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10月 第4水曜日 その3

 


 花岡朱兎が妹の夏鶴に連れられて店の外に出ると、窓に貼り付いていたさつきの顔がぱぁっと輝いた。

 時刻はまもなく七時半。さつきは今日も自転車に乗ってきたようだが、そもそも夕月市は自転車で行き来する距離ではない。詳しい住所は知らないが、小学生が用もなしに一人で来るなど朱兎には信じがたかった。

「さつきちゃん、なんでいんのーっ?」

「水曜は学校早く終わるから、一度家にランドセル置いてずっと星花の校門で出待ちしてたんです! でも朱兎さん、六時過ぎてもぜんっぜん出てこないから警備員さんに聞いたら『花岡先生は講師で他のお仕事もされてるから、今日は五時間目で帰られましたよ』って教えてくれて」

 さつきにはいつも驚愕させられる。扉はすぐそこなのに、盛り上がるおっちゃんらの笑い声が遠くに感じた。

 朱兎の頭の中で、消化しきれない情報がぐるぐると駆け巡る。小学生相手だからって、外部に勤務形態を教えるとは……。

 いやいやいや、今はそれ以前に……。

「な、なんで出待ちなんかしてたの?」

「なんでって、会いたかったからに決まってるじゃないですか!」

 夏鶴が冷ややかな視線を向け、ぼそっと「おねぇ、ロリコンだったのか……」と呟いた。言い捨てて立ち去ろうとしたので、「違ーう!」とがっしりと片腕をロックする。そんなやりとりで、さつきの視線が初めて夏鶴に向いた。

「かかかかか彼氏さんですか! 朱兎さん、彼氏いらっしゃったんですか!」

 腕を引き抜こうと必死になっていた夏鶴が動きを止め、さつきに向かって「そ」と頷いた。にやにやしている。双子の兄妹喧嘩を眺めている時の楽しそうな顔だ。

「違う違うっ! こら夏鶴っ、面倒くさい誤解を植え付けるんじゃなーい!」

「違うんですか! じゃあなんですか、彼氏でもない殿方と腕を組むんですか朱兎さんはっ」

 さすが小学生。当たり前だが、発想がピュアだ……。夏鶴が男装妹であるなど予想だにしていないらしい。まぁ女装兄も男装妹もいるのは朱兎くらいだから致し方ない。

「んじゃ俺は先に帰って風呂入ってるから、おね……朱兎も遅くならないうちに帰ってこいよ?」

「うきゃー! どどどどど同棲ってやつですか? お付き合いしていない殿方と一緒に住んでらっしゃるんですか、朱兎さんはー! やらしいっ、やらしいです朱兎さん!」

「お嬢ちゃん、朱兎は料理も洗濯もできない女だからやめときな? 俺がいないと何にもできないんだ。下着なんて畳まずにぐちゃぐちゃでしまうしな」

「そそそそそそんなぁ……。朱兎さんの、朱兎さんの……」

 白目を剥きそうな勢いで、金魚のように口をぱくぱくさせるさつき。隣で夏鶴が小刻みに震えている。笑いを必死に堪えているのだろう。ほとんど事実なので全否定はできないが、小学生をからかうにもほどがある。

「違う違うっ。この子は妹! うちの妹だってばー」

「嘘です! だって全っ然似てないし、どう見たって殿方じゃないですか!」

「似てなくたって妹なんだってば! あー、もうっ!」

 さつきは朱兎の話しも聞かず、外国人のようにオーバーリアクションで「酷いです、嘘までつくなんて酷いです!」と両手をバタつかせている。朱兎は途端に面倒くさくなり疲労感に襲われた。

「……いいよ、じゃあ嘘つきで。だったらもう、嘘つき女の周りウロつくのやめてくれない?」

 指導者の顔になり、きっぱりと言い放った。するとさつきの動きがぴたりと止まる。

「ウロつくだなんて……」

「そうでしょ? ウロついてるじゃない。職場で待ち伏せして、いないの分かったらここまで来て。この前なんて、私がいるなら星花に決めるとか言ってたし……。会いに来たって言ってたけど、何が目的なわけ?」

