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11月 第4金曜日

 


 花岡朱兎は、夕飯の買い物に出かけていた。

 妹の夏鶴が「俺、今日から合宿だから」と突然出かけて行った。インドアで面倒くさがりな夏鶴は、バイトや買い物以外であまり出かけることがない。大学で入った『コスプレサークル』なるものの合宿だと聞いてはいるが、合宿場所を尋ねると、「別にいいじゃん」とかわされてしまった朱兎……。

 ……そう、別にいいじゃんなのだ。妹といえど、もう十九。お泊まり先が友人宅だろうが恋人宅だろうが、どこだろうが別に構わない。子供でもあるまいし、『お泊まり先の連絡先教えておきなさい』などと言うつもりもない。

 ない、のだが……。

「気になるじゃんかー!」

 有耶無耶にされると余計に気になってしまう。しっかり者の夏鶴に限って心配することなどなくとも、隠されれば隠されるほど知りたくなってしまうのが本音である。

「むー、夏鶴のやつめー……」

 もやもやしながら帰路につく。数日間夏鶴がいないとなると、朱兎にとって一番の悩みの種は食事だ。八百屋とスーパー、それとコンビニスイーツを求めて商店街を一周してきた。

 大きなビニール袋を両手にぶらさげマンション前まで来ると、オートロックパネルの前で立ち止まっている人影が目に入った。長身の男性だった。インターホンの応答を待っているようなので、住人ではなさそうだ。

「ちょっちすいませーん」

 朱兎が一声かけると、男性は「あ、すいません」と右にずれた。その隙にカードキーを差し込む。エントランスの扉が開く。ビニール袋を持ち直し、朱兎はそそくさと中へ入った。

「あれ、妹さん……ですか?」

 オートロックパネルの前で突っ立ったままの男性が声をかけてきた。振り返った朱兎が閉まりかけた扉の隙間から見たのは……。

「う、嘘っ!」

「あぁやっぱり。緋馬の妹さんですよね」

 そう爽やかににっこり笑う長身の男性は、緋馬のチームメイトであり、恋人の……。

「初めまして、本郷と言います。お兄さんにはいつもお世話になってます」

 ドルフィンズエースピッチャーの、本郷蝶太郎であった。

 思いも寄らない来客に朱兎が金魚か鯉のように口をパクパクさせていると、蝶太郎の背後で『はーぁい、どーぞー』と間の抜けた兄の声が響いた。頭一つ分以上背の高い蝶太郎がぺこりと丁寧にお辞儀をする。

「あっ、いいいいいいいえっ、こちらこそ、とんちんかんでお間抜けな兄がいつもお世話になってます!」

「ご家族の話はいつも緋馬から聞いてます。仲がいいんですよね。今日は妹さんたちがいないから遊びにおいでと誘われたんですが……」

「……たち?」

 お互いにぴたりと動きが止まる。いないのは夏鶴だけである。むしろ、出かけるかもと言っていたのは緋馬のほうだったのだが……。

「ま、まぁとりあえずどうぞ? 緋馬はいるみたいですし……」

 言ってエントランスへ招く朱兎。蝶太郎は「ありがとうございます」と小麦色からこぼれる白い歯を見せた。

「荷物、重そうですね。持ちましょうか?」

「いえ、大丈夫です。もうすぐですし、こう見えても力持ちなので」

「貸してください。自分も力持ちですよ?」

 言うが早いか、蝶太郎は朱兎からビニール袋をひょいと奪い取った。エレベーターの扉も押さえ、「どうぞ」とレディファースト。女子校育ちで紳士的な振る舞いを受けたことのない朱兎はとっさに「お先にどうぞ!」と返してしまった。

 三階までのエレベーターがこんなにも遅いものだと感じたのは初めてだった。ふらっと帰ってきては嵐のように去って行く緋馬だが、ドルフィンズのチームメイトを連れて来たことは初めてだ。兄がそうだといえど、いくら朱兎でもプロ野球選手と二人密室で落ち着かないわけがない。

