1 君は運命を信じるか?
「君は運命を信じるか?」
なんていう問いかけは、この際、やめておこう。
何を運命とするかは人によるし、どれだけ特異なことが起きたとしても、運命を信じない人にとって、それはただの偶然でしかない。だから、運命というものが存在するという前提に立った上で、そうすることでしか成立しないこの問いかけこそが、今は相応しいんじゃないだろうか。
「自分の運命をあらかじめ知ることができたら、君はどうする?」
例えば勇者になって世界を救う運命だったとして。
君はその運命に従って世界を救うのか?
それとも、そんな運命は要らないと言って、ただの人間として生きるのか?
もちろん、それだけでは決めかねるという人が大多数だろう。
あるいは有名人になりたいとか、みんなからチヤホヤされたいといった承認欲求の強い人ならば、迷わず世界を救うのかもしれない。
しかし、ここで躊躇した大多数の人々は、きっとその運命の裏を知ろうとしているはずだ。
勇者になる。
それは本当に良いことなのか?
そう問わずにはいられなかった人々だ。
勇者になったら何かと命がけで戦わなくてはならないんじゃ?
例えば魔王とか。
あるいは宇宙人とか?
この問いが肯定されたなら、そもそも戦うという選択肢を選びたくない人が、ここで勇者になることを辞めるだろう。
次に進めるのは、命がけで戦うことを是とする人々か――あるいは、命がけで戦うということの意味を理解できていない人々かのどちらかだ。
この先にも勇者になることを辞める理由はいくらでもある。
命がけで戦うのは自分一人なのか? それとも多くの人と共に戦うのか?
戦う相手は何者なのか? 残虐な意思疎通のできない化け物なのか? それとも彼らなりの正義で戦う誰かなのか?
自分が戦わなければ世界は救えないのか? それとも自分以外にも勇者はいて、自分が戦わなくても世界は救えるのか?
世界を救ったあと、自分はただの人間に戻れるのか? それとも強大な力を持つ怪物として死ななければならないのか?
勇者になって世界を救う。
全てが上手くいくのなら、これほど魅力的な運命はない、と言う人もいるかもしれない。
しかし、そこには同時に、その裏側に、たった一つでも間違えたのなら、これほど悲惨な結末を迎えかねない運命はない、という底無しの落とし穴が潜んでいるんだ。
だからきっと、勇者になって世界を救う――そんな人は、そもそも勇者になんてなるつもりはなく、必死に生きていたら、いつの間にか勇者と呼ばれるようになっていた――そういう人なんじゃないだろうか。
つまり結論を言えば、勇者になって世界を救う運命をあらかじめ知ったのなら、きっとほぼ全ての人がその運命を拒否するんじゃないかな。
裏側に潜む底無しの落とし穴に気付かない考え無しでもない限りは。
勇者になって世界を救う。
そんな物語の英雄になれる一見素晴らしい運命であっても、その運命を受け入れる人はほぼいない。
その裏側に落とし穴があるんじゃないかと疑うから。
人は失敗を恐れる。
正確に言えば、失敗し続けることを恐れる。
しかし同時に――前言をひるがえすようだが――失敗する可能性を忘れることができるのも、人の性である。
必ず成功すると根拠もなく信じること。
時折いる、そういう人は、得てして成功を積み重ねた果てに取り返しのつかない失敗をして世界から姿を消す。
――だがもしも。
もしもそういう人が、自分の運命をあらかじめ知ったならば。
彼らはきっと、積み重ねられるだけ成功を積み重ね、致命的な失敗を回避して、その後は何にも挑戦することなく、積み重ねた成功を食い潰しながら生きることだろう。
それは間違いなく素晴らしい人生だ。
きっと英雄になるよりも安全で、勇者より刺激は少ないが、世界を救うより確実で堅実だ。
平和な世界に英雄は要らないが、成功者はどんな世界でも必要とされる。
だからきっと、選べるのならば、大多数の人々は成功者になることを選ぶ。
必要のない戦いになど関わりたくもないからだ。
……さて――長々と語ったが、ようやく本題に入るとしよう。
つまり最初の問いかけに戻るわけだ。
「自分の運命をあらかじめ知ることができたら、君はどうする?」
そうのたまったあいつは、こともあろうに選びようのない選択肢を俺に突きつけた。
一見、なんてことないように思えるだろう? だが、この問いには実は落とし穴がある。
いったいどこにそんなものがあるのかって?
