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同級生 ~ADMS~  作者: なつみかん
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後編

昭和六十一年一月一日 水曜日

 昨夜は卓也、勉、田嶋姉妹の四人で初詣に出かけた。夕方に卓也は明美の家に電話をして誘おうとしたのだが、昨日の昼から親戚の家に泊まりにいっていると明美の祖母に言われた。正月だからと言って特段予定もない有馬家の庭では朝から威勢の良い掛け声と打撃音がしていた。その音の主は卓也と勉だった。卓也はジャージ、勉は空手の道着を纏い二人は十分ほど戦いを続けている。そんな様子を縁側で卓也の兄 太一が見ていた。


「太一さん、おはようございます」


そう声をかけてきたのは晶子だった。太一は前々から田嶋姉妹のことを卓也に聞いていたが、昨晩ようやく初顔合わせを済ませたところだ。


「おはよう、晶子さん。陽子ちゃんはまだ寝てるのか?」


「はい。あの子あんなに遅くに寝たの初めてだったので、もう暫く起きないかもしれません」


晶子は部屋のある上の方に目線を向けながら、ちょっと苦笑いを浮かべた。


「ゆっくり寝かせておきなよ。晶子さんは眠くないのかい?」


「ええ、私は何時に寝ても同じ時間に起きちゃって…… そういえば卓也くんたち何しているんですか?」


晶子は不思議そうに二人を見ている。


「ああ、組手だよ。ようするに空手の練習だな。初めてみたかい?」


「はい。勉くんが空手しているのは知ってましたが、卓也くんもするんですね。私も見てていいですか?」


「ああいいよ。でも縁側は寒いから何か着てきた方がいい」


太一がそういうと晶子は部屋からジャンパーとマフラーを身につけて、再び縁側にやってきて太一の横に座った。YVは武道も格闘技も禁止されている。晶子はこのような戦いを見るのも初めてだったのか興味深そうに眺めている。

そんな時、太一はパンパンと大きく手を叩いた。


「はい! ヤメ!!」


すると卓也と勉は組手をやめ太一のところへ駆け寄る。


「まず卓也な、お前は回し蹴りとかかかと落としとか出しすぎ。もっとコンパクトな攻撃しろよ。実践はそんなに手足を振り回せるところだけじゃないんだぞ。あと勉は技の繋ぎをスムーズにする事意識な。回し蹴りからのかけ蹴りは一歩踏み込まないと間合いから外れるぞ。一般部は少年部と間合いが違うからな。届かないと思っている位置からでも蹴りやパンチが飛んでくるぞ」


「押忍」


勉がそう答えると太一は肩まわしながら縁側から庭に降りてきた。


「勉。久しぶりに俺とやってみるか?」


「押忍。お願いします」


そういうと勉は太一を前にすると一礼しすぐに前に一歩踏み込んで、下段、上段、中段と横蹴りを繰り出し、続け様に左右の回し蹴りを放った。太一はそれを右手のみで捌くと今度は太一が踏み込んで足払いをするが、勉は上方に跳ねてそれを避ける。しかし足払いを放った足を上段かけ蹴りに変化させて勉の脇腹にヒットさせた。

「ウゲッ」という呻き声を上げて地面に吹き飛ばされる。


「勉、甘いよ。上に跳んだら攻撃してくれと言っているようなものだぞ。そこはバックステップでかわすか、膝蹴りをしながら前に出るかだろ」


「お、押忍……」


晶子は目の前で起きた攻防をポカンとしながら見ている。

勉は立ち上がると再び攻撃を仕掛けていった。


「卓也くん…… 男の子ってみんなこんなことができるものなの? いま二人が何をしたのか全然わからないんだけど……」


晶子は呆然とした顔で聞いてきた。


「えっ? ……いや、同年代で勉みたいに戦える人は滅多にいないよ。実際勉は空手の県大会で優勝しているし、全国でも勉と対等に戦える中学生以下の人って殆どいないんじゃないかな」


その言葉に晶子はますます驚きの表情をみせる。

約二十分ほどの稽古を終えると、勉は息を切らしながら縁側へと戻ってきた。


「やっぱ、太一さんには全然歯が立たないや。太一さん、大学行ってからはどこで稽古しているんですか?」


「ん? いや色々と…… 稽古も勉強もやろうと思えばどこででもできるんだよ。 ……どれ、今度は卓也いってみるか」


「ああ」


二人は庭の真ん中に歩いていくと、どちらからともなく攻撃を仕掛ける。卓也は一定の距離をとり様子見のフリッカーを放つと、太一は左手でそれを一蹴し、右のかぎ突きをだした。卓也はその腕を掴むと背負うように無理やり投げに持ち込むが、それをスルリと外し、太一は背後から裏投げに持ち込んだ。それを宙返りでもするかのように、地面に着地する。その瞬間太一は後ろ回し蹴りを出して間合いを確保する。


「勉くん…… 何? 今の…… 勉くんと戦った時とまるで動きが違う…… あれも空手なの?」


「いや…… 基本、タクも太一さんも空手じゃないからな。さっきは俺に合わせて空手の戦い方をしてくれてたんだよ。バリバリに手を抜いてな。あの二人が本気できたら俺なんか一分ももたずにやられちゃうよ」


晶子は瞬きするのを忘れて二人の戦いに見入っている。これは格闘技や武道に興味ある無しに関係なくその凄さが伝わるようだ。そこからもしばらく打撃、投げ、関節技の連続でまさに息をするのをわすれてしまう。十五分程経ったとき、始まる時と同じようにどちらからともなく手を引いて呼吸がつかれた。


「ふぅ…… まぁ、こんなもんだろ」


「こんなもんって、相変わらず兄貴はタフだな。どんな身体してんだよ」


組手を終えると再び縁側に戻ってきた。


「ん? どうしたの、晶子ちゃん?」


晶子は卓也と太一を瞬きもせずに見ていることに気がついて、卓也は声をかけた。


「す、す、凄いです。卓也くんも太一さんも! 勉くんに空手じゃないって聞いたけど、あれは何ていうものなんですか?」


「い、いや、何と言われても…… む、無差別格闘流?」


卓也がそういうと、太一はプッと吹き出しそうになった。


「でも、あんなに強いのにどうして大会とか出ないの?」


「オレはそういうの興味無いし、護身の為に鍛えているだけだから。それにせっかくつっとを勝たせて羽川の推薦に使おうと思っているのに、県大会で俺に負けちゃったらダメだろ……」


卓也はチラリと勉の顔を見た。


「ううっ、悔しいけど言い返せない…… でも近いうちに絶対負かしてやるから!」


本気で悔しがる勉に卓也は笑顔を向け「おう!」とだけ答えた。


「まぁ、勉は空手だけじゃなく算数もしっかりな。あんまり得意じゃ無いんだって?」


太一は横から口をはさみ勉の顔を覗きこむように言う。


「推薦とはいっても一科目受験ってなかなか厳しいぞ」


四人は賑やかに話しながら家の中へ入り、ストーブで温められた茶の間へやってきた。石油ストーブ独特の匂いが田舎の冬を感じさせる。その部屋で父とともにテレビを見ていた母は入ってきた四人に顔をむけた。


「お帰り。外寒かったでしょ。それじゃ朝ごはんにしましょ。勉くんも食べて行きなさい」


そう言って母親はこたつから出て立ち上がった。その後を追うように晶子も台所へと入っていく。時計を見るともう十時を過ぎている。もう朝ごはんという時間ではない。


「そういえば太一さんはいつまでコッチにいるんですか?」


「実質明日かな。三日の朝に東京戻るよ。休み明けすぐテストだしな。早く帰ってテス勉しないと……」


「ヒェーッ、東大のテストって凄そうですね」


勉がそう言うと、卓也はニヤニヤしながら口を挟む。


「そんな事言って…… ホントは早く亜由美さんに会いたいだけなんじゃ無いの?」


「えっ? 太一さん彼女いるんですか!?」


勉が驚いたようにそう言うとその途端に台所の母親とテレビを見ていた父親がピクリと反応し食いついた。


「何っ? 太一、お前彼女いるのか!?」


「えっ、どんなコ? 同じ学校のコ?」


そう言って太一の前に詰め寄る。太一は思わず後退りしてしまうが、それを追うように親たちの顔は攻め寄っていく。

卓也はこんな興奮した両親の姿を初めて目にして笑いがこみあげてくる。晶子はその様子をニコニコしながら眺めている。太一は照れを隠しながらもこの場の人たちに説明した。


「しっかし東大生どうしのカップルって凄いよな。しかも二人とも医学部って…… さすが太一さんって感じだよ」


勉は感心しながら呟いた。その後も両親に根掘り葉掘り聞かれて、太一はそれに渋々答えていた。


「そういえば晶子ちゃん。陽子ちゃんそろそろ起こさなくて大丈夫?」


卓也は台所からその様子を見ていた晶子に声をかけた。


「ああ、そうだね。起こしてくるよ」


そう言うと晶子はエプロンで濡れた手を拭きながら階段をかけていく。その後上でドタバタ音がして、しばらくすると目を擦りながら陽子が茶の間に姿を現した。


「おはようございます……」


そう言いながらも、陽子の顔はまだまだ眠そうだ。一応着替えてはいるが、いかにも晶子に無理やり着替えさせられたといった感じの服装である。陽子はその場の騒がしさに不思議そうな顔をしていたが、それが落ち着いたころ茶の間のテーブルに母と晶子が料理を運んできた。正月らしい昆布巻きやなます、数の子豆などがならんているが、どれも普通の皿に盛られている。ご飯は赤飯だった。テーブルに並んだ料理を見て卓也はこの前の話を思い出した。


「おせちの料理も重箱入って無いとおせち感出無いな」


卓也がそう呟く。


「そうか? うちも重箱なんか入れないからそう言うモンだと思っていたけどな」


勉はそう言うと数の子豆の豆だけを啄ばんでは赤飯をかき込んだ。晶子と陽子は取り皿にそれぞれ少しずつ料理をとって食べている。父親はお屠蘇と称して、朝から日本酒をぐい飲みで飲んでいる。昨年と違い晶子や陽子がいるものの見慣れた有馬家の正月風景だ。


「来年の今頃は勉も晶子さんもこんなのんびりしていられないかもな。羽川の受験は正月開けすぐだしな……」


太一がそう言うと、勉はご飯を喉につまらせてジュースで流し込む。


「太一さん、こんな時に気が重くなるようなこと思い出させないでくださいよ」


勉は息を整えながら太一に言った。


「そうか、勉くんと晶子ちゃんは羽川学園受験するんだったな」


数の子を摘みながら酒を飲んでいた父が呟いた。


「卓也、お前も羽川受験してもいいんだぞ。どうだ?」


「ああァ? 俺はいいよ。それにつっとと晶子ちゃんのラブコメ路線を邪魔しちゃ悪いし……」


それを聞いた勉は今度は吹き出しそうになりながら卓也に詰め寄る。


「だぁかぁらぁ〜 なんでコメディ前提なんだよ。なぁ、晶子」


「…… 私もコメディになりそうな気がする」


ボソリと晶子は答えた。

この賑やかなブランチは昼過ぎまで続いた。父親は散々飲んだ挙句座っていたところでそのまま横になり寝てしまった。晶子と陽子は部屋に戻って勉強を始め、兄貴は茶の間にあった本を読んでいる。各々が思い思いの時間を過ごし始めた。卓也と勉は正月の空気を茶化そうと、昨晩行った神社に二度目の初詣にいくことにした。いつも歩きなれている道だが、元旦ということもあり外を歩いている人はほとんどいない。ところが神社に着くと昨晩より少ないものの参拝客は結構いる。一体この人たちは何処を通ってこの神社までやってきたのか? あの人通りのないここまでの道のりの様子が不思議でならない。境内では何人かの同級生と会い、一言二言喋っては別れてを繰り返す。二人は婦人会でやっていた甘酒の振る舞いで、甘酒の入った紙コップをもらうと、神社の石段に腰を下ろした。


「そういえば卓也。明後日の話ってまだしていなかったな」


勉は思い出したかのように切り出す。


「そういやそうだな。ここならYVの奴らがくるとは思えないしここで話すか」


卓也は紙コップの甘酒を口に含みもぐもぐさせながら言った。


「えっと……まずは、YVの施設で見つかった死体。あれはYV追放運動の責任者をしていた町内会長なのは知っているか?」


「ああ、そう新聞に書いてあったな。ちょっと前に行方不明になって教団から拉致られたって噂もあった。結果的に噂通りだったってことだな」


勉がおおよその状況を知っていたことにホッとしながら話を進める。


「そう、だけどこの町内会長はあるYV幹部の弟だった。そのYVの幹部というのは吉永幹雄という二世信者の男で、教団が起こそうとしていた計画を阻止するために計画が書かれた文書を盗み出し、吉永幹雄の弟……つまりはここの町内会長にその文書を渡した。ところがその幹部が弟に接触した事をかぎつかれる。そのままでは危ないと思った会長は反対運動とは無関係のつっとのお父さんにその文書を預けた」


