睦月 2
二人を信号待ちで見かけたことは、誰にもまだ話していない。
自分の穿った考えなら二人に失礼だし、なにより勘違いで弥生の気をもませたくないと思ったからだ。
けど乙女にも心当たりがあるのか、彼はその二人の名を組み合わせた意図に気がついたようで、返答はすぐにはしてこなかった。
しばらくの沈黙。
「二人とも楽しんでいるよ」
言葉を選んだ結果なのか、返って来たのはごくごく無難な答えだった。
それが逆に事の信憑性を深める。
亮太と先生が?ありえない。
睦月は頭の中でそう否定しつつも、心のしこりに目が反らせなかった。
少なくとも、亮太が弥生に突然別れを告げたのは事実なのだ。その日にちを考えると、二人が車に乗っていたのは、亮太が弥生を振った直後だって事になる。
そんな時に二人で会っていて、本当に、先生は関係ないと言えるのだろうか?
状況だけに目を向けると、やはり二人の仲を疑いたくなる気持ちが首をもたげてきた。
「はい、出来上がり」
思考を打ち切るような明朗な声がした。
乙女の声にはっと我に返り、睦月は瞼を上げる。
初め満足げにうなずいている乙女の顔が見え、次いで式場のスタッフが感心したような視線をこちらに向けているのが目に飛び込んできた。
「うん。むっちゃん、綺麗だよ。見て見て」
「う、うん」
乙女が正面から外れた。その向こうの鏡に映っているはずの自分の姿。睦月は目を凝らし、そして驚きに息を飲んだ。
「どう?これでも『自分なんか』ってセリフ、まだ口にする?」
乙女は悪戯っぽく微笑みながら後ろに回り両肩に手を置くと、睦月のすぐ傍に顔を寄せた。
驚いた。自分で言うのもなんだが、整形でもしたように変身していた。もちろん、いい方にだ。
小さな目はアイライナーやアイシャドゥのグラデーションで少し大きく、かつ愛らしく仕上げられており、その上にのびる眉は、緩いカーブを描く優しげな印象を全体に添えていた。
頬にはそばかす何か一切見せない綺麗なベースと、頬を健康的に見せるチークが薄く施されており、今日のこの日にまさに似合いのメイクだった。
「凄い。本当に、魔法使いみたいだね」
「喜んでもらえてよかった」
乙女はそう言うと、まるで魔法をかけるようにそっと耳打ちをする。
「十津川くんを信じるのなら、彼が選んだ自分にも誇りと自信を持ちなさい。むっちゃんには他の女の子にない宝石がたくさんあるの。十津川くんはそれをしっているのよ」
「私だけの宝石?」
「そう」
鏡の中で視線を交わす。乙女はしっかりと頷いた。
しばらくの沈黙。
そのまなざしの中に、睦月は乙女の言わんとしている事を感じた。
女性の心を持ちながら、男性の体に生まれてしまった彼。
だからこそ、人一倍、美しさを追求する気持ちは強いのかもしれない。そして、彼が人間の中に見る美しさとは、たぶん体のつくりの事じゃないのだろう。
少なくとも、彼の施すメイクは、造形をいじるだけのものには思えなかった。
「幸せになってね」
優しさが心に染みてくる。
「うん。本当にありがと」
睦月は乙女の手に自分の手を重ねた。
そして、この、人を輝かせる魔法の手も、いつか幸せを掴んで欲しい。そう願ったのだった。
最後の再入場。
これさえ済めば、残された今日のプログラムは両親への手紙と花束、挨拶、見送りとだけになる。
ほとんどが立って行うものばかりだが、それでもこうやって行ったり来たりをする必要はなくなるから、もうひと踏ん張りってところだ。
睦月は乙女が出て行った後、数分控室で休ませて貰っていた。
式場のスタッフが呼びに来る。
後もうちょっとだからね、と、また固く張り出したお腹を抱えるように、手を腹に添え、前かがみの緩慢な動きで睦月は立ち上がった。
扉が開かれる。
光を浴びる。
視線が集まり、驚きに上がる小さなざわめきが耳に届いた。
乙女のおかげだ。
直輝の元までてを引かれながら聞こえてくる周囲の声は、今まで生きてきてまるで聞いたことのないような褒め言葉ばかりだった。
直輝の顔がはっきり見えてきた。
もう、随分飲まされて酔っぱらっているようだ。それでも、真っ直ぐ自分を見てくれていた。
直輝と一礼して席に着く。
やはり、誰の反応より彼の反応が気になった。
睦月は目を合わせるのが恥ずかしくて、少しうつむく。
音楽が解けるように消え、会場が明るくなってくる。
司会の進行の声が会場に響いていた。
「睦月」
直輝の声。睦月は恐る恐る視線だけを上げた。
「なぁに?」
自分を見ていた直輝は、腹に添えていた自分の手をテーブルの下で握ると
「すっげぇ、可愛い。俺、本当に幸せ者だ」
そう言って、目を細めた。
胸の真ん中から、じんわり温かいものが広がってくる。
「直輝……」
良かった。直輝のこんな言葉が聞けたなんて。
本当に……。
その時だった。睦月は、再び腹に今までにないほどの張りを感じた。
息が一瞬できなくなるほどの引きつりに、思わず顔が歪む。
