」
閉店準備をしている鷹枝が、ブラインドを下げていた。その隙間から、過去の自分の写真が見えた。さつきがうんうんと頷いている。
「新体操を始めたのは、小学一年生の時でね、やんちゃで体力が有り余ってた私をママが体操教室に入れたの。三年生で初めて大会に出て、銅メダルをもらって……」
そして、朱兎は武勇伝をずらずらと並べだした。ほとんどの大会でメダルや賞状をもらったこと。中学も大学も推薦で入ったこと。学生時代は友達もファンもたくさんいたこと。
さつきはその自慢話をふむふむと身を乗り出して聞いていた。つぶらなお目々をきらきらと輝かせ、「メダルは全部でいくつ取れたんですか?」「国体は何回出たんですか?」と、朱兎に光が当たっていた頃の過去を興味津々に尋ねてくる。
二人は寒さも忘れ、新体操の話で盛り上がった。どのくらい過ぎたのか、「朱兎、まだ話すならコート着たらー?」と鷹枝が扉から顔を出したので我に返った。
左足を振ってみた。足首がぶらぶらと揺れた。つま先まで感覚が戻っている。朱兎はホッとし、「はーい」と鷹枝に手を振った。
「ありがとうさつきちゃん! この御礼は必ずするね」
「御礼って……? してもらうことなんて何もないですけど。ただ朱兎さんを褒めて、武勇伝を聞かせてもらっただけだし……」
きょとんとするさつき。理由を話すわけにはいかないので、朱兎は強引に話を終わらすことにした。
「いーのいーの! 私の気持ちだから、ね?」
朱兎はさつきの手を握り、ぶんぶんと上下させる。純真無垢なさつきは「じゃ、じゃあ……」と口端を上げた。
「御礼に、朱兎さんの連絡先教えてください!」
「連絡先……?」
朱兎はふと冷静になった。入学前とはいえ、四ヶ月後には勤務先の生徒になる。生徒に連絡先を教えてはならないという規定はないが、一人だけ特別扱いしてしまうようで……。
「誰にも言いません。朱兎さんの、えっと……花岡先生の連絡先を知ってることは」
また、この少女との内緒事が増えてしまう……。
だが、この少女にはいくつもの嘘を重ねている。その申し訳なさと恩義を込め、また内緒事を重ねることにした。
「分かった。入学しても内緒にしてね?」
「はい!」
花が咲くように、ぱぁっと笑顔を見せるさつき。その笑顔で、少しだけ後ろめたさが薄れていく。メッセージアプリを起動し、お友達登録をした。
百面相を見せるさつきがかわいくて、ほっこり胸が温まる。「ありがとうございましたー」とものすごいスピードで小さくなっていく背を見送り店内へ戻った。
蝶太郎に「ごゆっくりー」と挨拶をし、朱兎は三階へ上がった。はなおかの二階にはリビングダイニングと両親の寝室、三階には子供部屋がある。もっとも、三人とも実家を巣立っているので、現在は物置状態である。
朱兎の部屋は夏鶴と共同部屋。隣部屋を一人で使う緋馬に、昔はよく不満を垂れたものだ。今となっては男女で分けられていたのだと分かるが、子供の頃は長男を贔屓しているのだとすねたこともあった。
窮屈に二つ並んだデスクは、過去の栄光コーナーになっている。メダルや表彰状がずらり。ちなみに夏鶴のデスクには、絵画コンクールでの表彰状と作品が飾られている。懐かしいな、と夏鶴の絵を眺める朱兎。三人三様の才能に、両親は鼻高々だったと聞く。
二段ベッドの上が朱兎の寝床だ。備え付けのはしごは使わず、ぴょんと飛び乗るのが朱兎スタイル。下で夏鶴が横になっている時は『うるさい!』とよくクレームがきていた。
ごろりと横になる。見上げる天井が低い。懐かしい景色だ。気分転換にSNSを開く。
「朱兎」
「わぁっ!」
添付動画に集中していたので、扉が開く音に気付かなかった。緋馬がひょっこり覗き込んでいた。「びっくりしてやんのー」と八重歯を見せけらけら笑う緋馬。