「それじゃ俺を拉致って施設に連れて行ったのは父さんとの取引に使おうとしたって事か?」


「恐らくそうだろう」


勉は腕を組んで状況を整理している。


「でもよ、YVが探している文書っていったい何なんだ? YVは何をしようとしてたんだよ」


「奴らにしてみればそんなつもりはないかもしれないが、一般的にみればテロだな」


「テロ?」


勉はこの言葉の意味がわかっていないのか、ピンとこない顔で卓也に質問する。


「テロってどういう……」


「政治的な要求を達成させるための暴力や暴力による脅迫行為をする事だ。テロリズムを略して一般的にテロというんだよ」


テロという言葉自体は昔からあるのだろうが、頻繁に用いられるようになったのは前世でだいぶ大人になってからだったかもしれない。勉がわからないのも無理はない。


「ふぅーん。……で、どういった暴力行為をする予定なんだ?」


「簡単に言えば都市地下鉄での大量殺人だな」


そう聞いて勉は唖然としていたが、その表情はみるみる変わり血の気がひいていくのがわかった。


「……って、簡単に言い過ぎじゃね? 大事だろ!! それって俺が殺されても渡しちゃダメなやつじゃねぇの?」


確かにいうまでもなく大事だ。理屈から言えば勉の言うように何があっても絶対に渡すべきでは無い。


「まぁ、客観的に見ればそうだろうな。でもなつっとの親にしてみれば一万人の命よりもつっとの命だ。俺だってつっとがいなくなるのは絶対に嫌だ」


「……」


勉は黙って俯いている。神社に行き交う中でこの空間だけ重苦しい空気に包まれている。


「まぁ、なんだ。そうは言っても多くの命を見捨てるわけにもいかないよな。……となればやるべき事は一つだ」


勉は静かに顔を上げ、二人は向き合ってうなづく。


「……で、だ。今回は万が一も考えて兄貴にも手伝ってもらおうと思ってる」


「え? 太一さんに? ……明後日の朝帰るって言ってなかったか?」


勉は予想していなかった卓也の提案に目を丸くして卓也に問いかけた。


「教え子の危機となっては兄貴も協力してくれるだろう」

(それに亜由美さんの妹の件もあるし、兄貴にとっても他人事では無いはずだ)


「だったら心強いな。タクよりも強い奴なんて太一さんくらいしか思いつかないし…… ……で、どうすんだ?」


「まずお前は家族と一緒に行動してくれ。奴らがつっとのお父さんを狙わないとも限らない」


「ん?」


勉は卓也の言っていることが理解できず、視点は中空を泳いでいる。そして卓也が続きを話そうと口を開こうとした時、勉はたまらず手を卓也の顔の前に出して話を遮った。


「ちょっと待って。うちの父さんを狙うかもって、奴らは父さんを狙っているわけじゃないのか?」


「別に奴らはお前のお父さんが目的な訳ではない。あくまで目的は盗み出された文書だ」


「いや、それはわかっているけど、その在処を知っているのが父さんなら同じことだろ」


勉は未だ訳がわからず卓也に問いかける。


「だから奴らの焦点からつっとのお父さんを外してやるんだよ」


「??」


「恐らく奴らは何度かつっとの家に忍び込んでいる。でも家探しをしても文書は見つからず、多分盗聴器とかを仕掛けてお父さんの様子を伺っているはずだ。だったら俺たちが先に見つけてやればいい」


「でもよ、そう簡単に見つかるか? タクの予想が合ってるなら奴らも散々探しているってことだろ」


そう言って勉は不安気な顔を卓也の方に向けた。それに対し卓也はニヤリとして勉をみる。


「ホントに見つける必要ないだろ。単に見つけたかのような素振りを見せるだけで十分だ。それで奴らは俺たちに接触してくる」


勉はようやく納得して、卓也を見る顔が穏やかになった。そして立ち上がると卓也を見下ろすようにみる。


「わかった。俺は奴らが父さんを使って交渉に使わないように近づいてきたら蹴散らせばいいって事だな」


そう言うと勉は大きく深呼吸をするとその場でシャドーを始める。パンチや蹴りの鋭さからその気迫が感じられる。


「長かったけど、ようやく終わりが見えてきたな」


卓也は澄み渡った元旦の空を眺めながらしみじみと呟く。


「ああ……」


そう言うと勉のシャドーをしていた手がさがった。そして急に真面目な顔になり卓也の前に歩いてきた。その顔は口をモゾモゾ動かし何かを語りたそうにしている。卓也はそれを目にするも何が言いたいのか全く想像できず、勉の口元に注目した。そして意を決したかのように勉は静かに語り出した。


「なぁ、タク…… お前は一体何者なんだよ。いや、お前だけじゃない太一さんもそうだ。二人とも人間離れした強さだし、とんでもなく頭も良い。恐ろしいほど先を読んで行動してる。それに今回のYVのことだって何処からテロを起こそうとしているなんて情報を知ったんだよ。普通の小学生ならどうやっても知り得ないことだぜ」


そう言って勉は卓也の顔を凝視した。その質問に卓也は言葉が発せられない。返答できないまましばらく勉と向き合っていたが、ついには勉から視線を逸らしてしまう。


「まぁ、いいよ。そんなタクのお陰で俺はこうしていれるんだし。話せる時がきたら教えてくれ」


「……悪い。そのうち必ず……」


そう言うと勉はいつもの顔に戻って卓也のところにやってきた。


「せっかくここまで来たんだ、何か食ってこうぜ」


勉はそう言って屋台が立ち並ぶ境内の沿道に向かって歩いていった。卓也はその後をゆっくりとついていく。卓也は自分や太一の事を打ち明けようか迷っていた。打ち明ける事で今こうしている勉との関係が変わりそうで、それどころか自分から離れていくのではないかという不安が払拭できない。


「おい、タク! タコスの屋台なんてあるぜ」


そう叫ぶ勉のもとへ卓也はかけていった。



昭和六十一年一月三日 金曜日

 この世界……いや、この時代、三ヶ日というのは殆どの商店は休みであり、外を出歩く人もまばらである。外を見ても近所への新年挨拶まわりや遅めの初詣のための外出以外は殆どないように思える。これが十年程経った頃には当たり前のように商業施設が開いていて、たくさんの人が出歩くようになるというのだから信じられない。こうした日本国中が休みという日がなくなり、盆も正月も関係なく慌ただしい社会になるのは寂しい感じもするが、いまだ前世の感覚が抜けきらない卓也と太一にとってはこの時代の不便さの方を強く感じているようだ。


「なぁ、兄貴。そろそろつっと達が出かける頃だぜ。うちらも行くか?」


「ああ、でも飯とかどうするよ。すぐに奴らが接触してくるとも限らんだろ。コンビニでもあれば弁当でも買っておくんだがなぁ……」


「当分できねぇよ。うちにある食い物、適当に持って行こうぜ」


卓也達は手提げ袋に水筒とお菓子、みかんを詰め込む。

今日はとうとう計画を実行に移す日だ。田嶋姉妹には今回の計画は話していない。余計な心配をさせたくないのと、下手に奴らに見つかってしまうと、危険な目に合わせてしまう可能性がでてくるからだ。二人には「誰かが新年の挨拶に来るかもしれないので、その時は母さんを手伝ってくれ」と頼んできた。そして俺たちは勉に「新年の挨拶に出かけている間の留守番を頼まれた」と言って家を出てきた。これまでそんなことを頼まれたことはないのだが、そういうとアッサリと信じてくれた。

 卓也は玄関を出て上を見上げるとそこは鉛色をした今にも雨か雪でも降りそうな空が目に入る。


「嫌な天気だな」


そう呟くと、卓也の後をたって出てきた太一はその呟に応える。


「いや、そうでもないだろう。こんな天気なら外を出歩こうなんて人は殆どいない。奴らは動きやすくなる。それにな始める前からネガティブな気分でいるとうまくいくものも失敗するぜ」


「まぁ、そうなんだが……」


卓也は外に出た途端に出鼻を挫かれたような気分で、不安さを外に出した卓也に太一はため息が溢れる。


「卓也。宗教勧誘や詐欺師が狙う人ってどういう奴だと思う?」


「ん? なんだよ突然…… どういうって金を持っているやつだろ」


卓也がそう答えると再び太一は大きなため息をつく。加えて手のひらを肩くらいまであげて「やれやれ……」といったジェスチャーをしてみせた。


「あんた欧米人か?」


イラリとした卓也は太一にツッコミを入れる。


「いいか、卓也。宗教勧誘や詐欺師が狙う人は生活に余裕が無い人だ。金持ちとか生活に余裕がある人というのは、周りが見えているから存外そう言ったものには引っかかりにくい。でも生活に余裕の無い人は周りが見えてないのでそこに付け込まれ騙される。しかもそれを確かめる余裕がなく気づいた時には手遅れだ」


「はぁ…… いったい兄貴は何を……」


そう言われても卓也は太一が何を言いたいのかわからない。


「お前の精神はその余裕がない状態だと言っている。決戦を前にして神経質になるのはわからないでもないが、自分の精神状態もわからないで戦いに臨んだらちょっとした事に足元を掬われかねないぞ」


「あっ……」


卓也は太一の言葉にハッとする。卓也は転生したときからこの日のために鍛え、段取ってきた。それを目前に卓也自身が地に足がついていないことに気がつく。卓也はその場で目を閉じて深く息を吸い込んだ。そしてゆっくり細く長く息を吐き出した。


「そうだな…… 昨日から頭ん中で何度もシミュレーションしてきて、いつの間にか浮き足だっていたかもしれん。本番で力を出せない受験生みないな事になるところだったよ」


太一は鼻で嘲るように笑う。


「まぁ、普通そういうのは真面目を絵に書いたようなお堅い性格の人が陥りがちなんだがな。それをお前がいうとは……」


「ああァ? 俺がせっかく礼言ってるのにナニ笑ってんだ。俺の本質は真面目だってことだろ」


ムキになり言い寄る卓也の姿に、太一は笑いがこみ上げ、それにつられるかのように卓也も笑い始めた。


「ふぅ、……でもなんか力抜けたよ。

……どれ、それじゃ行くか」


そう言って二人は百メートルほど離れた勉宅に向かって歩き出した。


(奴らは今日家族全員が家にいないことは知っている。今日はいつも以上に念入りな文書捜索を計画しているはずだ。そこに留守番の俺たちが入ることで奴らはなんの準備もしないまま俺たちとやり合うんだ。絶対に勝てる)


卓也は自然と拳に力を込もる。


 勉宅の玄関ドア前。予め渡されていた合鍵で玄関の鍵をあけた。卓也は何度となく来ているこの場所も、家主の居ないところに入っていくというのは初めてだ。


「おじゃましまーす」


なんの返事も無いのはわかっているが、そう言わずには居られなかった。一応靴を揃え家に上がると茶の間へ入って腰を下ろした。


「兄さん。つっと達帰って来るのって夕方だって。それまで何してようか?」


卓也は人前兄弟会話バージョンの口調で太一に話かける。そしてそう言いながらテーブルに落書き帳を開き太一との筆談の準備をする。


「そうだな。時間まだまだあるし、ファミコンでもしてるか? 勉、スパルタンX買ったとか言ってたよ」

 

そういうと太一はテレビ台にしまってあるファミコン本体を引っ張り出し、一緒に入っていた箱からカセットを探し始めた。そしてスパルタンXのソフトを見つけると差し込み口に「フゥー!」と息を吹きかけて本体に差し込む。ファミコン世代にとっては当たり前の行動である。太一はテレビのスイッチを入れると、音量を少し下げた。テレビに映し出されるスパルタンXのタイトル画面。この世界では最新のゲームだが、卓也と太一にとっては懐かしのレトロゲームだ。


「おーっ、すげーリアルだよ!」


「そうだな。卓也はツーコンでいいか?」


そう言いながら、太一は卓也にツーコントローラーを手渡し、テーブルの落書き帳にペンで文字を書き出した。


(わざとらしくないか? )


(いや、こんなもんだって。小学生の会話って……)


言うまでもなくこの筆談はYVが仕掛けた盗聴対策だ。二人はファミコンに夢中になっているのを装い、次の行動に起こす機会をうかがう。お菓子を食べながらゲームに興じる二人はどこからみても普通の兄弟にみえる。午前中、めいいっぱいレトロゲームをしたところで太一は落書き帳にペンを走らせる。


(そろそろじゃね?)


そう書くと卓也は太一の顔をみてコクリとうなづいた。


「なぁ、卓也。そこにある手提げって勉が持って行こうとしていたやつじゃないの? 持っていくの忘れたのかな?」


太一はどこにも存在しない手提げについて語り出す。


「あっホントだ。ボードゲーム入ってるし、親戚の家で遊ぼうとしていたんじゃない?」


そう言いながら卓也はあたかもそこにボードゲームの箱を開けているかのようにゴソゴソと物音を立てる。太一は笑いを押し殺しながら落書き帳に何かを書き出す。


(すげーリアル! リアル過ぎて笑える!!)


