命
オペ室につくと、すぐに医師が現れ、直輝を捕まえるなり別室に連れていった。
とぎれとぎれに聞こえてくる会話で、もう、すでに睦月はオペ室の中で直輝の同意書待ちの状態でいる事がわかった。間を置かず、他の医師に同意が取れた事をその若い医師が知らせる声がする。
残された六人は、静かで寒い廊下に残された。
すぐに四人掛けの二つのベンチに、弥生と亮太、乙女と皐月と百崎と別れ、千代田は座らずに壁に背を預けた形で乙女の傍に立つ形になった。
誰もが彫刻になったように黙り込み、視線を交わすことなくじっとしていた。
沈黙に沈む静寂が、容赦もぜずに現実をつきつけている。
弥生は自分を座らせてからすぐさま離れてしまった亮太の手を、ぼんやりと眺めていた。
それは、確かに瞳に映り込んでいるのにどこか非現実的で、それが亮太の手なのかそれとも別の何かなのか、大きな区別はないように感じられた。
ただ、気を抜くと、あの大量の血痕と、鉄の匂いが蘇り、すぐにでもぽっかりと足もとに底のない真っ黒な穴が空いて引きずり込まれそうな不安があり、弥生は亮太の大きな手から視線をずらすことさえ、躊躇われた。
その感覚は、でも、初めてのものではないような気がして、弥生はそれに意識を集中させる。
そして、視界に入っていた手の先の亮太の横顔をみて、思い出す。
あの時と一緒だった。
亮太が、自分を庇って階段から落ちたあの時。意識の薄れる亮太をみて、彼を失う恐怖に、自分は……。
むっちゃん。
嫌だ。
弥生はぎゅっと目を瞑ると膝の上で着物を握りしめた。
どれぐらいたった後だろうか、直輝が暗い廊下の先から戻って来た。
一同は、彼にまるで助けかせめてもの希望を見出すように視線を集め、迎える。
しかし、直輝は見えない大きく重い荷物をその背に抱えているかのように、一言も言わず亮太の隣に腰をおろした。
あんなに饒舌だった直輝は、今や何の言葉も発さず、ただただ頭を抱え俯いている。
その姿勢からは彼の表情は全くうかがえなかったが、弥生にはその髪に埋もれたもがく様な形の指先が、全てを物語っているような気がした。
重苦しい空気が、心を押しつぶしそうだ。
「十津川、両親に連絡した方がいいんじゃないか?」
そこに穴をあけ、風を通したのは、百崎だ。
直輝は顔を上げ、百崎の顔を見る。
まるで失念していたかのように「あ、はい」と弱々しく呟くように答えると、よろりと立ち上る。
「じゃ、俺。電話してきます」
「大丈夫? 一緒に行こうか?」
乙女が立ち上がる。直輝はその声に、まるで溜まっていたものを吐き出すように怒鳴りつけた。
「大丈夫なわけねぇだろ! 睦月が、睦月がどうにかなっちまうかもしれないんだぞ! 大丈夫なわけ……」
そういうと、直輝は再び顔をその手で覆い、壁にもたれかかった。
「睦月が、どうにかなったら。俺。もう……」
「十津川くん」
弥生はその悲嘆にくれる背中になすすべもなく、唇を噛む。
直輝はそのまま崩れるようにしゃがみ込み、うわごとのように何度も呟いた。
「睦月が、どうしよう。睦月が……俺。睦月……」
「十津川」
隣で空気が動いた。亮太が立ち上がったのだ。
亮太は十津川の前に立つと、彼の肩を支え座らせる。そのまま自身も隣に座ると、彼の顔を覗き込むように言い聞かせた。
「しっかりしろ。お前は、睦月の旦那で、生まれてくる子供の父親になるんだろうが」
それは、叱るでも、激励するでもない。強い、しかし優しい声だった。
直輝は顔をあげ、まるで縋りつくように亮太を見つめる。
「亮太」
「親父さん達には、俺が連絡入れてきてやる。お前は、睦月達の傍にいてやれ」
「あ、あぁ。すまない」
僅かに直輝の頬に安堵の色が浮かんだ、その時だった。
突然、オペ室の扉が開いた。
直輝をはじめ、数名は弾かれるように立ち上る。
すぐに手術着の医師が見え、その後ろに小さな透明のケースが見えた。
「十津川さん。おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
「え」
医師はマスクを取りながらそう言うと、直輝の肩を叩いた。
その後ろから小さな、しかししっかりとした泣き声が聞こえ、直輝は呆然とケースを見つめる。
弥生は、心が震えるのを感じた。
思わず傍にいた亮太の腕を掴み、胸にこみ上げる感動に息をのむ。
小さな手
小さな足
小さな唇
そこには
確かに
確かに
小さな命が
生きていると
声を上げていた
その力の限り
精一杯に
直輝がそのケースに張り付く。
「これが、俺と、睦月の……」
愛おしそうに見つめるその後ろ姿に、弥生は胸が締め付けられ、手を握りしめる。
「むっちゃん」
そう言えば、睦月は……。弥生は気になり、再び扉が閉まる、その向こうに目を向ける。
「睦月は? 妻は?」
直輝の声がした。医師が頷く。
「奥さんも大丈夫。出血は少々多かったですが、意識もハッキリしておられます。旦那さんと、皆さんに、心配いらないと伝えてくれ、そうおっしゃってましたよ」
「そうですか」
直輝は破顔すると、その場に再びしゃがみ込む。
医師や看護師たちはそんな直輝の様子を微笑ましそうに眺めると
「では、赤ちゃんは一度NICUでお預かりしいます。奥さんは、そうですね……小一時間ほどで出てこられると思いますが」
「ここで待ってます」
「わかりました」
直輝の返答を聞き、そのまま赤ん坊を連れて行ってしまった。
再び、静まり返る廊下。
直輝はゆっくり、今度は自力で立ち上がると涙をぬぐい、顔を上げオペ室の方を見つめた。
そして、しっかりとした声で
「皆、ごめん。ちょっと一人にしてくれないか? 睦月が頑張ってるんだもんな、俺、ここで睦月が出てくるの待ちながら、色々考えたい」
そう背を向けた。
「十津川くん」
その申し出に異議を唱える者はこの場にはおらず、「わかった。行こう」そういう亮太の声に従った。
弥生は廊下を曲がる前に、もう一度振り返った。
オペ室の前で、一人、むせび泣く直輝の背中が見え、そっと心の中で呟いた。
「本当に、よかったね。むっちゃん。十津川くん。おめでとう」