亮太 2
「ビールでも持って行きますか」
「そうだな。つぶしてやろう」
かつての恩師は、最近自分に見せるようになった悪戯っぽい笑みを浮かべ頷いた。
「ちょっと、十津川の所に行ってくる」
百埼はそう他に断りをいれると、亮太と席を離れた。
弥生の視線が自分の緊張する頬に注がれている気がした。でも、それは気のせいなのかもしれない。自分の罪悪感がそう思わせているのだ。きっと。
亮太はそっと息を吐くと、先を行く彼女の後姿を見た。
百埼は今日は深い深紅のバラの様な色のドレスを着ていた。背丈がもともとあるせいか、立ち姿はまるで本当に真っ直ぐに伸びるバラそのもののようだ。上にあげてまとめた髪から白く伸びるうなじが綺麗だと思った。
「まだ『先生』か?」
「え……」
振り返った百埼は試すような視線を亮太によこしていた。亮太は困惑し、視線を外す。
「先生は、いつまでも先生ですよ」
「私にとっては、お前はもう『生徒』じゃないんだがな」
「他に呼び方が見つからないんです」
誰かに聞かれてやいないか気になり、亮太は視線をせわしなく動かす。特に、弥生には聞かれたくない会話だ。
それを百埼の方も察したのか、鼻から息を抜くような色っぽい吐息をもらし「まぁ、いい」と短く口にし、再びひな壇に向かった。
少し安堵し、肩の力が抜ける。
勘弁してくださいよ。
亮太は年も、度胸も自分より上の女を見つめた。
きっと、いつかは皆も知ることだ。でも、何も、今、このタイミングで知らせることじゃない。それは彼女も重々承知のはずだ。
からかっているんだな。
亮太は先に十津川に声をかけた深紅のドレスを苦笑交じりに軽く睨んだ。
女はその視線が投げられるのもお見通しだと言わんばかりに、こちらを振り返る。
かなわないなぁ。
亮太は肩をすくめると、友人に祝いの酒を注ぐために彼女の隣に並んだ。
すでに随分祝福の酒を飲まされていた十津川の顔は、十分すぎるくらいに真っ赤だった。それでも、花婿は二人の顔を見ると上機嫌で自身のグラスを空け、亮太のビールにグラスを傾ける。
「今日はありがとうございます。亮太も、サンキュな」
十津川はそう言うと、百崎と亮太の2人とグラスを合わせ、本日何杯目になるのか本人にもわからないだろうビールに口をつけた。
「良かったな。本当に」
亮太はそういうと、十津川の満面の笑みを羨望と尊敬が混じった眼差しで見つめる。
亮太は、学生の出来ちゃった結婚(最近は授かり婚とも言うらしいが)といえば軽薄で軽はずみと思われがちのこの結婚が、本当はそうでもない事を知っていた。
十津川と睦月は、自分にとっての弥生や猛の様に幼い頃からの知り合いだ。もっとも、十津川は家庭内の問題から逃げるために不良グループの仲間に入っていた時期があり、睦月と話をまともにするようになったのは高校の時かららしいが……。
それでも、睦月の気持ちは物心ついた時からあったと言うし、十津川の方も高校の時から睦月の事を特別に思っていた。
しかし、彼らは互いの感情に気がついていながら、すぐに付き合うことはしなかった。いや正確に言うと付き合えなかったのだ。
原因は睦月の父親だ。
亮太は、普段より饒舌に百崎と話す十津川の顔を一瞥してから、末席に座る四角い顔の睦月の父親の方を見た。
頑固を擬人化した様なその父親は、披露宴が始まってもう中盤も終えようと言う今も、緊張の面持ちを崩してはいなかった。親戚と和やかに言葉を交わしながらも、何かの拍子に崩壊してしまいそうなる涙腺を必死に堰き止めている。そんな風に見える。
十津川本人から聞いた事がある。
彼は不良グループを抜けた高校2年から、一緒に猛の空手道場に通うようになっていた。その話を聞いたのは彼が必死に受験勉強し、専門学校を受けると決めた時だった様に記憶している。
その時、十津川は「睦月のオヤジ、マジ、ヤベェくらいおっかなくてよ。でもさ、俺も意地だ。ぜってー見返してやる」というような事をいきなり切り出してきた。
すぐには話が見えなかったが、つまりは睦月の父親に、自分の以前の素行について指摘され、付き合いを反対されている。だから十津川は彼女の父親に自分を認めてもらうまでは、付き合わないと決めた。と、いう事だった。
当時は、話しを聞いた猛も亮太も、きっと十津川自身も専門学校に受かれば付き合うのだろうと思っていた。
でも、結局、専門学校を卒業し、資格も取り、就職についてから、ようやく、あの四角い顔は首を縦に振った。それでもかなり渋々だったらしい。
亮太は先に社会人となり自分で身を立てている友人を見た。
