千代田
その足音で、誰が来たのかわかった。
条件反射の様に心臓が跳ね上がり、乙女は思わず立ち上がった。
静かなロビーに弾む息。彼の姿が見えた時、すぐには声が出なくて言葉を飲む。
「猛くん。大丈夫かい?」
千代田は乙女の顔を見つけると、破顔し駆け寄って来た、高級ブランドのスーツをそつなく着こなす男。彼こそ、今、乙女が付き合っている千代田敬一だった。
千代田は乙女の前で立ち止まると、彼の顔を覗き込むように両肩に手を置いた。
その手の重みから幸せが染みわたり、乙女の胸に温かい明りが灯る。
「はい。自分は……。心配おかけしてすみませんでした」
「いや、いいんだ。心配したのは俺の勝手だし。それより、ごめん。わがまま言って」
乙女は首をゆるりと横に振った。
視界に自分が以前送ったネクタイが入り、また胸に幸せの明かりがほんのりと灯る。精一杯の贈り物とはいえ、このスーツに比べればかなりの安物なのに、ちゃんと合わせて来てくれる、そんな彼の気持ちが嬉しかった。
「あの、千代田さん、皆を紹介したいんですけど」
乙女は申し訳なさそうにそう口にした。乙女を見つめていた千代田はハッとして、僅かに頬を赤らめ一同を見回す。
まるで、今始めて、ここに乙女以外の人間がいたのに気がついたかと言わんばかりの動揺に、皆は苦笑していた。皐月、ただ1人を除いて。
「あ、これは失礼しました。はじめまして、私は千代田敬一といいます。えと、自分はその……」
乙女の方を一瞥する。自分の事をどのように紹介していいのか戸惑っているようだ。乙女はその視線に気づき慌てて説明を添える。
「ここにいるのは、コイケンの皆だから」
コイケンの仲間の事はよく話していた。
何もかもを知る彼らだから、本当の関係を明かしても平気。
そう、心の中で付け加えるも、乙女自身不安だった。
千代田はまだ、そうやって人前で自分との関係を口にするのは嫌ではないか?それどころか、やはりどこかで自分と付き合うのに抵抗や後ろめたさを感じているのではないか?そう思うと、自分からは彼の事を話せなくなってしまうのだ。
そして、結局どうするかは彼に任せるしかなくなってしまう。
しかし、千代田の反応は、そんな乙女の懸念を払拭するように穏やかで、迷いのないものだった。
「あ、あぁ」
千代田の頬から緊張が抜け、改めて一同を見回す。
「じゃ、改めて。いつも、猛くんがお世話になってます。自分は猛くんの」
最後に乙女と目を合わせる。
その眼がすっと細まり、大丈夫と声のない言葉を伝える。
そして千代田は皆を見つめ、一呼吸置き、
「恋人です」
揺るぎのない声でそう、告げたのだった。
やられたな。
皐月は堂々と「恋人」と言ってのけた男の、清々しい顔を見つめ心の中で呟いた。
乙女を見つけ、駆けてくる姿。
乙女を想い、声をかける姿。
乙女を誇りに思い、宣言する姿。
これほどに誠実で、しかも男前の金持ちですって。非の打ちどころがないじゃない。
皐月はお手上げといった風に溜息をつくと脱力し、へたり込むようにソファにどっと背を預けた。
どんな奴か正体を暴いてやろうと息巻いていた分、ここまでナチュラルに完璧を見せつけられ、なんだかかえって拍子抜けた。
「皐月」
乙女が心配げな視線をこちらによこしている。
よしてよ。そんな目で見ないでよ。
皐月は微笑んでみせると、前髪をかきあげ立ち上がり、そのまま二人の前に歩み寄った。
周囲が不穏な空気にざわつくが、そんなのかまっていられない。
皐月は躊躇いも、遠慮もなく、千代田の目をじっと覗きこんだ。
とりあえず第一印象は合格だ。
でも、本性はどうだ?
皐月はそれを見極めてやろうと思ったのだ。
どこかで、これは悪あがきだと知りながら。
「あの?」
千代田の方はそんな彼女の行動に一瞬たじろぐ。しかし、すぐにその視線の中に彼女の想いをくみ取ったのだろう、反らすことなく見つめ返してきた。
挑戦的で、また本音を問う皐月の瞳。
が、それを見つめ返す瞳は、気負いもなく、また誤魔化しや迷いもなかった。
澄んだ、覚悟を決めた瞳。
静かな休日の病院のロビーに張った空気が、秒針が一回りしたのち、雪解けの様に緩んだ。
ふっと皐月の唇に笑みが零れる。
結局、目の前の男は、弁明一つせず目を反らすことはなかった。沈黙を守り、静かにだがしっかりと、自分の気持ちの強さを示したのだ。
最後の悪あがきも、失敗に終わったのを、皐月は認めるしかなかった。
「乙女を、四ツ谷猛を、頼んだわよ」
男の胸を突く。
タメグチなのは、彼より長い間乙女を思ってきた、せめてもの自負のあらわれだ。
千代田はそんな年下の女性の言葉に、真剣な顔で頷く。
「任せてください」
彼の向こうで、乙女が目に涙を浮かべ俯いているのが見えた。
「良かったね。いい人そうじゃん」
精一杯できる限りの明るい声を彼に向ける。
「皐月」
涙で潤んだ可愛らしい乙女の顔が輝く。
千代田と顔を見合わせるその横顔は、ホッとしたものだった。
自分には見せたことのない、己の心を人に委ねた顔。
考えれば、自分が乙女を頼っても、乙女に頼られた事はない。自分に限ったことじゃない、乙女が人を頼りにする事はほとんどない。余所余所しささえ感じてしまうほどに、彼は他人への迷惑を考え、自分の苦しみや悲しみは人に吐露しない性格なのだ。
そんな彼が心から信頼し、また、そんな彼を心から想ってくれる相手が出来た。
喜ばないと、祝福しないと、これは友達失格よね。
皐月は伝えたかった言葉をぐっと、胸の奥にしまいこんだ。
それが、せめてもの、友情の証である気がした。
― 今マデ アリガトウ コレカラハ 私モ 頼リニシテヨ
ソシテ コレカラモ 好キデ イサセテネ
「あ、五木亮太くんですよね。お久しぶりです」
千代田が亮太に声をかけたのは、乙女が亮太を残した他のメンバーを紹介し終えた時だった。
亮太は前回会った時の事を思い出しながら、立ち上がると軽く頭を下げる。
「はい、ご無沙汰してます」
千代田は自分を覚えていた事に安堵したのか、小さく息をついた。
「会うのは、猛に紹介された時以来ですよね。ここで会えて良かった。一刻も早く、アナタにお知らせしたい事がありまして」
そしてこうやや早口で言うと、手を差し出した。
亮太はその手の意味がわからず、戸惑う。それもそのはずだ。猛の彼氏から握手を求められる理由が思い当たらなかったからだ。
千代田はその表情を悪戯っぽく見ると、急に社会人の顔になり、続けた。
「つい先ほど、会社の方で書類が通りました。空手道場の件、もう、安心ですよ」
「え」
亮太の顔が跳ね上がった。
その場にいる人間は、道場関係の亮太や乙女を含め、全員が千代田の言葉を理解できずにただ、沈黙する。
千代田はそんな様子に「おや」と声を漏らした。歓喜の声が上がるのを期待していたようだ。そして、ハッとすると眉尻を下げた。
「あ、こんな時にスミマセン。非常識でしたよね。でも、いいお知らせなので、早く知らせた方がいいと思いまして」
と、やはり説明になっていない言葉を付け足したのだった。