一幕 5 ホテル
「6」
数日振りに夜すがら眠り続けた。眠り足りない様子でもなく、毛布の温もりにたまに浅く微睡ながらも段々と思考の回転数を上げていき、朝食用の販売人が部屋をノックしたことでやっとベッドから抜け出した。朝は石窯で焼かれたパンを四つと実は昨晩も呑んだワインで済ませた。
ワインは、地理や気候の性質上、葡萄が大量に収穫できる国内一帯では身分関係なく親しまれている。下町でも手頃な嗜好品として親しまれ――親しまれすぎているようで、仕事もせず日中に飲酒なんて人が多いらしい。余談だがアサヒのそれは真似事などとは異なり、たまの贅沢のようなものだ。
昨日の契約の時点でもう一泊分の支払いや確認を済ませており、日暮まで差し迫った用もなかったのでついつい手が伸びてしまっていた。平時から飲酒について非難がましいことをレティには散々言われてきたが、昨日今日に関しては事前に了承を得ていた。そう、大義名分があったのだ。
アサヒは背嚢からいつかに逗留した街で物見遊山から帰るさ、或る酒店の奥さんの手助けをしたお礼に戴いた銅製の杯を取り出した。陽に透かして見ると鈍い反射をしてみせた。緑黄色のボトルには赤黒い液体が並々に入っていて、持ち上げると幽かな波が起こった。
ボトルには取っ手がなく、両手に持っておそるおそると杯に注いだ。そのまま煽って呑むのも男男しく思えもしたがすぐ酩酊してしまうのは勿体ない。こういうのはちびちび口に含むのが一番美味しい味わい方だとアサヒは知っていた。唇を湿らせ、舌を這って、呑み込む。ほんのりと胸のあたりが熱を持ち始めた。金属が濡れた唇と口づけし、黒にほど近い一筋の雫がなだらかな曲線を伝って彼の親指にまで流れ落ちた。すかさず吸いつく。過去、この行いをレティは叱責した。鴎に怒られたのはあれが初めてだった。
両開きの窓から朝の弱陽が闖入してくる。曜日で平日か休日か決定される国でもなければ、そんな井然とした下町でもない、しかし昨日が休日だったのならば今日は平日なのであろう。アサヒが不識なだけで自警団が取り決めた条例の一つやもしれない。
杯を片手にのしのしと我が物顔で窓辺に寄り、晩に俯瞰した通りは朝から忙しない雑然とした様相となっていた。早朝の通勤ラッシュには遅いが似たような光景である。視線を切り、顔を持ち上げ、地上四階からの遥か彼方を見霽かした。城下を丸々囲っている七八メートルほどの城壁をぼやけながらに目視できた。然るに当所が東端からやや離れた位置であるならば遠くの城壁は西端或いは西北西ではなかろうか。かなりの距離があるように思えるが、本来は更に遠い。
ところでアサヒの目算で彼方の城壁を『西端或いは西北西』と記したが、ではどうして判別がついたのか。窓枠の端にちらと映った荘厳な城砦の煉瓦色をした尖塔だ。第二の城壁と謂わんばかりに囲い、四隅には煉瓦色の尖塔を配し側防塔としての役目も備えている。窓枠に垣間見たのは彼の目先からして西の手前側の尖塔で、城は正面門から北に聳えているため、必然、彼の目算は外れてはいなかった。
栄養栄華に輝く王国――リューイン、魔術排斥での責の清算が今なお続く『外れものの国』。しかし絢爛たる城下、頑強な石垣の城壁、多国籍を疎み恐れるあまりに敷いた自親他疎の法、それらこそが自給率の圧倒的高さを誇りながらも、列強国と並び立つ所以の一端であるのは火を見るよりも明らかだ。
既にどこかから金槌の叩く音が木魂している。なおも眠り続ける誰かの目覚ましになっているに違いない。先進国の朝は早い。誰かの仕事が誰かを駆り立てるのだ。
隣りか又隣からか愉快そうな話し声が聞こえてきた。壁という区切りを設けた人類は未だ防音の可能性には至っていない。社会の営みは喧騒を育み、間もなく風に乗って勃興の声々がやってくるだろう。国境におかれた関所を越境して、冷やかな石の壁を越えて、涼風が開かれた窓から、朝陽の拡がりに沿うように……、部屋のなかに。
「――――――ァァ」
大きく深呼吸して、ワインを一口、明澄な朝の薫りが鼻腔を擽った。仄かな葡萄の香りもまた。煙突から昇る黒煙が棚引き、風の行先の標になっている。鷹揚に翔ぶ鳥の群れ群れ。城壁の彼方、空際が世界の涯みたいである。そこを起点として生み出される雲、風、鳥――――。
