9、婚約者のほくろ
最近は朝起きるたびに憂鬱な気分になる。
もうすっかり夏の香りがする。
顔を洗う水がすぐぬるくなる。
前ウィルの家に行った時は大人気なく泣いてしまった。
私はただ、待ってほしい、と。
キスできると思えるまで待ってほしい。
私がウィルとキス出来ないと思うように、
ウィルも私に対して出来ないことや、されたら嫌なことは言って欲しいと。
そう冷静に伝えるつもりだったのに。
なんか……
ウィルとキス出来ない、と、
言っただけになってしまった。
ただ悪口言いに行っただけの人になってしまった。
しかも泣いて困らせてしまった。
あの後、ウィルは焦りに焦って、ハンカチを渡され、私のメイドを呼び、速攻で馬車を用意させ、早々に帰されてしまった。
よく考えたらウィルの前で、誰かの前で泣くなんて事、今までなかったわ。
小さい頃はあったかもしれないけど、性悪令嬢だとか悪役令嬢だとか呼ばれた辺りでは、もうすっかりプライドが高かったし、優しい人に囲まれてたから困った事も無かったし。
小さい頃は悲しい事に対しても辛いことに対しても『怒り』がわいてしまってたし。
あれからもう2週間。
なんの音沙汰も無くなってしまった。
返事に困るような事を問い詰めて、キスしたくないと言って、泣いた。
そりゃ……ウィルからは何も言えないわよね……。
これから結婚する相手に……なんて事を……私は本当に性悪令嬢なのだわ。
「サラお嬢様、本日のお召し物はいかがします?
だいぶ気温が上がるようですよ。」
メイドが着替えの準備を始めてくれる。
いよいよお姉様の結婚式が来月に迫り、屋敷の中が忙しなくなっている。
私は邪魔にならないように自室に篭るか、庭園で過ごすことにしている。
近頃の天気のいい日は、庭園にいるとジワリと汗ばむ。
長いスカートが汗ばんだ足にまとわりついて辛い。
「今日暑いのだったら、ドロワーズ履かなくていい?来客もないと聞いてるし、自室にこもるかお庭を散歩するだけだもの。コルセットもレースの薄いものにして欲しいわ。」
メイドが少し苦い顔をする。
本当は、着替えずに寝巻きのままベッドの上でゴロゴロ過ごしたいくらいなのに。
「水溜りをまたいではいけませんよ。」
「はーい」
「庭園を散歩なさるなら午前中の方が良いかと思いますわ。昨日のような天気なら日中は暑く過ぎますから。」
「分かったわ。
朝食をいただいたら散歩に行くわね。」
朝食を食べ日傘を持って庭園にでる。
忙しくなるまでは誰かが日傘を持って側にいてくれたけど、最近はそんな事お願いしていられない。
いよいよ結婚式準備も大詰めかしら。
こんなに暑くなっても、誰もついてきてくれなくても、庭園に出てくるのには訳がある。
最近、猫が住み着いている事を発見したのだ。
毛足が長いグレーの猫。
名前は付けてない。
今日はコックに砂糖を入れずに作ったビスケットとミルクを用意してもらった。
屋敷の中に入れてあげたいのだけど、なんせ屋敷内は結婚式用のドレスや宝石、引き出物やプレゼントで溢れかえっているので、猫ちゃんを近づけるのは危険すぎる。
両親やメイドも許してくれないだろうしね。
結婚式が終わって落ち着いたらまた相談してみようっと。
「ねーこーちゃーん!
今日はビスケットがあるわよ〜!
ミルクもあるのよ〜!」
変ね……。
いつもなら呼びかける前に駆けつけて来てくれるのに。
「みー……」
微かに猫ちゃんの声が聞こえる……。
猫といえば、やっぱり思い出すのはウィルが大事にしてたミネットのこと。
ミネットが亡くなってしまった時、私は現場にいなかった。でも、こんな感じだったのかもしれない。
あの時の事を思い出して視線を上にして探してしまう。
いた!
猫ちゃんが木に登って降りられないでいる!
え、猫って木登り得意なんじゃないの!?
にゃんぱらりで降りれるんじゃないの!?
ついミネットの辛い出来事を思い出してしまう。
私はあの時ミネットを助けることも出来なかったし、ウィルのそばで言葉をかけることも出来なかった。
何もかもダメだった自分を思い出す。
「待ってて、今回は、絶対、絶対助けるわ」
私は私を変えたい。
何も失いたくないし、
誰かの為になりたい。
木に空いている穴や、太い枝に足をかけてゆっくりゆっくり登る。
あー、もう、なんでドロワーズ履いてこなかったんだろう…。
木の皮が生足に擦れて傷だらけになってる……。
うぅぅぅ、痛い……。
「猫ちゃん、怖かったね……
これで大丈ぶ……。」
と、猫ちゃんを抱き抱えた途端、私は足を滑らせてしまった。
落ちる!!!!!
猫ちゃんは……
えーっ!にゃ、にゃんぱらりしてるじゃん!!
出来るんじゃん!!!!!
あーでも良かった!
猫ちゃんは無事だった!
あの悲劇を繰り返さずにすんだのね!
地面は芝生になってるとは言え、相当な衝撃を受けるはずだった。
2階程の高さがあったかもしれない、骨折してもおかしくない高さだったと思う。
なのに、怪我をせずに済んだ。
だって、誰かに抱き止められたから。
無意識にその人の胸元を掴んで引っ張ってしまい、シャツのボタンがいくつかが弾け飛んだ。
その人の手が私の肩と太ももを支えている。
落ちる時にギュッと閉じていた瞼を、恐る恐る開いて、1番に目にしたのは、鎖骨の下にある小さなほくろだった。
何故か、滾った。
女性には見られない筋肉のつき方。
首元に流れる汗。
はだけた白いシャツ。
骨張った鎖骨。
小さなほくろ。
引き締まったなめらかな素肌。
小さなほくろ。
「あ、危なかったー……。」
「ウィル……!」
『もわっとした汗の匂い』
って一文を直前に消しました。
なんかちょっと変態ぽい気がして。




