一幕 2 ミゼラブルってる
「3」
長い眠りからの目覚めであった。アサヒは鈍重な身体をどうにか持ち上げ、地面に裸足をつけた。ひんやりとまだ朧げな感覚であっても確乎として自分が裸足であることと、地面は床であることと、床は冷え、それでいて感触が最低であることは判った。
「あぶねえなぁ、全然ヤスられてないぞ。ったく、そんなとこも値段相応なのな」
簡単な加工だけを済ませ、人に対する最低限の配慮は行っていない。ただ、アサヒの言の通り、値段相応だとして鑑みればささやかな気遣いをする客が気遣うまでもないような類だったとするならば不平不満を叩きつけられたところで経営人は良心が痛むはずもない。
碌に清掃もされず、ベッドのシーツも黴が点々、壁や窓の材木は汚穢なる様相で、唯一の気遣いであろう窓台に置かれたささやかな花瓶には蜘蛛の巣が張ってあり、活けられた花は落ち込んでいる。
然るに内装の客を客とも思っていない態度の明々しさからするに、余程肝っ玉の坐った経営方針をしていると断じる他ない。評判も超然とした構えの前には無力だと言える良い事例である。いや、ここまである種趣味の領分で宿屋を名乗っている店もないだろうから、事例として扱うに足るのかも不明だ。
だが、貴店ほどであれど幾許かの欲があるらしかった。内は暗澹としているが、だというのにそこそこの部屋には鍵がかかり、共有便所では二回に一度は隣りから用を足す音がする。別段料理が美味しいわけでもなし、風呂に珍しい入浴剤が用いられているわけでもない。
アサヒはまだ夜半にあるのに受付でチェックアウトを済ませた。諸々を薄汚れた用紙に記入しながら、隅のランプが赤々と揺らめいているのに軽い安堵を覚えた。彼は暗闇が厭であった。燈はアサヒの滑らかな動作を模倣する。安らかに燈は辺りを照らし出すのと同時に、暗がりは壁に拡がり、廊下へ続き、最奥さえ窺い知れない濃厚な陰翳に支配されている。限定の光りと縦横する影、その対比に、漸う記入を終え顔を上げた彼に底知れぬ世界の深みを見せた。受付のあからさまに面倒そうな面に眼を合わせるまでもなく、急くように踵を返した。
外へ出ると、すっかり寒々しい大気が肌を衝いた。身震いする寒さではないけれども、宿の建付けが禍いしてなければすぐさま動き出してしまいそうだった。
禍い転じて福と為すとはよく言ったものだ。
アサヒは振返り、再三悪評を並べた宿の外装を這うように見上げた。
街灯に照らされ、三階建て、夜目にしても立派な外見である。甍を争う建物群の乱雑で……前衛的で、整然のせの字もない奔放な様をしているなかで、明瞭なまでにまともな一軒であった。真に下町らしい風情に、眼前のハリボテは町並から異様に浮いていて、このような路地の小径に建ってさえいなければ一躍町随一の集客店になっていたに相違ない。
「ハリボテとは言い得て妙だ。ま、スケールを引き延ばせば王城を含んだ城下全域もハリボテなのだけど、堅牢な欺瞞の激流は巧妙な手回しと奸計の数々にギリギリ秘匿されているようだわ」
「レティ」
「レティネアとお呼び」
いつもの台詞を吐きながら、レティは磨墨に塗装された空から静かに降下し、アサヒの肩に降り立った。だのに質量を感じさせない違和感に、
「助かるよ」
と触れられない頭に手を添えた。八百グラムが肩に乗りかかっては生活にこそ支障は軽微だが、有事の一瞬間の反応を要求される状況にあってはその限りではない。
――ということは、やはり。
「そんな高価な代物なんかね」
背中の背嚢に手をやった。
「金にはなるわ、あんたが夜を明かすはずだった部屋に数十年は居られる。けどおそらくそこじゃないでしょ」
「だろうな、この辺りは金を持ってる方が不利だ」
「そもそも商売人が考えなしにみすぼらしい下町の一角に露店なんか開かないわ。何年、いえ何十年単位で信頼を勝ち取り続ける苦労を前程として……その結果があって店を出している人間もままいるみたいだけど」
「月々の稼ぎからして、生涯この町に縛り付けられるのも前程としなくちゃならない、と」
