四ツ谷
千代田の言葉の意図に一番に気がついたのは乙女だった。
「あ」と、彼は小さく言葉をもらし、先ほどの幸せに浸っていた顔をさっと困惑した表情に曇らせ、千代田の腕を引っ張る。
「千代田さん!あの話は、お断りしたはずですよ?!」
その言葉を聞いて、今度は亮太が顔色を変えた。
瞬時に色めき立ち、拳を握りしめ、敵意をあらわにした視線を千代田に向ける。
「あんた、まさか、あいつらの仲間か」
押し殺した声には、充分に威嚇の鋭さが含まれており、両者から挟まれる形になった千代田は困った風に二人に掌を向けた。
そんなやり取りに弥生は首を傾げ、三人を見つめる。
「どういう事なの?」
半分背を向けている形の亮太が、再び低く唸った。
「プログレススポーツ」
言い放った言葉に、弥生も聞き覚えがあり、目を瞬かせる。
プログレススポーツは、ここ数年良く聞くスポーツ会社の名前だ。スポーツ用品からスポーツジムの経営。最近見たテレビCMでは有名タレントを使ってエステの宣伝もしていた。オリンピックにも協賛している、有名会社だ。
「それが、どうしたのよ」
皐月も納得のいかない様子で、乙女と千代田を見比べている。
千代田は小さく息をつくと
「随分、嫌われていたんですね。うちの会社は……」
そう言いながら、内ポケットから名刺を取り出し、百崎、皐月、弥生の順にその紙を配った。
弥生はその名刺に刻まれた文字に目を丸くする。
プログレススポーツ取締役社長
千代田敬一
「しゃ、社長さん!?」
弥生はその名刺の文字を視線で何度もなぞり、言葉を無くす。失礼だが、この、30代そこそこの彼が、あんな大企業の社長というのか?
しかし、対峙する三人は皆真面目な顔をして、それぞれに弥生の言葉に首肯した。
「うちの道場を、ここの会社が乗っ取りたいっていう話があってな。まさか、猛を丸めこむような手を使うとは思わなかった」
亮太は今にも飛びかかりそうな勢いだ。傍にいるだけで、彼の殺気の様なものが肌にビリビリと伝わってくる。
それもそうだ、その話が本当なら、亮太は黙ってはいられないはずだ。
弥生は亮太の僅かに見える横顔を見つめる。
亮太にとって、空手は、あの道場は実家と同じくらい大切なものだ。
物心ついた時からずっと通い続け、弥生も知らない思い出や気持ちが詰まった場所なのだ。
少し悔しい話だが、弥生でも支えられなかった事も、亮太が空手に助けられた事はいくつもある。
亮太にとっては、あの空手道場は恩人なのだ。
「乙女ちゃん、どういう事なの?」
弥生は亮太の気持ちを想い、苦しくなる胸を抑え、乙女の方を見た。乙女は千代田の腕を掴んだまま、少し視線を落とす。
「プログレススポーツがうちの道場を傘下に入れたいって言う話があったのは、本当よ。でも、その話は、もう随分前に断ってなくなったはず」
「その通り。僕達が出会ったのは、君がうちの会社に直訴しに来た時だものな」
千代田はそう言うと、その時の事を思い出したのか、愉快そうに目を細め、己の腕を掴む乙女の手に自分の手を重ねた。
「アポイントもなしに、本社に飛び込んでくる無鉄砲な人間がいるって聞いて、たまたま本社にいた私が面白半分に出ていったら、猛君がいたんだ」
「あの時は頭が真っ白で……スミマセンでした」
乙女は気恥ずかしそうにさらに顔を伏せる。決していい形じゃなかった自分たちの出会いを思い出し、恥ずかしさと苦々しさが胸に広がる。
千代田はそんな乙女の様子を、心底愛おしそうに眺めると、首を横に振った。
「いや、こちらの社員のやり方に問題があったのがおかげでわかったし、こうやって君にも出会えたし。自分にとってはラッキーな出来事だったと思っているよ」
千代田はそう言うと、亮太に改めて向きあった。
「まさか、猛の彼氏があの会社の人間なんて思わなかったよ」
亮太は責めるように乙女を一瞥する。乙女は眉を下げ
「付き合い始めた時にはもう、その話は終わったものだと思ってたから、言う必要はないと思ったのよ」
亮太は彼を責めるのは筋違いだと気がついたらしく、鼻をならすと千代田に視線を戻した。
「で、猛も道場もハッキリ断ったはずだ。道場は、お前たちのスポーツクラブになんかならねぇって」
「確かに」
千代田は真面目な顔に戻ると顎を引き、じっと亮太を見つめた。
「でも、君も知っているだろう? 四ツ谷道場は今……」
「猛や弥生の前でその話をするな!」
「亮太!?」
珍しく大声をあげた亮太を、弥生は見つめた。
何?一体、亮太は何を隠しているの?
