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11月 第2日曜日 その3

 


 その後、田辺の一声で紅白戦が始まった。先程まで人ごとで盛り上がっていた部員たちも一転、戦うスポーツ少女の顔になる。リトルリーグよりもやはり迫力もスピード感もある星花女子ソフトボール部。一柳さつきは食い入るようにベンチで見つめていた。

 集中して見学していたところで、さつきのスマホがバッグの中でぴこっと鳴った。『三百円を自動受け取りしました』とメッセージが表示されている。兄からの送金が今頃届いたのだ。あまりの遅さに毒突きたくなったところで、「さーつきちゃんっ」と朱兎に呼ばれた。

 一人分空けて座っていたさつきと田辺の間に、朱兎が割り込んで座った。「ほいっ」と温かい物を握らせてきた。缶のホットココアだった。

「えっ、いいんですか?」

「しーっ! 今日は特別だよ? みんなには内緒ね? バレたらみんなにおごらなきゃいけなくなるから」

 そう耳元で囁く朱兎のジャージからは、ほんのり甘い柔軟剤の香りがした。交代のタイミングで持参の水筒を口にする部員たちを見て自分も喉の渇きを感じていたのだが無一文ゆえに、もう少しの我慢我慢……と言いきかせていたところだった。

「ありがとうございます! 遠慮なくいただきます!」

「うん、どうぞどうぞ」

 自分だけ特別……とニヤけ顔が隠せぬまま、ぷしゅっとプルタブを押し開けた。普段、ベンチではミネラルウォーターかスポーツドリンクしか飲まないので、さつきにはホットココアはいつもより甘く感じた。だが、これもきっと朱兎との良い思い出になりそうだ。

「あの、朱兎さん」

 さつきは一気飲みしたココアの缶をべこっと凹ます。大きな外野フライに歓声が上がる中、朱兎は打球を目で追ったまま「どした?」と返事した。

「今日、お店に行っていいですか?」

「え? あー、写真? うん、来るのは全然いいんだけどさ、ごめんけどもうちょっと待っててくれる? ママがまだプリントアウトしてなくってさ」

「いえ、やっぱり写真はいりません」

「え、いらないの?」

 朱兎が拍子抜けした表情で振り向いた。「チェンジー!」と審判役の声がグラウンドに響く。さつきは頷き、真っ直ぐどんぐり目を見つめ返した。

「お店に行けばいつでも見れますし、ここに来れば本物に会えますし」

 言ったはいいが、頬がちょっぴり熱くなっていくのを感じた。ちゃっかりぴとっと密着し、べこべこに凹んだ缶に視線を落とす。意図的にくっついてきたとは気付かない朱兎は不思議そうに「んーまぁ、どっちでもいいけど……」と呟いていた。

 朱兎の困惑は当然だ。欲しいとねだったりいらないと断ったり、自他共に認める喜怒哀楽の激しさに加え、やはり自分はどうしても子供っぽいのだと、いや、子供なのだと痛感してしまう……。

 幼い頃から、欲しいものは何でも自力で手に入れてきた。実力は努力で積み上げてきた。勉強もソフトボールも、好きだから頑張ってこれた。

 だから、駄々っ子のように求めるのではなく、これまでのように自分の頑張りで手に入れようと決めたのだ。

 写真を眺めて満足するのではなく、この眩しい人魚姫の近くにいられるよう努力しようと決めた……。

 だが、そんな思い切りのいいさつきにも、まだ一つだけモヤつきが晴れないことがある。

「あの、朱兎さん? 夏鶴さんって方は、ほんとに彼氏さんじゃ……」

 おずおず切り出すさつきに、朱兎はぷっと吹き出す。

「あはっ、やだなぁもー。夏鶴は妹だってばぁ。あぁ見えて女の子! 妹だから許せるけど、あんなのが彼氏だったらとっくに別れてるよー」

 言って朱兎はジャージのポケットからスマホを取り出し、「ほら」と一枚の画像を突きつけてきた。さつきは覗き込むついでに、どさくさに紛れて朱兎の肩に頬をくっつけた。

 画像には三人の少年少女が並んでいた。左側には学ラン姿で妙なポーズをとっている花岡緋馬。真ん中には、星花女子学園の制服を着てそっぽを向いている無愛想なメガネ女子。右側には同じく星花女子学園の制服を着た朱兎が変顔で映っていた。背景には『喫茶はなおか』の看板が見える。

