プロローグ 花の精霊
「1」
「全く失礼しますわね。わたくしがまこと人間の少女らしく朝の挨拶をそれこそ可憐に、純真に、それで以て無垢なままに言いましたのに、貴方と来たらわたくしをそれこそ花に纏わる蝶々にするみたく握りつぶしてくるなんて。もしわたくしが”イグノ体”を解いてゼノの状態になっいたら……貴方、精霊殺しだったのよ。さしもの貴方でもわかるでしょう、精霊殺し、字面通りに精霊を殺したということ、それ、人間たちのない頭を振り絞って考案した法に依れば極刑或いは無期禁錮或いは終身刑或いは……ああ! もう、細々としすぎて何かしらこれと言った究極的明快な一を創りなさいよね、煩わしい。尺度だとか妥協だとか慈悲だとか抜け穴とか、種々の観点があることは認めましょう。人間らしさとはそういうところにあるのだと思うけれど、別に折衷案を決めろってわけじゃないのよ、ただね、ほら、いちいち幾つあるのかも定かじゃない罰のあれこれを挙げるより絶対に犯したくなくなるような身の毛もよだつほどのおっそろしい罰を提示した方が何かと都合がいいと思うの、そうでしょう? そうよね、うん、そう。てかその方が私も長ったらしく喋らないで済むからその方がいいに決まってる。ま、でも致仕方ないことよ、貴方御存知? ”翡翠の彗星”様の噂。……あら、御存知なの、そうね新進気鋭の、セイブ・ザ・クイーンを僭称してる一団の総大将。右も左もわからないことはないのだとは信じているけど無謀もいいところね。いえ、無謀と対峙して、絶望の裡にいてもなお耀くのなら本物でしょう。遣り口も含めてわたくしの同類は賛同しているのは確か、でも人間である以上人間の倫理が必ず彼らを討とうとするわ。或いはそれこそを越えて初めて本物なのかもね。ただ敵は数多いれど、味方もまた数多、光明は十分にある。それでも天秤は英雄の卵たちに不利をつきつける。げに騒乱の兆しに塗れた趨勢。乾坤は寂寞、しかし人は踊る。……なんて恰好つけてみたり。けれどこれも致仕方ないことさ、なんたってわたくしたちの愉しみは人の世にしかないんだから。精霊の寿命は大小振れ幅はあっても三百から千ってところ、に比べて人は五十前後、人に深く接し過ぎた精霊には可哀そうだけど、大抵は変遷が著しいから面白いと考えている者たちばかりなんだ。つまり入れ替わりが早いからいいってこと。その儚い一生だからこそ強く眩く生命を全うできる。素晴らしいじゃないか。ああ、うらやましい、妬ましい、愛おしい。ん? わからないって顔だね。そりゃあそうさね。わからないだろうね、君にはどうしようもなくわからない。ほとんど正しい意味で不老不死を得たわたくしたちを羨望するような人には決してわからないだろう。なんたって精霊は一種自然そのものだから。悠久のなかでやっと変容する自然そのものなんだ。なんてつまらない。なんて苦しい。なんて憎たらしい。君たちは人生の短さを呪うかもしれないが、同時にわたくしたちも長すぎる人生を呪っている。―――――――おっと、すまない、ごめんよ。どれくらい時間が経ったのかな? 十秒ちょっと? 成程そうかありがとう、いやはやわたくしも最早どれほどの時間を花の精として歩んできたものか、判別つかなくなったんだ。年齢も不明瞭になった。ねえ、知っているかい、自身の歳さえわからなくなってしまう頃には秒単位の経過が刹那に感じてしまうようになるものなんだ。君が友人と遊ぶ時だとか、約束の前日だとかの時、時間の流動が早かったり遅かったりするだろう、それと同質の状態が平素から続いているんだ。―――――――え? 翡翠の彗星? ああ、うん彼女ね……そうだったそうだった、話が変な方向へ彷徨していたみたいだ。……悪かったよ、ごめんごめん、これでも人と話すなんて何時ぶりかわからないんだ。ちょっとの飛躍も逸脱も許容して欲しい。でも、飛躍とか逸脱とか、まさに翡翠の彗星、彼女そのものの言動にこそ言えると思うんだよ。少なくとも突飛さで言えば英雄や賢人に値するだろうね。魔術の蘊奥を極めたリューケ、シャナクシィを討伐したトラオアー、人の身で超越者、覚者に至った彼らは疑いようもない英雄だろう。