卓也はそんな太一をキッと睨む。


「あっ、なんだこれ? コレ、ゲームじゃないよ。兄さんコレ何が書いてあるの?」


卓也はコレまた存在しない何かの説明を太一に求めた。


「なんだこりゃ!?」


太一は突然叫ぶとテーブルの落書き帳をめくり、資料をめくる音を演出した。この太一の行動を見て今度は卓也が声を殺して笑い出す。


「卓也、これヤバイモノかもよ。勉のお父さんってホントは危ない人かもしれないぞ。東京の地下鉄で毒をまくような事書いてある。警察に持って行ったほうが良いかも……」


太一は声をうわずらせながら卓也に話しかける。


「つっとのお父さんってあんなに優しいのに…… これ見たのバレたら殺されちゃうかな? 怖いよ……」


「バレないうちに警察にコレを持っていくか……」


そう言うと立ち上がり部屋からでた。二人は二階にある勉の部屋へと向かい、窓にかけられたカーテンの隙間からこっそりと外の様子をうかがう。勉宅の敷地内に何人かのは人影が見えた。さらに数軒隣のYV施設に隣接する民家からも何人もの人間が出てくるのがみえた。卓也は太一の耳元で話しかける。


「兄貴、YVの隣にある家から何人もの怪しい人がこっちに向かってくるぞ」


「あそこはYVの信者宅だからな。そこに隠れていても不思議はないだろう」


太一はそう答えると、卓也と同じように身を隠しながら外の様子を確認した。


「いくら人通りが少ないとはいえ、奴らがついまでも人ん家の庭に待機しているとは思えない。そろそろ動き出すぞ」


太一がそう言った瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。再び卓也は太一の耳元で話しかける。


「まさか正面からくるとはな。どうする? 出ていくか?」


そんな相談をしているとまたしても玄関の呼び鈴が鳴る。


「はぁ、しょうがない、出てみるか…… 

 卓也、お前は適当な袋にさっきの落書き帳入れて抱えてろ」


「わかった」


二人は階段を降りて、落書き帳を紙袋に入れると玄関前にやってきた。反応がなくて苛立っているのか玄関のドアをたたき始めた。


「はい、どちら様でしょうか?」


太一はドア越しに外にいる人物に話しかける。


「はい、私、県警捜索一課の立花というものですが、お尋ねしたいことがありやってまいりました。ドアを開けてもらえませんか?」


ずっと上から様子を見ていると、この反応は間抜けだ。


「生憎ですが、私は留守番を頼まれた者でして、このうちの人間ではありません。そもそも捜査一課の刑事さんがなんのご用ですか?」


太一はシラッとこの男に聞いてみる。


「先日近くで起きた殺人事件を捜査していたところ、このうちの人に行き当たりましてお話を聞こうかと…… とにかくあなたにもお話伺いたいので開けてくれませんか」


元々この男達と接触を持つつもりはしていたので太一はドアの鍵を開けると、「どうぞ」と外の男に声をかける。するとすぐに外側のノブを回してドアを開けた。そこには四人の男が立っていた。


「話を聞くだけにしては随分と大勢でいらっしゃるんですね」


太一がそういうと、男はニヤリと笑みを浮かべ玄関に踏み入れると、雪崩れ込むようにして後の三人が家の中に押入り卓也を目掛けて突進した。卓也は怯えたような形相を浮かべながら二階にある勉の部屋へと逃げ込んだ。それを追いかけ階段を駆け上がり、男達は卓也を部屋の隅へと追い詰める。


「その書類を渡してもらおうか。さっさと渡せば手荒なことはしない……」


そう言って男は卓也に手を伸ばしてくる。それを振り払い、卓也は紙袋を胸に抱きしめながら壁を背にした。


「お前たちおまわりさんじゃないな!」


「おまわりさんだよ。サタンの手先に罰を与えるな!」


卓也はフッ笑みを浮かべたかと思うと、持っていた紙袋を手前の男目掛けてなげつけ、男達の背後に回り込んだ。

紙袋を手にした男は袋を開けて中身を確認する。そこに書いてあったのは「わざとらしくないか?」と書かれた落書き帳だった。


「アンタらそんなモノが欲しかったのか?」


卓也は男のたちを指差し笑いながら言い放った。


「オイ、ガキ! 本物の書類はどこだ! とっとと出さないとただではすまさんぞ!」


「ほう、言うねえ…… ガキ一人に三人掛りでくるような三下が!」


そう卓也が言った途端に男は卓也に掴みかかろうとするが、それよりも速く抜き手を喉にめり込ませる。その男は首を押さえて苦しそうに前のめると、卓也は髪を掴んで顔面を床に叩きつけた。


「床が畳でよかったな」


卓也はあとの二人をみてニヤリとする。目前で小学生に半殺しにされる姿をみて一瞬たじろぐが、一人がポケットから刃渡り二十センチほどのナイフと取り出すと、もう一人も思い出したかのように刃物を抜いた。


「お前ら、そんなモノを出すんなら手加減できねーぞ」


卓也はそう言い放つと倒れた男の頭に踏み砕きをいれ、手前にいたナイフを持つ男の手を掴み背中へと回し、男がもっていたナイフを掌ごしに背中に突き立てた。その男はナイフを抜くことも出来ず床を血に染めながら悶え苦しみのたうち回る。その姿に残された一人は恐怖に慄きながらナイフを卓也に向けた。そして卓也はゆっくりと近づくと一瞬で男の手を蹴り上げナイフを手離させる。次の瞬間卓也の左手は喉仏を握り込む。


「ひぃ!」


男は声にもならない悲鳴を漏らし、床は失禁で汚れた。


「あーあ…… こんなに汚して…… 勉なんて言うといいんだよ」


卓也はそういうと左手の力を緩めた。男はガクガクと震えながら膝をついた。


「んで? アンタらを差し向けた奴は何処にいんの?」


「……」


男は無言で震えている。


「まぁ、喋んないなら他の奴に聞くだけだけどさ、アンタもここに転がってる奴みたいになっちゃうよ?」


男は意を決したように静かに口を開く。


「ち、長老は……」


そう言いかけた時、男は激しく首を掻きむしる。口からはよだれがたれ目を見開きながらうめきだし何秒かのうちに痙攣を起こしその場で倒れ込んだ。卓也は駆け寄るが、口から泡を出して白目を向いている。卓也は首筋に手を置くが脈を感じられない。


(死んでる…… 自殺か?)


今度はガラスが割れる音とともに何が部屋に飛び込んできた。卓也はとっさに割れた窓から外に飛び出る。するとその何かから煙のようなものが吹き出しすぐに勉の部屋は真っ白な煙に包まれた。


(催涙ガス?)


屋根から勉の部屋の中を覗くも中の様子は窺い知れない。その時下の階で大きな爆発が起き屋根にいる卓也の足に振動が伝わった。


(今度は爆発かよ。兄貴は大丈夫かな?)


そう思いながら屋根から辺りを見回すと屋根の下に黒いツナギを着た男がこちらの様子を伺っているのが見えた。卓也は屋根から飛び降りそいつを追いかける。男はその場を立ち去ろうと一目散に走り出すが、道路に出ようとしたところで突然倒れ込んだ。卓也は男に馬乗りになって押さえつけようとするが抵抗する様子もなく、痙攣を起こし口から泡を出し始めた。


(またかよ)


「おーい、卓也!」


声の方を向くと、玄関から頭と腕から血を流しながら太一が出てきた。


「あっ、兄貴! なんだよさっきの爆発は? ……って、やられたのか?」


卓也がそう問いかけると、太一は苦笑いを浮かべながら答える。


「ああ、油断したよ。あの男突然自爆して、家の中はスプラッタだ。大島てるもびっくりな状況だよ。まぁ、お陰でこんなモノ見つけたがな」


太一はニヤリとしながら服の中から紙袋を出してみせた。


「それってまさか?」


「ああ、奴らの探しているモノホンの書類だ」


太一は袋から一センチほどもあろうかという紙の束を出しペラペラとめくった。


「さっきの奴が自爆した途端に天井が崩れ落ちて、そこからコレが降ってきた」


「まぢで?」


卓也は漫画のような話に耳を疑った。そんな事をしている間に家の門の前に十人ほどの男が集り、門の出口を遮るように立っていた。卓也達は男達の方を向く。その男の一人が卓也達の方へ数歩歩みよってきて立ち止まった。


「私はYV県本部の来栖河クルスガワというものだ。さっきは仲間が手荒な真似をしてすまなかった。君たちに怪我をさせてしまったのを詫びようと思ってな。だがこちらとしてもかなりの痛手を負った。今回は痛み分けという事でどうだろう」


「はぁ? 何が痛み分けだ。お前らが勝手にふっかけてきたんだろうが!」


この来栖河という男は今回襲撃してきた奴らのリーダーのようだ。卓也はまわりの状況を確認しようとした時、さっき急に倒れた男の姿が視界に入る。


「そこに倒れている奴はお前が殺ったのか?」


「君達や警察に捕まっても厄介だしな。家の中の爆発もそうだ。君達を巻き添えにできればよかったんだが、まぁ書類をみつけるのに役に立ったんだ。あいつにしては上出来だよ」


「よくも自分の仲間を捨て駒みたいに……」


卓也はこの男のやり方に苛立ちを覚え身体を震わせた。宗教関係者というのは兎角死の概念は特殊なものだが、ここまで人の命を軽視されるのを見るとどうしようもない怒りの感情が湧き上がってくる。


「それはそうと君が持っているその書類を渡してくれないか? それは君たちが持ってても仕方のないモノだ。渡してくれたらそれなりの対価を支払おう」


卓也の苛立ちを他所にその男は御託をならべ取引を求めてきた。


「ほう…… 数万人の命と釣り合う対価ってどんなだよ」


太一は痛めた腕を押さえながら男に言う。男は太一が資料の中身を知っている事が分かると「チィ」っと舌打ちをして言葉を続けた。


「そうだな。この ここの村人全員の命……とかどうだろう?」


「「なっ!」」


二人は呆気に取られる。この反応にリーダーの男は不敵な笑みを浮かべた。しかし太一もすぐにフッと笑みを溢す。


「まぁ、でもなんだ。ここでアンタら全員やっちまえばそんな取引はする必要無いって事だ」


太一は抱えていた紙袋を太一に手渡し正面から殴りかかる。……が、その瞬間大きな爆発音と共に爆風が二人を襲い、太一と卓也はその場から数メートル吹き飛ばされる。二人ともなんとか受身をとり直ぐに大勢を整える。爆発のあった勉の家のほうを見ると窓という窓が割れ、そこから激しく炎が上がっている。


「お前らがやったのか?」


「ほかに誰かいるんですか? こんな風に村中が火に包まれるのを見たくないなら取引に応じなさい」


そういうと待ち構えていたようにやってきた車に乗り込むと男達はその場から姿を消した。


「くそっ!」


太一は冷たい地面を殴る。

この大きな爆発音と空に立ちこめる煙を見た近隣の住人が通報したのだろう、遠くにパトカーと消防車のサイレンが聞こえはじめた。


「ヤバイな…… 

 兄貴! 兄貴はちょっと何処かに行っててくれ。この場は俺が何とかするから……」


「ああ、わかった」


卓也は太一にYVの書類の紙袋を渡すと、太一はその場から立ち去った。そのうちに近所の野次馬が出始めたのが見えると卓也は冷たい地面の上に倒れ込んだ。しばらくして倒れた卓也の姿に気がついた野次馬の一人が、卓也に駆け寄ってきた。


「オイ! しっかりしろ!! 大丈夫か?」


「……ん、ううっ……」


卓也は駆け寄ってきた近所のおじさんに抱き起こされ静かに眼を開ける。


「あれ、此処は?」


卓也は今気がついたようなそぶりで起き上がると錯乱し動揺しているかのように振る舞った。そしてその人に「知らない男達に勉の家に引き込まれた」と話す。その後駆けつけた警察から事情聴取をされて同じように説明した。五時間程してようやく火は消されたが、中から発見された遺体はどれも炭化していて身元を判断できる状態にはなかった。また奴らに殺され門の近くで倒れていた男はいつのまにか回収されていたようで、今回の死者カウントには数えられなかった。

夕方、勉達家族が帰ってきて自宅の変わり果てた姿に呆然と立ち伏す勉家族だったが、警察に事情聴取を求められ、それが終わった十九時過ぎにようやく勉家族とともに卓也も聴取から解放された。突然家を失った勉家族はとりあえず、二駅隣にあるホテルで暫く過ごすことにしたようだ。卓也は汚れた姿で家に戻るとやはり両親からの聴取も待っていた。


(ああ、こういうの何度目だろう……)


卓也はそんな事を考えながら一時間にも及ぶ聴き込みに答えると、風呂で身体の汚れを洗い落としようやく自室へ戻ってきたのは二十一時だった。そこにはこっそりと家に戻り風呂にまで入って兄貴が待っていた。


「あっ、兄貴。怪我は大丈夫か?」


「ああ、何とかな」


「それにしてもよくこっそり家に入ってこれたな。しかも風呂まで入って……」


「まぁな。傷の手当はさっき晶子さんにしてもらったところだ」


太一は包帯が巻かれた腕を指差していった。卓也はホッとしたように床には座った。すると襖をノックする音が聞こえ「どうぞ」と答えたとたんに、今まで見たことのないような怖い顔した晶子が部屋に入ってきた。


「卓也くん、どういう事? ちゃんと説明してよ!!」


そう言って卓也の顔の前に詰め寄り目の前に座った。晶子の目にはうっすら涙が浮かんでいる。その晶子の顔があまりに卓也に近いことからドギマギしながら応える。


「わ、わかった。ちょ、ちょっと待って……ちゃんと話すよ……」


卓也は今回の一連の事件に、教団から盗み出された秘密文書が関わっていて、奴らは今もその文書を狙っている事を説明した。


「そこまで必死に探している文書って何なの?」


「それは……」


卓也は文書の中身、またこれからYVが起こそうとしている事を説明すると、晶子の顔はみるみる青ざめていった。YVに居ながら中でどの様な事が行われているのか全く知らなかった晶子は両腕を押さえ身を固くしている。


