皐月 2
誓いのキスは新婦の額に落とされた。
照れでその場所になったのか、二人で事前に申し合わせていたのかはわからない。でも、自分なら、やはり人前だろうがキスは唇が一番だ。
皐月はそう思いながら、絵になる二人の姿を眺めていた。
式が終わり、新郎新婦を迎えるために一度参列者は外に出された。
ふと、金木犀の香りが頬をくすぐり、悪戯に握っていた手が掌の中から消えているのに気がつく。
皐月はこの甘く少し肌には冷たい風の様な寂しさを感じ、肩越しに振りかえった。
乙女はそこにいた。
そして
「ほら、ブーケトスがあるでしょ?前の方に行っとかなきゃ」
そっとその長く綺麗な指を自分の背に添えた。
やはり、彼はずるいなぁ。
皐月は苦笑する。
優しくて、否定も拒絶もしない。でも、同情に引きずられる事も、彼は決してなかった。
手を離した理由にそう言ったのか、それとも自分を諦め新しい恋に踏み出せと言うサインなのか、はたまた両方なのか、それははっきりとはわからない。
でも、少なくとも、彼は手を繋いだままではいられない事を、皐月に教えているのだ。
「そうね。そう言えば、弥生は?独身は私だけじゃないはずよ」
「あ、弥生なら、さっきあっちに」
乙女は少し遠慮がちに視線を動かした。祝福に浮きたつ人の波の奥の方に、さっき見たあの着物の端が見える。
そしてすぐに思いなおした。
「そっか、弥生には亮太がいるもんね。ブーケにガッツク必要もないか」
彼らは高校2年から付き合っている仲だ。
彼らの慣れ染めにだって自分は付き合っている。だから、二人がこの先どんな道を選ぶのなんか、考える必要もないと思っていた。
しかし、乙女の顔が、急に曇った。
「あ、お嬢は知らないんだ」
思わず昔の渾名がこぼれ落ちる。何事かと皐月は乙女の顔を覗き込んだ。
乙女は後ろに流した長めの前髪をかきあげ、溜息をつく。
「あの二人、もう、付き合ってないらしいのよ」
「え?嘘!!!」
『別れた』の単語が飛び出しそうになるのを何とか抑え、皐月は目をめいいっぱい見開く。
信じられなかった。
二人ともどちらかといわなくても、真面目で良い子ちゃんだ。浮気や他に目移りするなんてことは考えられない。加えて、幼馴染だったはずだから、今更性格の不一致という事もないだろう。
どれだけ高速に思考を回転させても、彼らが別れる理由を思いつくことはできそうになかった。
「どうして?いつ?どういう事なの?」
思わず詰め寄る。これは聞き捨てならない。弥生は、自分の友達の中でも特別な存在だ。彼女に限らず、コイケンのメンバーは本当に大切な、友達……仲間、なのだ。そんな彼女に何かあったなんて。
乙女は「まぁまぁ」と鼻息の荒い皐月の両肩を抑えると、まだ開かれない教会の扉を一度振り返ってから、耳に唇を寄せ、声を落とした。
「つい、2週間ほど前みたいなのよ。私は亮太から聞いたんだけど。理由は、教えて貰えなかったわ」
「どっちから?」
「亮太」
「なんで?」
「だから、理由はどうやっても教えて貰えなくて。ただ……」
乙女はそっと弥生の方を見る。
その3歩ほど離れた所に亮太の姿があった。亮太は相変わらずの仏頂面で、表情もさほど普段と変えずに扉の方を見ているが、弥生を意識しているのは、幼馴染の乙女には一目瞭然だった。
「喧嘩や他に好きな人が出来たっていう理由じゃないと思うわよ」
「どうしてそんな事が言えるのよ」
皐月は知らず、乙女を責めるような口調で問いただす。乙女は腕を組むと肩をすくめ
「勘よ」
と、申し訳なさそうに答えた。
皐月はいてもたってもいられなくなり、もうすぐ新郎新婦が出てくると言うアナウンスがあったにもかかわらず、人ごみを文字通りかき分け弥生の元に走った。
なんで、言ってくれなかったのだ。
どうして、知らせてくれなかったのだ。
彼女が一人で悩んでいたのかと思うと、助けてやれなかった自分が情けなくて腹が立った。
今日、再会した時も、乙女の事で頭がいっぱいで、何にも気がついてやれなかった。それどころか、自分は失恋した彼女に酷い事を言ってしまったのではないだろうか。
そう思うと、珍しく、自分の口の悪さに辟易としてくる。
「弥生!」
「あ、皐月」
ブーケなんて到底届きそうにない場所で、弥生は一人ポツンと立っていた。
こんな場所で弥生を一人にするなんて。と、皐月は亮太の方を睨みつける。彼はやはりこちらを見ていたのか、一瞬目が合うも、すぐにそのまま反らした。
厄介な奴だ。
皐月は心の中で舌打ちする。
亮太ももちろん大切な友人なのには変わりない。
しかし、高校の時から彼はいまいち苦手だった。
まず、無口だし、リアクションも薄い。ぱっと見ただけでは何を考えているか分かり辛いし、そのくせ、口を開けば正論をぶつけてくる。また、彼自身、そう言った直線的な生き方をしているから、こちらも攻めようがなくて始末が悪い。
