弥生 1
その日は朝から慌ただしかった。朝一で美容院に行き、セットと化粧と着付けをしてもらう。駆け足で戻ると、朝飯を食べる余裕もなく、すぐに忘れ物がないかのチェックだ。
昔からそそっかしい一之瀬弥生は、そんな自分の性格を嫌になるほど知っているので、鞄を三度もひっくり返して確認した。
財布、携帯、デジカメ、お祝儀そして、結婚式の招待状。
「むっちゃんも結婚か」
弥生は本日の花嫁となる親友の顔を思い浮かべ、鞄を閉じると、思わず顔を綻ばせた。
彼女とは高校からの付き合いで、まだ年数にしては七年ほどだ。幼なじみと言える年数ではないが、それでも心から親友と躊躇なしに呼べる相手だった。
「皆とも会えるかなぁ」
弥生は時計を見ながら、久しぶりに集まる懐かしい顔の事を想う。
恋愛研究部、通称コイケン。
弥生と本日の花嫁、三田睦月は、その部活で一緒だった。
恋に臆病だった高校時代。なんとか恋を実らせようと発足させた、一組でも成功させれば解散という条件付きの部活。
泣いて、笑って、傷ついて、そして何かを見つけた大切な自分達の場所。
それは結局、弥生自身のの恋が実って終わったのだが……。
弥生は溜息を落とす。
途端に痛みと苦しみがこみ上げ、流しきったはずの涙がまた込み上げてきた。
「亮太、来るのかな」
呟いてみる。
その名前は一層、まだかさぶたの乾き切らない心の傷を疼かせた。
涙がこぼれ落ちてしまわないように目をきつく閉じる。
そう、亮太はその時、自分が実らせた恋の相手だ。でも今は傍にはいない。
「しっかりしなきゃ」
別れた恋人との再会がメインじゃない。今日は、親友の結婚式なのだ。
めいいっぱい明るい顔をしなければ。
弥生は想いを断ち切るように軽く自身の頬を叩くと、鞄を持ち直した、
ふと、窓の外を見る。
夏の熱気が過ぎ去った後の空は、どこまでも澄み渡っていて、ちょっと寂しげだった。
式場の受付には、もうすでにたくさんの人が集まっていた。
華やかな雰囲気に彩りを添える、様々な色の着物やドレスの女性たち。スーツをキメた余所行きの顔の男性たち。挨拶を交わしあっているのは、親の世代の人たちだ。
皆、一様に幸せそうで、この日を誰もが祝福しているのが見てとれた。
やはり、こんな場所に沈んだ顔は似合わないな。
弥生はそう思い直すと、素早く視線を動かした。
この中には、まだ彼の顔はない。少しホッとする。
「久しぶり~。元気だった?」
その声がしたのは、受付に一歩足を踏み出した時だった。
場の雰囲気に負けないほどの華やいだ声。顔を見なくても、すぐにわかるその人物に、弥生は心なしか避難場所を見つけたような安心感を覚えて振り返る。
「皐月」
目が合った二葉皐月は、当時より洗練された笑顔を弥生に向けていた。
頷きながら、ますます綺麗になったなぁ、と感心する。
皐月はコイケンのメンバーだった頃から読者モデルをするほどの美人だった。
卒業後も、大学に進学しながらモデルの仕事をしていたらしい。そんな学業も夢も順調だった彼女。それが去年、スッパリどちらも捨てて、デザインの勉強をしたいからとパリへ留学してしまった。
この洗練された笑みは、たぶん、彼女の外見の美しさのみではなく、そんな美への飽くなき挑戦と努力、そして妥協しない生き方をして来ている彼女の、毅然とした内面の美しさの賜物なのだろう。
「そっちも、元気そうね。いつ帰って来たの?」
弥生の問いに、皐月はその美しい顔を惜しげもなく曲げて顔を曇らせた。
「昨日の夜。バイトしてるデザイン事務所の人使いが荒くてね。フライトもギリギリ滑り込みって感じだったのよ。それより」
皐月の目が光る。
「やっぱり、日本の着物っていいわね~。良く似合ってる。やっぱり日本人の体型には着物よね」
彼女は着物の袖を手にとって、しげしげとその柄を見つめた。
勢いのある早口に、ずけずけと遠慮なく本音をまくしたてるその語り口。高校のときからまるで変わっていないのに気が付き、弥生は嬉しくなる。
その口の悪さのせいで彼女は敵を作る事も少なくなかったが、弥生は嫌いではなかった。少なくとも、彼女の言葉に嘘はないからだ。
「そう?」
よっぽど、シンプルなラインの大人っぽいドレスをさらっと着こなしている皐月の方がカッコいいのにな。そう思うが、朝のあの慌ただしさを考えると、この一言をきけただけでも頑張った甲斐があったような気もした。
皐月は散々弥生の着物の柄を、何か難しく評価すると、急に思いついたように顔を上げた。
「そういえば、亮太や乙女ちゃんは?一緒に来なかったの?」
「あ、うん」
軽くなって来ていた心に、また、錘が載せられた。