11月 第2日曜日 その4
花岡朱兎は、大股で帰路に着いていた。
どアップだっただけに後ろ髪まで映っていなかったキスショット。緋馬の女装は家族だけの秘密事項だ。『家の中だけ』という約束は守っているようだが、ふざけたふりをしているつもりなのか、恋人の前でメイクをしていたらしい。
シーズン中に『上手くお化粧できたー!』と送られてきた画像だった。自分でもなぜとっとと削除しなかったのか分からない。またも冷や汗をかかされた……! と兄のせいにしたいところだが、今回は自分のうっかりミスを認めざるを得ない。
『あたしだから信じましたけど、世間はきっと信じてくれませんよ』
またも重ねた嘘に胸を締め付けられる。心から信じてくれた純真無垢なさつきの笑顔が脳裏から離れない……。
そもそも、あんな深紅の口紅なんて付けないっつーの! と論点のずれたツッコミをし、イラ立ちを隠せないまま玄関扉を開けた。
「おかえり、おねぇ」
雑にパンプスを脱ぎ捨てると、夏鶴がリビングからひょっこり顔を出した。通常運転で無表情ではあるが、姉的カンが若干の機嫌の良さを感じさせる。
「ただいまぁ。どしたの? 機嫌良さそうじゃん」
バッグを放り投げて手を洗っていると、「散らかすなっての」と叱られた。やはりいつもほどトゲがない。冷蔵庫からイチゴ牛乳を取り出し、さっそく様子を伺うことにした。
夏鶴は床に何枚もの洋服を並べていた。全て男物なののは特に不思議ではない。ちょっと高級そうだけど、給料日だったのかな……? なんてイチゴ牛乳を口にしていると、南側の部屋の扉が開いた。
「あー、朱兎も帰ってきたー! おかえりー! ってゆーか、ただいまーぁ」
出てきたのは、呑気に手を振る兄の緋馬。タグをぶら下げたままの甘々ロリータ服を着て大きな紙袋を抱えている。タイムリーな帰還に、思わずイチゴ牛乳を吹き出しそうになる朱兎。必死に堪えようとしてむせ込んだ。
「帰ってたのっ? ちゃんと男もん着て帰ってきたでしょーねっ!」
「えー、もちろんだよぉ。何そんな怒ってんのー? ちゃんと朱兎にもお土産たくさんあるよー。夏鶴も気に入ってくれたみたいで嬉しいなぁ。んっとねぇ、朱兎にはねー……」
夏鶴の機嫌が良かった理由はこれか……と合点がいく。自ら欲しいとは言わない夏鶴だが、好むブランドの服をプレゼントされたのだからご機嫌だ。夏鶴だけでなく、花岡家毎年恒例になったシーズンオフのお楽しみである。
今年は惜しくも日本一を逃したドルフィンズ。その敗因の一つが緋馬の急激な打撃不振だとSNSで騒がれていた。それでもスタメンを外されなかったのは、やはり絶対的な守備力があったからだ。
日本シリーズを観戦しに行った両親も、あからさまな緋馬の打率低下に言葉を失っていた。一塁ベースを踏むことなくベンチに戻る緋馬に浴びせられる怒声やヤジに心を痛めて帰ってきた。今までどんなことがあっても笑顔を絶やさなかった緋馬も、さすがに苦笑しか見せなかった。
かける言葉が見つからなかった朱兎もまた、シーズンが終わっても『お疲れ』の一言が送れずにいた。あちらからも連絡はなかった。二十二年間一緒に育ってきた兄を、今までで一番心配した数日であった。
もしかして、今年は帰って来ないのかも……と不安が過ぎったほどだったが……。
「じゃじゃーん! ねーねー、この服朱兎にって買ったんだけどさ、よくよく見たらぼくのほうが似合いそうじゃなーい?」
……が、やはり兄は兄だった……。
「『じゃじゃーん!』じゃなーい! もーっ、どんだけ心配したと思ってんのよー!」
朱兎は安堵と怒りが同時にこみ上げてきた。当の緋馬は次々と女性物の服を取り出す手を止め、「ん?」と首を傾げている。
「心配? そんなんしなくても、ちゃんと朱兎にあげるってぇ。ただ、ぼくのほうが似合うんじゃないかなーって言っただけじゃーん。あ、でも、たまには貸してよねー?」
名残惜しそうに服を抱きしめ、上目使いでおねだりしてくる緋馬。相変わらずのとんちんかんに、朱兎は肩すかしを食らう。
「おねぇ。まぁ、おにぃだからさ?」
仁王立ちの朱兎の背後から、夏鶴が宥めてきた。いや、宥めというより悟りだ。多くは語らないが、『緋馬だからしょうがない』の諦めが必要なのだ。