「それで兄貴、これからどうするよ」


「まぁ、奴らの文書は俺が絶対に見つからないところに隠したからな。勉家族に矛先が向くことは無いと思うが、戦力的に俺たちだけだとちょっと不安だな。勉に協力してもらうか?」


「うーん…… そうだな……」


太一の提案に卓也が同意すると、晶子は震えながら静かに口を開く。


「大丈夫……なの……」


「えっ?」


晶子はさっきと同じように卓也に顔を近づけて聞いてきた。


「だって、あんなに強い太一さんが怪我しちゃうんだよ。卓也くんも、勉くんも大怪我したり死んじゃったりしない?」


卓也は晶子の両肩に手を置き正面から顔を見た。


「絶対に大丈夫とは言えない。でもあいつらと取引するにしろしないにしろ大勢の命が奪われるんだ。そもそもそんな大量殺人を企んでいる奴らが、そんな約束守るとも思えない。だったらこちっちから出向いて奴らの頭を潰すしかない」


卓也の説明に納得こそしたものの、未だやはり不安げな顔は戻らない。卓也の両手は晶子の肩に置かれたままだ。この様子をジッと見ていた太一はソロリと卓也達に近寄る。


「なぁ、卓也。お前そのままチューとかすんなよ」


そう言われて卓也は慌てて晶子の肩から手を離した。


「あ、晶子ちゃん。ゴメン……」


晶子は黙って首を振り、そして卓也に笑顔を向けた。卓也はその顔にホッとして言葉を続ける。


「それにつっとを置いて行ったら、帰ってきた時絶対に激怒するぜ。「俺ってそんなに頼りにならないか?」ってな」


「うん。そうだね……」


ようやくいつもの晶子に戻ったとき、階段の下から卓也を呼ぶ声が聞こえた。卓也は襖を少し開けて階段の方にむかって「はーい!」と返事をする。


「勉くんが来たわよ」


そういう母親の声に対して、上がってもらうように答えた。すると直ぐに階段を駆け上がる音がして部屋の襖が開いた。その勉の顔はあんな事があった直後だというのに落ち着いていた。


「勉、悪かったな。家があんなことになって……」


太一は勉の顔を見るなりそう話しかけた。


「いえ、それは太一さん達のせいじゃ無いですし…… それに書類見つけてもらったお陰でうちの父さんが狙われる心配もなくなりましたから。それより……」


勉は夕方家族と帰ってくるなり警察の事情聴取にあったため、卓也と殆ど話す機会がなく書類が見つかったこと以外聞いていなかった。だからどんな事があったのか気になってホテルを抜けてきたという事だった。卓也は今朝からの出来事を勉に説明した。すると勉は『ふぅーっ』と大きく息を吐いた。


「……で? そいつらをいつ叩きのめしに行くんだ?」


拳を握りしめて卓也に詰め寄る勉。その迫力に卓也は勉から顔を逸らし太一と晶子に顔を向けると、二人は苦笑いを浮かべていた。


「勉。盛り上がっているところ悪いんだけどな、あいつらが今どこにいるのかわかっているのか?」


「「あっ……」」


卓也と勉は同時に声を発する。


「まさか今もYV施設の隣にある信者んちにいるとも思えないしな。うーん……県内のYVの施設しらみ潰しってわけにもいかないよなぁ……」


卓也は腕を組みながら考える。


「ああ、だいたいYVの施設がどこにかあるのか知らないし…… 晶子、何処か心当たりないか?」


勉は晶子に聞くが、黙って首を振った。

四人の考えが行き詰まって沈黙が何分か続いたとき、卓也は思い立ったように自分の膝を叩いた。


「しょうがない。こうなったら月詠様にお伺いをたてるか」


卓也がそういうと太一は小さくため息をついた。


「そうだな。どれくらい対価を要求されるかわからんけど仕方ない……」


太一がそういうと卓也はうなずいて襖を開けて部屋の外へと出て行ってしまった。晶子と勉は訳がわからない様子で顔を見合わせている。そして勉は太一に問いかけた。


「月詠って、あの月詠有栖ですか?」


「ああ。勉も知っているだろう? 彼女の能力を……」


太一にそう言われて勉はちょっと複雑そうな表情を浮かべていった。


「まぁ、一般的に知られている程度の事は知ってますけど…… でも意外です。太一さんも卓也もそういうのは信じないと思っていました」


太一はフッと微かな笑いを浮かべで勉を見る。


「まぁ、勉が思っている通り、俺は予言なんてものは全く信じていないよ。恐らく卓也もな…… でも事実は信じるも信じないもないだろ?」


「「??」」


勉と晶子は再び顔を見合わせて首を傾げた。

卓也が部屋を出て三十分が経ったが、まだこの部屋に卓也の姿は無い。


「随分と時間掛かっているな……」


太一が部屋の時計を見上げた時、階段を駆け上る音が聞こえてきた。


「ただいま」


「「おかえり……」」


帰ってきた卓也は、ジャンパー姿で顔を赤くしている。


「何、お前。外に行ってきたの?」


太一はビックリしながら卓也に尋ねた。


「ああ、家だと長電話しづらいしな。それに親にはあまり聞かせたくない内容だし……」


そう言ってジャンパーをハンガーにかけて壁に吊るし、三人の座る中に入り込んだ。その卓也の表情はやや機嫌がよさそうに見える。


「……で? どうだった?」


「うん…… やっぱふっかけられたよ」


そう言って卓也は太一の前に人差し指を一本立てて見せた。


「十万か…… 結構ガメツイな……」


すると卓也は首をブンブン振ってみせる。


「違う、違う! 一桁違う!」


「あァ!? 一万? 一万なら安いだろ!」


するとまたも首を激しく振った。


「んな訳ないだろ! 百万だよ、百万!!」


「ああァ!! 百万? どういう価格設定してんだアイツ?」


太一はビックリして叫んだ。


「ホントだよ。足元見やがって…… でも欲しい情報は得られたよ」


「んん…… ならまぁしょうがないか……」


この有馬兄弟のやりとりを見て、勉と晶子は目をパチクリさせている。


「ねぇ…… 百万って、百万円?」


晶子は恐る恐る卓也に尋ねる。


「ん? ああ、そうだよ」


卓也は答えた。


「タク、その……月詠有栖って人に百万円も払ったのか?」


勉も晶子同様、動揺しながら聞いてくる。


「正確にはまだ渡してないけどな。今度兄貴にでも持っていってもらうつもりだよ」


そういうと勉達はどうしようも無いほどの大きなため息をついた。


「タク、お前も十分に金銭感覚おかしいよ。ポンと百万円払える小学生ってどんなだよ」


晶子も勉の隣で脱力した顔でうなづいている。そして勉はもう一度大きなため息をついて卓也に話しかけた。


「まぁ、お前の感覚が普通じゃ無いのは今に始まった事じゃ無いけどな。……で? 結局奴等はどこにいるってことだったんだ?」


卓也はようやく話が進んだことにホッとしながら答えた。


「あ、ああ…… なんかな、二つ隣の如月村にYVが高校建設予定地として買った土地があるらしいんだ。その中に研究所と呼ばれる施設があって武器や薬物などの開発をしたり、テロリストの戦闘訓練も行われているらしい。恐らくはそこだろうといってたよ。他の県にはすでにYVの学校はあるらしいんだが、この県でも何年か後に開校するそうだ」


「ああ? そんな学校作って誰がはいるんだよ。テロリストになりたいやつなんかいるか?」


勉は信じられないといった顔で、誰にというわけでもなく言った。


「もちろん学校案内にはそんな事書かれてないんだが、専門的な技術と知識を学べるというのを誘い文句でパンフは作られているそうだ。それにこの学校の主なターゲットはYV信者の子供…… つまりは二世、三世信者だ。普通YV信者は奉仕活動ができなくなるという事から進学や就職は推奨しない。……けど、YV系列の学校は推奨されているそうだよ」


「ふーん。つまりはYVに都合の良い手駒を作るための学校って事ね」


太一は呆れてようにつぶやいた。


「そいじゃ、早速明日にでも攻め込むか。太一さんも早く帰んなきゃいけないようだし……」


勉はそう言ってアグラをかいている両膝をポンと叩いた。


「ん…… まぁ、向こうとしても今日の明日で攻めてくるとは思わないだろうし、意表をつく意味ではいいとは思うけど…… でも月詠有栖の話では戦闘のプロもいるって事だろ? 今までみたいに簡単には倒せないかもな」


太一は珍しく心配そうな顔をした。


「そんな深刻な顔するなよ。兄貴、昼間俺に何て言った? 先延ばしにすれば奴らに準備する機会与えてしまうし、それでうちらが有利になる材料が増える訳じゃないんだ。とっとと済ましちまおうぜ」


「……ああ、そうだな。 卓也、お前いつもの調子に戻ったな。

……よし! んじゃ、明日がホントの決戦だ」


有馬兄弟でそんなやりとりをしているのを勉は黙って見ていたが、話がまとまったところで勉が口を挟んだ。


「盛り上がっているとこ悪いんだけどさ、その学校建設予定地……? 研究所だっけ? そこまではどうやって行くんだ? 最寄りの駅ってどこよ?」


卓也は本棚から地図帳を取り出すと三人の前に開いてみせた。そしてさっき月詠に聞いた住所を指を差しながら探し始める。


「だいたいこの辺りだと思うけど、駅からは結構あるなぁ。それに引き上げることを考えると公共交通機関を使うのは厳しいかもな」


勉も卓也の言葉を聞いてうなづいた。太一は目を閉じて腕を組んで考えていたが、静かに目を開いて話し出した。


「しょうがない、うちの車で行くか……」


「えっ、お父さんの? 乗せていってもらうのか?」


卓也はびっくりして太一に聞いた。


「まさか! 俺が運転して行くんだよ」


「兄貴が?」


「太一さん運転免許持ってたんですか?」


勉がそういうと太一はポケットから財布を取り出して、その中から運転免許を取り出して三人の前に提示した。


「どうだ!」


「おおーっ! でも、免許持っているなら最初から言ってくださいよ」


勉が面倒そうにそういうと、太一はちょっと目を逸らして恥ずかしそうに言い出した。


「いや、その…… 免許は持っているけど、取ってから一度も運転したことないんだよな……(照笑)」


「「えっ?」」


すると三人は頭を突き合わせてゴソゴソ話し出した。


「どうする? 奴らのところ行く前に事故ったりしたら……」


「戦う前に怪我したら、勝てるものも勝てなくなるよ」


「やっぱり公共の交通機関を使ったほうが……」


その様子を見て、太一は思わず割って入った。


「お前らな、大丈夫だよ。ちゃんと実地試験もペーパーも一発合格しているんだから! そんなに距離ある訳じゃないからきっと大丈夫だよ。多分……」


「きっとと多分が不安になるわ!」


態度と言葉のチグハグさに卓也はツッコミを入れてしまう。


「まぁ、いいや。じゃあ、兄貴、明日頼むよ」


「おっ、おう!」


太一は「それじゃぁ」と明日車を借りることを告げに部屋を出て、父親のいる居間へ行った。卓也はとりあえず話がまとまった事から少し落ち着きを取り戻した。


「じゃあ俺も下からコーヒーでも持ってくるよ。他の飲み物の方がいい人いるか?」


「あっ、卓也くんごめん。私コーヒー飲むと眠れなくなるからホットミルクもらっていいかな」


晶子は控えめに手をあげてそういう。


「オッケー!」


卓也もそう言って部屋を後にする。卓也の部屋に二人きりになった勉と晶子は少しの間沈黙ができ、お互い話しかけるタイミングをはかっているかのようだ。そしてその沈黙を破ったの晶子だ。


「勉くん、おうちがあんな事になってごめんね」


「晶子。今回の件は別に晶子も晶子のお母さんも無関係だろ。それに恐らく秘密文書云々という話は晶子たちが来る前からあった話だ。可能性からいえば、その件があったからYVの支部をここに作ったとも考えられる。晶子達を巻き込んだのはかえってうちの父さんやここの町内会長なのかもしれないよ」


「……うん。だけどもしそれがなかったら私と勉くん出会わなかったって思うと、不謹慎かもしれないけとその秘密文書に感謝したくなるよ」


そう言って勉をみて微笑む晶子に、勉は自分のおでこをコツンとあわせた。


「うん。俺もそれには感謝してる……」


二人の会話が落ち着いたたころで部屋の襖をコツコツとノックする音がした。そっと開いた襖の隙間から太一と卓也が中の様子を伺っている。


「つっと、晶子ちゃん。入っていいかな?」


覗き見る二人に気づいた二人は驚き、サッと二人の間隔をあけた。


「勉、晶子さんごめんね。別に覗くつもりはなかったんだけど、ちょっと入って行きにくい雰囲気だったんで……」


そう言って太一は頭を掻いている。

顔を真っ赤にして俯く晶子の隣で、勉は照れ隠しで「まったく!」とかいいながら怒ってみせた。太一は「まぁまぁ」と言いながらこの場を治めると、父親に車を借りる手筈を整えた事を伝えた。卓也は三人に飲み物のカップを出しながら思い出したかのように勉に話しかけた。