「!?睦月?」
「大丈夫」
直輝の顔色が変わった。
安心させようと微笑んでみせる。が、痛みは一向に収まらない。
どうしよう、どうにかしないと。
そう思いながら、睦月はもう一方の手で腹を撫で、彼に心配をかけまいと笑顔を崩さないように表情を作る。
あと少し、あと少しで終わるのだ。
会場を見回す。
皆、時間と労を割いてここに来てくれている。
それに……。
司会の声がし、再び照明が落ちると、両親たちが立たされスポットライトがそこに当てられた。
「ここで、本日の花嫁、睦月さんにご両親へのお手紙があります」
両親に、皆に、お礼を一言でもいいから言いたい。
こんなに、こんなに自分が幸せになれたのは、色んな人の、両親の、おかげなのだから。
「睦月さん、お願いします」
司会の声にあらかじめ用意されていた手紙を手にする。
「お前、本当に大丈夫か?」
直輝が心配げに顔を覗き込みながら、立ち上がる自分を隣で支えてくれた。
大きく温かく、安心してよりかかれる手。
睦月はその手が自分の傍にある事の幸せをかみしめ、頷く。
軽く息を吐き、立ち上がった。
痛い。
こんな張り、今まで感じた事がない。
お願い、もう少し。もう少し。
睦月は手紙を手に取ると、噴き出てきそうな冷や汗を背に感じながら、向かいに座る両親の顔を見つめた。
四角くてごつい父親の顔。
まんまるで美人とは言えない母親の顔。
でも、どっちも大好きな顔。
睦月はゆっくりと力を抜くように息を吐きだすと、手紙を彼らに向けて読みはじめた。
『お父さん、お母さんへ
二人にこういった手紙を書くのは、初めてですね。でも、素直な気持ちを言葉にしようと思うので、聞いてください。
心配症でお節介やきのお母さん。
お母さんと私は、顔も性格もよく似ていると良く周りから言われます。その分、ぶつかる事も多かったですね。
生意気な私は、いつもお母さんの気も知らないで、好きな事をしてはお母さんの気を揉ませていました。本当にごめんなさい。
でも、それは決して反抗していたのではなく、今思うとお母さんに甘えていたのだと思います。
いつも、どんな時も私を心配し、味方になってくれたお母さん。これから離れて暮らすのかと思うと、甘えん坊な私は寂しいです。
とっても頑固なお父さん。
正直、私はお父さんがどうしてこんなに厳しく煩いのかよく分かりませんでした。自分を信じてくれていないのかな、とさえ思った事があります。
でも、直輝さんとの交際を認めてくれた夜、直輝さんと二人で飲みに行って帰ってきた時、私に言ってくれた言葉を覚えていますか?あの時、お父さんは真っ赤な顔で、玄関に倒れながら「やっと睦月を安心して任せられる男に会えた」そう、言ってくれましたね。
私はそれを聞いた時、お父さんの深い深い愛情を感じました。
振り返れば、お父さんはいつだって私の事を一番に考えてくれていたように思います。どの思い出の中にも「睦月、睦月」と呼んでくれているお父さんの声が聞こえてきます。
お腹の中に赤ちゃんがいると報告した時も、一番喜んでくれたのは、お父さんでしたね。
あの時は本当に、本当に嬉しかったです。
私は、こんなあなた方の娘に生まれて、本当に良かったと思っています。
私は、どんな困難も一緒に乗り越えていくお父さん、お母さんの背中を見て育ちました。
私が直輝さんとの結婚を決められたのは、そんなお二人の姿を知っていたからだと思います。
直輝さんといると、もちろん、いつも笑っていられて、幸せな気持ちになれます。でも、それ以上に、直輝さんとは辛い時、困難が訪れた時、一緒に乗り越えていける、そんな確信があります。
きっと、未熟な私達の事です。これから様々な事が起こるでしょう。でも、その時こそ手を取り合える相手と出会えたのは、お二人の姿を見てきたからこそだと思っています。
これからはお二人をお手本に、直輝さん、そして生まれてくる赤ちゃんと温かい家庭を築いていきたいと思います。
これからは毎日顔を合わせる事はなくなってしまうけど、いつでもお二人の健康を祈っています。
最後に、これまで育ててくれて、本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
睦月』
会場中から拍手とすすり泣きが聞こえた。
見ると、両親も顔を真っ赤にしている。見た事もない父親の涙。顔をくしゃくしゃにした母親の顔。
ぐっと胸にこみ上げる感情に、睦月も涙を止められなかった。
司会が花束の贈呈を告げる。
用意された大きな花束と、自分達が生まれた時と同じ重さの熊のぬいぐるみが手渡された。
よかった。ちゃんと伝えられて。
そう思って、花束に手を伸ばした時だった。
ぐらり
世界が揺れた。
周りの景色が急に遠のき、音が消えていく。
「睦月っ!?」
悲鳴の様な直輝の声がした。
でも、それも深い深い水底から聞くような声で……。
睦月はそのまま、彼に寄りかかるように倒れこんだ。