答えはシンプルだ。
そもそも前提条件が落とし穴なんだ。
運命をあらかじめ知る。
予知。あるいは予言。
未来を知る力があることを前提としたこの問いかけは、その力をどうやって得たか――あるいはどうやって知ったのか、という説明がない。
勇者になって世界を救う運命も。
積み重ねられるだけ成功を積み重ねる運命も。
その前に底無しの巨大な落とし穴があったなら。
そもそも前提が取り返しのつかない失敗なのだとしたら。
……俺はどうしたらいい?
俺が落ちたその落とし穴は、「君の未来にはもう悪いことしかない」と告げてくるような奴で――
――端的に言って、悪魔の落とし穴だった。
春とかどこに行っちまったんだよ、と呻きたくなるほど地味に暑い日が続いた四月下旬の午後。
コンビニの袋を持った俺はいつも通り、駅前通りから人気のない路地へと歩を進めた。
たった一本、住宅街の中へと入っただけなのに、車の通りの多いはずの駅前通りの喧噪が一気に聞こえなくなる。
どういう理屈でこうなるのかは知らないが、騒がしいのが若干苦手な俺にとって、この静寂は非常にありがたいものだった。
そんな場所に俺の住むアパートはある。
上から見ると、十字に交差する大きな通りから伸びる路地が交差する場所にあたる。
築何年かは知らん。興味もない。
ただ、見た目はまだ新しめなことから、十年くらいじゃないかと思われる。
いわゆる1Kだが、部屋の広さは一人暮らしにはやや広めで、二人までなら住めるくらいにはある。
まあ、だからといって相手がいるわけじゃないんだが。
……自分で言ってて悲しくなるな……。
防音もしっかりしていて、壁に耳をあてても隣の部屋の住人の声とかは聞こえない。
エアコンとネット回線は完備――今時、当たり前か。
風呂はあるにはあるが、いわゆるユニットバスというやつで、面倒くさがりを自負する俺は大抵シャワーで済ませている。もったいないと言うことなかれ、自動湯沸かし機能がない風呂とか本当に面倒なんだ。面倒ったら面倒なんだ。
ちなみにペット可。
というアパートを目の前にして、コンビニの袋片手に傘を差して俺は立ち止まっていた。
いや、本当に目と鼻の先なんだ。あと三メートルも歩けば自分の部屋の前なんだ。
それでも立ち止まった理由――立ち止まらざるを得なかった理由がある。
「にゃー」
俺じゃない。断じて俺じゃない。
つまり、長々と居住するアパートについて語ったのは、一種の現実逃避だったわけだ。
今時そんな捨て方誰もしねえよ、と名前どころか顔すら知らない相手にツッコまざるを得ないほどベタベタでベタなものがそこにあった。あったというか、いた。
段ボール、そして黒猫。正確に言えば、段ボールの中に入った黒猫だ。ご丁寧に段ボールには「拾ってください」と――いや待て違う「拾ってくれたまえ」と書かれている。なぜに上から目線……?
それにしてもなぜよりによってここなのか。なぜ、俺が居住するアパートのゴミ捨て場なのか。なぜ、雨が降っている今日にしたのか。今朝はなかったじゃないか。朝から夜まで一日中降ると天気予報で言っていたじゃないか。傘すら置いてないとはどんだけ薄情なのか。いやまあ誰かが持っていってしまったのかもしれないが、それはそれでそいつが薄情すぎる。
「……………………」
「にゃー」
見つめ合う一人と一匹。今なら動物愛護を訴えるポスターの写真に使われても文句は言えない気がする。使われないだろうが。だって見つめ合っているだけだし。
「にゃー」
「…………」
ジッと見てくる黒猫。黄色と赤の瞳が俺を写している。どれくらい珍しいかは知らないが、オッドアイは珍しいはずだ。
俺はそっとコンビニの袋を降ろし――その中から鶏ささみの燻製を取り出し、さっと開けてさっとほぐして段ボールの中に置いた。
「……こんなことしかできないんだ」
間違いなく伝わらないだろう言葉を呟く。
うん、拾わないよ?