乙女に助け船を求めるも、乙女もこの話にはついて行けていないらしく、首を横に振る。
「五木君。君や彼のご両親は隠し通すつもりだったようだけど、これはあの道場の長男である猛くんも知るべき話だと思う」
千代田はそう断りをつけると、話を続けた。
「猛くん。君の家の道場は今、厳しい状況なんだ」
「え?」
乙女にも初耳だったらしく、驚いたように顔を上げる。千代田はその乙女に不安に応えるように頷いて見せてから、亮太を見据えた。
「五木君。君は、あの道場の後継者になる予定なんですよね。でも、だから、館長さん達はこの話を飲んだんだと思いますよ。君にあそこまでの負担を被せたくないと判断したから、わが社と手を結んだ。その気持ちがわかりませんか?」
「でも、俺には一言も……」
呟く亮太に、千代田の瞳に僅かな同情が滲む。が、すぐにその輝きを押し込めると
「問題をクリアにして、次にバトンを渡したかった。親心ですよ。それに、少々きつく言わせてもらえば、君に何か具体的な救済案があった様には見えなかった。この道が最良だった様に思いますが」
「……」
亮太が拳を握りしめている。
悔しげに歪められた亮太の頬に、焦燥感とは別の感情が浮かんでいた。弥生はまだそれが何かわからなくて、ただ見守るしかない。
そこに、今までずっと黙っていた百崎の声が響いた。
「つまり、私の推測だが、一度は買収しようとして乙女の進言で断念した空手道場だったが、気になり調べなおすとその道場は自力での経営継続が困難な状態にある事がわかった。そこで乙女の親父たちと話し合い、亮太や乙女のためにアナタの会社が道場を救う事になった。そう言う事か?」
千代田は片眉を挙げて、感心したように百崎を一瞥する。
そして亮太越しに、その推測が合っている事を認めた。
「そんな。じゃ、もしかして……」
乙女の視線が弥生に向く。弥生はその意味がわからず混乱する。
乙女はそのまま視線を亮太に移すと、自分の推測が本当でないことを祈るような苦しげな口調でこう訊いたのだった。
「亮太が弥生と別れたのは、道場のせいなの?」
「え?」
弥生は思いもしなかった理由に亮太の顔を見つめる。
亮太は眉をぎゅっと寄せ、俯いていた。固く握られた拳は、まるで解かれる気配もなく、頑なに彼の想いを封じ込めているかのようだった。
「そうなのね?」
乙女の悲痛な声がロビーに響く。
その時だった。
「皆!こんなとこにいたのか!」
直輝が飛び込んできたのだ。一同はこの重苦しい空気に切り込むように現れた新郎姿の男に、キョトンとする。
直輝はそんな様子に気づく様子もなく、駆け寄ると、苦笑いし、自分の最愛の人を思い浮かべた緩んだ顔でこう言った。
「もう、探したよ。なぁ、睦月が皆を呼んでんだけど、一度、病室の方に……」