「夏鶴の中等部入学式の日に撮ったやつ。全員面影あるでしょ?」

「かわいいっ! 面影どころか……花岡選手も朱兎さんも変わってなさすぎじゃないですか? 昨日撮ったって言われても信じますよこれ」

「えへへっ、高二だよこれー。六年前だよー? 照れるなぁ」

 ついつい双子に目がいってしまったが、そっぽを向いている少女もほとんど変わっていない。まさしく先日会ったイケメン彼氏もどきだ。こうして見るとスカートに違和感はあまりないが、現在の姿にスカートは全く想像がつかない。

「夏鶴は小学校高学年くらいから緋馬のおさがりばっか着ててね。中学入って制服着るのめっちゃイヤがっててさぁ。記念写真撮るのにご機嫌斜めだったからうちらが笑わそうとしてたわけよ」

 当時を思い出したのか、朱兎は楽しそうに笑い出した。兄妹仲が良いらしい。さつきも同じく兄と妹がいるが、仲は良くも悪くもない。いれば話はしても、一緒に遊んだり出かけたりという記憶は、せいぜい小学校低学年だ。朱兎と仲の良い兄妹がちょっぴり羨ましくなった。

「これで信じてくれた?」

「はい、早とちりしてすいません……」

 勘違いの恥ずかしさより安堵が優るさつき。「よかった!」と朱兎がスマホの画像アルバムを閉じようとした。その瞬間、とんでもないものがさつきの視野に飛び込んできた。

「ちょっ、ちょっと待って朱兎さんっ!」

 さつきはとっさに、スマホをポケットに戻そうとした朱兎の腕を掴んだ。急に大声を出され、朱兎は「え、え? 何っ?」と怯える。

「何ですかっ? 今の、端っこに見えた画像、何ですかっ?」

「えっ? 端っこ? あ……っ!」

 初めは何のことだか分からないといった朱兎の顔が、みるみる青ざめていった。心当たりを思い出したに違いない。さつきはすかさずツッコんだ。

「いいいいいいいいいい、今の、朱兎さんと本郷選手ですよねっ? ドルフィンズの本郷選手ですよねっ? しゅ、朱兎さん、ほ、本郷選手と……」

「わーわーっ! ちちち違う違う!」

 元々声のデカいさつきの驚愕の声が、攻守交代の騒音に紛れる。さつきと田辺の間に割り込むように座った朱兎は、さつきがぐいぐい迫るので田辺側にもたれる形になっていく。田辺が「ん? 花岡先生、どしたんや?」と振り向いた。

「ななな何でもないですよ田辺先生! ちょっとさつきちゃんがおしっこみたいなので、トイレ案内してきますねー」

 早口で言い切ったかと思うと朱兎はすくっと立ち上がり、「はいはーい、トイレねー、トイレー!」とさつきを引きずった。

 グラウンド脇の手洗い場まで来ると朱兎は辺りに人がいないのを確認し、がっしり握っていたさつきの腕を放した。小走りだったにも関わらず、お互い顔色が悪い。

「朱兎さん……夏鶴さんが彼氏さんじゃないことは分かりました。でも、さっきの写真はどう見ても……」

 さつきが目にしたのは、おそらく自撮りなのであろう男女のどアップキスシーンショットだった。

 男性のほうは間違いなく本郷蝶太郎投手。愛おしい物に触れるかのように、そっと相手の頬に手を添えている。

 問題は女性のほうだ。深紅の唇を尖らせ、蝶太郎の唇をおねだりしているように見える。横顔だが、つやつやの栗毛といい伏せた長い睫毛といい、どこからどう見ても花岡朱兎である。