「……んもぅ、そうよね。やっぱ緋馬は緋馬よね……」
「うんっ! でしょでしょー? でも大丈夫、ぼくが似合うなら朱兎も似合うから。へへっ、さっそく着てみよーっと!」
噛み合わない会話すら終わらないうちに、緋馬はスキップるんるんで自室に入っていった。あえて野球のことには触れず、洋服の話題に持っていったのだろうか……という考えは一瞬のうちにぱちんと消えた。「考えるだけ無駄無駄」と妹が呟いた。ごもっともだ。
「ねぇ」
朱兎はノックなしに緋馬の衣装部屋を開けた。「きゃっ」と楽しそうに身体を丸める緋馬。それをあえてスルーし、三つ折りに畳まれたマットにぱふんと座った。緋馬が蝶太郎と恋人仲なのを夏鶴は知らないので二人きりになる必要があった。
「前にメイクした写真送ってきたじゃない? あれ、もしかして本郷さんも持ってる?」
朱兎が膝に頬杖をついて見上げると、緋馬は脱ぎかけた甘々ロリータ服から腕を抜き、「ううん」と首を振った。
「あれはぼくが撮ったやつだからチョタは持ってないよ? どして?」
言いながらパン一になる緋馬。顔は妹と瓜二つ。声は中学生男子。なのにロリータ服を脱いだその姿は、スポーツマンの鍛え上げられた肉体だった。
いや、それは辺り前なのだが、スロットを掛け違えたかのようなミスマッチさに、朱兎は思わずまじまじ観察してしまった。ちなみに女装はしても女性物の下着には興味がないらしく、今もボクサーパンツである。
朱兎と緋馬は、髪も肌も生まれつき色素が薄い。低出生体重児で小さく生れてきたが、元気と体力は人並み以上に育ってきた。だがその色白さゆえに、夏にはいつも日焼け止めが欠かせなかった。すぐに赤くヒリついてしまうのだ。
今も変わらず日焼け止めは塗っていると言っていたが、本当に日照りの下でスポーツをしているのだろうかと疑いたくなる色白さ。そしてその白さに似つかない筋肉たちの盛り上がりよう。視線に気付かずファッションショーに没頭するその後ろ姿は、いつの間にか妹の知らないただの『男』になっていた。なんだかんだ言っても、兄は男なのだと今更実感させられる。
「どしてって、スキャンダルの元になるような写真は残さないほうがいいって言いたかっただけ。あれじゃ親でさえ私と間違えそうだし。どちらにせよ、『ドルフィンズ本郷に恋人発覚』なんて記事にされるのは間違いない写真だもん。さっさと消しときなよ?」
「えぇー! あれ気に入ってるのにーぃ」
先程朱兎にあげるとひらつかせていたワンピースを試着した緋馬が振り返った。叱られた子犬のようにしょんぼりしている。筋肉を見せつけられたばかりなので肩周りに目が行く。緋馬は一六二センチ、女性物だとMサイズでちょうどよい身長でも、やはり多少肩がキツそうだ。かなり着痩せしていたらしい。
「はいはい、かわいいかわいい」
「むーっ、ボー読みぃ! あ、さては嫉妬してるなー? ぼくが似合うんだから、朱兎だってちゃんと似合うってば」
呆れるほどのポジティブ思考に褒められ、朱兎は「そだねー」と笑って受け流す。学生の頃は自分もかなりのポジティブ思考だったし、それを周りに羨ましいと言われたこともあったっけ、と思い出す。
続けてウィッグを選び出したプロ野球選手の横顔はとても楽しそうで、社会人になると同時にどこか物足りなさを感じ出した自分との温度差を実感してしまう。仕事も趣味も全力で楽しめている緋馬は、いつだって輝いているように見えるのだ。
朱兎は無意識に左足を摩っていた。自分も大学時代のケガがなければ、今頃違う人生を送っていたはずだ。ただでさえ選手生命は短命。それは新体操も野球も同じ。ながら、一日でも長く野球を続けてほしいな、とお気に入りの黒髪ロングウィッグを手に取る緋馬の後ろ姿を眺める。
「痛むの? 足」
ウィッグを被りながら、緋馬が鏡越しに尋ねてきた。朱兎は一瞬ドキッとして肩が跳ねたが、すぐにぷるぷると首を振った。
「んなわけないじゃん。痛めたの、もう二年も前だよ?」
摩っていた手をさっと引っ込めた。恐ろしいほどマイペースがゆえに他人に鈍感な緋馬だが、不思議なもので双子というのは隠してもやはり伝わってしまうものなのだと思う時がある……。