「そえいえばつっと。お前、今日はうちに泊まっていくんだろ? うちの人には言ってきたのか?」


勉は目の前に出されたコーヒーに砂糖とクリープを入れながら答える。


「うん、頼むよ。うちの人にはちゃんと言ってきた」


そう言ってコーヒーを口にする。


「……で?」


「ん? でって何?」


勉は卓也が何を言いたいのか分からず問いかけた。


「いや、だから…… 俺の部屋に泊まるのか、晶子ちゃんの部屋に泊まるのかって……」


それを聞いて勉と晶子は飲んでいたものを吹き出しそうになる。 


「お、お、お、お前なぁ!!」


黙ってそれを聞いていた太一はうなづきながら勉にいう。


「そうだな。二人は恋人同士なんだし別に問題無いんだよな」


「太一さんまで……」


晶子は顔を赤らめながらもこの三人のやりとりを聞いている。すると急に太一は真面目な顔で勉の両肩に手を置いて話し出した。


「でもな、勉! 晶子さんも!」


太一のあまりに真剣な表情に勉と晶子はごくりと唾を飲み込んで、太一の顔を覗き込む。


「するならちゃんと避妊しろよ。中学受験前に妊娠なんてしたら大変だぞ!」


「「……」」


目が点になる二人。


「ゴムもってないなら確かここに……」


太一がそう言って自分のカバンの中身をあさりだした時、卓也の手が思いっきり太一の頭を叩いた。


「いい加減にしろ! 小学生に何を渡すつもりだ!」


「いや、待て卓也! 俺は真面目に言ってるんだ。小学生と言ったって初潮がきてるなら妊娠できる身体になってるんだ。俺は二人にちゃんとした性教育をだな……」


「署長?」


勉はそう呟いて頭に疑問符を絵かべている。一方晶子はさっきにも増して顔を真っ赤に染めて俯いた。


「あっ、あった! はいこれプレゼント!」


そう言って勉と晶子に小さな箱を手渡した。


「兄貴! あんた亜由美さんがいながらなんでこんなもの持ち歩いてるんだ!」


「いや、こんなこともあろうかと……」


「こんな事ってどんな事だよ!」


卓也は右手で頭を抱えて苦悩している。そんな時、震える声で晶子が話しかけてきた。


「あっ、あの……太一さん。こっ、これ開けてみてもいいですか?」


「ん? ああ、いいよ」


そういうと晶子は箱のパッケージを開け始める。晶子は中身を確認しながら震える手で原物を手にとりながら説明書を読んでいる。


「わっ、私初めて見ました」


勉は未だ疑問符を浮かべたままだ。


「なぁ、卓也。こういう事に女の子は意外と動じないんだよ。……って、お前。晶子さん見て何興奮してんだよ」


「してねぇよ!」


そう言いながら卓也は少し前屈みになり晶子をみている。


「だいたいだな兄貴。陽子ちゃんが同じ部屋にいるのにどうやってするんだよ」


「そんなの寝てりゃわかんないって。何処の親だって子供が寝てる脇でしてるだろ」


晶子は暫く太一に渡されたものを手にして考え込んでいたが、意を決したようにうなづいて勉の手を取った。


「太一さん、卓也くん。明日は大事な日なんでしょ。早く寝て身体休めましょ。勉くん、さぁ行こ!」


「えっ、晶子? 何、急に……」


「おやすみなさい」


そう言って晶子は顔を真っ赤にしたまま勉の手をひいて部屋を出ていった。卓也は呆然としながら二人が出ていくのを目で追っていた。


「晶子さん 度胸あるなぁ……」


太一は感心したようにつぶやいた。卓也は深いため息をつくと満足げにうなづいている太一に話しかけた。


「なぁ、兄貴。なんだってあの二人にあんな事言ったんだ? 恋人同士ったって小学生だぜ」


「関係ねーよ。そんな事……

 明日の戦いはこれまでの戦いとは違う。下手すれば殺される可能性だってあるんだ。だから少しでも二人の時間を過ごさせてやりたいなって思ってだな。それに愛情ってのは気持ちだけで成立するもんでも無いだろ」


卓也は太一の言いたい事は理解できるも、やはりやりすぎ感を感じていた。そんな顔で聞いていた卓也に太一はさらに言葉を続ける。


「それにな、する事を差し向けたのちょっとしたおまじないだ。決戦の前に勉には”生きること”に対してもっと執着を持って欲しかったんだ。エッチの後の女の子って普段の数割増しで可愛く見えるだろ。それが初めての相手なら尚更だ。勉には生きて晶子さんともっと一緒にいたいと強く思って欲しい。そうすれば生き抜く可能性はグッと上がるはずだから」


卓也は黙って太一の話を聞く。普段何を考えているのか、どこまで本気なのかわからない太一だが、この話をきいてすっかり納得してしまった。


「まぁもっとも、するしないは晶子さん次第だけど、あの晶子さんの顔は俺の考えを組み取ったんじゃないかな」


太一はそこまでいうと急に立ち上がった。


「兄貴?」


「俺もそろそろ寝るわ。卓也も早く寝ろよ。みんなが起きたら出かけるぞ」


「ああ。わかった」


卓也は床に置かれたカップを机の上にあげると、そこに布団を敷く。そして電気を消し布団に潜り込むと、シーンとしたなか隣の部屋から時々聞こえる声を気にしながら目を閉じていると、次第に意識は深いところに落ちていった。



昭和六十一年一月四日 土曜日

 この日仕事初めという事で、外の雰囲気は昨日から一転した。あと数年後には週休二日が当たり前の世の中になるが、この時代では週休一日が当たり前だ。卓也は下から聞こえるドタバタが平日の有馬家を思わせ目を覚まさせた。晶子達はまだ寝ているのだろう。隣から物音はしない。卓也は布団を抜け出て部屋に置かれたストーブに火を入れると、閉められたカーテンを全開にした。外は粉雪が舞い、地面は所々白くなっている。


(兄貴、運転大丈夫かなぁ〜)


そう思いながら暖かくなり始めたストーブに近づいて手をかざした。


「うわっ!! あれ? 勉くん? お姉ちゃんも…… 何で裸で寝てるの?」


隣の部屋から陽子の声が勉の耳に届いた。あのおとなしい陽子があんな声をあげるなんて、よほどびっくりしたのだろう。その声に目を覚ましたのか、晶子や勉のその場を取り繕おうとするしゃべり声も聞こえてきた。この微笑ましいやりとりを卓也は外を眺めながら耳にしていた。暫くすると部屋の襖をノックする音がした。卓也が「どうぞ」というと襖が開き勉と晶子が入ってくる。


「おはよう。陽子ちゃんびっくりした声あげてたな」


そういうと二人は渇いた笑いをする。


「卓也くん。ごめんね、起こしちゃった」


「ううん。大丈夫。ちょうど起きたところだったから……」


「それと、その……」


晶子はモジモジしながら目を伏せて逸らしながら話し出す。


「昨日は……その……うるさくなかった……かな?」


卓也は晶子の言葉にドキリとする。


「い、いや全然大丈夫。昨日はあの後すぐ寝ちゃったから」


卓也は晶子がそんなに声が出ていたのかとドキドキしながらそう答える。晶子は「本当かな?」という眼差しで卓也を見ているが、実際に卓也は言葉通りに早く寝てしまったので何も聞いていなかった。


(なんかちょっと惜しい事をしたような……)


卓也は早く寝てしまった事を少し後悔しながら外を眺める。


「雪降っているんだな。太一さん運転大丈夫かな?」


勉もやはりそのことを真っ先に心配した。


「だよな」


卓也と勉は同時にため息を吐いた。晶子はそんな二人にクスリと微笑むと、陽子を着替えさせるために部屋へ戻っていった。卓也はそれを目で追う。


「つっと、昨日は晶子ちゃんに元気つけてもらったか?」


「お、おう。なんかさ……今は絶対に負けらんないって気分だよ」


「そっか……」


卓也は勉の言葉にホッとしながらも、卓也自身も気分が昂ってきた。


「よし、それじゃ庭で軽くスパーしようぜ。ダメージ残さないくらいのパワーでな」


卓也はお気に入りのジャージに着替え、道着を持ってこなかった勉にもおそろのジャージを手渡した。


「卓也、お前何着同じジャージ持ってるんだよ。おそろで歩いてたら学校のジャージだと思われるぞ」


勉は呆れたようにそういうとすかさず卓也は言い返した。


「こんなイカした学校のジャージなんてあるかよ。ほらさっさと行くぞ」


そういうと卓也は部屋を出て外へ向かう。その後を追うように勉も外へ出ていった。庭にはうっすらと雪が積もりようやく冬らしい装いを見せはじめた。さっきまで舞っていた粉雪はいつのまにか大粒の雪へと変わり、このままだと夜には本格的に積もっていそうだ。


「つっと。準備運動に軽くバーピーを五十回、そのあと全力で五十回な」


そういうと二人は雪で冷たくなった地面に手を着いて両足を後ろに投げだし、それを戻してジャンプする。これを繰り返すバーピーという運動をおこなう。全身を隈なく動かしまだ眠りから覚めていない瞬発力を目覚めさせる。二人はこれを五十回繰り返したところで手のひらについた雪を振り払った。


「次は全力でな」


そして数割ましのスピードで同じ動作を行った。五十回終わった頃には勉の息はゼーゼーいっていた。


「じゃあ、息吹!」


卓也がそういうと、息を思い切り吸い込みゆっくり時間をかけて吐ききる。そうすることで強制的に呼吸を整えられる。二、三度息吹を繰り返した二人は手足を軽く振って組手に備えた。


「つっと…… いいか?」


「ああ」


そういうと勉は卓也の方を向いて構えると左手で数発ジャブを打って出方を伺った。卓也はそのジャブを受けずにバックステップでかわすと、勉は一歩踏み込んで右回し蹴りからのかけ蹴り、左足でのローキックを放つ。それを右手右膝で防ぐと、続けざまに勉は抜き手を出すが卓也はうち回し蹴りで払い落とすとそのままかかと落としを繰り出した。勉は上段受けで防ぎ正面から体当たりをした。卓也は右足に力を入れて正面から押さえ込む。勉はその状態からバックステップで下がった。


「つっと、なかなかいい動きだな」


「当たり前だ。いつまでもタクにやられてばっかいられないからな」


卓也は勉の正面に立つ。勉が攻撃に移ろうと前に踏み出した時、卓也は両手突きを出すと勉の反応は一瞬遅れ、その隙をついて中段前蹴りを出すと防御が間に合わず、真後ろに吹き飛んだ。


「まだ甘いな」


勉は起き上がりながら尻についた雪をはたき落とす。


「珍しい攻撃で身体が付いてこなかった……」


勉は悔しそうに呟く。


「相手はどんな戦い方するかわかんないからな。攻撃のバリエーション増やしていくぞ!」


そういうと勉は構えを戻した。その時縁側の窓が開き太一が顔を覗かせた。


「おっ、お前達随分早いな」


「太一さん。おはようございます」


「おう! 勉、どうだった初体験は? 気持ちよかったか?」


「第一声がそれかい!」


卓也は太一のところに走り寄って太一の頭を思い切り叩いた。その光景に勉は笑いながら見ている。


「なんかすっかりいつもの光景って感じですね。太一さんがボケてタクがツッコむみたいな……」


「俺はボケてるつもりはないんだが…… 勉もすっかり慣れた感じだな」


太一は残念そうにいう。


「つーか、兄貴は小学生相手ってわかってないだろ…… まったく……」


太一は外を見渡す。


「はぁ…… 雪降ってるんだな。雪道の運転なんてしたことないのにたどり着けるかなぁ……」


この呟きに卓也と勉はギクリとする。


「太一さんの今の…… 冗談かな?」


勉は恐る恐る卓也に尋ねる。


「いや、仮に兄貴は冗談のつもりで言ったとしても、うちらにとっては洒落になんねー」


太一はスックと立ち上がる。


「ちょっと着替えてくるから、戻ったらライトスパーしようぜ。俺 対 お前ら二人で……」


そう言って奥の部屋へと行ってしまった。卓也と勉は顔を見合わせる。


「太一さん今のは冗談だよな? いくらライトスパーでダメージ小さいとはいっても俺達二人相手なんて無理だろ」


勉は卓也に問いかけた。


「んー、でもそんな事言い出したの初めてだよな。本気なのか?」


卓也はそう答えると、これまでやってきた組手やライトスパーのことを思い出していた。


(俺と兄貴でそこまでの力量差があるとは思えないんだけど……)


卓也がそんな事を考えていると、太一も卓也達と同じジャージを着て現れた。


「太一さんまでそのジャージを……」


「卓也の部屋にあったから…… それよりスパー始めようぜ」


そういうと卓也と勉は再び顔を見合わせた。


「マジで言ってるのか? いくらなんでもそれは無理じゃね?」


卓也がそういうと太一は手足をぷらぷらさせながらいった。


「いいから来いよ」


その言葉に卓也と勉はうなづき、太一に向かって構えた。


「それじゃいくよ」


そういうと卓也は正面からの横蹴り、勉は左の上段回し蹴りを放つ。それを両手で捌くと足払いを二人目掛けて放つがそれをバックステップ、サイドステップでかわすと、太一はその足を後ろ回し蹴りにつなげる。


(上手い!! ……けど!)