「死に目にまで底辺の人間たちの汚れた臭いを嗅がされるなんて、たまったものじゃない」
と、悪態を吐いたレティは中空にまで浮き、イデア体からゼノ体に切り替えた。先端になるにつれ濃い黒になる羽は光りに触れ、清廉な白との境をより際立たせた。
夜は深い。空高く、ずっと高くでは星々が耀いている。丁度、月は雲に隠れ、弱弱しい月光を曝していた。月は動かず、雲々は靉靆し、町は森閑として、まるで彼と雲だけが世界で活動を続けていた。しかし、今アサヒにとって夜は静かでなければならなかった。
*
瑠璃の空、未だ臥する社会。日中、往来の激しい公園の周辺は舗装などされているはずもないから事あるごとに砂埃が舞っている。下町を拠点にして長い商人の三四人がそれぞれ大金をはたいて馬車を購入した一件から住人は初めて上人に舗装工事を歎願した。それが二年前、つまり正式に受理されたか否かは一目瞭然である。元より簡単に判が押されるくらいであれば、新式の教科書も家庭ごとに配布されて然るべきでだ。そもそもその上人とやらに一言一句違いなく聞き及んでいるかすら疑わしい。
下町は城下にとっての陋巷なのは言うまでもないが、絢爛と退廃の懸隔を決定づけているのはただ二つの階段だけであった。上町のそこここに下町を一望できるスポットが点在していて、時に或る場所から見上げれば眼が合うことがある。眼が合うとは言っても互いが互いにこちらを覗いているだけで距離からして顔ないしは服の貧相さすら識別できないだろう。
差とは何事にも生れるもので、国が一つあればそこで一つや二つの差別が生じ得るなんて必然的なのだ。貧富の観点ですると上を仰ぎ見ている彼らは弱者、敗者、下人の位置づけに類別される。いつだって勝者は煌びやかであり、敗者は路傍の花さえ虚弱に映るのだ。気を抜けば常に心は凋落の翳りが蠢いており、どうにかこうにかの手段を用いて己を瞞着している。毎日のように働き、城壁の向うの広漠とした大地にひっそりと建つ掘立小屋の方がずっとマシな住まいに帰り、隣りの芝生と争いながら、いつも理想を空想している。
そうだ。
「厭だろ? 理想ってのはずっと輪郭が掴めないけれど、目標は背中が薄っすらと見えているんだ。それなら理想に縋っていたいと思うのは何も駄目なことじゃない。彼らは知らない場所を、知らない自分を追い求めている。いつだって、現実を直視してしまう目標から逃げるのさ」
少なくとも彼の知己は皆一様に自分を見てはいなかった、と。
「人のもん盗んで、身に着けて、陶酔して。でも、理想との彼我の差は変わらない」
彼を見下ろす誰かも、彼が見上げる誰かも、皆一様に自分よりも高い地点にいた。
「上の奴らが言う所有欲より醜悪で純粋な所有欲がある。獲って奪って、持って、慰めるんだ」
女装したレウキッポスを殺害したダフネ、嫉妬に苛まれ謀ったアポロン、一体誰にどれほどの咎があるというのだろうか。
「セレウコスは眼前に仰ぎ見た月桂樹に何を思ったのだろう……」
彼は凡そ了解していたのだ。自分は被害者であっても、加害者なのだと。
「……ところで、セレウコスってのはぁ、誰だ?」
*
アサヒはぶらりと昨日訪れた公園までやって来ていた。あれから一睡もした気配のない彼は、ずっと町なかを散策していて、陽も昇ってきたところで、いよいよ睡魔に襲われたらしくふとあの樹木の麓を想起して云々。宿屋に訪う以前に背嚢を枕に無防備な昼寝をかましていた彼にとって、風も、寝心地も、再び味わいたいと思えるまでに虜になっていた。正直、例の宿屋での一時間ちょっとの浅眠の要因に昼寝が当るのは仕方ないとして、眠り難さに一廉傑出した力があるボロ部屋の一応ベッドの体をした何か悍ましい怪物に包まれてしっかり夜通し眠り続ける胆力は彼にはなかった。菌やダニの根城に臥床してしまった一因かは定かでないが何度かボリボリ背中を掻いている様子が見受けられたり――。
と、まあその他諸々の理由もあって、遅めの朝食も兼ねて、気軽に立ち寄れる露店のある栄えた通りまで出てきたわけだ。
「十時過ぎ、それも休日なら家族皆でってのもちらほら」