「うーん、そっか……もうそんなになるんだねぇ……」
ドルフィンズの寮に入っていた緋馬は、朱兎が靱帯損傷で引退を選んだ時を知らない。シーズン終板の大事な時期だったのと朱兎の落ち込みように配慮し、両親は緋馬には伝えなかったのだ。
それでも、離れて暮らす双子の妹の異変を察知したらしく、夏鶴に『朱兎、何かあった?』と電話してきたらしい。元々妹たち思いの優しい兄ではあったが、夏鶴曰く『あんな真シリアスなおにぃの声、初めて聞いたかも』とのことだった。
「朱兎さぁ、ぼくが朱兎に隠し事バレちゃうように、朱兎の隠し事もぼくにバレちゃうんだからね? 嘘はつきっこなしだよ?」
鏡の中の緋馬がジト目で睨んできた。黒髪の自分に睨まれている気分だ。
「嘘じゃないよ? 痛みはとっくにない。整形外科の先生も治ってるって言ってるし、体育だってダンスだってちゃんと教えてんだよ?」
「んー……まぁ、そうかもしれないけど……」
ウィッグを左右に微調整し、緋馬はにっこり振り返った。
「悩みがあるんなら、お兄ちゃんに話してみなさい?」
ちょっぴりキツそうな肩周りを除けば完璧に女の子。そして朱兎を知っている人が見れば、誰でも朱兎だと間違えるだろう。そんな格好で『お兄ちゃん』とか言われても……と思わず吹き出す。
「ぷははっ! 私の悩みは手のかかる兄貴がいることくらいよー」
「むー、なんだとーぉ? お兄ちゃんが心配してやってんのに、ひどいぞー」
「はいはい、あんがと。大丈夫よ、痛いのは嘘じゃないから」
朱兎は座ったまま足をバタつかせてみた。緋馬はそれを疑いの眼差しでじっと見つめている。「ね?」と見上げると、ちょっぴり納得のいかない顔で頷いた。
「おにぃ、今日夕飯どうすんの? 食べんなら作るけど」
扉の向こうから夏鶴が問いかけてきた。「たっべるー!」と超絶ご機嫌でリビングへ駆け出す緋馬。妙なところで鋭いツッコミを入れられていた朱兎はホッと胸を撫で下ろした。
「痛いんじゃ、ないんだよねぇ……」
独りボソッと呟き、左足首を摩る。触れても、他人の足のような足首を……。
朱兎は時々、左足首の感覚がなくなる時がある……。
当時、ケガ自体は三ヶ月もあれば治る程度だと説明された。選手として復帰することも難しくないと言われた。
しかし、痛みが引くに連れ、左足首の触覚が鈍くなっていった。リハビリを始める頃には上手く動かすことすらできなかった。全く言うことをきかなくなってしまったのだ。
だが、医師にそれを伝えても、そんなはずはないと言う。精神的なものではないかと。大きな大会を逃したストレスで自律神経が乱れているだけかもしれないから、そのうち触覚も動きも取り戻すよと言われた。
家族はみんな、痛いから歩けないのだと思っていた。国際大会の選考会でやらかしてしまったショックで引き籠もっているだけだと思っていた。腫れ物に触るように接していた。
小学一年生で始めた新体操。いくつもの大会でメダルを貰った。中学も大学も推薦で入った。天真爛漫で元気が取り柄の朱兎が、『もう私には新体操はできない』と号泣しながら引退宣言した際、両親も夏鶴もかける言葉が見つからなかった。
そして大学を辞めると相談した際、恩師がやれることをやればいいと講師の道を進めてくれた。『自分が輝けなくなったのなら、今度は輝かせるほうに回ればいい』と導いてくれた。
笑顔を取り戻すには時間がかかったが、前向きになるにつれ、朱兎の足は少しずつ触覚も動きも元に戻ってきた。
だがそれも常にではなく、たまに言うことをきかなくなる。それは決まって、独りで悩んでいる時だ。左側だけ、まるで踝から先がマネキンの足のように感じてしまうのだ。
例外で、緋馬と二人きりの時にも起こることがある。それは双子の片割れだから『独り』と脳が認識しているのか、あるいは『羨望』なのか……。
外出先でこの症状は出ないし、もう家族に心配はかけたくなかった。だから誰にも明かしていない。近いところまでツッコんできた緋馬にでさえ、バレるまでは言わないつもりだ……。
「よしよし、そろそろいいかな……」
摩っていた患部をつねってみた。感覚が戻っている。左足に体重をかけ、「よっこらしょっと」と立ち上がる。違和感は全くない。
