10月 第4水曜日 その2
その夜、花岡朱兎は喫茶はなおかにいた。
今夜は日本シリーズ初戦。まもなくスターティングメンバーの発表というところで、父の虎吉が厨房のテレビをカウンター上に乗せた。客席には商店街の『花岡緋馬応援団』と、常連のおっちゃんらが数名。母の鷹枝はいそいそと『closed』の札を扉にかけた。
野球に全く興味のない妹の夏鶴は「結果だけ教えて」とバイトに出かけた。せめて応援メセージだけでも送ってあげれば? と言っても「気が向いたら」とそっけない。
そういう朱兎もまだ送ってはいなかった。日本一を決める初戦の前だ。スマホなど手元にないだろうが、気持ちだけでもと短くまとめて送信した。
『うさぎ:先手必勝ー! エラーだけはしないでねー』
思いのほか、すぐに既読がついた。おいおい、と思っているとシュポッと返事が返ってきた。
『花岡緋馬:しないよー。ぼくを誰だと思ってんだー? ばーかばーか』
『うさぎ:子供かっ』
相変わらずいつもの緋馬である。心配はしていなかったが、緊張もしていないようだ。むしろ両親のほうが手に汗握り、わたわたと中継に備えている。
「朱兎もこっち来たら?」
二人席で寛いでいる朱兎に、鷹枝が手招きをした。おっちゃんらと虎吉が並ぶカウンター席をぽんぽん叩いている。
「ううん、大丈夫ー」
鷹枝に首を振り、朱兎は再びスマホに目を落とした。続けて画像が送られてきた。本日の先発、エースピッチャーの本郷選手の投球練習画像だった。
本郷蝶太郎。ドルフィンズの高身長イケメンエースぴっちゃー。緋馬と同期入団のドラフト1位。蝶太郎は大卒選手なので緋馬より四つ年上。今シーズンは十六勝を上げており、ドルフィンズのリーグ優勝に大いに貢献した選手であり……。
花岡緋馬の恋人でもある……。
緋馬の女装癖は花岡家内での極秘事項だが、緋馬が本郷選手の恋人だというのは、双子の妹である朱兎しか知らない超極秘事項。いくら両親といえど、息子が蝶太郎と付き合っているなどと知ってしまったら……卒倒するか、一瞬にして白髪になってしまう。
双子というのは不思議なもので、口にしなくとも通じる時がある。蝶太郎と付き合いだしたことは、緋馬の言動でなんとなく感じてしまったのだ。元々隠し事は下手くそな兄ではあったが、さすがに同性の恋人ができたことは朱兎にさえ明かしていなかった。
昨年のシーズンオフに帰ってきた際、『もしかして、本郷さんと付き合ってるでしょ?』と鎌をかけたところ、やはり他には隠せても双子の妹はカン付いてしまうのだと観念し認めたのだ。
送られてきた画像は、雑誌記事のように上手く撮れている。だが、試合前に恋人の写真をこっそり撮影するなど緊張感の欠片も感じられない。まぁそこが緋馬らしいなと朱兎は苦笑し、『本郷さんのお尻見ててエラーしたとかやめてよ?笑』と返信。
『花岡緋馬:朱兎のえっち! んなことあるわけないじゃーん!』
ぷんぷんスタンプも返ってきた。実際、付き合い立ての頃に一度だけ、それが理由でエラーしたことを曝露してきたくせに……と呆れる。緋馬のショートというポジションからは、ピッチャーのぷりケツがよく見えるらしい。……知らんけど。
『うさぎ:とりまケガしないでー』
『花岡緋馬:おっけー! がんばるー』
緋馬はいつもひょうひょうとしているのでこれが通常運転。何も問題なさそうだ。勝っても負けてもにこにこしているので、ドルフィンズファンの中にはアンチもいる。それも特に気にしないらしい。要は図太い。
丸っこいフォルムが愛らしいウサギのキャラクターの『ファイト』スタンプを送り、スマホを閉じた。カウンターに座る両親とおっちゃんらが拍手をし出した。いよいよスターティングメンバーの発表だ。