外見やその口調だけでは、十津川はそこらにいる同年代の連中と変わらない。また、今時、親に認めてもらわないと付き合わないなんていう輩もまずいない事くらい亮太だって知っている。
それでも十津川がそういう道を選択したのは、それだけ彼が筋の通った男で、睦月の事が大切で、本気だったと言う事だ。
その気持ちには素直に共感できた。
自分だって、将来の事を見据えるのなら、同じような考え方をするだろう。
「なんか、長い間お預けくらってた分、抑えられなかったって言うか。なんて言うか。俺は、いっぺんに睦月とガキと一緒になれるの、本っ当に嬉しいんっすよ」
百崎に顔を赤くしてそう呂律の回らない舌で語る十津川。
亮太は、目を細める。
同じ様な道を目指しても、そこに辿り着いた十津川と自分の違いはなんだったのだろう。そう考え始めると、普段はめったに感じる事のない劣等感と軽い嫉妬心が後ろめたさと混じりあって、苦み以上の何かが胸に重苦しく広がっていくのを感じた。
今度はそっと百崎の方を窺い見る。
彼女は嬉しそうに目を細め、静かに十津川の幸せを受け止めているようだった。結婚の重みを、誰よりも知る彼女だ。感慨も一入なのかもしれない。
ふと、先日、自分だけに見せた彼女の涙を思い出した。
薄暗い廊下で肩を震わせ、自分の胸の中で何かを吐き出すように泣いていた彼女。
今になって疑問に思う。
あの涙を受け止める資格が自分にあったのか、という事を。
「ところで、亮太ぁ!」
ふにゃりと新郎の腕がのび、亮太の首に引っかかった。本人は小声のつもりだろう、幾分先ほどよりは抑えた声で顔をしかめる。
「どうなってんだよ。お前と弥生。おかげで、俺達が思いっきり喜べないじゃんかよ」
「なんだ、何かあったのか?」
百崎がその大きな目を何度か瞬かせた。マズイ。彼女にはまだ何にも話していない。亮太は唇を軽く噛むと、慌てて酔っぱらいの腕を外した。
「今、話すことじゃないだろう。人の事より、今日はせっかくの日なんだ、気にしないで楽しめよ」
「そうしたいさ。でも、睦月なんてなぁ、朝からお前らの事ばっか気にして……」
「俺らなら大丈夫だ」
なにが大丈夫なんだ。
自分で心の中で呟きながら亮太は十津川の胸を軽く叩いた。
「とにかく、幸せにな」
俺がそうできなかった分も、と自分勝手な祈りを込める。
そこへ別の彼の友人達が来た。さっき隠し芸といってバンド演奏した連中だ。
「じゃ」
亮太タイミングに救われと思いながら、新郎の肩をもう一度叩き、席を離れた。
ビールを持つ手に僅かに緊張が走る。
斜め後ろからの百崎の視線が痛かった。彼女が弥生の聞きたがっているのが気配でわかる。でも、話したくなかった。少なくとも、弥生のいる、ここでは。
「五木」
「これは、俺の問題ですから」
自分の腕を捕まえようとする手を振り払うように、亮太は彼女の言葉を遮った。視線の先には、席に残った三人で楽しげに話している弥生がいる。
気持ちがまだ完全に切れていない。迷いや未練はまだ、この胸にある。自分勝手な別れだったのにも関わらず、だ。
だから……。
亮太は振り返ると、できる限りの笑顔をして見せた。
「先生にとっては、俺はもう生徒じゃないんでしょ?だったら、心配しないでください」
「五木」
この別れに彼女は関係ない。
自分で考え、決めて、弥生が受け入れてくれた、別れだ。
百崎はしばらく亮太の表情を推し量るように見つめていたが、また鼻に抜けるあの溜息をつくと、その唇に微笑を湛えた。
「そうだな。わかった」
頷く彼女に、今度は自然に笑みが零れた。
再びテーブルを振り返る。
「あ」
今日、いや別れてから初めて、弥生と目があった。
互いにそらそうと一瞬戸惑い、すぐに止める。これから一生、こうして行くわけにもいかない。
「おかえり」
席に着くと弥生は自分達にそう声をかけてきた。
「十津川くん、どうだった? 私達もこれから行こうと思ってるんだけど」
弥生の声はほんの僅かに緊張に震えていた。それは、今この場では猛や恩師にもわからない、自分だけにわかる些細な変化だと言うのに自負がある。それほど、自分達の仲は、浅くはない。
けど、それは所詮もう終止符の打った仲でもあった。
「幸せそうだったよ」
「そう」
弥生が小さく息をついた。
皐月が彼女に声をかけ、軽く腰を浮かす。弥生は何かを言いけけて一瞬ためらいに唇を途中で止めた。
亮太は何かと彼女の顔を覗き込む。弥生は眉尻を下げると
「せっかくだし、皆で写真、撮りにいかない?」
百崎と自分にそう言った。
「そうだな」
「わかった」
彼女なりの強がりに、今日は付き合いたい。
亮太はそう思い、百崎と目を合わせると、再び席を立った。