11月 第4金曜日 その2
花岡朱兎は、その後三人ではなおかへ向かった。
いかにもスポーツ選手な体格を隠せない蝶太郎はサングラスをかけているのだが、それが逆に二チラを産む。花岡緋馬の地元なのは有名だし、チームメイトと歩いていても決して違和感はない。ただ、内情を知っている朱兎だけがヒヤヒヤを隠せなかった。
「ママー、チョタ連れてきたよー! オムライスよろしくねー」
六時も過ぎると、はなおかはだいぶ客が減ってくる。実際、四人がけテーブルを二人で陣取るおばちゃんズだけだった。そのおばちゃんズと両親が一斉に入り口を向いた。
声高らかに緋馬がカウンター席に座った。自分も有名人なのだから、少しは人目を気にしろと言いたい。特に蝶太郎推しではない母の鷹枝だが、やはりドルフィンズのエースを目の前にあわあわしている。
「いいいいいいいいいいいいらっっしゃい本郷さん。ひひひひひ緋馬の母です。いいいいいいいいつも息子がお世話になってます!」
鷹枝の手にしていたケチャップが、ぴゅーっと噴水のように噴き出した。緊張でかなり力が入っているようだ。緋馬の話しだと、両親には蝶太郎をはなおかへ連れて来ることは事前に伝えていたらしい。だからといって緊張するものはするだろう。
「こちらこそいつもお世話になってます。これ、つまらない物ですが。ドルフィンズの新作お菓子です」
見かねた父の虎吉が「わざわざご丁寧にすいませんねー」と言いながら、差し出された紙袋を受け取った。だが虎吉の手も若干震えているらしく、中の箱がカサカサ鳴っている。
大卒と高卒の違いはあれど、同期入団の蝶太郎と緋馬の仲が良いことは、ファンの間ではわりと周知されている。チームメイト同士シーズンオフに旅行へ行くことも珍しくないので、蝶太郎を実家に連れて来ることもまた、特別怪しまれる言動ではない。
それでも、朱兎だけはどこかそわそわしてしまうのだ。マイペースでお間抜けな兄が、いつか『ぽろり』してしまうのではないかと……。
虎吉に促され、蝶太郎、緋馬、朱兎の順にカウンター席に並んで座る。呑気にぺらぺら喋っている緋馬。その向こうには、朱兎の目の前で堂々と緋馬をなでなでしていた蝶太郎。
さすがにマンションを出てからはただの仲良しチームメイトにしか見えない振る舞いしかしていないが、何万人もの前でマウンドに立つエースはやはり度胸が違うのだろうか。いや、そういう問題でもない気がするが……。
ハイテンションなわりにぎこちない手付きの両親を前に、緋馬と蝶太郎は『はなおかオムライススペシャル』をおいしそうに頬張り出す。スペシャルなのは大食漢の緋馬に合わせた特大サイズというだけで、味はメニューにあるオムライスとさほど変わらない。
花岡三兄妹は、母の作るオムライスが大好物だ。身体のサイズのわりに人一倍食べる双子は特大を、食の細い夏鶴はちょっと小さめを作ってもらう。今回は緋馬おすすめの特大サイズを蝶太郎にも食べさせたいという計画らしい。……表向きは、かもしれないが。
会計を済ませるおばちゃんズの視線を背に感じながら、朱兎も特大オムライスにスプーンを入れていく。夏鶴の創作料理もおいしいが、やはり育ってきた母の味は格別だ。思わず「んー、うまっ」と声が漏れる。
緋馬が秘密をぽろりしそうになったらいつでもフォローできるよう耳に集中しつつ、特大オムライスを半分まで進めたところで、扉のベルがからんころんと鳴った。
朱兎はスプーンを咥えたまま、何気なくそちらに顔を向けた。肩下で切り揃えられた黒髪で顔を隠し気味にしている女性が入店してきた。俯いているので、サングラスと真っ赤に塗られた唇しか見えない。気配を消そうとしているのか、足音も立てずにすり足で奥の二人席に座った。
どう見てもちょっと怪しい。鷹枝も「い、いらっしゃいませぇ」と若干構えながら水を置いていた。
近頃は危ない人が多い。ぶつかっただけで刺される人もいる。なんなら、誰でもよかったと殺される人だっている。怪しげな人とは目を合わせないようにするのが得策だ。
だが、朱兎は女性の行動をじぃっと観察していた。女性は横髪の隙間から、壁のパネルコーナーとカウンター席を交互に見ているようだ。緋馬のファンだろうか。「お決まりですか?」と鷹枝が注文を取ろうとすると、びくっと肩が大きく跳ねた。やましさ満天だ。
焦ったようにメニューを指差し、「ホットでよろしいですか?」と尋ねる鷹枝にこくんと頷いている。声も出さない。ますます怪しい。もぐもぐしながらその様子を観察していると、振り返った鷹枝と目が合った。『見るんじゃない!』とジェスチャーされた。
もしかして、ファンではなく記者だろうか……?