けれどわたくし、思うに『1』から『10』に到達する偉業より、『0』から『1』を証明する偉業の方がより偉大であり、英雄足り得るとそう思っている。そういう意味合いからしたら翡翠の彼女は未知を開拓することを主とした英雄に大別できるね。若しかあの言や動がひたすらな虚言であったのだとしても世界は惑乱に揺れるだろう。そして揺れて、畢竟彼女が断頭台に上がっても、残したものは必ずしも人類にとって無益にはならないに違いない。コペルニクスの転回に近しい結実を獲得することになるだろう。いつだってそうだった、人類の進歩は決意と過程と諦念と暮れ泥む意志により反転した展望でさえも解を得ようと足掻き続けることだったから。挫折を笑い、苦難を招聘し、痛痒を忍耐し、その涙ぐましい、事実涙の粒が芽に行き渡り開花する、そうして『1』が生れるのさ。でね、彼女が提示しているのは『芽』だ。やがて水を注がれるべき芽だ。佳い小説は空白を尊ぶと言うらしい、しかし作家は空白こそを恐れる。これは受け売りさ、誰のだったかまでは忘れてしまったよ。ん、あれ、これは関係ないのか。しかしね、他者を知ることは自己を知ることなのだとしたら、自己を知ることは他者を知ることにもなる。だったら関連性なんて皆無な戯言も聞き流すのはなかなかに勿体ないと思うんだ。あらゆる物事は繋がっている。一つの円環を成している。宇宙の創世から今君がちらと横の花屋の紫陽花を瞥見したことも繋がっている。形而上も形而下も、イデアも、エイドスも、ヒューレーも、この世の遍く形が〇△□を外れないのも。神が優しいのは王が厳しいからなのも、天体の自転公転の至妙なプログラムも。考えよう、思考しよう、熟考しよう、黙考しよう、思考とは生きることだ。わたくしたちが探求を続ける限り精霊は精霊でいられる。兎に角精霊でいよう。魂は塊だ。精霊は魂にこびり付いた善悪だのを濾過した無垢な塊。無垢とは真なる美? 花が美しく感じるのはイデア界の美。ああ、もしかしたらわたくしこそが花の美そのものなのかもしれない。どう? 人。わたくしは美しいでしょう。そうでしょう、そうでしょう。万学の祖も盲目ですね。あはは、あはははははははは。―――――おっと失敬、口を辷らせてしまったけど、どれだけの人間が精霊の正体に気づいたのかな。ちなみにこの世界は『君たち』の知るところとは別ものだよ。彼女は魔術理論に目をつけて『君たち』との接続を図っているみたいだけれど。『君たち』? ああ、ああ、君のことじゃないよ。魔術理論ということはおそらく肉体的な接続を果たそうとしているんだね。そしてわたくしたちが精神的に接続できることも理解していると見える。わたしたちの場合の接続の仕方は平易に説明できる。ただ物理からは乖離してしまうから生粋のリアリストには反発を貰うだろう。でもわたくしは花だから。花が物質的に花でしかないのは、どこでも同じだろう。ならば花の精であるわたくしは、花にとってのイグノ体。つまりは幻体。物質の裏。イグノ体は魔術を纏った幻体。ゼノは魔術を纏った現体。常識ね。けれどそれでも君には晦渋なお話かもしれない。でも縁遠い話と言うわけでもないだろう、君も精霊を視認することのできる稀有な人間だ。冀ったとしても眼にできない者も大勢いる。逆を言えば希って視ていくたくない者もいる。二律背反、矛盾、そして、アウフヘーベン。sodomは人間の唯一だ。精霊は、邪悪も善良もない。だから先に言った憎いだの愛しいだのの感情をわたくしは持ち合わせていない。ごめんね、あれは単語を並べただけなんだ。塊なのだから既に察していたかな。まあいいか。こちらが言いたいことだけ言い言いしたけど、君のほうは何かない? ……ていうか、君そもそも何しにここに? 歳は幾つ? ―――――散歩? 九歳? そう。悪かったね。ところでわたくしはこれから歴史の変動を目の当たりにしに往くつもりなんだ。花は花でしかないからね。美しい花が咲く限りどこにだってわたくしは在れる」
「それは、本当に、同じおねえさんなの?」