だって最後まで責任持てないし。かといってガン無視して立ち去るほど非情にもなれず、保健所に連絡する程度の崇高な精神すら持っていないんだ。
日本人特有の事なかれ主義と偽善。
俺もそんな中の一人なんだ。
だから俺にできることと言えば、あとはもうこの差している傘を置いていくくらいしかない。幸い、居住するアパートは目と鼻の先だ。
ここじゃない場所に捨てられていれば、誰かが拾ってくれたかもしれないし、誰かが保健所に連絡したかもしれない。だがこの黒猫はここに捨てられた。だから俺と出会い、だから鶏ささみと傘を与えられただけで終わる。
きっとこれも何かの縁なんだろうが、それは決して良い縁じゃなかったんだ。そう諦められるのは人間だけだが、偽善を押し付けるくせに拾わないなら、その諦めも押し付けるしかないんだ。自分勝手な諦観を押し付ける――残酷な人間になるしかないんだ。
「……じゃあな」
一方的に別れを告げ、コンビニの袋片手に雨の中を駆ける。
たった三メートルだけだが、それがきっと俺とあの黒猫を隔てる心の壁の厚さなんだ。まあ、俺からの一方通行なんだがな。
そう自虐しながら、ポケットから鍵を取り出し、アパートのドアを開けた。
――カンッ――カッカカッ……。
その音に思わず動きを止め、音がした方を見ると、
「にゃー」
置いてきたはずの傘の下で、さっきの黒猫が鳴いていた。
「え……? ……あっ、おいっ」
そしてその黒猫は、あり得ない状況に固まっている俺の脇を駆け抜け、部屋の中に入ってしまった。
「えぇ……」
つまり、懐かれたんだろうか。鶏ささみを与えたからか? いやまあそれしか原因は思いつかないが。……マジで……?
「……まあ……仕方ないか……」
俺の中の事なかれ主義が、一度拾った生き物を再び捨てるなと訴え、いや拾ってないし勝手に入られただけだしという言い訳を上回った。
よくわからないが戻ってきた傘を拾い、ドアを閉めてリビング兼寝室的な部屋に入ると、黒猫はもう早速ベッドの上で丸くなっていた。迷いがない。
……最近の猫は頭がいいんだろうか……さっきのアレといい、コレといい。
確かに黒猫はベッドの上で丸くなっている。だがそこは絶妙に今は使わない部分であり、誤解を恐れず言えば決して邪魔にならない、実にわきまえている場所だった。
隣で俺が晩飯を食っていても絡んでこない。パソコンを開いてゲームをしていてもキーボードの上に乗らない。俺が寝ようとすると一旦ベッドから降りて、俺が寝る体制に入ったのを確認してからベッドの上に戻ってくる。
……頭いいなぁ……。SNSで流れてくる可愛いが迷惑な猫の行動を何一つしないとは……実にできた猫である。これなら共同生活も波風立てず送れることだろう。いや、送れるはずだ。
――だがしかし、翌朝、俺はこの確信を捨てることになった。
「にゃーにゃーにゃふっにゃー」
「いや、ちょっ、爪を立てないで、無理、無理だから、連れていくとか無理だから、お願いだから爪を立てないで、ズボンが破け、遅刻、遅刻する――!!」
めっちゃ絡まれた。
大学に行くためにアパートを出ようとした段階で、連れていけとばかりにズボンに飛びかかられたんだ。しかも引き剥がそうとすると爪を立てて抵抗する始末。何とか引き剥がし、なお「にゃーにゃー」鳴く黒猫をリビング兼寝室的な部屋に閉じ込め、ようやくアパートを出られた。
なお、バス停まで走ったにもかかわらず、乗るつもりだった大学直通バスには直前で出発されてしまった。遅刻確定である。
何で俺は朝からこんなに疲れているのか……。
バス停の待ちスペースの先頭で空を仰いだのは仕方ないと思う。
意気消沈したまま遅刻確定のバスに乗り、もう少しで大学に着くという交差点を通り過ぎるところで、パトカーや消防車、救急車がやたらと集まっているのが見えた。交通規制も敷かれていた。
何か事件だろうか……?