緋馬を付け回し、スクープの瞬間を狙っているのだとしたら……。
緋馬に警告しなければっ! と、顔を正面に戻そうとしたところで、朱兎の視界に見覚えのある物が入った。女性がテーブル上に出したスマホカバーに『YLU』のステッカーが貼ってあったのだ。
それは夕月リトルユニコーンズのロゴだ。そしてパネルコーナーに向いている顔は、緋馬のものよりも若干右に向いている。右側は朱兎の写真だ。
この二つの条件が示すのは一人しかいない……。
「ここ、空いてます?」
朱兎は食べかけの特大オムライスを持参し、女性の向かいの席に座った。女性はサングラスをかけたまま、がばっとメニューで顔を隠し「い、いえ、空いてません……」と裏声を出す。
……「さつきちゃん、なんで変装なんかして来てんの? ってゆーか変装のつもり?」
メニューを取り上げると、サングラス越しに目が合った。真っ赤な唇が「な、なんで分かったんですか?」と動く。下手くそなメイクに思わず吹き出しそうになった朱兎だが、さつき的には必死だったのだろうと察して笑いを堪えた。
「分かんないわけないっしょ? スマホにはそれ貼ってあるし、私の写真ちらちら見てるし。つーか、堂々と来ればいいのに、なんで変装して来てんの?」
「だ、だって……小学生が一人で来たら怪しいかなと思って……」
これには堪えられず、ぷっと吹き出してしまった。
「あのねぇ、別に小学生が一人で来たって怪しくもなんともないよ? その格好のほうがよっぽど怪しいって」
「そ、そうですか? 前回は何も言われなかったので、バレなかったと思ったんですけど……」
前回? とカウンターを見る。ちょうど鷹枝がコーヒーを運んできたところだった。「お知り合いだったの?」と目を丸くした鷹枝にこくんと頷く。
「さつきちゃん、大人だねぇ。私なんて大学入るまでコーヒーなんか飲めなかったよ? お砂糖は?」
鷹枝からコーヒーを受け取り、さつきの前に滑らす。テーブル端に設置している容器のスティックシュガーに手を伸ばした。さつきはやっとサングラスを外し、気まずそうに上目遣いをしてきた。母親のメイク道具を拝借したのか、幼さの残るさつきには全く似合わない。
「三つで。あたしはここに来て初めて飲みました。一番安かったんで。でも、やっぱり苦いです」
そういうことか……と健気なさつきに苦笑が漏れる。
とはいえ、小学生のお小遣いでイヤイヤ飲むのはもったいない。朱兎はコーヒーを自分側にたぐり寄せ、「ママぁ、クリームソーダぁ」とオーダーした。それから、コーヒーカップのソーサーにオムライスを分けてやる。
「うちのオムライスおいしいよ。でも遅くなっちゃうといけないから、これ食べたら帰りなね?」
「い、いいんですか? いただきます!」
お目目をきらきらさせたさつきが、オムライスを頬張りだした。なぜ、と聞くのも野暮だったか……と朱兎はこめかみをぽりぽりする。口端の赤が口紅かケチャップか分からないさつきの前にクリームソーダが届いた。
「朱兎の生徒さんだったの?」
「んー、まぁそんなとこ」
「まぁまぁそうだったのねぇ。この前来てくれた時もここに座ってじーっと写真見てたから、てっきり緋馬のファンの方だと思ってたわ」
にこにこと嬉しそうな鷹枝。さつきはオムライスの手を止め、鷹枝にぺこりと会釈した。こういう礼儀正しいところは、さすがスポーツ少女だな、と朱兎は感心する。
「一柳さつきと言います。朱兎さんにはいつもお世話になっています。ファンというか……自分もソフトボールをやっているので、緋馬さんは憧れです」
