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猛 2

 瞬時にして、今まで感動と祝福に満ちていた世界が、不安に飲み込まれる。

「睦月!」

 再び新郎の声がした。彼は倒れる花嫁を抱え、酷く狼狽した様子で叫んでいる。

 何があったんだ?猛自身もすぐには動けずに、ただただその様子を見守る事しかできなかった。

 心臓はや鋼を打ち、本能が異常事態を知らせているのに、指先一つも動かせない。

 すると、いきなり自分の隣にいた影が動いた。

 壇上に飛び出して行った、二つの影。

 百崎と亮太だ。

二人は素早く壇上に駆け上がると、百崎は睦月を新郎から奪い横に寝かせ、亮太は引き剥がされた新郎に、落ち着くように声をかけた。

 百崎が床に横たわらせた花嫁の衣服を緩め、意識や脈を確認している傍で、亮太が会場中によく通る声で「救急車!」と叫ぶ。

 流れるような二人の息のあった様子に、ぽかんとしていた会場。

 式場のスタッフはそこで初めて我にかえり、止まっていた時間から解放されたかのように、どたばたと慌ただしく動き始めた。

 猛の体も、亮太のその一喝でようやく動けるようになり、壇上に駆け寄る。

「むっちゃん!」

 後に続いた弥生や皐月、そして親族たちが取り囲んだ。

 その間も、百崎が睦月に話しかけながら、懸命に意識を取り戻そうとしているようだった。

「どうしよう。睦月が……睦月が」

 十津川がさっきまで上機嫌に綻ばせていた赤い顔を、今は白に近い真っ青な顔で見つめている。

「むっちゃん!しっかりして!」

 猛もいたたまれなくなって声を上げた。しかし、睦月は時折苦悶の表情を浮かべるだけで、まともな返事をしない。

 彼女を呼ぶ声があちこちでする。

 心配する声が会場中を埋め尽くす。

 猛はその異様な空気の中、さっきまで輝くような幸せを放っていた彼女の顔を思い出していた。

「どうして……どうして、こんな事に」

 あんなに幸せそうだったのに、これからもっと幸せになるはずなのに。

 目の前の出来事を嘘といえるのなら、どんなにいいだろう。

 信じたくない。直視できない。どうしようもない自分の無力さにただただ落胆し、指先にしびれるような脱力感を感じ始める。

「むっちゃん」

 後ろで弥生が皐月に抱かれて顔を伏せていた。

 扉が弾き飛ばされるような悲鳴を上げた。

 この空気を弾くような声が、飛び込んでき集まっていた人だかりが割れる。

「どいてください!どいてください!」

 落ち着いた複数の声が、不安の波の中に切り込んできた。

 救急隊が到着したのだ。

 白衣の男たちは壇上に駆け上がると、洗練された動きで睦月の周りを取り囲み作業を始めた。

 百崎が状況を自分達には理解できないような専門用語を交えながら彼らに説明して行く。

 救急隊は助かったと言わんばかりに彼女の話に耳を傾け、そして睦月を担架に乗せると

「そこ、どいてください!」

 素早く睦月を運び出した。

「誰か一緒にこれますか?」

 救急隊員の声に、先ほどまで娘の幸せに涙していた母親が手を上げる。次いで、百崎が声を上げた。

「私も行きます」

 確かに、そうした方がいいだろう。この場で適格に動けている人間は救急隊員を除けば、亮太と彼女だけだ。

「先生!」

 鋭い声が飛んだのは、百崎が壇上から飛び降り、母親に寄り添おうとした時だった。

 見ると、亮太が怖い顔をして百崎を見つめていた。

「先生はここにいてください。付き添いなら俺が行きます!」

 彼はそう言い終わるか終らないかのうちに、十津川から離れ、彼女の前に立った。

 そして彼には珍しく感情を向きだした声で

「貴女はここにいてください」

 そう元顧問に、強い意志を込めた口調で言い放ったのだった。

 しかし、百崎の方は口元に僅かに微笑を湛えると首を横に振る。

「心配するな。私なら平気だ」

「でもっ」

 亮太はそれでも食い下がる。

「行きますよ!」

 救急隊員の苛立ちのまざった声。百崎は困ったような顔をして亮太を見る。

「時間がない。お母様を一人で行かせるわけにも、酔っぱらいを連れていくわけにもいかないだろう」

 百崎のいい分の方がもっともだ。この場の収集のために、父親は残るべきだろうし、十津川は泥酔していてまともな判断ができるようには思えない。母親には誰か状況を把握し冷静に判断できる第三者が人間がつくべきだ。