「――――――――ア、ァァァァァ」
アサヒは存分に堪能した顔で食事に戻ろうかと窓の取っ手に両手を伸ばした。
「―――――――ァァァァアアアアアアアッ!」
「………ん?」
「―――――アアアアアアアアアアア」
群れから外れたのか一羽の鳥……いや、鴎が急速にこちらに近付いてくるのがわかった。アサヒは静止していたが、脳は滔々とあることないことを猛烈な速度で語っていた。危機なのか、悪ふざけなのか、誰かの画策なのか、絶妙な酩酊の具合は加速度的に読みの速さ深さを引き上げさせた。取り敢えず後退ろうとして誤って杯を床に落してしまった。板をはりめぐらした床を這うみたく版図を延ばしていく。小さな丸穴に貯まりそこから泡を吐いた。杯は滾々とほぼ無限にワインを吐き出し続け、その最中、アサヒは鴎があんな無様な声を上げるはずがないだろうと益にもならないことを思った。
「アアアアアアアアア! ア、アサヒ受け止めてぇぇぇぇ!!」
無論、レティ(カーモメー)の悲鳴だ。冷静な様子のアサヒであるが、実情自身の名を呼ばれたことに更に混乱を強めた。ここまできて彼がレティであると解しても、畢竟結果は分岐しない。レティは無様に啼き、アサヒは不細工な姿態を晒し、すんでのところで機転を利かせた彼がしゃがみ込み、どうやら衝突は避けられたらしい。だが、「アブッ!」と壁に衝突して、間抜けな一声を残すこととなったのである。鈍器で殴られたような痛々しい、聴くのも憚る生々しい音にアサヒは恐々とした動作で見やった。
「……なんだ、レティか」
呆けたように呟いた。
「なんだじゃないわよ!」
ゼノ体で、しかも心身の制御権を委託されていたのだろう、生身と同等の痛みがレティの身に降りかかったのである。バードアタック、もしあのまま窓を閉めていたらどうなっていたことか。軽い戦慄を覚えながら倒れ伏したレティの下へ近寄った。
「おいおい大丈夫かよ。獣医なんて町にいないぞ」
「最悪死んでも運が良かったら別の生物に寄生するから大丈夫よ。あ、でも次回は植物にしたいわ」
「可能性は無きにしも非ず、くらいって以前言ってたじゃねえか。お前の言う運が良かったらってのはその程度の確立だ。あんまり期待するもんじゃない」
「なに一端な口聴いてんの。あんたが危惧してることくらい対策済みよ」
「あー心配してせいせいした」
「ぶっ飛ばすわよ!」
「鳥の羽ではぶっ飛ばせませんー。羽根が散るだけです。禿になったら自業自得です」
後々が面倒なために自ら煽るような真似は控えていたくらいだから、レティの燥ぎ様は列火の如くである。アサヒもたまに言われてつい苛立った経験が幾つか想起されるが、毎度のこと次々と言葉が重ねられ、その語彙の豊穣さにいつも今一つ足らないこちらが敗北してしまう。
また些細な要因で口喧嘩に発展した際などは前回又は前々回の収まりきらなかった溜飲が繰り越されてでもいたかのように、過去と現在とを纏綿させ、思い出せば思い出すだけ吐き捨てるのである。そしてアサヒが白旗を振れば、あの高慢さが増長され、いつも語頭に「ハッ」と三年前の邂逅したばかりの時分に回帰したみたいに純然たる精霊らしさを発揮するのだ。
「けど窓にぶち当たって、地上へ落下してたら流石に死んでたのは確かだな。頼むからカーモメーさんが息を引き取っても出て行かないでくれよ。周囲の目には変な歩き方してるやつにしか見えないくらいで済むからさ」
「……はぁ。わかった。けど難儀するのよ。阿吽の呼吸だからって慌てちゃう事態もあるわ」
「どういう事態だったんだ? 経緯は」
「……大したことじゃないわ。狩人に狙われただけ」
「同族か?」
「ええ、でも凄まじいほどの精確さだったわ。事情があったみたいでイグノは篭められてなかったけど」
原則人が精霊を殺害する行為は万国共通で重刑に処される。しかしなかには同じ精霊でありながら矛を向ける酔狂な類もいる。悠久の時を生きる日々に飽いたか、探求のなかで結局は争いこそが不変の本質だと悟ったのか、人間のアサヒには終ぞ得心がいくことはなかったが、単純さこそに深淵なる真理が潜んでいるように、彼の到達するはずもない深淵に在る精霊には、更なる深淵にて人になど及びもつかない真理を見ているのかもしれない。
