10月 第1日曜日
急行電車の停まらないとある駅の、小さな商店街にある小さな喫茶店『喫茶はなおか』。
五十代の夫婦が経営しているこの喫茶店は、チェーン店が増え個人経営店が減る一方の昨今、昔ながらのクリームソーダやフルーツパフェが楽しめると根強いファンが多い。
アンティーク風な木造扉を開けると、小さなベルがカランコロンと鳴る。客席は右側手前に四人席テーブル席が二つ。奥には四人席が一つと二人席が一つ。左側にはカウンター席が六つと、合計二十席。
窓際は商店街を行き交う人たちがよく見える。日中は少し照明を絞っており、陽が落ちるとランプを模したオレンジ色のライトが暖かみを演出する。
営業は午前十時から午後八時。先代である七十代夫婦が開店から昼過ぎまでを、現店主夫婦が交代後から閉店までを担当している。
夏の延長のような九月が終わり、やっと秋の声が聞こえ始めた十月初旬の日曜午後三時。そんな『喫茶はなおか』の二人席に、頬杖をつきながら一人の女性が座っていた。
栗色の髪をピンク地に銀糸の入ったリボン風髪ゴムで高めにくくり、くっきり二重のどんぐり目を見開きタブレットを食い入るように見つめている。
名は花岡朱兎。この店の長女である。
「あー、もうっ! バカ兄貴ぃ、ヘタレぇ!」
朱兎の突然の叫びに、隣席の二人組おばちゃまズと、カウンター席のおっちゃんがギョッとして振り返った。
「あ……すんませーん」
朱兎はぺろっと舌を出す。右隣のおばちゃまズは「びっくりしたわぁ」とこそこそ話。左側のカウンター席のおっちゃんはげらげらと笑いだした。
「朱兎ちゃーん! 毎打席打ってりゃ、今頃アメリカに行ってるよ!」
「そうそう、あいつにはまだまだ日本で頑張ってもらわにゃ!」
更におっちゃん越しに、店主がカウンター内から加勢してきた。朱兎の父の花岡虎吉である。
「だってさぁ、最悪犠牲フライでも同点の場面で、ゲッツーとかマジ有り得ないじゃーん」
思わず言い返すが、またもおばちゃんズのチョイオコビームを感じたので朱兎はしぶしぶタブレットに視線を戻した。
朱兎が見ていたのは、ドルフィンズの野球中継。双子の兄の花岡緋馬が所属するプロ野球チームの試合である。
ちなみに「野球のルールはさっぱり」という読者様のために簡単に説明すると、犠牲フライというのはスリーアウトのうちワンナウトはカウントされるが加点できる場合がある。
一方でゲッツーとはスリーアウトのうちツーアウトが一気に取られてしまうので、ファンのため息が絶頂を迎える瞬間なのだ。
双子の兄の緋馬は高卒でドルフィンズに入団し、現在四年目。小柄でホームランこそ少ないものの、打席に立ってはせっせとヒットを打ち、塁に出てはちょこまかと俊足で相手をかき回す。守備では身長のハンデをものともしない跳躍力と瞬発力を活かし、華麗なジャンピングキャッチで内野を抜かせない。
おまけにまつ毛ふさふさの童顔で、『笑うと八重歯がたまらない』などと女性ファンからも人気が高い。
緋馬とはかれこれ四年も別々に住んでいる。花岡家兄妹は仲が良いためちょこちょこ電話はかかってくるのだが、シーズンオフもプロ野球選手はなんだかんだ忙しいので、実家に顔を出すのは年に数日だ。
中継を観ていてもあまり会わないせいか、妹の朱兎にとっては一緒に住んでいた頃のだらしないぽんこつヘタレ兄貴からなかなかアップデートされない。そうかと思えば活躍している場面では、異性の二卵性双生児なのに一卵性双生児のようにそっくりな兄が、あの兄でないように見える時もある。
それでも、小学生の頃からこつこつと頑張っていた兄がプロから指名された時には、朱兎も涙を流して喜んだ。ドルフィンズの寮に入るため家を出る時も、「絶対クビになって帰ってこないでよ?」と激励の涙を流した。
