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三田

「マジ、助かったよ。目が覚めた時の、なんていうの?感動?いや、違うな。ま、なんていうか……もう、俺、完全にテンパってたからさ、睦月が目が覚めて、力抜けてさぁ。でも、腹のガキも睦月の腹蹴り返してきたりしてさ。一時はどうなる事かと思ったけど、マジ、よかったっていうか」

 病室に向かうエレベーターの中、直輝のマシンガントークはひたすらに続いた。最高潮に気まずい所に現れたこの事情の知らない闖入者のせいで、張りつめた空気は今や少々間の抜けたマーブル模様になっていた。

 弥生は隣に立つ亮太のだんまり顔をチラリと窺う。でも、かけるべき言葉がすぐには見つからず、やはり同じように口を噤んでしまった。


訊きたい事はたくさんある。

問いただしたい事もたくさんある。

でも、自分の気持ちが向く方向はそう多くない気がした。


「一之瀬」

 耳元で囁き声がして目を向ける。狭い箱の中。斜め後ろにいたのは百崎先生だった。

 百崎は優しい微笑みに、僅かな寂しさを窺わせる感情を見え隠れさせ、周囲にわからないように唇で形を作る。

「?」

 始め、それは何かわからなかったが、何度かその形を見ているうちにわかって来た。


『ス・ナ・オ・二』


 そう伝える言葉の向こうに、弥生は以前、もう5年以上前に先生にこの病院に連れてこられた時の事を思い出す。

 あの時は、亮太への気持ちに素直になれず、他の人からの告白に揺れていた時だ。先生は寝たきりになって動かなくなった旦那さんに、会わせてくれた。

 あの時、先生と見た夕日は今でも覚えている。

 ワレモコウの向こうに沈んでゆく夕陽。

 その時、先生は『後悔のない恋をしろ』そう、教えてくれた。

 亮太……。

 もう一度、彼の頑なな横顔を見る。

 さっきの話が本当なら、亮太は先生の哀しみも、道場の危機も全て自分で背負って行こうとしていた事になる。

 どうして……。

「っていうか、もう、俺。これからは、睦月とガキのために頑張っていこうっていうか?ホント、俺、あいつらのためだったら、何でもできるっていうか」

「もう、うるさい!」

 皐月が、とうとうたまりかねて直輝の後頭部をはたいた。

 最前列にいた直輝は前のめりになり、キョトンとする。

「ちょっとは空気を読みなさいよ!」

「はぁ?」

 皐月は振り返り、軽く千代田を睨みあげる。

 その視線に気が付き、千代田は困った様に肩をすくめ、乙女がはらはらと両者を見守る。

 皐月は、もしかしたら千代田が経営統合のことで乙女に近づいたのではないかと疑っているのだ。

 でも、その心配はないと、弥生は思う。

 実際、一度は統合を諦めたらしいし、弥生には千代田がそんなに悪い人間には見えなかった。第一、あんなに大きな企業が、町の小さな道場一つにそこまでこだわりはしないだろう。

 どちらかと言えば、本当に道場を助けたい。そんな思いで契約を持ちかけているのではないだろうか?

 エレベーターがガクンと揺れて止まった。

 直輝が唇を尖らせ、病室に続く廊下に足を下ろす。

「なんだよ。あ、そういや。いいか、お前ら。ちゃんと説明しろよ!」

「え?」

 後ろ向きに歩きながら彼は亮太と弥生を指す。

「これ以上、胎教に悪いような心配さすな。睦月はお前らの事心配して、出ていこうとしたんだ。だから、俺がお前らを探して連れてくるハメに……」

 そう、話しながらぞろぞろと病室に向かう途中だった。

 若い一人の看護師が慌てた様子で駆け寄ってくる。

「あぁ、よかった。十津川さんの旦那さんですよね?」

「?そうですけど?」

 直輝はいきなり掴みかかって来た看護師を訝しげに見つめた。

 弥生は嫌な予感に思わず眉を顰め、立ち止まる。

 看護師はどうやら彼を探しまわっていたらしく、上がる呼吸を抑えながら、とぎれとぎれにこう答えた。

「今、奥さんに急変がありまして、緊急オペになる事に、それで同意書を旦那さんに……」

「なんだって!?」

 直輝の顔色が一気に変わる。

 まるでその看護師のせいかというように、目の前のその人を睨みつけると慌てて病室に駆け込む。

 蹴破らんばかりに乱暴に扉が開け放たれた。

 そこにはさっきまでいた睦月の姿はなく

「そんな……」

 代わりに大量の血痕が横たわっていた。

 血液特有の鉄臭さが鼻につく。

 誰もが立ちすくみ、声を無くす。

 弥生はそのあまりの生々しさに言葉を失い、息をのんで口を押さえた。

「急に腹痛を訴えられて、そしてら出血があって、あの、それで」

 看護師の説明はまるで要領を得ない。ただ、その言葉から伝わるのは睦月が今、危険な状態にあるという事だ。

「睦月は?」

「もう、オペ室の方に。それで、同意書を……」

 看護師はオロオロした様子で、今の今まで握りしめていたのだろう、一つ覚えの様に繰り返す言葉を口に、皺になった紙を差し出す。直輝はそれをひったくるように奪うと、

「こんなもんいくらでも書いてやる。とにかく、睦月の所に連れて行ってくれ」

 そう叫んだ。

 弥生の足が騒然とする現実にすくむ。

 目には鮮明な赤。

 耳には悲痛な怒鳴り声。

 でも、そのどこにもつい数時間前まで幸せそうに微笑んでいた親友の顔はなくて……。

「むっちゃん……」

 絶望感が力を体中から奪う。

 軽い吐き気とめまいを覚え、弥生は床にへたりこんだ。

 どうなっちゃうんだろう?

 急変?

 手術?

 危険?

 嫌な言葉ばかりがぐるぐると頭の中を回る。

「弥生」

 顔を上げると、亮太の顔と手が傍にあった。その向こうには、彼を突き飛ばしたのだろう、乙女と皐月の顔がある。

 もう一度亮太の方を見ると、彼はしゃがんだまま分が悪そうにしかめっ面をして、そっぽを向いていた。

「大丈夫か?」

 それでも、差し出される手が、素直に嬉しい。

 また、この手を握ってもいいの?弥生はその仏頂面に問いかける。


訊きたい事はたくさんあった。

問いただしたい事もたくさんあった。

でも、やっぱり自分の気持ち事は一つ。


「ありがとう」

 弥生はそっとその手に自分の手を重ねた。

 亮太に支えられて立ち上る。

 たった2週間しか会っていないというのに、もうずっとずっと繋がれていなかった様な気がするその温もりに、涙がこみ上げる。

「行けるか?」

「うん」

 もう一度そっと病室を振り返る。

 どうか、無事でいて。

 弥生は祈るような気持ちで、頼りない看護師の後をついて行く直輝の後を追った。

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