「な、何? 本郷さんは?」
「うん? チョタはまだ、下でママたちと喋ってるよ。なんか朱兎が元気ないからどうしたのかなーっと思って」
ベッドの縁に顎を置き、生首状態の緋馬がじぃっとこちらを見つめる。朱兎はスマホをロックし、身を起こした。
「元気なくないわよ? 自分たちがテンション高めだったから、私が低く見えただけじゃない?」
「嘘だねー。みんなぼくのこと鈍感だとかマイペースだとか言うけど、朱兎のことだけは感じようとしなくても伝わってきちゃうの知ってるでしょ? 嘘ついてもぼくには分かるんだかんねー」
それは朱兎が一番よく知っている。自分もまた、緋馬の変化に敏感だからだ。今だって伝わってきている。『朱兎が辛いとぼくも辛い』と……。
「何を隠してるかまでは分かんないけどさ、独りで抱え込んじゃダメだよ。ぼくと違って、朱兎の近くにはいつも家族がいるんだから。話せることはちゃんと吐き出さないと壊れちゃう」
「……まぁね」
自分の弱さが、左足を奪っている。いつまでも吐き出せず、ひたすらに隠し通しているこの二年間……。
だが、吐き出して治るとは限らない。むしろ心配をかけるだけになってしまうかもしれない。朱兎はそれが一番怖いのだ……。
「緋馬はさ、本郷さんには何でも話せるの? 隠し事ないの?」
「えー、そりゃあるよ。……朱兎だから言うけど、日本シリーズで打率下がったのは、チョタとケンカして口きいてもらえなかったから……とか」
緋馬は苦笑し、頭をぽりぽりする。そりゃ二人が付き合っていることを知っている自分にしか言えないわな……と呆れた。
「……うはー、私も聞きたくなかったぁ。まぁ、もしかして……とは一瞬思ったけど、口きいてもらえないくらいでメンタルブレブレになるような繊細じゃないと思ってたのに意外……」
「失礼だなぁ。ほらほらぁ、ぼくは誰にも言えないこと言ったんだから、朱兎もちゃんとお兄ちゃんに話しなさいっ」
「偉そうにー。数十分早く産まれたってだけで、お兄ちゃんお兄ちゃんって言わないのー。ヘタレ緋馬ぁ」
ほっぺたをつまみ、びにょーんと引っ張った。緋馬は「こやぁ、放ひぇ」とじたばたする。
「ぷっ、変な顔ーぉ」
「むー! ぼくが変な顔なら、朱兎も変な顔だぞ? ったく、オフでも色々撮影あるのに、跡がついたらどーすんだよー」
「あははっ、大丈夫。私に似てかわいいかわいい」
「うんにゃ、ぼくのほうがかわいい」
「はー? 女の子である私のほうがかわいいに決まってるでしょー」
お互いムキになって、でも本気の本気ではなくて同時に吹き出す。心が少し軽くなった。
「まぁいいや。ぼくは自主練再開で明日のお昼前には球場に戻るけど、夜なら寮にいるから、話したくなったら電話しといで? んじゃ、チョタ待ってるだろうから戻るね」
片手をひらひらし、緋馬は扉へ向かった。その背中がなぜか頼もしく思えて、とっさに「緋馬」と呼び止めた。
「ありがとね」
双子の片割れがポジティブを分けてくれた。緋馬は得意気に口角を上げる。
「お兄ちゃんだもん」
「はいはい。恋愛も野球もがんばってね、お兄ちゃん」
「うん! 朱兎もまた好きな人見つけなよ。もっとかわいくなっちゃうかもよ? んじゃーねー」
いたずらな笑みを浮かべ、緋馬は扉を閉じた。
「また、って……」
意味深な言葉を反芻しつつ再び横になろうとすると、枕元でガサッと音がした。いつの間にか、ルカちゃんのクッキーサンドが置かれていた。ドルフィンズのユニフォームを着たルカちゃんの胸には『7』の数字。
「ほんっと、羨ましいくらい自分好きだよねぇ……」
緋馬の背番号をなぞり、朱兎はくすっと笑った。