だが、プロ入りは決してゴールではない。むしろ、野球人生のスタートとも言える。プロとして体調面、精神面の健康維持は当然。そこから一流の選手として、己との戦いが始まる。ここからが本番なのだ。
大学時代の成績不振でプロ入りを諦めた寅吉は、息子が夢を嗣いでくれたことを誇らしく思っており、営業中はカウンター内のテレビでこっそり応援している。盛り上がってくると「おぉー!」だの「回れ回れー!」だのと突然叫び出す。全客が驚いて振り向くほど熱くなってしまい、母に叱咤されるのも密かなここの名物である。
「ぼちぼち行くかぁ……」
朱兎は呟き、未だ中継中のダブレットを閉じた。試合の行方は気になるが、四時からの仕事の支度をしなくてはならない。
時計を見上げた。隣には個人経営ならでは、表彰状や写真が飾られている。
ほとんどが兄のものだ。入団初ヒット時のパネルもある。ユニフォーム姿はまだ初々しく、ただにょろにょろと署名しただけのサインが右下に書かれている。
その他にもドルフィンズ優勝、盗塁成功スマイル、初ホームランガッツポーズ、朱兎にとっては兄のような兄でないようなパネルがずらり。せっかくのレトロ喫茶の味を、親バカ心が引き立てているんだか汚しているんだか、である。
そして、兄の輝かしい功績の並びに、朱兎の過去も飾られている。すぐに目を逸らし、朱兎は荷物をまとめ立ち上がった。
いつになったら外してくれるのだろう……と頭を抱える反面、自分への戒めにも残しておいたほうがいいのだろうかと思うこともある。
花岡朱兎。二十二歳。元新体操選手。二年前までは全国大会で入賞経験もある。
光と影を経験しているからこそ、兄の喜びも苦しみも手に取るように分かる。結果が出なかった時、一番悔しいのは自身だということも身をもって知っている。嫌というほど味わってきたのだ。
「行ってくんねー!」
「おう! 車に気ぃつけてなー」
「子供かっ」
キレのあるツッコミをきめ、朱兎は笑顔で父とおっちゃんに手を振る。ドアベルがカランコロンと鳴った。
扉を閉め、お気に入りの桜色のリュックを背負った。仕事用の着替えやらタオルやらタンブラーやらがずっしりと重い。一歩踏み出そうとしたところで、自転車に跨がったまま店内をガラス越しに覗く少女に気付いた。
少女の視線は壁のパネルコーナーに一直線だった。窓ガラスにかわいいお鼻がくっつきそうなほど、食い入るように覗き込んでいる。つぶらなお目々とお口がOの字に開きっぱなしだ。
はなおかにはよくある光景だ。あれを見てミーハーに入店してくる客も多い。『ドルフィンズの花岡の実家』というのを隠しているわけではないので、ファンだけでごった返す日も珍しくはない。
ただ、この少女は見る限り中学生だ。飲食するお小遣いはないので外から眺めているだけといったところだろう。
少女は朱兎の視線に気付いたらしく、一瞬振り返った。だがすぐに店内を覗き込み直す。と思ったら、またすぐムチウチになりそうな勢いでこちらを向いた。店内と朱兎を見比べているようだ。
緋馬と朱兎は瓜二つだ。親戚かと聞かれることも少なくない。なんなら朱兎が一度だけショートヘアにした際には、本人かと声をかけてきた節穴さえいる。以来、朱兎はショートにはしないし、外でパンツスタイルにはならない。
最近は間違われることも声をかけられることも少なくはなったが、二チラしてきたということは、この少女も察したに違いない。仕事前だしめんどくさいので足早に職場へ向かった。
しかしあんなヘタレポンコツ兄貴も、野球少年だけでなく少女たちにまで知られているのか……と角を曲がる際、横目ではなおかをチラ見する。少女が逆方向へペダルをこぎ出すところだった。背には侍の刀のように、金色のバットが背負われていた。