「ちょっと、なんで黙ってたのよ」
「え」
弥生の口が半分開かれる。
皐月は彼女の腕を取ると、ぐっと顔を寄せた。
「あんたたちの事。乙女から聞いたわ。どうして教えてくれなかったの?」
「あ、あれね」
弥生は力なく笑おうとして、失敗したのか、風船がしぼんだような妙な顔になり俯いた。
「ごめんね。あの……私にも、まだ、信じられないって言うか、信じたくなかったって言うか……」
口元で彷徨う言葉はどれも揺れていて弱々しい。今にも降り出しそうな雨雲を思わせるその声に、皐月は弥生にとってもこの失恋が突然のものだったのだと悟った。
「ちゃんと、話し合ったの?」
弥生は首を横に振る。
「電話で。亮太から『別れよう』って。それだけ」
「はぁ?」
思わず声を裏返してしまった。
一斉に周囲の視線が集まり、皐月は咳払いする。
どさくさにまぎれて亮太をもう一度睨んでから、注目が去るのを待って、また弥生に顔を寄せた。
「アンタ、まさかそれで引き下がったわけじゃないでしょうね」
「……」
「引き下がったの?」
弥生は黙って頷いた。
「亮太は滅多な事言う人じゃないもん。きっと、ちゃんと考えて出した答えなんだと思う。だから、私……」
呆れた。そう言おうとしてその形で唇が止まった。
確かに、亮太は駆け引きをしたり、一時の感情で浅はかな行動を取ったりする男じゃない。そこにきて、弥生はもともと馬鹿が頭につくほどお人よしだ。
亮太がそう言いだせば、追求することなく受け入れてしまうのは、この二人ならあり得る気がした。
でも、でもだ。
皐月は自分と乙女との事を重ねる。
どうしても諦められない、諦めちゃいけない気持ちってあるはずだ。
かっこ悪くても、少しくらい誰かを傷つけたとしても、簡単に消せない気持ち。弥生の亮太に対する気持ちは、そうじゃないのか?
ずっと好きで、やっとお互い素直になれて……。確かに一度、二人の関係がぐらついた事があった。でも、そんな事も乗り越えてきたからこそ、二人の絆は強いものになった。そう、思っていたのに。
「弥生は、いいの?このままで」
きっと、彼女自身、何度も繰り返してきただろう問いを、皐月は敢えて彼女にぶつけた。
弥生は顔を歪めて、唇を固く結んだ。
「亮太の気持ちが固まってるんなら、もう、どうしようもないよ」
「卒業後の話だってしてたんじゃないの?」
「してたよ。亮太は乙女ちゃんの道場を任される事になってた。だから、私も大学に残るのは止めて地元で就職探してたの。これで、一緒にいられるって、そう……」
弥生の声は胸の痛みを代弁するように掠れ、苦しげだった。
そう言えば、空手道場の後継ぎだった乙女は、親にゲイをカミングアウトしてから道場には入れてもらえていないと言っていた。でも、幼い頃から道場に通い、高校の頃から指導の手伝いをし、しかも大学でもかなりの成績を上げている亮太が代わりに道場の師範としてこれから指導にあたるから、もう安心なんだとも聞いた。
弥生だって、福祉系の大学だ。就職が特別厳しいわけじゃないはず。
つまり、卒業後の進路も、問題はなかったって事だ。
じゃ、何故?
じっと、弥生の横顔を見てみる。きっと、弥生本人にもわからないのだ。なら、今、ここで自分が考えた所でわかるはずはないだろう。
皐月は溜息を一つつくと、弥生の肩を抱き、優しく頭を撫でた。
「辛かったね」
「うん」
再び金木犀の香りが行き過ぎた。
教会の鐘が鳴り響き、聖歌隊の歌声が一斉に空に羽ばたく。
顔を上げると、睦月が幸せそうな笑みを湛え、想い人と手を取り合い出てきたところだった。
眩しいな。
皐月はそう思い、目を細めた。
幸せに輝く睦月の笑顔は、今の自分達には眩しすぎる。
「ね、せっかくだし、幸せのおすそ分け、貰おうよ」
皐月はそう言うと、弥生の背中を叩いた。
「そうだね」
弥生も涙をぬぐい、顔を上げる。
ライスシャワーに祝福され、二人が降りてきた。
花嫁の手が、高く掲げられる。
色とりどりの花を束ねたブーケが、澄み渡った青空に掲げられ。
「取るわよ!」
「うん!」
それは天高く投げられた。
幸せをつかもうと幾つもの腕がのびる。
― 幸せになりたい
ブーケのリボンが揺れる
― 好きな人と一緒にいたい
蝶のように舞う花弁
― 恋を実らせたい
それは指先を掠めていく
― 願いはそれだけなのに
そして、幸せは自分達の傍を通り過ぎ、誰かの手の中へと納まってしまった。
皐月は空をきった手を引っ込め、弥生と顔を見合わせる。
「私達の幸せは、もうちょっと先か」
「だね」
苦笑する。
そして、二人で幸運を掴んだ女性は誰なんだろうと、視線を送る。
「あ」
思わず声を漏らした。
幸せのブーケを受け取った、次なる花嫁は……。
「百埼先生!」
懐かしいその顔は少々照れくさそうにして、花嫁に向かってブーケを振っていた。