「全く何がしたいのやら。同族なら彼らの気持も察してやれるんじゃないか?」
「そう難しいことじゃない。人と人が争う理由それと同じよ」
「十分難しいだろ」
「あんたからしたらでしょう。寿命からして余裕が違うのよ」
「……そうかもな」
爾後、彼らに主だった問答はなかった。屹然さを衒うかのような様子を痛みを忘れたみたいな凛とした立ち姿で印象付けた。喜怒哀楽の変わり様が盛んなレティだが、疑惑を抱くまでもなくこれこそが素であることを長年の付き合いから看取していた。彼女が今なにを考えているのか彼にはわからない。別の様子は純粋な本心であるから看破する必要すらない。だからこそ、あの達観した物言いや佇まいから思考を酌み取ることはできなかった。以前に鴎から機微を読むという離れ業など彼にできるはずもないのだが。
それからどうにかこうにか介護しようとしておろおろするだけのアサヒにレティは一言「出て行って」とだけ言った。今一つ真意を図りかねて右往左往の彼であったが
再度念を押すように言って漸う渋々と外に出た。気にかかって戸越しに耳を欹ててみたところで一端さえ窺い知れなかった。種々な不安は巡っていたが先ほどの『アサヒの危惧など対策済み』の言質を証明しようとしているのだろうと信じる他なかった。
廊下は室内より彩光性に乏しく暗鬱としていた。木板の軋みに不穏な情感を覚えた。
上階か階下かはたまた何処かの室内からかの物音が彼を苛んだ。不安でありながらも手持無沙汰なアサヒは慌ただしい朝に因んでせかせかと労働に勤しむ従業員に通路を譲り譲られながら、全開に開けられ、タッセルに縛られた藍色のカーテンの思いの外厚い生地を弄ったり、外の景色を眺めたりして過した。
聞いたところによるとここ数十年で内観の装飾を煌びやかにしようという上町の風潮がこちらにまで浸透してきており、不格好に見せないためのタッセルも一種の調度として扱われ、現在では工夫されるようになったのだそうだ。アサヒはそれを聞いて一寸感慨深くなったのを記憶している。しかし、改めて廊下の最奥まで一望してみると、あちこちに趣向を凝らす設計や今世の技術に則ったバリアフリー的な配慮まで隠見されるが、窓ごとに掛けられたカーテンがどうにも上品に過ぎて場の雰囲気に則していないように思われた。
視覚を騙す技術などを知る由もない彼であるが迷いはなかった。いろいろを想察してみるも設計師やら建築家やらの鋭敏な目がかのような漠然とした不調和を見落とすはずがないだろうに。経営側は華美な造りを目論んでいたが、設計師の野趣な意向に軍配が上がり、どうしても納得のできなかった彼らが資金を叩いて取付させた、こんなところだろうか。
上町や、風光明媚な環境であれば両方が文句を言い合うこともないほどに決定されたろうに、こんなしみったれた町並と釣り合いを取らせようとすれば感性と固着した価値観の対立は激化するに違いない。その一論が正しいだろうとアサヒは一度二度頷いた。
さて、また数分して頭を動かして幾分か不安も落ち着いたアサヒは自身の宿泊する部屋の戸を叩いた。どうにもおかしい気がしたが取り敢えず考えないようにした。
簡単に許可が下り、半ば緊張の面持ちで入室すると、
「……どうなってるんだ?」
啞然とした。
「一体何に対して言ってるの?」
「あ、いや、まあいろいろなんだけど……何はともあれまずは」
満面の笑みで、
「ワインどこやった?」
テーブルに置いていたワインボトルはワインだけを消し、確かに陽に照らし出されていた。
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今しがた『ヴェルドゥード9thホテル』の或る一室に精霊が飛び込んでいくのが見えた。偶然か、不法侵入か、いずれにせよ自警団の端くれとしての責務を全うせねばならない。ゲルデ・グルミュースは相変わらず集まりの悪い点呼と連絡を終え、いざ子供たちの待つ公園へ、と意気込んでいたところでの事件であった。
