猛 3
病院に着くと、エントランスに亮太の姿がすぐにあった。
向こうもこちらに気がついたらしく、駆け寄ってくる。
「今、連絡しようと思ってた所なんだ」
「睦月は?」
十津川は泣きだしそうな声で亮太に掴みかかる。亮太はそれを身じろぎもせずに受け止めると、顎を引いて
「大丈夫だ。今は落ち着いている」
そうしっかりとした声で答えた。
十津川の体から全身の力が抜けたのか、彼はその場で座り込み「よかったぁ」と呟く。
「今は、病室の方で眠っている。詳しい話は付き添っている先生の方から聞いた方がいいだろう」
亮太はそう言うと、案内すると言わんばかりに4人に背を向けた。
猛は十津川の腕を取り、気遣いながら皐月と一緒に彼を支える弥生と、亮太の背中を見比べた。
聞きたい事なら山ほどあった。
でも、亮太のその背中はまるでそれを拒んでいるかのように頑なで、猛は声をかけられなかった。
病室には、化粧もすっかり落とされ、病衣に着替えさせられた睦月が点滴につながれ横たわっていた。
入室を知ると、睦月の手を握る母親の傍に座っていた百崎先生がすぐに立ち上がり、十津川の方に駆け寄ってきた。
「睦月は無事だ。お腹の赤ん坊もな」
まずは率直にその事だけを伝えると、残りの4人に「少し出ていてくれ、十津川に話す」そう感情の抑えた声で言った。それから、亮太には「家族に連絡を」とだけ告げる。
そんな瑣末なやり取りに出さえ、気になりだせば二人の信頼関係の様なものが見え隠れするようで、猛は弥生の事が気になって仕方なかった。
「分かりました。じゃ、自分達は談話室の方にいますから」
亮太がそう答え、4人は再び廊下の方に出た。
「むっちゃん、本当に無事なのね?」
弥生が胸の前で手を組みながら亮太に尋ねる。亮太は首肯すると
「俺には詳しくはわからんが、無事には変わりなさそうだ。極度の疲労と緊張で貧血を起こしたらしい」
と短く説明した。
弥生の顔が泣きだしそうなほど緩み「良かった」と呟く。
瞬間、座り込みそうになるのを察し、猛は慌てて彼女に腕を伸ばした。
「大丈夫?」
「ごめん。なんかホッとしたら、気がぬけちゃって」
自分の腕に掴まる弥生の顔は、それでもまだ青く、猛は彼女を支えると見えてきた談話室のソファにそっとおろした。
談話室には人影は幸いなく、備え付けの小さなテレビでは旅行番組が垂れ流しになっていた。
猛は弥生の傍に座って、自分の肩に寄りかからせると、彼女をなだめるようにその背をさする。
「乙女ちゃん、ありがと」
そういう声はまだ弱々しく、安心しきれていない心のダメージを物語っていた。本来なら、この役目は亮太がするべきだ。でも、今は彼は公衆電話に手を伸ばし、やはり自分達には背を向けたままだった。
「でも、一安心じゃない。ほんと、どうしようかと思ったわよ」
皐月が自分を弥生と挟む形で座る。
彼女の方は随分気持ちが解けたようで、ソファの背に自分の身を預けると、足を伸ばして窓の外を眺めていた。
ドレスに着物に白ネクタイのスーツ。まるで病院に似つかわしくない団体は、緊張から解放された今は少々この空間に浮いているような気がした。
「睦月の父親には知らせた。これからこちらに向かうそうだ」
「そっか、とにかく無事で良かったね」
声をかけると亮太は先ほどよりは多少柔らかい表情になって頷いた。
「一時はヒヤヒヤしたけどな。睦月は昔から頑張りすぎる所がある。しょうがないやつだ」
腕を組んでそう言う声は、言葉ほどは怒ってもいないようだ。
猛もそんな彼の様子に顔がほころびかけた時だった。