打順の一番目に『ショート花岡』の表示。カウンター席がわっと湧き立ち、虎吉は得意気に「よーしよしよし!」と頷いている。鷹枝は「ひーくん、ファイトー!」と画面に向かって手を振った。緋馬には見えないっつーの……と心の中で思いつつ、そんな大興奮の両親の背を微笑ましく見守る朱兎。
試合はドルフィンズの打席爆発で、五回終了時点ですでに八対〇と一方的な展開。緋馬も内野安打や盗塁などで得点に貢献しているので両親たちは大盛り上がりだ。
「今日は大丈夫だろー! 母さん、ピラフでも作ってくれ」
「はいはい、お父さんはピラフね。他にピラフ食べる方はー?」
朱兎と数名のおっちゃんが「はーい!」と手を上げる。虎吉は上機嫌でおっちゃんらの差し入れの缶ビールのプルタブを引き開けた。「朱兎ちゃんも飲みなよ」と差し出されたので、一本だけいただくことにした。
次の回にも二点加え、ピラフとビールもあっという間になくなった。あとはおっちゃんらによる宴会だ。「中継聞こえなーい!」と叫ぶ体育講師の声もかき消されるほどの盛り上がりようである。
「まったくぅ、これだからおっちゃんたちは……」
ぶつぶつ言いながら手洗いに立ったタイミングで、closedの札がかかっている扉がカランコロンと開いた。
「客」
バイト用の黒服を着たままの夏鶴がつかつかと入ってきた。「おー、なっちゃんもこっちおいでおいでー!」と手招きするおっちゃんらガン無視で、窓ガラスを指指している。
だがおっちゃんらは夏鶴の声など聞こえていないようだ。夏鶴はあからさまにうんざりした表情で、すでに酒場と化した店内を見渡している。
「こっち座れば?」
なっちゃんと呼ばれたことと騒々しいのとで不機嫌になった夏鶴がくるりと回れ右しようとしたので、朱兎は慌てて引き留めた。バイトが早く終わったとはいえ、野球観戦が行われるのを知っていながら立ち寄ってくれたことが、朱兎は嬉しかった。
「こっちのテーブルおいでよ! お腹減ってない? ママにピラフ作ってもらう?」
朱兎がにこにこと腕を引くが、夏鶴はびくともしない。それどころか、顔は窓のほうを向いている。気になって朱兎もそちらに目を向けてみれば、窓ガラスに何かがへばりついていた。
閉店後はブラインドを下げている。そのブラインドの隙間から、じっと覗き込んでいる人間がいた。ガラスにぴったりと顔をくっつけているので鼻は上を向いており、開いたままの口と頬が潰れてみえる。顔以外はブラインドにより見えないので、余計に不気味だ。
「げっ! なにあれ、変態っ?」
「客……じゃねぇか……」
「いやいや、お客さんじゃないでしょー! ふつー、あんな覗き方する? 子供かっ」
鳥肌の立つ腕を摩り、再び夏鶴の手を引いた。
「それがさ、子供なんだよな」
「子供?」
言われてもう一度窓のほうに視線を向けると、ブラインドの隙間から覗く目がじろりとこちらを向いた。目が合う。その目がぱあっと見開かれた。
「うげっ、目が合っちゃったよぉ! キモいよぉ、夏鶴ぅ」
「んだから、子供だって……」
今度は夏鶴が朱兎の手を引く。「ぎゃー! やだやだぁ!」と拒むのも構わず、ずるずると外へ引きずられて行った。
「朱兎さんっ! やっぱりここにいたー!」
もうすぐハロウィン。かぼちゃや黒ネコ、魔女などの装飾で、商店街は十月の終わりを告げている。
しかし喫茶はなおかの外にいたのは、変態でもゾンビでもなく……。
「さつきちゃんーっ?」
一柳さつき、小学六年生。侍のようにバットを背に担ぐ、ただものではない『子供』だった……。