「あらあらぁ、そうなの? ありがとねぇ。野球だけが取柄なうちの息子でよかったら握手していく?」
「握手?」
頭を上げるさつき。鷹枝が指差す先を見て、驚愕の表情になった。
「ううううううううう嘘っ! 本物ですか? ドルフィンズの花岡さんですかっ?」
一連のやり取りにも気付かず蝶太郎と話し込んでいた緋馬が、名を呼ばれてやっと振り返った。ハニワのような顔になっているさつきを見て「そだよー」とひらひら手を振る。流れで蝶太郎もこちらを向いた。
「ほほほほほほほんごごごごご……!」
本郷、と言いたいのだろうさつきは固まってしまった。両親でさえ緊張していたのだ。小学生のさつきが緊張しないわけがない。
ファンサービスに慣れている蝶太郎が先に動いた。「この子、ソフトボールやってるんですってぇ」と紹介する鷹枝の横を過ぎ、さつきへ右手を差し出した。
「これからも応援よろしくお願いしますね」
にっこり微笑む蝶太郎に、鷹枝がうっとり見とれている。緋馬も「よろしくねー」とさつきに右手を伸ばした。プロ野球選手は子供のファンをとても大事にする。さつきはロボットのようなぎこちない動きで二人と握手した。
朱兎はその光景を微笑ましく見守っていた。常に情熱的で真っ直ぐ前しか見ていないさつきの百面相は飽きが来ない。
ドルフィンズコンビがカウンター席に戻って行くと、さつきは頬を染めたままオムライスの残りを平らげた。
「今日のクリームソーダはごちそうしてあげる。またいらっしゃいね」
鷹枝はそう言って、さつきにお菓子を二つ握らせた。先程蝶太郎から貰った、ドルフィンズの新作菓子である。ドルフィンズのマスコットキャラクター、イルカの『ルカちゃん』の形をしたクッキーサンドで、パッケージには選手の背番号が印刷されていた。
「ありがとうございます! また来ます!」
礼儀正しいさつきを、鷹枝も気に入ったようだ。朱兎と共に扉まで見送り『closed』の札をかけた。十一月も下旬の夜はコート必須。見送りとはいえコートを着ぬまま外に出てきてしまった朱兎はぶるっと身震いする。
「駅まで送るよ。コート取って来るから、ちょっと待ってて?」
「いえ、大丈夫です。今日もチャリですから」
「そう? お母さん心配してるだろうから早く帰りなね? でもスピードあんま出しちゃダ……」
視線を感じた。そちらへ振り向くと、ドラッグストアの看板から、黒いコートを羽織った女性がこちらをじっと見ていた。目が合うなり、その女性はくるりと背を向け、商店街の路地に入って行った。
あれは……。
凪……?
髪型はショートカットに変わっていたが、間違いない……。
朱兎はバランスを崩した。とっさに自転車のハンドルに掴まる。急にもたれてきた朱兎に驚いたさつきはサドルから降りた。
「朱兎さん! どうしたんですかっ? 貧血ですかっ? お母さん呼んできましょうか?」
左足が……。
「ううん、大丈夫……。ちょっとふらついただけだから……」
自分の顔が青ざめていくのが分かった。背に冷たいものが落ちていく。外で左足の感覚がなくなったのは初めてだった……。
さつきがおろおろしている。鷹枝を呼びに行こうにも、自分が自転車を支えていないと朱兎も倒れてしまうことに気が付いたらしい。
早く感覚を取り戻さなければ……。
ポジティブなことを、ポジティブなことを……。
「さつきちゃん」
朱兎が顔を上げると、さつきは「はい!」と背筋を伸ばした。
「さつきちゃんは、私のどこが好き?」