気にはなりつつも、その時は大して気にしなかった。他人事だからだ。
唐突だが、一応、説明すると、俺が通う大学は台地の中のさらに高台にあって、バス停から大学に向かう道は実は二つある。
一つは、バス停から真っ直ぐに台地の上に行き、台地のへりに沿って向かうルート。
もう一つは、バス停を出てすぐに曲がり、台地の下に沿って行き、途中で一気に上がって向かうルート。
前者は広い道だが若干遠回りで、後者はやや狭い道だが大学までほぼ直進できるルートだ。
そしてあの交差点こそ、その二つのルートが合流する場所だった。
俺は前者の道を走るバスから、後者の道を見ていた。
後者の道は一気に上がるという特徴から、合流地点直前は崖上のような道になっている。崖と言っても大した高さじゃない。たぶん十メートルもないんじゃないか? ガードレールだってちゃんとある。だからよほど重い車が衝突でもしない限り、崖下に落ちることはない。
落ちるはずは――ないんだ。
「――市で9時頃、バスが崖下に転落する事故がありました。バスには多くの大学生が乗車していたとのことですが、バスは転落直後に爆発炎上しており、生存は絶望的と見られています。……次のニュースです――」
昼食時。いつも通りぼっちで飯を楽しんでいると、食堂に設置されたテレビから、そんなニュースが聞こえてきた。
思い出すのは今朝の光景。たくさんのパトカーや消防車、救急車と、交通規制のためのフェンス、黄色いテープ、そして――少しだけ見えた黒い煙。
周囲から「今のって近くじゃね……?」「友達の一人が今日来なかったんだけど……まさか……!」などという声が聞こえる。
だが俺はそれどころじゃなかった。
俺は見ている。直前で乗り損ねたバスが、バス停を出てすぐに曲がるところを。もしもあの時すでに交通規制が敷かれていたなら、あのバスは真っ直ぐに行ったはずだ。つまり、あの時点で事故はまだ起きていなかったということで――
それから先は、飯の味がよくわからなかった。
何とも言えない鬱々とした気持ちは、帰宅のためにバスに乗っても晴れなかった。
喜べばいいのか? それともホッとすればいいのか? あるいは悲しめばいいのか?
答えは出ないまま、アパートのドアを開けた。
リビング兼寝室へ続く扉を開くと、目の前に黒猫がいて「にゃー」と鳴いた。
…………そうだな……どう気持ちを整理すればいいかわからないが……少なくともこの黒猫が絡んできたおかげで命拾いしたのは確かだろう。
「……だったらお前には感謝しないとな」
伝わるはずのない言葉を呟く。
鬱々とした気持ちを抱えながらも、キャットフードを忘れず買ってきた自分を少しだけ褒めてやりたい。これで忘れていたら、思わず土下座してしまっていただろう。猫相手に。
……だが、命の恩人――いや恩猫に対する感謝を示すのに、キャットフードだけでいいんだろうか? ここは何かもっと良い食べ物を……?
「……いや……そうだ、名前……」
そう、名前を決めていなかった。
命の恩人ならぬ命の恩猫への感謝としては不足かもしれないが、今回の件で俺はこいつが死ぬまで飼うと決めたんだ。名前を付けるというその第一歩を刻むのは、当然の行為じゃないだろうか。
「……ふむ……黒猫……」
だがそうなると悩む。
そもそも俺に猫の雌雄を見分ける技能などない。
だから雄でも雌でも違和感なく、かつセンスがあり、かつ呼びやすい名前を付けなければならない。
難易度高えな、おい。
そして案の定、思いつかない。俺にネーミングセンスは無いというのか……!
……こういう時は次善の手段である。
ネット検索だ!
便利な世の中になったもんだ、とネットが無い時代の人になったかのようなことを思いつつ、「黒猫 外国語」で検索する。
ネーミングセンスが無い奴は、下手に「黒猫 名前」とかで検索するよりも、単に「黒猫」を外国語に変換した言葉を名前として付けた方がいいというのが、俺の持論だ。外国だとおかしくても、日本だと名前に聞こえるような響きは結構ある。
「……ふーん……イタリア語か……」
検索したところ、イタリア語が気になった。
黒猫はイタリア語で「ガット ネーロ(gatto nero)」と言うらしい。「ガット」が猫で、「ネーロ」が黒とのこと。
気になったのは当然、後者だ。
ネロ――どこぞの皇帝の名前だが、最近はとあるゲームの影響で萌えキャラの方が有名になってしまっている。主に日本で。
だが、元となった人物は男だ。つまり、雄でも雌でも違和感が無い名前ということになる。日本限定で。
これはもうこれしかないという気がする。いやもうこれしかないだろう!
「というわけでお前の名前は『ネロ』な」
決定を告げつつ、キャットフードを皿に盛って差し出す。
黒猫改めネロは、皿に近づき、一口食べて――
「んー、これ口に合わないにゃ。昨日の肉がいいにゃ」
――キャットフードより鶏ささみの燻製をくれと断言した。