 しかし、それでも亮太は頑として首を縦に振らなかった。

「行きますよ!」

 再び怒鳴り声がして、亮太は戸惑いに眉をよせた。

 そして

「なら、俺も一緒に行きます」

「わかった。急ごう」

 救急隊員はもうすでに会場を出かけている。

 百崎は頷くと、母親の肩を抱き亮太を連れて、足早に運び出されていった花嫁の後を追うように会場を出ていった。

 残された会場の人間は、嵐の様に出ていったその一群を見送ると、緊張の糸がぷつんと切れたように騒ぎ始める。

 壇上では十津川が、呆然自失の体で「どうしよう。睦月が、睦月が」とうわごとのように繰り返し呟いていた。

 とにかく、落ち着かせないと。

 猛は傍に駆け上がると、彼の肩を後ろから抱きかかえるようにし、その顔を覗き込んだ。

「しっかりして。むっちゃんなら、きっと大丈夫だから」

 そんな言葉、気休めにもならない事は良くわかっていた。

 でも、いたたまれないほど動揺する十津川にかけられる言葉はそれくらいしかなくて……。

 みると、そばでは弥生が皐月に抱かれたまま、不安げに嵐が出ていった扉の方を見つめていた。


 披露宴はそこで打ち切りとなり、スタッフや司会に誘導されるように引き出物を持たされ、皆、会場を後にした。

 睦月の父親や十津川の両親は、この場にいる誰より睦月の体を心配しているのにもかかわらず、気丈に招待客に頭を下げていた。その姿は痛々しく猛の胸を締め付けた。

 十津川も一緒に並んで最後まで招待客を見送っていたが、最後の客への挨拶が終わると同時に、猛と弥生、皐月の三人の所に駆け寄って来た。

 酔いはとっくに冷めているのか、色のない顔で、三人の腕を掴む。

「亮太から連絡は?」

 まだなかった。心苦しく思いながらも猛が首を横にふると、十津川は唇を一度強く噛み

「頼む、病院に連れて行ってくれ」

 そう懇願するように、声を喉の奥から絞り出したのだった。

 

 そして、今、弥生、皐月とともに4人はタクシーで病院へと向かっていた。

 車内の空気は重く沈んでいた。

 病院へは車で5分。そう遠くないはずなのに、進んでも進んでも病院は近づいては来ていないような感覚がした。

「睦月」

 助手席で十津川が顔を伏せ、祈るように両手の指を組み項垂れている。

「むっちゃん、大丈夫よね」

 真ん中に座る猛の右隣で弥生が独り言のように呟いた。

「当たり前よ!亮太や先生もついてるんだから」

 皐月はそれにきつい口調でそう応えると、猛の手を握った。指先が細かく震えている。彼女もまた、不安と戦っているのだ。

 猛は、弱気を見せまいとする彼女のその手を包むように握り返すと、前を見据えた。


 信号が赤で止まる。病院は数百メートル先に見えて来ていた。

「でも」

 ふと沈黙に、波紋が生まれた。

 弥生だ。

 彼女は眉を寄せ外を見ながら独り言のように呟く。

「どうして、亮太は、あんなこと言ったんだろう」

 それは猛も疑問に思った事だった。

 会場をでる直前の、あの亮太と百崎先生のやり取りは確かに奇妙だった。

 それまでに亮太が百崎にこんなに強気に出ている事も見た事がなければ、彼女を引きとめる理由も見当たらなかったからだ。

 ふと、二人について思う事があり、猛は唇を結ぶ。

 最近、亮太が百崎とよく会っているのを猛は知っていた。見かけた事もあるし、彼女との約束があるからと何度か誘いを断られた事があったからだ。

 あの時の亮太は、運ばれた睦月よりつきそう百崎を心配しているように見えなくもなかった。

 そっと弥生を見る。

 もしかしたら、二人の別れに百崎が関係しているのかもしれない。でも、それはハッキリとした事情の知らない自分が言うべきことではないし、知っていたとしても口にはしないだろう。

「何か、二人の感じ、ちょっと前と違ったよね」

 その時、皐月が独り言のように呟いた。弥生がまるで誤魔化しを見抜かれたように顔を上げ、皐月を見つめる。

「それは」

 まずい。今、これ以上の混乱を招くのは。猛は握っていた皐月の手を握り直す。しかし、彼女は思った事をどうして口にしてはいけないのかと、不満げな顔をし猛を睨みかえした。

「何よ、乙女も感じてたでしょ?何か、あの二人、ちょっと仲良すぎる感じしなかった?」

 それは感じてた。でも、でも、今は……。

「ね、乙女ちゃん」

 弥生の固い声に振りかえる。

 弥生は不安の色に、疑惑の影を射して自分の方を助けを求めるような眼で見つめていた。

「何か、知ってるの?」

 言葉が探せない。知っていると言っても、二人がよく会っているのをたまたま知った程度だ。詳しい事は何もわからない。かといって、すでに妙な沈黙を作ってしまっている今、しらを切るのはもっとおかしい感じもするし。

「あのね、弥生」

 猛が言葉を探し、しどろもどろになっていた時だった。タクシーのタイヤが悲鳴を上げて止まり、体が強い力に押されるように揺れた。

「着きましたよ」

 運転手の声に、少しホッとする。

「今は、睦月の事だけを心配しましょ」

 猛はようやくそれだけを告げると、先を急がせるように開いた扉に弥生の体を押した。


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