 しかも、それが兄の恋人だ。二人の関係を知っているのは朱兎だけだと聞いてはいるが、蝶太郎がそれを知っているのかどうかまでは聞いていない。チラ見しようにもだいぶ顔を上げないと見えないその表情が気になるところ……。

「朱兎さん、でしたよね?」

「うぇっ? は、はい!」

 唐突に名を呼ばれ、がばっと顔を上げた。勢いつきすぎてムチウチになりそうだった。首をさすりつつ「そうです」と頷く。

「よく写真を見せてもらってましたが、本当にそっくりですね。球場で指指されたこととかありませんか?」

「あはは。それが目に見えてるから、観戦する時はめっちゃケバくメイクしたり、変装したり大変なんですよ。だからよっぽどの試合じゃない限り行けません」

「あぁ、なるほど。じゃあ来シーズンはもっと頑張って日本一にならないとですね」

 蝶太郎は笑顔のままだが、朱兎は内心やっちまった……と後悔する。今シーズンは緋馬の打撃不振も日本一を逃した要因の一つであるため、気まずさ200%になってしまったのだ。

「あれー? 朱兎、なんで帰ってきたの?」

 チンッ、とエレベーターの扉が開くと共に、どんぐり目をまん丸にした緋馬が素っ頓狂な声を上げた。朱兎の頭の中でぷちんと音がする。気まずさ空間から解放された朱兎は飛び出し、緋馬の手首を掴んで部屋まで引きずった。

「痛い痛い、プロスポーツ選手の身体を雑に扱うなー」

 抗議も無視し、緋馬を玄関へ放り込む。「ちょっとお待ちくださいね?」と蝶太郎を廊下で待たせ、朱兎は玄関扉を閉じた。

「なんではこっちの台詞! 出かけるって言ったのは夏鶴だけよ? 私は買い物に行ってただけ。なのに本郷さん呼ぶとかどゆことっ?」

「えぇー! そうだったのかぁ……。せっかく美容院もエステも行ったのにぃ……」

 しゅんっとしょぼくれる緋馬。いつの間にかメンズエステサロンに行っていたらしい。お肌が炊き立てのお米のようにつやつやで羨ましいくらいになっていた。あちらも帰ってきたばかりなのか、パーカーにジーンズというラフな外出着姿である。

「呼ぶなら呼ぶで事前に言ってよね? 夏鶴がいないのに夕飯どうすんの? 私、お客さんに出せるようなご飯作れないんだから」

 胸を張って言い切る朱兎に、緋馬は目をぱちくりさせる。

「ご飯は作らなくていいよ? はなおかのオムライスとプリンパフェ食べさせたくて呼んだから。それよりさぁ……」

 緋馬はもじもじと身を捩り、頬を赤らめ上目使いしてきた。

「その……チョタと過ごしたいから、今日は実家泊まってくんない?」

「……は?」

 聞き取れなかったわけではない。意味が分からないわけでもない。だが、朱兎はとっさに聞き返してしまった。その一文字しか言葉が出て来なかった。

「ね? お願い!」

 ウインクをよこされても、朱兎は呆れる以外何もできない。遠征先のホテルで同部屋になることはあるが、チームメイトの目があるからとか、お互い明日の試合のために体力を残さなきゃいけないからとかどーのこーの言っていた気がする。耳を塞ぎたいような話をくねくねしながら続ける兄の唇を上下につまみ、「ストーップっ!」と強制制止させた。

