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10月 第4金曜日

 


 一柳さつきは夕食後、二階の自室で宿題を済ませていた。

 勉強は苦手ではない。特に算数や理科が好きだ。土日祝日に試合が入っていても、こうして宿題は提出期限までに終わらせる。それはソフトボールに集中するためでもあった。

 だが、今日のさつきは……。

「うはぁ……。やっと終わったぁ……」

 集中力が続かず、いつもなら十分とかからない問題に二十分もかかってしまったのだ。算数の教科書を閉じ、勉強机に突っ伏した。

「おねーちゃーん、お風呂どうぞー?」

 妹が、襖の隙間からひょっこり顔を出した。頭にはバスタオルが巻かれている。さつきは「んー」と気だるげな返事をし、のそのそ身体を起こす。

「お姉ちゃん、どうしたのー? 具合悪いのー?」

「うーん、大丈夫ー……」

 教科書とノートをランドセルにしまい、だらだら立ち上がる。妹は「変なのー」と階段を駆け降りて行った。

「おーっ! ……あぁ惜しい! またこいつのファインプレイかよぉ……。まったく、このチビのジャンプ力すげぇなぁ」

 着替えとパジャマを抱え階段を降りていると、居間から無念そうな兄の声が漏れ聞こえてきた。覗けば兄はがっくりと座椅子に背を預けていた。日本シリーズ第三戦の中継が点いている。画面に目を向ければ、ちょうど花岡緋馬がショートライナーを横っ飛びでスライディングキャッチした際のプレイのスロー映像が映っていた。

「他の選手が一八〇前後が辺り前だからすげぇちっこく見えるけど、こいつ実際にさつきよりちっこいんだよな? くっそー、抜けてればタイムリーだったのに……チビのくせに生意気ー」

 廊下から覗くさつきの気配に気付いた兄が画面を指指した。八回の表が終わったところで、まだ両チーム無得点。ドルフィンズにリーグ優勝を奪われたライバルチームを応援している兄は、ドルフィンズの活躍がおもしろくないらしい。不機嫌むき出しである。

 公式選手名鑑によると、花岡緋馬は身長一六二センチ。小学六年ですでに一六四センチのさつきよりも二センチ低い。小さな身体を目一杯伸ばし華麗に裁く姿は、おもちゃを追いかけるネコのようである。

 解説者に絶賛される緋馬が、仲間にお尻を叩かれながらベンチへ戻っていく。笑顔が朱兎と重なる。本当にそっくりだ。ベランダから顔を出した時、もしも二人が並んでいなければ、イチゴパジャマを着ていたのは朱兎だと疑わなかっただろう。

「兄ちゃん、今のプレイ見たでしょ? 身体能力高ければ身長なんて関係ないじゃん。自分がまぐれで一七〇超えたからって、人の身体的特徴を悪く言うのかっこ悪っ」

「はー? まぐれじゃねーし。急に突っかかってきてなんだよ。さつきって花岡推しだっけ?」

「推しってゆーか……上手い人は全員尊敬してる。兄ちゃんも文句ばっか言ってないで、少しは研究したら?」

 一柳家には野球関係者が多いため、小さい頃から野球には縁があった。さつきがソフトボールを始めたのもそれがきっかけである。特に押しのチームなどはないが、プレイの研究に野球中継はバイブル代わりなのだ。

 二つ年上の兄も中学で野球部に入っているのだが、特に熱心に取り組んでいるわけではないので二年生も後半だというのに、未だ補欠のまま。なのに野球中継を見ても偉そうなコメントしかしないので、さつきとぶつかることもしばしばだ。

「ムカつくー。早く風呂行けよ。宿題終わったんだろ?」

「言われなくても行くよ」

 襖をぴしゃっと閉めると、「機嫌わるっ」とつぶやく声が聞こえた。さつきは早足で風呂場へ向かう。脱衣所では母が妹の髪を乾かしてやっていた。もう小三だが、末っ子はちょっぴり甘えん坊である。

 全身をシャワーで雑に流し、飛び込むように湯船に浸かる。自然とふーっと息が漏れた。

 明日は土曜だが、第五週の土日は試合が入らない限り練習はオフだ。じっとしていられないさつきにとっては、たまの休みも自主練日和。早朝はランニングをして、庭で素振りと壁当てをして、午後は……とメニューを組み立てていく。

 だが、やはり組立てにも雑念が過ぎる。宿題の最中も集中できなかったのは……。

「朱兎さんに……嫌われちゃったかなぁ……」

 つぶやいて、ぶくぶくと鼻下まで湯船に沈む。さつきは一昨日の言動を悔やんでいた。

 冷静に考えてみれば、朱兎は大人なのだ。彼氏の一人や二人いてもおかしくはない。むしろかわいい系の朱兎がモテないわけがない。

 それなのに自分ときたら、せっかく送ろうかと申し出てくれた朱兎の彼氏に嫉妬して、好意を無駄にしてしまった……。

 憧れの人魚姫を独り占めしている人がいる……。それだけで、さつきの心は張り裂けそうだった。絵本の中の人魚姫には王子様と幸せになってほしいと願いながら読み進めていたのに、いざ自分の憧れの人となると現実を受け入れたくなくて、逃げ出してしまった……。