卓也は回し蹴りをスウェイでかわすと体勢を戻すと同時に太一の腹部に鍵突きを放つ。その手が太一の脇腹にめり込んだ。


「うげっ!」


奇声を上げて太一の体は前のめる。そこに勉は上段前蹴りを蹴り出すのをなんとかかわすが、跳ね上げた足を振り下ろしかかと落としにつなげ太一の背中にヒットし、太一は膝をついた。


「ほらやっぱり無理だって…… ライトスパーじゃなかったらあばらイッてるよ」


卓也がそういうと、ヨロヨロと立ち上がる。


「ああ、わかっている。……もう一回だ」


そんな太一を目にして卓也と勉は顔を見合わせて、軽くため息をつくと勉は太一の間合いに入るとうち回し蹴りで太一の頭部を狙うがそれをかわされると、繰り出した脚を一旦退いて体勢を低くしての横蹴りにつなぐ。その勉の身体に腰を乗せて左右の脚での時間差かけ蹴りを放つと、一つ目の蹴りをかわした途端にもう一つの蹴りが襲い太一の顔面を捉えた。

しかしそれを当たると同時に首を回転させてダメージを避けると、勉の脚にローキックを入れて、二人の体勢をが崩れ卓也が勉から離れたところに体当たりと膝蹴りを入れた。


「ふぅ、何とか入れられたか……」


太一は大きく息を吐きながら呟く。


「いててて…… 兄貴、よくアレをかわせたな。結構自信あったんだけど……」


「まぁ、悪くはなかったんだけど、勉の攻撃がお留守になっていたからな。でなきゃ反応が間に合わなかっただろうがな」


「そうですね。俺もあそこでもう一発出すべきだと思いました」


その後パートナーを入れ替えて、勉と太一も二対一のライトスパーを行った。多人数相手の戦い方にみんなが慣れてきた頃、太一はそろそろ飯にしようと言い出した。家に入ると卓也の両親はすでに仕事に出かけていて、茶の間には晶子と陽子がコタツに入りテレビをみていた。


「あっ、太一さんおはようございます」


「晶子さん、おはよう。昨日は……」


そう言ったところで卓也の手が、太一の頭をヒットした。


「痛ってーな。まだ何にも言っていないだろ」


「何を言い出すかわかるから叩いたんだよ」


太一は頭を押さえている。


「俺、昨日怪我してんだぜ。今日の戦いに響いたらどうすんだよ」


「何言ってやがる。さっきまで元気いっぱい戦ってたじゃないか。何怪我人ぶってんだ」


二人がエキサイトしてきたところで、晶子は二人に話しかけた。


「それはそうと、朝ごはん食べていくんでしょ。お母さん用意していってくれてるから持ってこようか?」


「「あ…… うん。お願い」」


同時に同じ言葉を発する太一と卓也に勉は感嘆の声を上げた。晶子は朝食をとりに台所へと向かった。


「何だかだいって太一さんとタクって息ピッタだよな。ボケツッコミも絶妙だし……ホント仲良いよな」


それを聞いていた陽子は思い出したかのように話を始めた。


「ああっ! 卓也くん、太一さん。そういえばさっきね、お姉ちゃんと勉くんが私の隣で裸でピッタリくっついて寝てたんだよ。二人も仲良いよね」


勉はそれを聞いて吹き出しそうになる。


「陽子ちゃん…… グッジョブ!!」


太一は陽子に向けて親指を立てた手を見せて言った。そこへお盆に朝食をのせて晶子が入ってきた。


「ん? 何の話してるの?」


そう問いかける晶子に太一は説明を入れようとするが、卓也と勉に遮られてしまった。晶子は持ってきたお盆からテーブルに朝食を並べる。晶子達もまだ食べていなかったようで五人分のご飯が並べられ晶子がテーブルにつくとみんなで食べ始める。


「そういえば、父さんはどうやって職場行ったんだ?」


卓也が太一に聞いた。


「ああ、母さんに乗せて行ってもらったよ」


太一は答える。


「そういえば兄貴。何て言って車借りたんだよ」


「明日みんなで遊園地に出かけるからって……」


「真冬にか? よくそんなんで納得して貸してくれたな?」


卓也は呆れるように言った。


「まぁ、それらしく説明したからな。それより食べたらとっとと行こうぜ。遅くなると色々と厄介なことになるからな」


一同は太一の言葉に食いついた。


「厄介な事?」


勉がそう聞くと、他の人も太一の返答に注目する。


「いや、だから……雪……積もるだろ」


「「それかい!」」


まぁ何にせよ考えられるリスクは少しでも減らしたほうがいい。いくら奴らとの戦いに勝っても、帰りに事故死したら洒落にならない。卓也と勉は掻き込むように朝食を口に放り込むと、食器を流しに持っていき卓也の部屋に着替えに行った。太一は朝食を食べ終えると食後のコーヒーを飲みはじめた。


「太一さんは着替えなくて良いのですか?」


のんびりコーヒーを堪能する太一に晶子は尋ねる。


「ああ、俺はこのままでいいよ。大して汚れてもいなしい……」


そう言っている間に、ドタバタと階段を駆け降りる音が聞こえた。


「ほら、行こうぜ」


「ああァ!? コーヒーくらいゆっくり飲ませろよ」


「何言ってんだ。早く行こうって言ったの兄貴だろ」


そういうと力は太一の手を引っ張り外に連れ出そうとする。太一は持っていたコーヒーを溢すまいとバランスをとりながら勉の行く方など引っ張られていく。卓也は助手席に乗り込み、勉は後部座席にいくと早速靴を脱いで座席にあぐらをかいた。慌ただしく出ようとする三人を晶子達は車のそばまで行って見送ると、太一は車を走らせた。大粒の雪はフロントガラスに積もりワイパーがひっきりなしに掃いている。車の時計は十時を示していた。この時間になると仕事始めの日とはいえ車通りはほとんどない。車は家の前の県道から国道にでるとYVの研究所がある如月村までの道のりを走り始める。


「何だよ。意外とちゃんと走ってるじゃねぇか」


「何言ってんだ。そんなの当たり前だろ。びびって見せたのはお前達の反応がおもしろいからだ。それに……」


太一は声を顰めながら卓也に耳打ちした。


「運転の感覚なんていくらしていなくても忘れるもんじゃないだろ」


「まぁ、確かにそうかもな」


車は如月市に入ると脇道に入った。車窓からは白く染められた田んぼと畑以外目に入らない。


「何だか随分と寂れたところに来ちゃったな。こんなところに学校作ろうとしてんのか? YVは……」


そう言いながら勉は車の窓から外の様子を見ている。それから十分が経つと田畑すら少なくなり、いつしか木の生い茂る山道へと入っていた。


「太一さん。道間違ってないですか? いくらなんでもこんなところに学校や研究所なんて作りますかね? アクセス悪すぎでしょ?」


「いや、間違ってはいないよ。YVの学校ってどこも全寮制らしいからアクセスは関係ないのかもな。それにこういう隔離された環境の方が都合の良いことが多いだろ」


「たしかに…… 今回の俺たちにとっても都合いいですね」


勉は納得した様子で流れる外の風景に目を向けている。更に暫く走ったとき、木を伐採して拓かれた更地を取り囲むような塀と守衛所が見えた。よく見るとそのずっと奥にひっそりと、しかし大きなまっ黒い建物があるのが見える。


「こんな山奥にこんな立派な建物が建ってるなんて怪しさ大爆発ですね。もしかしてアレですか?」


勉はその漆黒の建物を食い入るようにみている。


「多分な。あんなでかい建物なのに窓が殆ど無いなんて、中がどうなっているのか検討もつかんな」


太一は誰にいうでもなくつぶやいた。三人はその壁から数百メートル離れたところに車を停めて歩いてこの建物に向かって歩いた。遠目にはわからなかったが、この土地を取り囲む塀はとても人が登って超えられるような高さではない。


「兄貴どうする? 正面突破するか?」


勉も太一の返答を待つように顔を凝視している。

太一は守衛所の中を確認するように覗き込んでいる。


「しょうがない正面から行くか。お前らコレを持っとけ」


そう言って二人の前に差し出したのは丈夫そうなインシュロック帯だった。


「ああ、それか。俺も持ってきてるよ。ほら……」


そう言って卓也はポケットから二十本程のインシュロック帯を取り出して見せた。


「はぁ? これ配線束ねるバンドでしょ? 何するんですか?」


勉は用途が分からず太一に問いかける。


「これはな敵の動きを封じる手錠のようなもんだ。敵の両手を後ろに回すだろ。そうしたら左右の親指をそれで縛るんだ」


「なるほど……」


勉は納得した様子で太一の手からインシュロック帯を受け取る。


「つーかさ、有馬家ではそれ常識なわけ? 普通こういう場に持ってくるか?」


勉はそう卓也に聞いてきた。


「そうそうこういう場が日常にあるわけじゃ無いけど、俺はいつも数本持ち歩いてるぜ。まぁお守りみたいなもんだ」


「なんかお前も太一さんも特殊部隊かなんかに入った方がいいんじゃないか? 今までそんなもの無くて困った事なんか一度もないぜ」


勉は深いため息の後言った。


「それはいいとして、いいか、一時間で制圧するぞ! とっとと終わらせて麓にあった蕎麦屋に行こうぜ」


太一はそういうと守衛が室内から外への視線を外したのを見計らって、守衛室の入り口前に移動した。同じようにして卓也達も太一のところに移動した。三人がドアの前に揃った瞬間、太一はドアを開けて首元に手刀を入れる。


「いでっ!」


守衛はそう叫び後ろを振り向こうとした時、太一は顔面に猿臂を放った。その肘は男の顎にヒットしてその場に無言で崩れ落ちる。


「た、太一さん……今何を……」


勉は太一が行ったよくわからない攻撃に疑問を感じ聞いてきた。


「あ、すまん。本当に手刀で気絶ってさせられるもんなのかなと思って……」


太一はそういうと右手の指で頬を掻いた。


「はぁ…… で、気絶しなかったんで猿臂で仕留めたと…… コイツにとっては偉い災難だな」


卓也はそう言いながら守衛室の中を物色する。守衛室なら研究所の見取り図があるかもしれない。そう思って探すもそれらしいものは見つからなかった。卓也は仕方なく内線のコードを引きちぎって三人は守衛室をでた。


「ふぅ……ここなら見取り図があると思ったんだがな……」


卓也は守衛室の方を見ながら呟いた。


「まぁ、無いなら仕方がない。しらみ潰しにいくしかないだろ」


三人は塀に沿って歩きだし研究所と思われる施設を目指した。冬山という事で草木の葉が無い分隠れようがない。雪でも積もっていればまだ多少は見つかりにくくなるのかもしれないが、つもり始めのこの状態では黒いジャージ姿の三人はかえって目立ってしまう。三人は周りを警戒しながら歩き進めて建物の入口前までやってきた。


「訓練施設もあるって言うからもっと人がいるのかと思っていたけどさっぱりいないな。どうなってんだ?」


「正月休みでもとってんじゃねえの?」


不安気に呟く卓也に勉は呑気に答える。


「建物の中に訓練場があるのかもな。なるべく一緒に行動してローリスクで潰していこう」


太一が二人にそういうと黙ってうなづいた。太一は先頭を立ってそっと入り口のドアを開いた。建物の中は中央に廊下があり、その両脇はガラス戸のついたパーテーションで仕切られていた。そこから三十メートルほど先に左右に入れそうな扉がみえている。ドアを入るとすぐに下足箱が置いてあったが、三人は土足のまま廊下にすすんだ。そしてパーテーションにつけられたガラス窓からそっと中の様子を伺う。中では全身白や青いツナギや手袋、マスクを身につけた人が動いているのが見える。


「どうやらここはクリーンルームのようだな。クリーンスーツをきた人がいる……」


太一は卓也を見て話しかけた。


「ああ、……となると、天井裏には空調設備が入っているはずだから、おそらくこの建物は三階建といったところか」


勉は二人の話が分からず顔を顰めている。


「卓也、なんだよクリーンルームって」


たまらず勉は卓也に聞いた。


「簡単に言えば空調や静電対策を施して、空気中の塵の数を管理している部屋のことだよ。製薬会社や半導体工場なんかではよくそういう施設があるんだ」


「へー。ということはここではそういうものを研究しているって事か……」


勉は興味深そうに中の様子をみている。


「おいおい、勉、中の奴らに見つかるなよ」


太一は勉にそう注意した。


「まぁ、中の設備からして製薬の方だろうな。とりあえずここは放っておこう。ラスボスやっつけた後でゆっくり潰せばいい」


三人は身を低くしながら廊下をすすみ、突き当たりにある階段の前までたどり着く。


「ふぅ、まだ何もしてないけど疲れたよ。

なぁ、卓也。ここってへんな作りだよな。こんだけ広いのに階段が一箇所だけなんて…… エレベーターがあったって良いくらいなのに」


勉は伸びをしながら言った。


「確かにな。上の階もクリーンルームなら中にあるということも考えられるけど……」


そう言いながら三人は階段を上り始めた。すぐ上の階に行くにしては階段が長い。卓也のいうように天井裏を大きくとって空調設備でもいれてあるのだろう。階段を一階飛ばしの高さまで上ったところにニ階のフロアの入り口があった。そのフロアは一階とはうって変わって何もない。所々に剥き出しのコンクリートの柱だけがある。建設途中のビルをといった感じだ。そしてそこにはニ、三十人もの黒いツナギを着た男が戦闘訓練をしていた。それは訓練とは思えない気迫で、本気で相手を仕留めようとしているかに見える。中には模擬刀を持って立ち会っているのもいる。三人はフロア入り口の壁に隠れながら中の様子を見ていた。


