二葉
六人は行くあてもないので、そのまま睦月の病室に戻ることにした。
戻るとちょうど、睦月の両親が病室に来たところで、百崎がすぐに駆け寄り事情を説明する。
両親は突然の事に、一瞬顔をこわばらせていたが、すぐにその頬は涙に滲んだ。
涙を堪え切れず両手で顔を覆い立ち尽くす母親の代わりに、父親が何度も百崎に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げていた。
弥生はその様子を眺めながら、思いがけず自分達は家族が増える瞬間に立ち会えたのだと、新鮮な感動を覚えていた。
『父親』と『夫』の顔となり
一人睦月を待つといった直輝。
『祖父母』の顔となり
赤ん坊の誕生を喜ぶ睦月の両親。
今日一日で変わっていく関係を、目の当たりにしてみて、自分が今まで考えもしなかった事に気づかされる。
― 変わらないものなどないのだ
弥生は隣にいた皐月の方をそっと見た。
皐月のその目は、切なそうに千代田と話す乙女の方に向けられている。
「皐月。あのね……」
弥生に声をかけられ、皐月は自分が彼らを見ていた事に気がついたのか、我に返り苦笑いで振り返った。
「わかってる。あの男は悪い人間じゃないよ。でもさ、なんか、悔しくって」
いつだって、素直でまっすぐな皐月。
そう言う彼女からは言葉ほどの苦々しさは見られなかった。むしろ清々しさすら感じさせるサッパリとした表情は、やはり、乙女との新しい関係に踏み出し始めている。
「けどさ、さすがに恋人相手に恋愛相談は無理でしょ。私、乙女の一番の親友でいたい」
そう言って、また視線を戻す。
千代田と話し込む乙女は、幸せそうで、弥生はこんな彼を見る事が出来る日が来たのを、心から嬉しく思った。
皐月は前髪をかきあげると、ため息をつき、廊下の天井を見上げた。
心に固まり沈んでいたしこりが、溶かされ、空気中に吐き出されているかのような、長い長い溜息だった。
目を閉じる。
長い睫毛が細かく震えていた。
泣くのを堪えているのだと、わかった。
「なにも、恋人になる事だけが、恋の完成形じゃないよね」
「え?」
弥生は皐月の横顔を見つめる。
彼女はゆっくりと瞼を開けると、その瞳に自分の恋への誇りとこれからの決意を秘め、弥生に微笑んだ。
「弥生。アンタも、ケリ、つけて来な。別れたって言っても、気持ちは切れてないんでしょ?」
「皐月……」
皐月は顎で、皆とは少し離れた場所で廊下の壁に背を預け、腕組みをしてじっとしている亮太の方を指した。
「別れの理由もわかったんだし、もう一度、ちゃんと話してきたら?」
「でも」
気後れするのは、まだ彼らの様に踏み出すのが怖いからだ。
ずっと変わらないと思っていた彼との関係。
強制終了され、実感のわかないまま、見失っていた自分の気持ちの居場所。
「一之瀬」
知らず落としていた視線を上げると、そこには百崎がいた。
「先生……」
今日、初めて知った先生の意外な一面。
もしかしたら……と、彼らの関係を否定された今でも思わない事はない。何もなかったのは事実だろうが、心の中はどうだろう?
ブーケを取った時の先生の
あの、無邪気な顔。
亮太に付き添われた時の先生の
あの、信頼を寄せる顔。
そして
弥生はじっと自分を見つめる先生、いや百崎の顔を見つめた。
それは、以前、この病院で自分の背中を押したものとは少し異なっていた。
どう異なるのかは、自分にもわからなかったが、一つ言えるのは、今、目の前の女性が、本人の胸中はどうであれ、やはりまた自分の背中を押そうとしてくれているという事だ。
「話してこい。睦月が戻ってきたら、知らせてやる」
「先生」
弥生はこれまでの事を振り返る。
恋って、一人でするもんじゃない。相手と二人だけでするものでもない。
たくさんの人の想いが重なり合う中で、ようやく紡ぎ合えるものなのだ。
「わかりました。先生と話した、中庭に行ってきます。なにかあれば」
「あぁ。私が迎えに行こう」
心強い言葉。弥生は心の中で百崎に「ありがとうございます」と頭を下げると、首肯し振り返った。
今が、踏み出す時だ。
「亮太」
その名を呼んでみる。彼は瞬きを何度かし、こちらに視線を巡らせた。
目が合う瞬間に鼓動が騒ぎ出す。
臆病な虫が「このままうやむやでもいいじゃないか」と囁き始める。
決定的な別れになるかもしれない。
本当にもう会えなくなるかもしれない。
友人ですらいられなくなるかもしれない。
曖昧なままでも、こうやって友達に紛れて関係を続ける方がいいのではないか?
様々な弱音が次から次から湧きだしてくる。
でも、でも、でも……だ。
弥生は息をのむと、彼へと一歩踏み出した。