 アイドルの熱愛が発覚して騒いでいるファンも、きっとこんな気持ちだったのだろう。初恋はまだだが、あるいは失恋するとこんな気持ちなのかもしれない……。

 さつきは急に身体が熱くなってきたような感じがして、勢いよく湯船から出た。ぬるめにしたシャワーを頭からかぶる。がしがしと乱暴にシャンプーをし、「らしくないっ、らしくない!」と雑念を振り払う。集中力の欠如とイラ立ちを洗い流したかった。

『ウロつかないでくんない?』

 ぴたっと手が止まる。何度思い出しても泣き出しそうだ。朱兎は先生をしているのだ。プロの指導者なのだ。生徒を注意する時の先生の顔だった。

 星花女子学園のグラウンドを下見に行った帰り、たまたま見かけた商店街の小さな喫茶店。花岡緋馬のパネルが目に入ったので思わず覗き込んでいたら、花岡緋馬そっくりな人が出てきた。ポニーテールを高めに結っていて、そっくりだけど女性だとすぐに気付いた。

 練習試合当日の帰り、あの日は小雨が降っていた。近くまで来たのだからもう一度喫茶店を覗いてみようと思っていたが、雨が強くなってきたので諦めて帰ることにした。

 その矢先、パーカーのフードを深く被り、足早に通り過ぎた人物を見て、今度こそ花岡緋馬本人だと確信した。前髪しか見えなかったが、特徴的な栗毛と二重のどんぐり目ですぐに分かった。

 だが、その人は女性だった。『違うよ?』と言ってフードを取った。あの時と同じポニーテールがぷるんと揺れた。とてもがっかりしたが、ソフトボールをやっているのかと聞かれ、そうだと答えれば『頑張ってね』と微笑んでくれた。

 喫茶はなおかから出てきた、花岡緋馬に瓜二つな女性……。

 忘れるわけがない。見間違えるわけがない。

 これは運命かもしれないと思った……。

 推薦のオファーをもらっている学校がいくつかあった。学校の雰囲気を偵察するのも兼ね、願書をもらって回った。星花女子学園もその一つだった。早朝のランニングがてら向かう途中、木陰でインコが羽根をバタつかせているのを見つけた。

 片方の羽根が上手く動いていなかった。飛べなくて野良ネコにいたずらされてもかわいそうだし、近くに飼い主がいないだろうかと辺りを見渡した。

 三階のベランダから、あの女性がこちらを見下ろしていた。髪を結っていなかったが、栗毛とどんぐり目ですぐに分かった。あちらも気付いてくれたらしく、大きな目を更に見開き驚いていたのを覚えている。

 やっぱり、運命だと思った。

 出会うべき運命なのだと。

 それが、どんな運命なのかは分からない。

 だけど、この縁を絶ってはならないと、本能がそう悟った……。

 花岡緋馬、本物がいた。かわいいイチゴ柄のパジャマを着ていた。あの女性のものだろう。きっと、クライマックスシリーズ真っ最中に突然帰ってきた緋馬に貸したパジャマだったのだ。女性は慌てた様子で、ここに住んでいることは内緒にしてほしいと言ってきた。

 名前を聞いた。朱兎だと教えてくれた。かわいい容姿にぴったりな、かわいい名前だなと思った。願書をもらいに走っている間、頭の中でその名前を何度も繰り返した。

 また会える気がして、気付けばその日以来、毎日はなおかを覗くようになった。しかし朱兎には会えなかった。代わりに、店内のパネルを眺めて帰った。

 パネルコーナーの中の一つ、銀のウロコを纏い、高く水面を飛び跳ねているような写真に目を奪われたのだ。

 小さい頃から憧れていた『人魚姫』を彷彿とさせる、その姿に……。

 その人魚姫が、朱兎が、試合を見に来ていた。しかも、自分に会いに来たのだと言ってくれた。なぜなんて理由はどうでもよかった。ただただ嬉しくて、やっぱり、朱兎も自分に運命を感じてくれているのだと思った。

 だが、朱兎には彼氏がいた……。

 悲しくなった理由は分からない。自分が朱兎にどんな感情を抱いているのか分からない。

 ただ、憧れがあるのだけは確かだ。あの写真がすごく好きで、ずっと眺めていたいのも確かだ。

 星花女子学園に入りたい!

 その強い思いも確かだ……。

 だが、勝手に運命を感じて、勝手に親近感湧いていたのは自分だけで、あちらからしてみれば所詮そこら辺にいるただの子供なのだ……。

「ウザいクソガキストーカーって思ったかなぁ……」

 さつきは自分の裸体をまじまじと見下ろした。身長ばかりが一丁前で、他はぺたんこのつるつる。合宿の浴場では大人顔負けのチームメイトの裸体を見かけて驚愕したこともあったが、さつきは心配になるくらいまだまだ未成熟である。

 だが、女の子である以上ムダ毛はないにこしたことはないし、胸だってデカすぎては投球時に邪魔そうだ。ある意味大人顔負けの筋肉質な自分の身体を、今のところはコンプレックスに思ってはいない。

「でも、実際クソガキだしなぁ……」

 写真はくれると約束してくれた。だが、貰ってしまえば、もう会いに行く理由がなくなってしまう……。

 自分がどうしたいのかも分からず、しょんぼりコックを捻る。勢いよく吹き出してきたシャワーが思いのほか冷たくて「ひゃっ!」と叫ぶさつきだった。








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