「た、太一さん。これやばくないすか? あんなのがあんなにいたら倒しきれないですよ」


「うーん。一人十人か……」


太一はフロアに見える人を指差し数えてつぶやいた。


「無茶な計算しないでくださいよ。普通の奴らが十人いただけでも厄介なのに、あんな軍人みたいなのを十人も相手にできませんよ」


勉はコレまで見たことのないくらい弱気な発言をした。それをみて太一と卓也は出直しを考え始めた。


「だったらどうするんだ?」


そんな声が後ろから聞こえた。その低い男の声のほうに振り向こうとした時、勉は背中を蹴り飛ばされフロアの中に転がり入った。太一はとっさに勉の側に駆け寄り、辺りに注意を払う。卓也もそれに続き入り口の外に向かって構えをとる。すると勉に蹴りを入れたと思われる男を先頭にゾロゾロと黒ツナギの男達が入ってきた。同時にフロア内では三人のを取り囲むように黒い集団が集まってきていた。その数、凡そ八十人……


「兄貴、どうする一人十人どころじゃねぇぞ」


周りに気を払いながら太一に話しかける。太一はこのどう見ても劣勢と思われる状況を打破しようとしているのか、卓也の言葉に反応せずにぶつぶつ言いながら身構えたままで立っている。その時男達の中から一人の男が歩み出てきた。


「コレは、コレは、昨日のお兄さん達じゃないですか。わざわざ書類を届けにきてくださったんですか」


男がそういうと卓也は腹の底から声を搾り出し言い放った。


「んなわけあるか! お前らを滅殺に来たんだよ!!」


その後ろではようやく勉がよろよろと立ち上がった。


「勉、大丈夫か?」


太一が静かに勉に話しかけると、額に油汗をかきながらうなづいた。


「だ、大丈夫です。多分肋骨が数本いっちゃってますが……」


それを聞くと太一はうなずき、勉と共に卓也と話している男の方に目を向けた。


「ホント威勢がいいですね。この人数を前にしてそんな事が言えるなんて…… まぁ、いいですよ。こちらとしても土足で勝手に入って来た人をそのまま返すわけにも行きませんからね」


「ふん! お前らの事情なんかどうでも良いよ。俺たちは用を済ませてとっとと帰るぜ」


卓也はそういうと目の前にいる男に突進する。それを合図に太一と勉はフロアの隅へと駆け出しそこを背にした。太一は敵の侵攻方向を狭める作戦をとったのだ。

卓也は貫手を男の喉目掛けて繰り出すがそれをスウェイでかわすと掌手からの肘打ちで応戦してきた。卓也はそれを受け流し、膝で顔面を狙うも払い落とされた。


(コイツ、強い!)


卓也が次の攻撃に移ろうとした時、男は数歩退き代わりに三人の別の男が攻撃を仕掛けてきた。卓也はそのうちの一人に前蹴りで金的にヒットさせると、前屈みになった頭を目掛けて肘を振り下ろした。男の頭はコンクリートの床に叩きつけられる。しかしその瞬間男の頭は爆発した。


「何っ!?」


とっさに卓也はバックステップで退き被爆を免れる。


「ほうかわしましたか。威力は大したことないですが、ちょっとしたダメージくらい与えられると思ったんですけどね」


「お前、またそんな事を! 来栖河! お前、人の命をなんだと思っているんだ」


「YVの役に立って楽園にも行けるなんていいことづくめじゃないですか」


卓也は残り二人を足払いで崩すと下段回し蹴りからの踏み砕きを入れ、さっきの男目掛けて飛び蹴りを放つが、それを身を捩らせてかわすと膝蹴りからの直突きを打ってきた。それを卓也は顔面に受けてしまう。


「うぐっ!」


片手で顔面を抑えつつ構えを取る。


「どうやらあなたはそれ程打たれ強くは無いようですね」


「お前見たいな緩い攻撃をしないからな。稽古以外で攻撃を喰らう事なんて無いんだよ!」


そう言って裏足払いからの膝蹴りを放つと来栖河は肘でガードする。その瞬間男の表情が苦痛に歪む。


「あなた膝に何か仕込んでますね……」


「ふん! 大人数を相手にすることを想定しなかったわけじゃ無いからな。それなりに準備はしてきたって事だ」


そういうとさっきまでの苦痛の顔からニヤリと表情を変える。


「??」


するとコレまで戦っていた黒ツナギ達が次々に爆発して、男達の体の部位が卓也に飛んでくる。


「煙幕のつもりか? いつまでも人の爆発に動揺してるわけじゃねぇぞ!」


卓也が体勢を整えて再び向かっていこうとした時、来栖河は人差し指を前につきだした。


「まずは一人目……」


突き出した指で部屋の隅を指さす。卓也は横目で指さす方をみると自分と同じジャージをきた男が倒れていた。


「勉!」


太一は勉のすぐそばに立ち黒ツナギ達を相手に戦っているが、勉をかばいながらの攻撃ではなかなか仕留めきれない。そしてそのうち太一も徐々に敵の攻撃を喰らい始める。

更にそんな時フロアの奥から、卓也が対峙する男の倍はあろうかという大男が姿を現した。


「来栖河。まだ仕留めていないのか? 

 何人兵隊を無駄使いしてんだ!」


「サータカムラ!?」


篁とよばれる大男は卓也が対峙する男の前に出ると、来栖河は後ろに引き下がった。篁は棒立ちのまま卓也を見る。


「その歳でここまで戦えるのは見事だ。しかしちとはしゃぎ過ぎだ。本来ならすぐお前達を叩き潰すところだが、今すぐ書類を出すというのなら今回な全員見逃してやろう」


態度からみてこの男は来栖河よりも格上とみえる。


「ふっ、そんな約束お前らが守るとは思えんな!」


卓也は正面から上段前蹴りを放ち顎にヒットさせ、続け様に後頭部への廻し蹴りを炸裂する。しかしそんな攻撃も気にするでもなく言葉を続ける。


「約束しよう。だがこの条件を飲まないというのならお前らを始末した後すぐにあの村に火を放って皆殺しだ」


男の躊躇いのない言葉に血の気が引くのを感じるが、太一は精一杯の虚勢をはり言い放つ。


「だからといってハイそうですかと渡せるか! 卓也、全力で叩きのめせ!」


太一は卓也に向かって叫んだ。その足元では勉が両手を床に突き立ち上がろうとしている。全身に力を込めて立ち上がるとそこに四方から蹴りやパンチが浴びせられ再び倒れこむ。全身打撲でもう立ち上がる事さえ困難な状況になっていた。そんな勉が見えながらも太一はかばいきれなくなっている。卓也は全力で篁の足にローキックを打ち込むが篁は全く崩れる様子はない。


「ふん。スピードはなかなかのもんだが、お前の蹴りもパンチも軽すぎる。所詮はガキのケンカだ。こんなのを何百発受けようが全く効かんね」


そういうと卓也目掛けて十数発のジャブをだす。それを卓也は受け流すが、受け流した腕は痺れ次第に受けきれなくなる。


(ジャブがこんなに重いなんて…… 腕が持っていかれそうだ……)


「くそっ、化け物がぁ!!」


篁のジャブを必死でかわしながら攻撃を仕掛けるも全くダメージを与えられない。自分には既に余力がないことを感じ始める。


「そろそろ終わりだ。

 来栖河! 村に出かける準備をしろ!!」


「サー!!」


戦いながら後ろに待機する来栖河に話しかける篁。この命令に来栖河は一礼すると数歩後ろに下がり、フロアの奥へと向かって駆け出した。しかし数メートルいったところで、来栖河の前に勉が立ちはだかった。


「勉!? さっきまで倒れていたのにどうやって……」


卓也はついさっき横たわっていた太一の足元に目をやると、そこには勉の代わりに何人かの黒ツナギが倒れていた。いずれもカマイタチにでもやられたかのように首が引き裂かれ辺りには血飛沫が撒き散らかっていた。


「あなたまだ生きていたんですか…… とっくに死んだと思ってましたよ」


勉はその言葉になんの応答もない。来栖河は勉にフィンガージャブを放つと、勉の間合いに入った瞬間来栖河の手が引き裂けた。


「なっ、何を……」


言葉が言い終わるよりも早く勉は相手の間合いに入り虎爪で来栖河の喉に指を食い込ませるとそのまま頭ごと地面に叩きつけた。その様子を見ていた卓也。


「何だ? この動きは……」


コレまで何度となく太一や卓也とスパーした勉の動きとはまるで違っていた。卓也はその変わりように笑いが込み上げてきた。来栖河を落とした勉は、今度は正面から大男の前に飛び込む。それを迎え撃つようにフリッカーを出すがそこにはすでに勉の姿はなく、男の斜め後ろから膝の裏に向けて足払いともローキックとも言える蹴りを入れた。


「すげー!! 初めて見たぜ! こんなキレっキレの膝カックン!」


太一は興奮状態で勉の技を称賛する。男がバランスを崩して前に両手を着こうとした時、卓也はその前に踏み込むと左右の貫手を篁の眼球にめり込ませた。その瞬間篁は苦痛に絶叫したが、続け様に三発目を目に突っ込むと卓也の小さな手は頭蓋骨の内部に到達した。コレまで感じたことのない生ぬるい感触に卓也は顔を歪めるが、思い切って掬い取るようにその中のものを掻き出した。引き抜かれた男の眼部からは白っぽい脳髄か垂れて篁の息は一瞬にして絶えた。


「ふん! 子供だと思って舐めてるからだ!」


卓也は篁の体液で汚れた手を篁の服でのごった。


「あぁーあー、勉も卓也もエグいことするなぁ……」


太一はフロアの隅で呆れたような声を上げながら卓也と勉のいる場所に歩いてきた。


「でもつっと、今回は本当に助かったよ。お前があんなキレた攻撃をするとはな……」


卓也がそう言って勉の肩に手をのせると、何も言葉を発しないままに倒れ込んだ。限界を超えた動きを続けた勉は立つ力さえ残っていなかった。太一は倒れ込む勉の体を支え抱きかかえる。


「さて……それじゃあ長老とご対面だな。卓也いくぞ!」


「ああ」


三人はフロア奥にある階段を登る。登り切ったところには絨毯にシャンデリア、通路脇には花瓶や絵画などが飾られ迎賓館にでも来たような豪華な装飾が施されていた。さらにその奥にはこの建物には似合わない重厚な扉があった。


「はぁ…… なんだかなぁ…… 結局は神がどうの、教えがどうの言ったところで結局欲に塗れてんだな」


卓也はせっせとお布施や奉仕活動、お祈りをする信者の姿を頭に浮かべながら呟く。そしてこの欲まみれの幹部部屋を目にして宗教とは一体なんなのかと考えて落胆にも似たため息を漏れた。


「まぁ、それは宗教に限ったことじゃないだろうがな」


太一はそういうと、抱えていた勉を壁にもたれかけると、手足をぷらぷらと振った。


「兄貴、んなことしなくてもここで戦闘になはなんねーだろ?」


「だとは思うけど念のためだ」


太一は大きく深呼吸しながら答えた。暫く呼吸を整えたかと思うと「よし!」と声をあげて扉の前に歩いて行く。卓也は太一がどう入るのかを見守る。いきなり蹴破るのか、こっそり忍び込むのか…… そんな予想をしていた卓也だったが、意外にも太一は重厚なドアにノックした。


「入れ!」


中からいかにもな男の声が聞こえ扉を開ける。


「侵入者の始末は終わったのか?」


扉を開け切る前にそんな声が卓也達の耳に入って来た。


「失礼します!」


相手の声に応答もせずそう言いながら扉をあけて二人は部屋の中へと入った。その中はマフィアのボス部屋を思わせるような、下品なまでの豪華な装飾に彩られていて、そんな中に五人のスーツ姿の初老の男が立っていた。更に奥には大きな机。椅子には八十近いと思われる老人が座っている。


「なんーか想像通りって感じだな兄貴」


「ああ、あまりにそれっぽくて笑える……」


五人は入って来た二人の顔を見るなりどよめき出す。


「な、何だ貴様ら! どうやってここまで来た!?」


「篁と来栖河はどうした!?」


「あの二人は下で死んでいるであります」


卓也は太一のあまりにふざけた態度に笑いが込み上げ、ついには声に出して笑ってしまう。


「ふざけるなガキ!! 