熟考すると俯きがちになる癖のある彼が幸か不幸か中空の珍妙な事件を局外者として遭遇できたのだ。
「……職業柄、では僥倖かな」
ゲルデは苦笑しながら、現場へと足先を向けた。四方八方どこに気を配っても活気が充溢しており、その気になれば一帯を鎮める鶴の一声になるだけの威光を有している自身にはもう慣れていた。だが非認定の、名前だけの権力に笠を着て横柄に振る舞うなど一時代昔までの暴力や女や金に酩酊した輩と何が違おうか。欲望に忠実な往時の期すべくしてなった退廃に比すれば、複雑怪奇で、人間の根源を満たすことが余りに難渋となった現在、この町に拡がる喜楽、怒りや哀しみは正当な感情なのだろうか。
繁栄と衰退、平和と戦争、人類の二律背反し、ただ発展を続け、今にまで成長を遂げた雄偉さの一片にもなりはしないだろう大きな国の小さな町で人の感情に善いも悪いもないだろうに。そもゲルデに、自警団総勢にも他人の感情を決定する力もなし、また法もない。故に感情に『正当』もない。哀しければ哀しみ、嬉しければ嬉しい、ありきたりで、啓蒙するまでもない普通の感情が溢れていてほしい。権威に制御された感情ほど冷淡で、そして強力なものはない。……人の感情に上下関係などあってはならないのだ。
――かつての彼はどうであっただろう。
朧な記憶はしかし昏く澱んでいることだけは覚えていた。黄昏、知らぬ人に受けた善が剥離され、穿たれ、陥没し、そして宵闇よりも暗黒の心を手に入れた。ただ唯一月光だけが彼の眸に幽かな光りを与えていた。
――鋼鉄の甲冑。
「雪が吹雪いて、悴み、けれど……神は神でしかなく、人は人でしかなく―――熾天使、精霊、イグノの耀き」
「やあ」
「……え?」
*********
どうやらワインは”医者”に報酬として一息に呑ませたらしかった。アサヒの外している間に獣医ではなく、精霊専門の医者に診察して貰い、ついでに治療まで施して貰っていた。彼はその医者に訊きたいことは山ほどあったが、疾うに姿はなかった。影も形もないとはまさにこのことで、残香さえもなく、存在を確認できるのはレティの五体満足な様と、ボトルから消失したワインでしかなかった。
「まあいいか治ったんなら。ってことで、レティは僕は飲み直すから」
「あんたね……」
「いいだろう? 貴重な休日なんだ。ほら出てくか居座るなら端の方で頼むよ」
「貴重って、昨日もあれだけぐーすかしておいてよくそんな大言吐けるわね。それに追撃を仕掛けてくる可能性だってあるの。もっと慎重になさいな」
と言って、乱れたままのベッドに飛び乗った。山々の稜線のようななだらかな皺の上を踏みつぶすみたいに歩いていく。まだ眠りの微熱は留まっているのか、とアサヒは気にかかった。だが、応えるものはなく、レティも無言のまま、何かを語る法も義理もないという調子で彼の視線を意に介していない。
アサヒはワインを注文しようと部屋を出、受付に向うことにしたが、途中、清掃員の初老にいやに畏まって請願した。それから数分もせぬうちにボトルに並々入ったワインを両手に抱えた女性従業員がやってきて、
「申し訳ありません、お部屋の番号を聞きそびれたおりまして……」
と言って深々と頭を下げた。従業員服が鎖骨が露出する際どい設計をしていて、アサヒは女を見たり、ボトルを見たりと気が気ではなかった。
部屋に戻ってからまたしばらく、再度女が戸を叩いて、菓子の入った木籠を取り換えにやってきた。その折に、
「六陽の鐘が鳴ります時分にお部屋のお掃除に参らせていただきます」
とこれまた鷹揚な所作と共に付け加えた。経営側か、衣裳を意匠した者ものの嗜好を標榜している恰好に、沈黙を貫いていたレティも物言いたげな風で、アサヒに秋波を送っている。しかし、一向に視線に気付く様子のないアサヒは正午前には一旦ここを出て行かないと、などと思案し、なるたけ女の身体に関心が行かないようにしていた。
「……では、失礼します」
回答のない不愛想に慇懃な姿勢を崩さず、最後の最敬礼に至るまで従業員然としていた。まるで機械人形とも見える女に彼は教育が行き渡っていることに感心した。
「……あれは、あれはコスプレ?」
