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10月 第1金曜日

 


「クラウチングスタートするには、相葉さんのお胸がおっきすぎちゃったんだよねー?」

 花岡朱兎は保健室にいた。五時間目の授業で短距離タイムを計る際、鼻と額をすりむいた生徒の様子を見に来たのだ。

「自分がぺったんこだからって、生徒に嫉妬するのは見苦しいぞ? 花岡先生」

 養護教諭の八神麗緒やがみれおが椅子ごとくるりと振り返る。生徒は保健係と共にすでに教室に戻ったところだった。朱兎はべーっと舌を出す。

「あのねぇ、やがみん? 小さい頃から体操とかバレエやってると、大体の子はぺったんこになるのー! そして嫉妬じゃありませんよーだ」

「あははっ、子供かっ」

 麗緒は笑い、デスクからアルミ製の大きな箱を取り出した。そしてその中の一つを、ひょいっと朱兎に投げてよこす。反射的にナイスキャッチしてしまった。小さな袋のパッケージには『ソーダグミ』と書かれてあった。

「子供かっ」

「お気に召さなかったのなら返してくれ。そのグミ、うまいんだぞ? あたしなんて子供の頃、駄菓子屋で見つけたら必ず買ってたんだ」

「ほんと? やがみんがくれるお菓子はどれもおいしいからもらーう!」

「あはは、子供かっ。ところで、同期だけど一応あたしのほうが年上なんだが?」

 大量の菓子が詰め込まれた菓子箱を引き出しに押し込みながら、麗緒が横目で訂正を求めてきた。

 朱兎は今年度就任した、星花女子学園の非常勤講師である。科目は体育。高等部は一学年六〜七クラス編成なので、恩師である常勤教員と分担し授業を受け持っている。

 今年の三月、恩師の体育教員の推薦でこの仕事に就くことになった。勤めて半年、職員室の空気にもやっと慣れてきた。四年前に高等部を卒業する際には、成績不振で呼び出されまくった職員室にデスクを置くなど想像もしなかったが……。

 そしてこの八神麗緒も、今年度から採用になった養護教諭である。だが麗緒は病院やら別の学校やらで働いていたため、朱兎より六つも年上だ。

 それでも職務上接する機会が多いのもあり、朱兎は麗緒になついてしまっていた。『やがみん』とは愛称だ。麗緒自身まんざらでもないくせに……と朱兎はニヤける。

「おばさん扱いすると怒るくせにー! アラサーって、思春期よりも難しいお年頃なのねっ」

「……返せ」

「やだー。だってこれおいしいんでしょ?」

 朱兎がグミの袋を胸に抱えると、麗緒はやれやれとデスクに向き直った。その背に「勝った!」と宣言すると、すぐに「子供かっ」と返ってきた。

「もうそれ持ってっていいからハウスハウスっ。次の授業の支度でもしなさいよ」

「ちょっとぉ、犬じゃないんですけどー! 今日は五時間目までなの。金曜日だから次の仕事も休み」

「あー、分かった、分かったから。来週はバレーボールだっけ? 怪我人ださないでくれよ?」

「はいはーい! って、いつも気を付けてはいるんだけどねぇ」

「まぁ教員も生徒も人間だからしょうがないさ。ロボットみたいに動いてくれりゃ、養護教諭なんていらないよ」

 二人は苦笑する。「んじゃ、ありがとーございましたぁ」と扉を開けると、麗緒は背を向けたまま「あいよー」と小さく手を上げた。口調はさばさばしているが、人間くささが麗緒のいいところだ。

 花岡朱兎の、非常勤講師としての一週間が終わった。

「お先に失礼しまーす」

 タイムカードを押し、「お疲れ様デース」という数人の教員の声を背に職員室の扉を閉めた。まだ六時間目の最中なので、廊下は静まり返っている。

 退勤後は兼業で、近所の体操教室にて週四日、子供たちにダンスを教えている。こちらも恩師の提案だ。幼少期から通っていた教室へ、恩返しも込めてインストラクターを引き受けてはどうかと言われ、同じくこの春から両立している。

 金曜日は別のクラスがスタジオを使っており、朱兎の受け持つ小学生クラスはお休みである。講師スイッチが切れた朱兎は廊下を歩きながら高く結っていたポニーテールを解き、鎖骨下まで伸びた髪を手櫛で梳く。栗色の猫っ毛がさらさらと肩を滑っていった。