一瞬、亮太の視線がこちらに向いた。そしてすぐに窓の外に向ける。
あぁ……と、猛は自分の腕の中の弥生に目を落とし、彼の視線の意味を悟った。亮太は弥生を気にしたのだ。やっぱり、彼の中でまだ、彼女がただの友達になっているわけじゃない。じゃ、何故……。
その時だった、廊下の奥の方で扉が開閉する音がし、足音が近づいてくる。
亮太はその音に弾かれるように顔をあげ、談話室から一歩廊下に体を飛び出した。
「あとは十津川に任せた。もう、心配はない」
そういう百崎先生は自分達に笑顔を作ってみせたが、酷く疲れた顔をしていた。
「先生」
亮太が彼女に駆け寄り、心配げに顔を覗き込む。まるで言葉にできない何かをその眼で語るように見つめている。それが伝わったのか、先生は先ほどとは全く違った弱々しい笑みを浮かべ小さく頷いた。
亮太が小さくため息を漏らす。自分の上着を脱ぐと、先生の細い肩にそれをかけた。
「すまない。ちょっと」
亮太にしては曖昧な言い方をすると、彼は先生の背を支え出ていってしまった。
どこに向かうのかわからない。でも、エレベーターの中に吸い込まれていく二人の姿は、おおよそ普通の先生と生徒の仲にはみえなかった。
「何よ、あれ」
非難めいた皐月の声がする。
確かに……そう思いながら猛は、自分の腕の中の弥生を窺った。彼女もまた複雑な顔で二人の消えた扉を見つめていた。
「あ、乙女ちゃん、ありがと。私、もう大丈夫だから」
「あ、うん」
猛は弥生から手を離すと膝の上でそれを軽く握った。
皆、言いたい事は同じのはずだった。
どこか睦月の無事を手放しで喜べないのは、やっぱり亮太と先生の事が気になるからだ。
彼らがどういう関係なのかはわからない。亮太と弥生の別れに関係しているのかもはっきりしない。ただ、確実なのは……。
猛はさっき、なんのためらいもなく自分のジャケットを先生の肩にかけた亮太の横顔を思い出した。
二人には自分達の知らない何かがある、という事だ。
あんな亮太も、先生も見た事がない。釈然としない思いが猛の胸の中に渦巻いた。隣に座る弥生はきっと自分よりその色は濃いだろう。
何かを押し込めようとするその顔は、疑念とそれをかき消そうとする良心とのはざまで揺れているようだった。
「ね、あの二人、付き合ってんの?」
「……」
張りつめた空気を割いたのは皐月の声だった。猛と弥生は二人同時に顔を上げ、彼女の顔を見つめる。
皐月は苛立ちを隠しもせずに前髪をかきあげると、形のいいその眉を寄せた。
「二人ともそう思ってんでしょ?なんか、こう言うのって気持ち悪いよ。私達の中に隠し事とか、探り合いとかさ。気になるならハッキリさせようよ!」
「でも……」
「とにかく、私は嫌よ」
弥生の言葉を遮り皐月は立ち上った。
「二人が帰ってきたら、私がハッキリさせるわ。弥生、あんたは怖いなら黙って見てなさい」
「皐月……」
言葉もなかった。彼女らしい言葉だし、間違っているとは思わない。でも……と猛は戸惑う弥生の横顔を見つめる。弥生の気持ちも痛いほどわかった。
弥生にとっては、二人とも大切な人だ。その二人が自分を裏切ったとも思いたくなければ、もし仮に二人がそう言う仲だとしても応援しないと、と思っているのだろう。しかし、感情なんてそんなお利口さんんでものわかりのいいモノばかりじゃない。彼女の中にだって、別れた彼とは言え、他の女性を特別扱いして嫉妬する気持ちがあってもおかしくはなかった。
「弥生。大丈夫?」
「あ、うん。平気」
全然平気そうじゃない。どうしたらいい?自分に何ができる?