「それは……」

 さつきがしゅんと俯いた。夏鶴は無責任に「泣かすなよ?」と耳打ちしてきた。ちょっとキツい言い方だったかなとも思ったが、この際はっきりさせるつもりだ。

 しばらく沈黙が続いた。果物屋のおばちゃんが、閉店準備をしながらこちらを見ている。背後では薬局がシャッターをガラガラと閉める音がする。それでも、朱兎はさつきの口が開くのを待った。

「写真を……」

 さつきは俯いたまま、先日の試合で張り上げていた声とは全く違う、消極的な少女のような声でぼそりと呟いた。

「写真? ……緋馬の写真が欲しいわけ?」

「そうじゃなくて……あの写真を貰いたくて……。あの『人魚姫』みたいな写真を……」

 朱兎と夏鶴は顔を見合わす。お互い『人魚?』とハテナ顔だ。「あれです」とさつきが店内を指指した。朱兎はさつきと並び、ブラインドの隙間から指指す先を辿る。

 店内は相変わらず居酒屋状態。その奥には親バカパネルコーナーがある。緋馬のサインと写真、隣には朱兎の新体操選手時代の表彰状と大会の写真が並んでいる。緋馬のものではないとなると、朱兎の写真しかない。

「水面から飛び跳ねた人魚姫みたいって思ったんです。すごく素敵な写真だなーって……。あたし運動は何でも得意だけど、泳ぎだけは全然ダメなんです。だから小さい頃読んだ『人魚姫』がすごく好きで……」

 さつきが言っている意味がようやく分かった。ジャンプしてボールを掴む途中の写真だ。海老反りで宙に浮いているし、衣装のスパンコールがきらめいてウロコのようにも見えるので、言われてみれば人魚に見えなくもない。自分では当たり前の光景も、他人の目にはどう映っているのか分からないものなのだな、と思った。

「私が人魚姫……?」

 夏鶴が背を向け、くくくっと笑っている。さつきにバレないように肘鉄をかましてやった。

「ならなくたっていいじゃない。あなたは今でも充分すごい選手だもん。この前だって、サードライナーをジャンプして取ってたでしょ?」

 さつきはぶんぶん首を振る。そしてようやく顔を上げた。

「野球選手は確かに憧れです。でも、あたしは朱兎さんのような人魚姫にはなれません。あの写真をお守り代わりにもらえたら、もっと高く飛べる気がするんです。それこそ、花岡選手に負けないくらいに!」

 真っ直ぐ見つめられて思い出す。朱兎自身、褒められても褒められても満たされなかった頃のことを……。

 種目は違えど、緋馬とは小さい頃から何でも競ってきた。どちらが速く走れるか、どちらが高く飛べるか、どちらが遠くまで飛ばせるか、などなど。幼稚園までは互角だった争いも、成長するに連れ、緋馬の勝利が多くなっていった。

 負けず嫌いな朱兎を慰めてくれたのはいつも母の鷹枝だった。『ひーくんは男の子だからねぇ。女の子のしゅーちゃんが負けちゃうのはしょうがないことなのよ? でも、しゅーちゃんは新体操ならひーくんに負けないでしょ?』

 そんな慰めは納得できなかった。同じ顔の同じ歳の兄に負けるのは悔しくて悔しくて仕方がなかった。男の子はずるいと思った。自分も男の子に生れていたら、緋馬に負けることはなかったのにと母に八つ当たりしたこともあった。同級生の女の子には負けたことがない朱兎の、一番のライバルは緋馬だった。

 どんなに褒められても、自分の手の届かないものがある。なりたくてもなれないものがある。それは自分が一番認めたくなかったことで、諦めた時はすでに中学三年生にもなっていた。

 ないことを認め、できることを伸ばす。その考えを諭された時、初めて自分の強みを活かしていこうと思えた。負けを認めることも必要なのだと知った。

 超えなければならなかったのは緋馬ではない。自分に足りなかったのは『自分の弱点を認める強さ』だったのだ。

 気付いたのは遅かったけれど、それ以来、朱兎はより上達していった。ないものねだりはやめた。高校に入ってからは、個人種目ではほぼ負けなしだった。負けた日はくよくよするのをやめ、どうしてあの子に負けたか、何が足りなくて何を伸ばせばいいかを研究した。