「違う違う! あれは私じゃないよっ?」

「いえっ! あれはどう見ても朱兎さんと本郷選手です! あたしの動体視力は見間違えません! そうなんですか? 朱兎さんは本郷選手と……」

「違うってばぁ」

 さつきがずずいっと身を乗り出すと、朱兎は一歩二歩後ずさりながら顔の前で両手を振る。相当慌ててはいるが、朱兎の表情に嘘はなさそうだ。さつきは更に問い詰める。

「じゃあ誰なんですか? お兄さんとでも言うんですか? バッチリお化粧してるじゃないですか! それとも、お兄さんがお化粧してるとでも?」

「だ、だから……合成よ! 合成合成! ごーせーしゃしんー! い、今時リアリティのある写真作るのなんて簡単でしょー?」

「……合成……?」

 さつきの動きがぴたりと止まる。朱兎の言う通りだ。今時、スキャンダルの捏造写真などあふれかえっている。いくら動体視力がいいとはいえ、見えたのは一瞬。じっくり見てもいないのに疑うのは、またも早とちりなのでは……と興奮が急にしぼんでいった。

 ばたばたしていた両手を下ろし、朱兎が深いため息をついた。心から安堵しているように見える。

「し、信じてくれた……?」

 朱兎が恐る恐る問いかけてきた。年上ながら、上目使いがいじらしい。もし恋人同士なら美男美女カップルだが、このかわいらしい教師が誰かのものだと思いたくない自分が、合成写真に違いないと頷かせた。

「もちろんです! 誰かがいたずらで作った画像なんですよね! 朱兎さんと本郷選手なら、きっと美男美女だろうなーって作ってみただけなんですよね!」

「そ……そうなのそうなの! いやぁかわいいって罪だよねぇ! あは、あはははは……」

 多少ボー読みにも聞こえたが、憧れの人が自分に嘘をつくわけがない。さつきもつられて笑った。

「あははっ。もー、そんな紛らわしい写真、どうしてとっておいたんですか? そんなんが流出したら、それこそスキャンダルですよ。あたしだから信じましたけど、世間はきっと信じてくれませんよ。日本中の本郷ファンを敵に回すことになりますよ?」

「だ、だよねー……。危ない危ない。ほんと、なんでとっといたんだろ? 消しとかなきゃねー」

 言って朱兎は再びスマホを取り出し、さつきに背を向けた。急いで画像を削除しているのだろう。数秒後、にっこりと振り返った。

「さっ、戻ろっか! せっかく見学に来たんだもんね。おっと、ほんとにお手洗いは大丈夫?」

「はい、大丈夫です。今の件も、誰にも言いませんから安心してくださいね!」

「あ……うん。ありがと」

 一瞬、朱兎の笑顔が切なく感じたのは見間違いだろうか……。すぐに踵を返したので、さつきも後に続いた。

 二人の内緒事がどんどん増えていく。さつきはそれが嬉しかった。ベンチへと戻る朱兎のきゃしゃな背を追いながら、秘密の共有に優越感を覚えていた。

 その後、朱兎はベンチより少し離れたところで立ったまま観戦していた。時折ハイタッチを求める部員を笑顔で迎えていたが、さつきが試合に夢中になっているうちに姿が消えていた。

 さつきはがっかりした。せっかく三百円が送られてきたというのに、一緒にはなおかへ向かう目論見が崩れてしまったからだ。だが、ちゃんと約束をしたわけではなかったのでしょうがないしょうがないと言いきかせた。

 試合を最後まで見届け、今後の練習スケジュールを聞いた。「またいつでも来いや」と言ってくれた田辺や忍ら部員に礼を言って自転車に跨がる。

 本当ははなおかへ寄りたかったが、星花ソフト部への出入りを許可してもらえたのと朱兎との秘密ごとが増えたのとで、今日は大収穫だ。

 また会える……! さつきは考えただけで胸がぽかぽかした。どアップキスショット写真のことなど、もう半分頭にない。坂道もなんのその、力強くペダルを踏みしめ、るんるんで帰路についた。




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