赤ん坊シンドローム
「やぁ元気してるかい? 俺様ちゃんの愛すべき、いや唾棄すべき人民諸君!」
羽衣築根は教室に入るや否や、騒音まがいの挨拶を寝ぼけた同級生たちに振り撒いた。その他大勢の唾棄すべき人民諸君は少しばかり羽衣築根に目をやって、何事もなかったかのように視線を戻した。
いや、実際問題何事もないのだから当たり前ではある。羽衣築根の荒唐無稽で厚顔無恥で豪放磊落な朝の挨拶は土日祝を除く日々の日常なのだから。
「羽衣君、今日も生き生きしてるね。今まさに命を賭してる人々に、君の生命力と臓器をわけてあげたいよ」
誰も見向きもしない羽衣築根に僕は挨拶を返す。クラスメイトの皆も薄情なものだ。言葉の如何の捉えようは人それぞれだろう。しかし彼が皆に元気よく挨拶をしているのは間違いないのだから、それに応じてあげると言うのが人情である。
「まさしく君の言う通り! 無気力と怠惰が仕事の人民達の余命を、明日どころか今日を生きるも疑わしい連中に譲渡する必要がある!」
羽衣築根は僕の席の前に陣取り、まだ姿を現さない誰かの席を奪い取って座った。
ちなみに僕の席は昨今のスマホの普及に伴い、右肩上がりに上昇中な近眼学生たち――僕調べ――にとっての特等席。自己主張が希薄な青春少年たちでも、掌が見る程度に手を上げれば教員からの注目を人締めできるVIP席だ。
慎ましく謙虚で、欲を表に出さないことを是とするのが日本人の心。世間の皆々はそんなものは希少価値だと口々に言う。しかし、その心は今の若者たちにしっかり引き継がれている。現に一つの教室に三席とないプレミアムシートを皆が譲り合い、くじ引きで最後になったこの僕に席がまわって来たのだ。
残り物には福があるとはよく言ったものだね。
「それよりも君! 君がこの世で最弱で最強だと思うものは何かね?」
それよりもとは、羽衣築根が実は超能力者で僕の考えを読み、最も教壇に近い最前列の席を取得した経緯について言及しているのではない。「明日を生きる気力もない人間」は「明日を生きたい人間」のために死ねと言った自身の言動のことを言っている。
「うーん……寄生虫?」
「有無、平民の君らしい至極真っ当で、常識内で思惑通りと言える素晴らしい回答と言えよう」
「築根くんにここまで言われるなんて、小学生のときに先生に嫌々やらされていた掃除に対してよく頑張ったで賞を貰った時と同じ気持ちだよ。でも正解ではないんだね」
「ふむ、あのような凡庸な回答で正解ではないと言い切るとはその心は最早上級国民のそれだな! だが悩める下民の君にそれ以外にはないと心に刻み込まれるオンリーワンを授けてやろう」
上がって下がったのか、下がって下がったのかわからないけど取りあえず、僕の位置づけは今下民らしい。
「赤ん坊だ。人間は皆赤ん坊の奴隷だ! この社会は赤ん坊をカースト最上位にして構築された人民の、大人による、赤ん坊のための社会だ。世間は赤ん坊のために、涎を垂らして言葉も曖昧な彼らを可愛らしい、守るべき存在だと言った事柄を一般論だとして推し進めている。
抵抗する腕力も、逃走を可能にする脚も、相手を説得する知恵も言葉もないにも関わらず! 社会の一般論と言う最強の盾により守られ! 攻撃を仕掛けるような輩には常識と言う最強の矛で蜂の巣にしてくる!」
羽衣築根は赤ん坊に親でも殺されたのだろう。
「俺様ちゃんはなりたい! 何も返さずとも強固な守りと矛を無制限で行使する権利を持った赤ん坊に!」
「残念だけどその権利は、法律的に満1歳を越えると剥奪されちゃうんだよ。まぁ幼児も十分な権力者だと思うけどね。羽衣君てきには」
「下民の貧民層である君は、全くもって貧困だな。どれだけ落ちぶれようと心だけは豊かであれ!」
羽衣築根は立ち上がり――
「故に私は本日より満一歳未満となり、幼き頃に失った権利を取り戻そうではないか! 手始めに法律を自己申告した年齢が実年齢であることを認めさせないといけないな。肉体年齢と精神年齢は切り離して考えなくてはならない」
僕は羽衣築根を見て、聞いて、妙な納得を覚えた。
「それで、羽衣君は赤ん坊の権利を手に入れて何をしたいの?」
「愚問ではあるが、下民の貧困層で怠惰な君には想像もつかないことであったか……俺様ちゃんはシコリティの高い女性の胸の中で、バブミを感じてオギャリたい!」
なるほど羽衣築根は年上の女性が好みだと言うことだけはわかった。
この物語はフィクションです。
個人の思想や活動を揶揄したり非難するようなものではありません。