「レティってたまに頓珍漢なこというよな」
平素から未知に遭遇しては篤学者気質な一面が表に出るレティだが、殊更に面妖な事物と相対した際には、脳の回転の速さが起因してか荒唐無稽なことを発言したりするのだ。
「こんがらがってしまうのよねぇ。本当に、侮れないわ」
「……」
一人悶々とするレティをよそに朝酒を再開した。窓は閉めておいた。外でどれほどの事態が起こっていたとしても悉く干渉しない決意の現れである。
刻一刻と時間は流れ、閉め切られた密室にあっても社会は勝手に極小さな隙間から侵入してきた。地上でも、廊下でも、真上真下からも、アサヒたちのようにぼんやりと空を見張って、機械的な動作で杯を口に運ぶ、それだけに時を費やしている人はいないだろう。孤立の淋しさも、孤高の優越感もない、彼らは社会に気に入られる人生を送っていないだけなのだ。
ついに嵩の半分を切った具合のボトルの軽さに勢い任せで注ぐのはどうも躊躇われた。どれだけ欲張ったところで時間の無駄なのは否定のしようもなかった。しかし大人共通の痼疾であるのだから治療しようとは毛ほども思わない。蟄居を決めた今日だが、空想のなかの廓落とした部屋そのものの実現には先ほどの隙間を塞がぬ限りかないないし、もう二時間もすれば荷物はそのままにしていいが、外の空気や喧囂と直に触れ合わなければならない。
平日は仕事に、休日は遊びに、と言っていた一般の男女のさも平均的だといわんばかりの言い分に彼は頑として異を唱えたかった。そんな考えの同胞を、異端だとか、少数派だとか、どこぞの島国の多数決主義の枠内に収めないで欲しかった。
……逸るペースを落ち着かせるべく椅子からベッドに移動し、腰かけた。満足にはまだ程遠く、酔いもまだ足取りに確然たるものが欠けている程度であった。
「あまり吞みながら余計なこと考えるもんじゃないわよ」
隣りで長らく口を閉ざしていたレティが突として言った。
「レティ的には悪い酒か?」
「過分な飲酒とセックスよりはマシかしら」
「どっちも好きなら構わないじゃないか」
「潰れる人間の典型ね。駄目な場所には大抵駄目な人間が集まるものよ。もしかしなくても毒されているのではない?」
「……郷に入っては郷に従え、に倣ってるだけさ」
「ああ言えばこう言う。微薫の厭な面ね。改悛を知らない、身体だけが大人になって。でも本質は未だに子供ね」
「うっせ」
一息に飲み干して、横臥した。レティに顔を背けて、壁の木板の黒ずみをじっと見つめた。
「けど安心してもいいわ。大人と子供に明確な区切りなんてないもの。成人も、飲酒も、喫煙も、子を成しても、それであんたが別の何者かに変身するわけじゃない。大人って謂わば肩書よ。寿命五十年そこらの人間風情にそう大それた生涯を謳歌して、本当の意味で大人に成ったなんて多いはずがない。皆、肩書にそぐうよう見栄を張ってる。善良の顔をするのは容易いものよ……」
「生来善良であり続けることが難しい、そういうことか?」
「………」
瞼に当る陽から遁れようと身をずらした。レティは肯定も否定もなく、アサヒを瞥見したり、枕にうすらと着いた髪の毛を見たりしていた。比するアサヒは、杯をすぐそこの床に置き、少ししたら起き上ってまた並々に注ごう、もう少ししたら、少し……と心中で設定したタイマーが零になると、また数十秒であったり、数分であったりと追加していった。
が、間もなく意識は混濁し、寝息すら立てない深い眠りの底へ落ちていった。
*
戸を数回ノックされてアサヒは目覚めた。鈍麻な感覚が身体中に瀰漫し、だが極めて気が重くなるような頭痛がおそらく退室の通告に来たのだろう女のノックを無視するべきと囁いた。体調不良を盾にすれば後回しか明日に回すかしてくれるのではないかという甘言である。
再三自身の名を呼ばれ、戸を叩かれ、それに呼応するのは頭痛であった。
「どうすんの? 無視していいの?」
「………頼む、おかえりになってくれと伝えて欲しい」
「あたしを誰と思っているの」
「……」
多大な辛苦に苛まれながら起き上り、立上り、戸を開けた。そこには露出の激しい女……ではなく、
「やあ」
「え……」
赤髪の美青年、ゲルが立っていた。