一之瀬
中庭に続く扉を開けると、一気に冷たく新鮮な風が流れ込んできた。
弥生は思わず息をのみ、目を細める。
その中を亮太は、弥生の盾になる形で先に風の中へと身を投じた。
弥生はその背中を見つめ、一瞬足を止める。
病室の前からここに来るまで、一言も交わせなかったその横顔に胸が苦しくなる。
「弥生?」
ついて来ていないのを察したのか、亮太が不思議そうな顔で振り返った。弥生は顔をあげ「ごめん」と小さく苦笑いしてみせると、自分も一歩外へと踏み出したのだった。
眩しさに思わず目を細める。
踏み出したその世界には、光が満ちていた。
新しい空気を運んでくる風は、優しく弥生の頬を撫で、無機質な世界から解放された視界には夕焼けの赤に染まる草花が揺れていた。
弥生はその世界に思わず見とれ、ぼんやりと亮太の後ろをついて行くと、彼が立ち止まった傍にあったベンチに腰を下ろす。
あんなに冷たく、薄暗く、不安に満ちていた廊下の先に、こんな景色が広がっていたなんて、踏み出すまでは想像もつかなかった。
視線を巡らせると、ビルの狭間に沈んでいく夕陽が見えた。
でも、もうあの日のワレモコウはそこにはなく、代わりに揺れているのは温かな色に染まる白とピンクのコスモスの花だ。
「ほら」
「!?」
膝に飛び込んできた何かに弥生は驚いて目をむく。それは温かい缶コーヒーだった。
弥生はそれを両手で取り上げると、隣でそれを開けて一口飲む亮太の横顔を見る。
そういえば、あの時の先生もこうやってくれたっけ。
弥生はそれを思い出し、彼らはよく似ている事に気がついた。
亮太は何にも言わず、じっと遠くの方を見ている。
何を考えているのか、何を思っているのか、幼い頃からずっと付き合って来た今でもわからない時は多々ある。
言葉数が少ない分、こちらが不安になる事が多いのもいつもの事だ。
その上、理由もろくに告げずに勝手に別れを切り出すような男。
弥生は冷えていた自分の手を温める温もりに目を落とすと、静かに息を吐いた。
「ね、亮太」
「ん?」
「私達」
その先の言葉に胸が苦しくなる。でも、弥生は掌の中の缶コーヒーを握りしめる。 重く、苦しい現実。でも、それを認めないとその先には行けない。
その先に行きたいから、自分はそれを受け入れる。
弥生は自分に喝を入れると、弱音を飲み込み再び唇を動かした。
「別れたんだよね」
事実なのだ。
亮太は今、どんな顔をしているのだろう?それはわからない。でも、すぐ隣で溜息が聞こえ
「あぁ」
と頷く気配を感じた。
「私ね、亮太がそう言うって事は、もう、よっぽどの事なんだなって、思った。だから、仕方ないと思ってた。でも、理由は道場の事だったんだよね。道場が大変な事のなってるから、一人でその問題を背負って行こうって、それで私と別れた。そうなのね?」
沈黙。
亮太の返事はその沈黙から、ゆっくりと引き剥がされるような無言の首肯だった。
やはり、こんな時も彼は言い訳をしない。してくれない。
― どうして
風が吹きすぎる。
コスモスが揺れる。
弥生は顔を上げると、亮太を見据えた。
その視線に亮太は気が付き顔を上げる。
目が合う。
その瞬間、弥生の右手が上がり
「亮太のバカ!」
思いっきり振り切られた。
乾いた音が響き、亮太の頬に痛みを刻み込む。
弥生が亮太の頬を思いっきり叩いたのだ。
亮太はびっくりして、俄かに何が起こったのかわからず弥生を見つめる。
弥生のその瞳からはそれまで抑えていた感情が、涙となって溢れ出ていた。
自分の頬を打った弥生を、亮太はしばし驚きの表情で見つめていた。弥生はその眼を見つめながら手を下ろすと、一度唇を噛み、彼の胸に何度もその両手を握りしめ打ち付ける。
「どうして、どうして、話してくれなかったのよ」
焦れったさより重苦しく、悔しさより寂しい感情を、彼の胸に打ち込むようにその拳を弥生は何度も叩きつけた。
理由を知った時、一番に思ったのは、どうしてそれを自分に打ち明けてくれなかったのかという事だ。
自分はずっと、彼と一緒に居たかった。ずっと、傍に居たかった。
でも、彼の気持ちが自分から離れたのなら、仕方ない事なのだとも思っていた。少なくとも、そうなら、忘れる事が出来なくても、時間をかければこの別れを受け入れていけるような気がしていた。
けれども……。
「ねぇ。どうして?」
弥生の喉を震わせる声は、悔恨に締めつけられている。
亮太は弥生の気持ちを受け止めるのが自分のすべきことだと言わんばかりに、全ての拳を受け止めながら目を伏せ答えた。
「俺は、道場を継ぐからには、負債も全部引き受けようと思っていた。でも、そんなの、お前には関係のない事だろ。お前には夢もある、やりたい事もある。俺の事情に巻き込んで、お前に苦労をかけたくなかった。両方を守るためにはこうするしかなかったんだ」
「馬鹿!」
弥生は一層力を込め、亮太の胸を突くと、そこで手を止め彼のシャツを握りしめた。
その拳は微かに震えてはいたが、腹立たしさよりも情けなさが先を行き、感情の空転にすぐには言葉が出てこない。
「関係、ないなんて……言わないでよ」
ようやく言えた言葉は、結局、シンプルに一番彼に伝えたい言葉だった。