 自宅マンションは、学園前駅から二駅隣。実家の近くで大学一年生の妹と二人暮らしをしている。今日は妹の夕食当番の日。朱兎は献立を考えずに済むので、最寄りのコンビニ『ニアマート』で買った肉まんを呑気にパクつきながら駅へ向かった。

 昼過ぎの中途半端な時間なので、電車はガラガラだった。情報源のSNS『ツイックス』を流し見していると、あっという間に地元駅へ到着。

 帰路途中の喫茶をちらり覗けば、カウンター内の母と目が合った。手を振った。あちらも笑顔で振り替えしてきた。

「うわっ、めっちゃ散らかして何してんの?」

 マンションの扉を開けるや否や、朱兎はあまりの光景に叫声をあげた。「いきなりうっさ」と冷めた声が返ってくる。妹は午前で帰宅していたらしい。

「ちょっとぉ、人には散らかすなってうるさいくせに、自分だってめっちゃちらかしてるじゃなーい」

 リビングの床には、色とりどりの布きれが散乱していた。朱兎は踏まないようにつま先歩きしながら、ソファにバッグを置く。床にベタ座りしている妹の夏鶴なつるがじろりと見上げてきた。

 大きなどんぐり目の朱兎もどちらかといえば目尻が上がっている類いだが、妹の夏鶴はスッとした切れ長。朱兎は慣れっこだが、他人からは睨み上げているようにしか思われない鋭い眼光だ。

「何してんのって、見て分かんねぇ? 冬コミのコス衣装作ってんに決まってんじゃん」

 分からないわけがない。誰が見ても普段着ではない。作りかけだが、原色を組み合わせたひらひらのその衣装は、夏鶴がよくプレイしていたロールプレイングゲームのキャラクターのものだ。

「まだ十月じゃん。もう用意してんだ? レイヤーは大変だねぇ」

「まぁね。あ、おねぇ。俺今日バイト入ったからさ、夕食当番変わってくんない?」

 夏鶴の一人称は中学生の時から変わらず『俺』。世に言う『厨二病』というやつならば思春期と共に終わるのだろうと思っていたのだが、どうやら夏鶴はちょっと違うらしい……。

 妹の夏鶴は男装を好む。髪も常にショートに整えており、口調も素振りも男の子のようだ。

 器用に針を動かす手元を眺めながら洗面所へ向かう。男の子のような格好をしてはいるものの裁縫やら料理やらは朱兎よりも器用にこなすので、このままにしておくのはもったいないなー……とちょっぴり残念に思う姉。

「あー、いーよいーよ。どうせバイト先で食べてくるんでしょ? 私一人なら適当に作って食べるからぁ」

 洗面台で手を洗っていると、水音に紛れて「嘘っぽー」と背後で声がした。朱兎の『適当に作って食べる』が『適当な物を食べる』だということを見透かされているのだ。

「おねぇ、仕事で動いてんだからもう少しちゃんと食えば? あんま時間ないけど作ってほしいんなら簡単なの作るけど。それとも『土産』もらってきてやろうか?」

 夏鶴は器用に小指だけをくいくいっと曲げる。夏鶴の言う『土産』とは、バイト先である男装デートクラブの客からもらう差し入れのことだ。

 クールが売りの夏鶴は幅広い層の女性客から人気があり、バイトの日は毎回何かしら持って帰ってくる。姉に対しては生意気な口ばかりの夏鶴のどこに人気があるんだか……と首を傾げる朱兎だが、土産のほとんどは高級品なので、ついつい「やったぁ!」とどんぐり目を輝かせてしまう。

「んじゃお寿司!」

「ぶっ、ずうずうしいなぁ。……まぁねだってみるけど。さて、とっ」

 伸びをし、夏鶴は裁縫道具を片付けだした。バイトの支度をするのだろう。「よろー」とひらひら手を振り、朱兎は自室の扉を閉めた。

 部屋着に着替え、ごろりとベッドに転がった。仰向けでスマホを顔上に掲げる。先程読みかけだったツイックスの記事を開いていると、メッセージアプリから通知がきた。

「ん? 緋馬?」

 双子の兄から画像が送られてきた。この時間はまだ練習中では? と思いつつ、さっそく開いてみる。

「ぶっ! なにこれーっ」

 思わず吹き出してしまった。唾の噴水が、数滴顔面に降ってきた。

 朱兎はどちらかといえばマイペースだ。妹の夏鶴も、他人に流されないマイペースだ。だが、兄の緋馬は妹たちの数倍マイペースである。朱兎は袖口で唾をふきふきしながら、一人爆笑していた。

 しかし、この一枚の画像が後々大問題になるとは、今の朱兎が知るよしもない……。



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