「しょうがないなぁ……。んじゃ、今日だけ実家に泊まってあげるわよ!」

「やったーぁ! あんがと、しゅ……うぷっ」

 喜びのあまり飛びついてくる緋馬の顔面を片手で押し戻し、躾のように言いきかせる。

「この貸しは大きいからね? それと、どうせ女装するんでしょうけど、写真は一切ダメだかんね!」

「動画も?」

「動画も!」

「うーん、分かったよぉ。そうだ、御礼は特別に、ぼくとチョタのサイン入りクリアファイルをあげるね!」

「絶対いらない」

 バッサリ却下し、「お待たせしましたー」と玄関扉を開ける。長身のイケメンに似合わないビニール袋をぶら下げたままの蝶太郎が「いいえ」と首を振った。

「わーい、チョタいらっしゃーい! 車混んでなかった? ちゃんとお腹空かせてきた? お泊まりグッズ持ってきたー?」

 帰宅した飼い主を歓迎する子犬のように、緋馬は蝶太郎に飛びついた。蝶太郎も朱兎の冷たい視線そっちのけで緋馬の頭を優しく撫でている。

 なんじゃこりゃ……と、急に怒るのがバカバカしくなった朱兎。「どうもでしたー」とビニール袋を受け取り、脱力感と戦いながら冷蔵庫へ仕舞っていく。

 緋馬が帰ってきている。夏鶴はいない。これのどこに実家に泊まるという理由を付ければいいのか……。両親になんと言えば怪しまれないのか、それを自分が考えていることすら理不尽に思えてくる朱兎。

 リビングで話し始めた二人に紅茶を出し、朱兎は「ごゆっくりー」と自室に入った。メイク用品や着替えを並べ、お泊まり荷物をまとめていく。大会で遠征も多かったため、荷造りは手慣れたもんである。

 そういえば化粧水のサンプルで未使用のものがあったっけ、と引き出しを開けた。雑貨も文房具もごちゃごちゃと詰め込んでいるその中に手を突っ込む。

 捜し物は探している時はなかなか見つからないもの。だんだんイライラしてきた朱兎は、引き出しごと引っこ抜き、床に置いて探すことにした。

「あれ? これって……」

 引き出しの一番奥に、お菓子の缶がひっそりと佇んでいた。小学生の頃、家族で行ったテーマパークで買ってもらったものだ。朱兎の記憶が巻き戻る。

「持ってきたんだっけ……?」

 それは実家から引っ越してくる際、処分しようかしまいか悩みに悩んだものだ。手に取って振ってみる。がさがさと、紙同士の擦れる音がした。

 そっと開けてみる。中は記憶通り、手紙の山だった。色とりどりのかわいらしい封筒の前面には、どれも同じ文字で『花岡朱兎様』と丁寧に書いてある。

 中学生の朱兎をたくさん励ましてくれた手紙だ。当時の同級生にもらった、ファンレターでもあり、ラブレターでもある。一通手に取り裏返してみた。右下に控えめに『凪』とあった。

 封印するかのように、缶の蓋をしっかり閉めた。処分に悩んだものではあったが、過去の自分が捨てない選択をしたのだから取っておくことにする。引き出しの奥に戻し、ふぅっと息を吐いた。

 立ち上がろうとしてふらつく。ベッドに手をついた。左足がなくなっていた。いや、正確には感覚が消えただけなのだが……。

「もうっ、凪め……」

 そのままベッドに座り、左足首にこんこんノックする。一瞬でもネガティブになったのか、昔のことを思い出したからなのか、返答はない。朱兎はごろりと横になり、目を閉じた。

 リビングから、楽しそうな笑い声が響いてきた。努力と才能で夢を叶えた兄。努力と才能を持ってしても夢を叶えられなかった自分……。

「なーんつって」

 ガバッと身を起こし、左足をむんずとつねった。できるだけ多くポジティブを掘り起こし、自己顕示欲を無理矢理押し上げる。これが唯一の対症療法なのだ。

「行こー! お腹空いたぁ」

 感覚を取り戻すと同時に、緋馬がノックしてきた。ホッと一息つき「ほーい」と答える。化粧水のサンプルを探すのはやめ、洗面台からボトルを持ち出すことにした。









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