キッチンを覗くと、ハンバーグをぺちぺちしている料理中の夏鶴にちょっかいを出した緋馬が蹴りを入れられていた。しょんぼりリビングへ戻ってきた緋馬と目が合い、「怒られてやんのー」と指指して笑う。
「おにぃもおねぇもうっさい。おとなしく待ってないと生焼け食わせるぞ?」
「えー! ヤダーぁ!」
示し合わせたように、双子が声を揃えた。ダブルのボリュームに夏鶴がしかめ面する。
「うっさ。んじゃ黒焦げな」
「えー! ヤダーぁ!」
無視して黙々とハンバーグを作る夏鶴。双子は邪魔にならないよう、こそこそ小声でケンカを始める。
「ねー、それって私に買ってきてくれた服なんでしょー? ソースでも付いたらやだから、早く脱いでよー」
「そうだけど、服なら他にも買ってきたからそっち着なよぉ。ぼくだって帰ってくるまで頑張って我慢してたんだぞー?」
「他のとかそうじゃなくて! 汚したらやだから脱いでって言ってんのー!」
「いーじゃんかー! ぼくが買ってきてあげたんだからーぁ! 人の物欲しがるなよー。子供かっ」
「むーっ、子供はそっちでしょーがー!」
ついつい徐々に声がデカくなり、またも「うっさい!」と末っ子に叱咤される双子。
この後、ハンバーグこそジューシーにおいしく焼き上げられていたが、双子の苦手なニンジンをたっぷり盛り付けられ、しゅんと尻尾を垂らしながらの夕食になったのだった。
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ここでおさらい、花岡兄妹のぷロフィールです。
★名前:花岡朱兎はなおかしゅう
誕生日:1月7日
血液型:A型
身長:152cm
性格:ハイテンションで快活
学歴・職歴:星花女子学園高等部→県立体育大学→星花女子学園保健体育科非常勤講師
趣味:身体を動かすこと全般
特技:バク宙
チャームポイント:さらさらの栗毛
備考:花岡家の長女。双子の妹。
幼い頃から身体を動かすことが大好きで、小学生から新体操を習い始める。大会では表彰台の常連。星花女子学園からのスポーツ推薦で中等部・高等部へ。
在学中も新体操一筋だったため、お勉強のほうはさっぱり。補修・追試の常連でもある。
自称『制服を脱いだ女子高生』で、ノリがよくテンション高め。生徒たちには同級生のような扱いをされている。
★名前:花岡緋馬はなおかひうま
誕生日:1月7日
血液型:A型
身長:162cm
性格:のんびり屋でマイペース。
学歴・職歴:同県内にある中高一貫の男子校→ドルフィンズ(ドラフト2位)
趣味:女装
特技:双子の妹よりかわいく着こなすこと
チャームポイント:八重歯
備考:花岡家の長男。双子の兄。
幼稚園の頃に朱兎の服を着て知り合いをびっくりさせようといたずらしているうち『朱兎よりぼくのほうがかわいい!』と女装に目覚める。
男の子らしくなってほしいと願う父に騙され、小学校入学と共に野球を始めるが女装癖は変わらず。のちに『家の中だけ』という条件で妥協してもらった。
ポジションはショートストップ。小柄だがチーム1の俊足とジャンプ力で鉄壁の守備が評価されている。ホームランバッターではないが、俊足を活かした二塁打と盗塁が売り。
★名前:花岡夏鶴はなおかなつる
誕生日:7月2日
血液型:AB型
身長:167cm
性格:クール
学歴・職歴:星花女子学園高等部→大学(男装デートクラブでアルバイト中)
趣味:ゲーム全般、アニメ観賞、コスプレ
特技:料理、裁縫
チャームポイント:切れ長の目と銀縁メガネ
備考:花岡家の次女。双子より4歳下。
花岡家で唯一落ち着きのある末っ子。常に冷静でツッコミ役。口は悪いが的確なことを言うので双子は逆らえない。普段はほぼ無表情なのに、双子がケンカを始めるとにやにやしている。
4歳下でありながら身長は小学生の時にすでに双子を抜かしていた。兄の外出用の服をおさがりで着てるうち、男装を好むようになった。それ以来『なっちゃん』と呼ぶと睨まれる。
運動は苦手ではないが好きではない。専らインドアでオタク器質。バイト先ではクールな接客が人気らしい。よく貢ぎ物のお土産を持って帰ってくる