猛がそう自分に自答した時だった。
内ポケットから急に振動音が鳴り響く。
「あ!」
ナースステーションから鋭い視線が飛んできた。
携帯電話だ。
猛は慌てて「すみません」と携帯を取り出すと、その着信元を確認した。
「あ」
それは千代田からだった。
胸が一瞬にして苦しくなり、猛は急いで電源を切ると立ち上がる。
「ごめん、ちょっと」
「うん」
今度は皐月が複雑そうな顔をした。察したのかも知れないな。そう思いながらも、さっき亮太が使っていた公衆電話に向かう。
平静を取り戻すように、猛は依然としてつけっぱなしになっていたテレビを消した。
CMの軽快な音がかき消えた。
受話器を手に、後ろの二人に気づかれないように小さく深呼吸する。
今でも、彼に会うとき、電話する時、メールを打つときだって緊張する。もう、彼の携帯番号はソラで言えるほどなのに、それでも番号を押す指先は迷うように彷徨った。
披露宴の後の二次会に、彼も招待されていたのだ。
待ち合わせに自分が現れないから連絡をくれたのだろう。
あまりの事に迂闊にも彼の事を忘れていた事を、猛は心の中で咎めながら最後の番号を押した。
2回のコール、すぐに繋がる。
「もしもし」
その声を聞いただけで、喉が干上がりそうだった。鼓動は普段より早いテンポを刻み始め、全身が熱に浮かされたような感覚に包まれる。
「あの、猛です」
「あぁ、猛くん。良かった、連絡が取れて」
電話の向こうの声は、心底安堵したらしく、いつもの彼の優しさを伝えていた。
「すみません、すぐに連絡しなくて」
「いや、いいんだよ。それより、大丈夫かい?待ち合わせに来ないから式場まで行ったんだ。そしたら式場が騒がしくてね、スタッフに聞いたら君の友人の花嫁が救急車で運ばれたっていうから……心配で」
「大丈夫です。彼女ならもう」
「いや、そうじゃなくて」
受話器の向こうの声が苦笑で揺れた。猛は首を傾げる。
「自分が心配したのは、君の方だ」
「え?」
目を瞬かせる。千代田の声はくすぐったいのを堪えているような震えを見せながら言葉を続けた。
「いや、もちろん君の友人を心配しなかったわけじゃないけど、こう言えば、君は軽蔑するかな。自分が一番気にしたのは君がショックを受けているんじゃないかって事だった」
「千代田さん」
胸の中心から暖かいものがじんわりと湧き上がり、体中に広がっていく。何故か理由もわからず涙がこみ上げ、猛は静かに息を飲んだ。
震える心を落ち着かせるように、ゆっくりと吐息を漏らす。
「ありがとうございます。私なら大丈夫です。でも、二次会は流れてしまいそうで、それで、あの……」
「じゃ、今からそっちに向かっていいかな?」
「え?」
「邪魔なら、すぐに帰る。とにかく、君の顔が見たいんだ」
鼓動が痛いほど強く胸を打つ。
この痛みが外に漏れ出してしまうんじゃないか、そう思うほど苦しく猛の心を支配する。
受話器を掌で包みそっと肩越しに振りかえった。
皐月と目が合う。その瞳が痛みを堪えるように細められ、逸らされた。
どうしよう。彼がここに来ることがいい事なのか、判断に迷う。でも、正直な心は彼に会いたいと叫んでいた。
「猛くん」
「わかりました」
答える声は震えていたかもしれない。でも、やっぱり、気持ちを止めるのはもう不可能で……。
「ロビーの方で待ってます」
「すぐに行く、じゃ」
そこで電話は切れた。
こう言った強引なところも嫌いじゃない。むしろ、動揺から解放され誰かに寄りかかりたい今の自分には嬉しいくらいなのに、猛は素直には喜べなかった。
受話器を置く。
振り返る。
皐月はその真っ直ぐな瞳で問うていた。
「彼がお迎え?」
思った事は口にする。正直で、誤魔化しのない唇。
だから猛も誤魔化さず小さく頷いた。
皐月の顔がまた、歪んだ。
背中でエレベーターの開く気配がした。
空気が揺れる。
「すまなかったな」
そこには亮太に肩を抱かれた百崎の姿。
静寂の中で、幾つもの思いが交錯し、その場にいた者たちは重なり合えないその視線に、ただ沈黙するしかなかった。