下町でも笑顔はあるようだった。アサヒは雑踏を縫うように進んで往き、
「おっちゃん、トースト、じゃなかった、ラットフ二つお願い」
「あいよ」
筋骨隆々なオッサンは満面の笑みで焼きたてのトースト……ラットフを寄越した。名詞の差異だけで、トーストと外面も中味も瓜二つ。調味料のあれこれは発展途上と言明するしかないが時間の問題と思われる。それに魔術や生物の存在は必ず未知の可能性が潜んでいるに等しいし、発展の方向は文化の色彩を色濃く継承するだろうから、その意味でも言葉通り無限大の可能性に満ち満ちている。
「と、金を」
品を受け取って慌ててポケットに忍ばせた金貨を取り出した。
「おいおい兄ちゃん、幾ら珍しく眸に明け透けっぽさがないやつだからって後払いってのはどうかと思うなぁ」
「悪い悪い、でもおっちゃんも待たずに渡してきたじゃんかよ」
「あれ、そうだな。がはははは」
つくづく無骨故の愉快さにアサヒも唇を綻ばせた。大陸共通の金貨『ルームス銀貨』を三枚投げ、オッサンは飄々と片手間とばかりにキャッチした。
「命拾いしたな。性質の悪い連中だったらあることないことで文句を附ける」
「高説感謝、チップいるか?」
「殺して奪うのが早い。それに、確実だ」
「……」
アサヒは直感的に自分の内側を透かされていることを覚った。だが、極めて平然に、自然に頷いて、
「無駄に危険を負いたくないもんでな」
指を弾いてもう一枚銀貨を飛ばした。オッサンはこれも俊敏な反応で掴み、何事か発しようと口を開けていたが、疾うにアサヒの姿は雑踏に吸い込まれていった後なのであった。
馥郁としたラットフの香りを撒き散らしながら、往来の四方八方からの人足を避けていると、遍満した香りに引き寄せられた不特定多数のなかに赤髪の青年が内在しているのに気付いた。繁る肉たちのずっと先に印象的な赤色が混じっていて、アサヒは相手の視線からではなくて、こちらの偶然から発見したのだ。
最悪、偶然がなければ二度と彼に気付かなかっただろう。下町で活動する異常、常日頃から猜疑の鉄心でいなければならない。日夜に限らず、また人混みのなかにあっても例外ではない。町の生活に馴染むことは野生の目、肉食の目、互いの特性を知らずとも養っている、或いは養われなければならない。人間標準から逸脱した猜疑心と言うは必ずしも後天性であって、無自覚か、もっと能動的であれば自覚を有して培っていく。
下町に染み込んだ荒廃の雰囲気は、何も一目瞭然の視覚情報で確立されているのではない。人間が無意識に標榜している獣の目と同質のものを誰も彼もが飼い慣らし、その異常な発達がおどろおどろしい気配、違和感となって滲み出しているのである。これは上町の人間の唯識とあまりにかけ離れていて、理解の範疇にはない。
従って茫々とした感覚がどうやら同じ人間から発されているとは信じられない上人は、慈善と称して環境保全に注力するよう訴えかけている話もある。まれに路上のゴミを収集、撤去している姿があれば、それは十中八九私服刑事ならぬ私服兵士だと見てもらっていい。
一つおかしいのは、斯様な私服兵士も上町の屈曲した考えが正当でないと理解しているのにも関わらず、箒で掃いたり、魔術で風を起したりと黙々作業に勤しんでいるのは、たかが知れている給料の為でなく、路傍に細々と暮らしている宿なし金なしがなけなしの財産をはたいて買った一日分の食事をゴミだと言って横領したりできるからである。困窮に喘ぐ不憫な輩の絶望の一食は血色の良い兵士の摘みに消える。
「ミゼラブルってる」
子供たちの微笑ましい光景にほど近くの陰惨な実情を失念しそうになっていた。頭の片隅には彼らの悲哀さを解していただけにアサヒは昨日の変哲もない風景が幻想のように思えてならなかった。
アサヒは手の温かみを感じながら脳裏では路地裏にひっそりと坐す痩せた不健康な体を思った。
昨日の樹の下へ辿り着いた彼はその場に溜息交じりに腰を落とし、背嚢を脇に寝かせてラットフを齧った。この瞬間も遠くか近くで鬼籍に入る名も知らない他人を確かに想見しながら。