「あたしは人魚姫にはなれないんです。野球選手とは違う『憧れ』なんです。だから朱兎さんの人魚姫みたいなあの写真がほしいだけで……」

「わわわわわ分かった! 分かったからそんなに人魚人魚って言わないで? ね、ね?」

「どうしてですか? あれはどう見てもにん……」

「分かったってばぁ! あげる、あげるからっ!」

 顔を真っ赤にしてさつきの猛攻を制す。腹を抱えて笑っている夏鶴の足を踵で思いっきり踏んでやった。さつきはつぶらなお目々をきらきら輝かし、ばふっと朱兎に抱きついてきた。

「どわっ!」

「やったー! くれるんですかっ! ありがとうございます! やったー、やったー!」

 あまりのハグの力に「痛いっ、ギブギブ!」とさつきの背を叩く。年齢的には子供だが、体格は朱兎より大柄だし、上腕筋も背筋も現役時代の朱兎の比ではない。

 視野の端に、スマホを構える夏鶴の姿が入った。「日本シリーズよかおもしれぇな」と撮影している。そんなことはおかまいなしで、わふわふすりすり頬ずりしてくるさつき。

 まるで、人なつっこい大型犬である……。

「嬉しいのは分かったから! 苦しい、苦しいから放してーっ」

「あっ……ご、ごめんなさいっ!」

 我に返り、さつきはぱっと離れた。今更照れくさそうにぽりぽり頭をかいている。小型犬にはもうちょっと自分の力を制御して接してくんないかな……と咳き込む朱兎。

「でも見ての通り今日は無理。ママには頼んでおくよ。だからあげるのは今度ね?」

「はいっ! また会いに来ます!」

 びしっと背を伸ばし、すっかりスポーツ少女の顔に戻った。ころころ変わる表情に、朱兎のほうは全くついていけてない。よく分からないが、元スポーツ少女としては現役が頑張ってくれるのなら写真くらいいっか、と自分を納得させる。

 ふと夏鶴の姿がないことに気付いた。撮影に飽きていつの間にか帰ったのだろうか? ときょろきょろ見渡していると、カランコロンとベルを鳴らし店の中から出てきた。

「お嬢ちゃん、送ってってやるよ」

 夏鶴は人差し指を立て、くるくると回しだした。その先には車のキー。父の車ではあるが、夏休みに免許を取得した夏鶴もたまに運転している。めんどくさがるのであまり出してはくれないが、免許のない朱兎を迎えに来てくれることもある。自分から申し出るとは非常に珍しい。

 だがお嬢ちゃんと呼ばれたのが気に入らなかったのかそうでないのか、さつきはじろりと夏鶴を見上げた。兄妹の中で一番背が高い夏鶴は一六七センチ。見た感じ、さつきより若干高い。

 真顔で返事を待つ夏鶴。兄にも姉にも優しくない妹が珍しく親切ですねーと、今度は朱兎がにやつく番だ。

「結構です! いくら朱兎さんの彼氏さんといえど、知らない殿方の車に乗るほどおバカじゃないので!」

 今にも牙を立てそうなさつき。敵意むき出しである。「あっそ」と簡単に引き下がろうとする夏鶴を制し、朱兎は二人の説得に入った。

「今日はもう遅いから、夏鶴に送らせて? そのほうが私も安心だし、それに夏鶴は彼氏とかじゃなくていも……」

「イヤです! 朱兎さんの頼みといえど、あたしはチャリで帰ります!」

「いやいや、チャリはうちに置いといていいから、今日は危ないから車で帰って? ね? こいつ、口は悪いし無愛想だけど、優しいとこもあるんだよ?」

「むきー! 朱兎さんはそんなにその方を信頼しているんですか? そんなに、そんなにその方のことが……うわぁぁぁん!」

 さつきは勢いよく自転車にまたがり、ものすごい勢いでこぎ出した。あっという間に小さくなっていく背を、二人はハニワのような顔でぽかんと見送るしかできなかった。

「……おねぇ」

「……なんでしょーか?」

「子供の扱いってムズいな」

「あんたがややこしくしたんでしょーがーぁ!」

 ぽこんっとげんこつを喰らわすと、「うわっ、家庭内暴力反対!」と笑いながら店内に逃げ帰った。兄と妹のおかげで、厄介ごとがますますややこしくなっていく。朱兎は店先のかぼちゃの置物にもぽこんっとげんこつを喰らわし、「子供かっ」と八つ当たりするのだった。






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