ふん! こんなガキにやられるなんてあの男らも使えん奴だ」


そういうとその男はスーツのポケットからトカレフと思われる拳銃を取り出すと太一に向ける。引き金にかけた指をひきはじめたとき太一は男の眼前まで間合いを詰めると手首を返して銃口をその男の右胸に押し当てると、指をかけていた引き金がひかれ発泡された。火薬の発破音や硝煙の匂いと共に弾丸が人体にめり込む鈍い音が部屋に響く。弾丸はその男の右の胸にとどまり血飛沫はない。男は呻き声をあげてその場に倒れ胸を押さえながら喚いている。周りの男達はその姿にたじろぐ。


「おっ、お前たちの要求は何だ? 取引といこうではないか……」


仲間の一人がやられた事で急に下手にでて取引をもとめてきた。


「要求ねぇ。ああ、そうそう。昨日お前達の仲間の……来栖河というやつにダチの家が爆破されてな。損害受けた分の金を払ってもらおうか」


「わ、わかった。いくらだ?」


男は取引に応じたと思い表情を和らげてそう答えた。


「一億!」


「一億だと? 馬鹿な! あんな田舎の家の賠償に一億など払えるか!」


男達は一斉に懐に手を差し込んだ。それと同時に卓也はサッと男の間をくぐり抜け、一人の背後に回り込むと、その喉に虎爪を食いこませ握りつぶしながらそれを引き抜く。すると数秒間ガクガクと全身を痙攣させたあと体は力なく崩れた。一瞬躊躇しながらも屍の後ろの卓也めがけ一人が発泡すると、残りの二人も続けて銃弾を浴びせた。だが小型のトカレフでは銃弾は屍を貫通しない。卓也は正面の男に屍を蹴り飛ばすと、三人はそれをかわそうと散り散りになる。太一はそんな男二人の顔面にかけ蹴りをいれると、立っている最後の男の銃を蹴り落とした。卓也は立っている最後の一人のみぞおちにパンチを入れると、男は腹を押さえながら膝をつき呻き声をあげ始めた。卓也はそんな男の髪を引き上げ話しかける。


「随分とふざけた真似してくれるな。お前らと取引なんかこれっぽっちもするつもりないわ!」


そういうと男は歯ぎしりをしながら卓也を睨みつける。


「クソガキがぁ!」


卓也は嘲笑するような笑みを男に向けると引き上げた頭を床に叩きつけた。それは熟れたトマトを潰したかのように絨毯に男の血が弾け飛ぶ。太一は長老を凝視しつつ足元に転がる男を蹴り上げ生死を確認している。


「全部死んでるな。あとは呑気に椅子に座ってるジジイだけだ」


卓也と太一はさっきから微動だにしない椅子のところに歩いていく。


「あんたがここの長老さんだな?」


問いかける卓也に何の反応も示さない。卓也も太一に続き老人に近づくが、それにも反応する様子はなかった。太一は椅子の老人に近寄って顔を覗き込む。


「ん?」


目を見開いているが、見えているようには思えない。太一は深いため息をついた。


「死んでるな」


卓也も老人の顔を覗きに近寄る。


「自殺……なのか……」


そう言いながら太一に視線を移す。


「ん……こんな苦しむ様子も無く、それどころか何の動きも無く、ただ電池が切れたように……そんな風に自殺できるもんなのか?」


「でも兄貴。これからどうするよ。とりあえずここの幹部は全部始末したけどよ、また本部から別のやつがやってくるんじゃねえの?」


「うーん。そうだな……」


太一はそう言いながら部屋の入り口に向かって歩き出した。

その後ろを時々振り返りながら追いかけた。太一は腕につけた時計を確認する。


「どれ、そろそろ帰るか……」


「ん? あ、ああ……」


太一は部屋を出るとさっき通路の壁に寄り掛からせておいた勉を再び抱きかかえ、通って来た道を引き返し階段を降りた。二階のフロアにやってくるとさっきの死闘の跡がそのまま残っている。


「ひゃー、改めて見るとこのスプラッタは引くなぁ。大島てるどころか、ルワンダ大虐殺やベトナム戦争総仏とさせるわ」


「ルワンダ大虐殺はまだ起きてないけどな……」


無数の死体が転がり、臓器や肉片が散らばる中を三人は歩き、勉が後ろから蹴り飛ばされたフロアの入り口までたどり着く。卓也は止めていた息を吐くように大きく呼吸した。


「はぁ〜…… いや、たまんねぇな。見た目もそうだけど、この臭いが…… 勉が起きていたら何度吐いているかわかんねぇぜ」


「ああ、そうだな……」


そう言いながらも太一はそれ程堪えてる様子は無い。その様子から卓也は前世での医者としての経験が、このトラウマになりかねない光景を和らげているのだろうと考えていた。ただそれ以上に幹部部屋を出たときからの太一の様子が気になった。一階に降りる階段を歩いている最中、卓也は太一に話しかける。


「兄貴。あのさ……」


「しっ!!」


太一は振り向き卓也の話を遮る。太一は視線を一階に向け口を閉じる。卓也もつられて息を殺した。


「静か過ぎないか? 下から全然音がしない」


「そういえば…… さっきはこの辺も空調施設の音がしていたもんな」


太一は抱えた勉を首が動かないよう持ち直すと、駆け足で下の階に駆け降りた。


「兄貴?」


階段袋から出て通路に出ると完全に無音になっていた。それどころかパーティションの所々にあるガラス窓からもれていた蛍光灯の灯は消え、通路上の非常灯だけで歩けるだけの明るさが保たれていた。卓也はガラス窓から研究室の中を覗き込むがさっき見えていた人の姿はない。そこを黙って歩き進め建物の外にでた。


「行こう」


太一は卓也に一言だけ言葉をかけると、そのまま車を停めた場所まで無言で歩き進めた。この太一の緊張感を感じた卓也は話しかける事なく黙って太一についていく。車に着くと勉を後部座席に寝かせると無言のまま車を発車させて来た道を帰り始めた。三十分程車を走らせると山道を抜け、朝より少し雪が積もった田園地帯に出てきた。太一はハンドルを握ったまま大きく深呼吸すると、少し和らいだ表情になって卓也に話しかけた。


「誰もいなかったな。下の研究室……」


「ん? あ、ああ……」


ずっと黙っていた兄に突然話しかけられ、そんな相槌だけを返す。太一は何かを考えるような顔をしながら話し出した。


「卓也。さっきの長老のじいさん…… アレ自殺だと思うか?」


「ああ、あれか。俺たちが部屋に来た時は生きていたよな? いつの間に死んだんだろう?」


太一はチラリと卓也に視線を向ける。


「ああ、生きていただろう。一言も喋らなかったけど間違いなくその時は生きていた」


「だったら……やっぱり自殺じゃねえの?」


太一は鼻から大きく息を吐いた。


「服毒するにしたって何らかの痕跡は残るもんだろう? それが全くないなんて不自然すぎる」


太一はまっすぐ前を見ながら考える。


「……まだいたんだろうな。長老を殺して、下の研究室の人を移動したやつが…… まぁ、研究者の移動は篁や来栖河ができなくはないけど、少なくとも長老を殺した奴はいたはずだ」


そう聞いて卓也は太一に詰め寄った。


「だったら! だったら戻って始末しないと!」


それに太一は小さくため息を吐く。


「いや、無理だろ。この状態でまた篁や来栖河級の奴らが出てきたら間違いなく倒せない。俺も、お前も、勉もダメージを受け過ぎている。それに日本には約三十万人のYV信者がいるんだぜ。ああいう武闘派はさっきの奴らだけじゃないはずだ。奴らの手駒を一つ二つ余計に倒したところで状況は変わらないよ」


「うぐぅ…… じゃあさっきの戦いは茶番だったというのか?」


卓也は唸り声を上げ拳を握りしめる。


「いや、そうでもないだろ。今日の目的は奴らが再び勉家族や田嶋姉妹、うちらを襲うのを防ぐのが目的だ。少なくても昨日うちらへの襲撃を指示したのは間違いなくさっきのやつらだ。それを潰しておけばうちらへの報復もない」


「まぁ、それはそうかもしれないけど……」


腑に落ちないような顔で卓也はこたえる。


「まぁ、それはともかくとしてあの書類を匿名で警察に送っちまおうぜ。そうすればYVに警察の手が入るだろうし、この計画も実行できなくなるだろう。もちろん警察に送るのはコピーな。あれにはベタベタとうちらの指紋もついているから」


「わかった。俺が送っておくよ」


その時、朝太一が気にしていた蕎麦屋が卓也の目に入ってきた。


「流石にこの状態で蕎麦屋には寄れないよな……」


卓也は太一に言った。


「まぁな。勉もまだ目を覚さないしな」


「ん……っ それはそうとつっとどうするよ。このまま家族のところに返すわけにもいかないだろ。怪我の手当てもしなきゃいけないし……」


卓也は車の後部座席に目をやる。


「とりあえず急いでうちに帰ろう。まだまだ母さん達は帰ってこないだろうけど、今来ている服の始末や勉の手当てもあるしな」


三人が乗った車は急ぎながらも、法定速度をきっちり守り警察に止められることのないよう注意を払って車を走らせ、十四時過ぎにようやく有馬宅に到着した。


「ふぅ、やっと着いたな」


「ああ…… たった半日で心身共にぼろぼろだよ」


家に着いて何分間か二人は車の中で力尽きたように呆けていると、晶子と陽子が車の前に駆けてきた。晶子は車の中をそっと伺うように覗き込むと、助手席側の窓をコツコツとノックした。その音に卓也は気が付いてドアを開けた。


「晶子ちゃん、ただいま」


「みんな大丈夫? 怪我は?」


晶子はそう言いながら車内に勉の姿を探す。


「うん。一応は…… でもつっとの怪我が一番酷いから手当てしないと……」


そう言って卓也は車から降りると、その途端ぐらりと体が揺れたかと思うと、地面に片膝がついた。


「だっ、大丈夫?」


「ああ…… それよりつっと運ぶの手伝ってもらっていい?」


晶子はコクリと頷くと後部座席のドアを開けて横たわる勉の腕を肩にかけた。卓也はヨロヨロしながら立ち上がると、運転席側から太一が降りてきた。


「ああ、俺が運ぶよ。晶子さん、玄関のドア開けてくれる」


「はい」


太一は勉をお姫様抱っこで抱え上げると家の中に連れ帰り、茶の間の畳の上に寝かせた。晶子は勉の上着を脱がせると、大量の濡れタオルを持ってきて陽子と一緒にその体を拭きはじめる。その間に卓也は三人の服を回収して洗濯機に放り込んで回すと、浴室でシャワーを浴び始めた。五分ほどでシャワーを済ませると太一が入れ替わるように浴室へと入っていき、卓也は茶の間へと戻ってきた。


「つっと、まだ気がつかない?」


さっきから勉の側で体を拭いて、怪我の手当をしている晶子に卓也は話しかけた。


「うん。まだ……

 ……ねぇ、結局どうだったの? 勉くんはなんでこんなに怪我しているの?」


晶子は涙を溜めながら勉の世話をしていたが、卓也に目を向けた時その涙が目から溢れ頬を伝った。卓也は研究所についてからの出来事を晶子達に話した。その間 晶子はずっと勉に目を向けて勉の頭を撫でている。そんな時浴室からでた太一が髪を拭きながらやってきた。


「でもこれでひと段落だよな。奴らはもううちらを狙って来ることはないだろう。勉が気が付いたら医者に連れて行こうぜ」


太一はそう言いながら勉に近づいて顔を覗き込んだ。


「それにしても今日の勉は凄かったな。命の危機に晒されて覚醒するなんてサイヤ人かよ」


そう顔の側で呟いた時、勉の身体はピクリと反応しうっすらと目を開けた。


「たっ、太一さん…… サイヤ人て……なんですか?」


その言葉にその場の一同は勉に目を向けた。


「勉、何処か痛くないか?」


太一がそう聞くとうっすら苦笑しながら答える。


「何処かって…… 全部痛いですよ。痛くないところってどこだろって感じです」


「まぁ、それはしょうがないんじゃないか。勉のあんな動き今まで見たことなかったからな。もう筋肉という筋肉を総動員したんだろう」


太一のその言葉に勉は不思議そうな顔を浮かべる。


「あの、すみません太一さん。俺のあんな動きって? 

つか、どうやってあの大男と来栖河を倒したんですか?」


卓也と太一は顔を見合わせた。


「つっと…… お前、覚えてないのか? 来栖河を倒したの……」


「はい。殴られ過ぎて気を失ってたんでしょうね。ハハッ……」


勉は恥ずかしそうに乾いた笑いをする。太一は呆れたように深く息を吐くと勉の顔を覗き込んだ。


「勉。来栖河を倒したのはお前だよ。あの時のスピード、パワー、動きは普段の勉とは別人のようだった。あの状態のお前と手合わせしてみたいと思ったくらいだ」


「それにさ、あの大男を仕留めたのは俺だけど、それができたのはつっとがあいつの膝をつかせてくれたからだ。まじ凄かったぜ」


勉はキョトンとした顔で真上の天井を見ている。


「俺が……」


そういうと自分の両手を目の前に持ってきて拳をにぎった。勉の頭には色んな想いが交錯し、その拳に力がこもる。


「そっか、俺はまだまだ強くなれるんだな……

俺はもっと強くなる。タクよりも、太一さんよりも!」


勉は仰向けで天井を向いたまま宣言する。卓也と太一はクスリと微笑む。


「ああ、強くなれよ。俺は追い付かせる気ないけどよ。

だけどその前に身体を早く治せ。肋骨折れてんだろ?」


太一にそういわれ勉は上体を起こそうと、右肘を畳について頭を持ち上げた。その瞬間勉の全身に脂汗が噴き出し顔が歪んだ。


「いっ、痛ってぇ……」


その後勉を医者に連れて行くと一週間絶対安静にしているように言われる。勉は強がって「明日には復活する!」と言いはったが、その翌日更に酷い痛みが全身に現れ、それから三日間立ち上がることもできなかった。着替えるのもトイレにいくのも晶子に手伝ってもらわなければならなかった。そんな事もあり冬休みが終わるまで卓也の家に泊めてもらうことにした。太一はテス勉をすると言って決戦の翌日に東京へと戻っていった。



昭和六十一年一月十日 金曜日

 勉はようやく自力で立ち上がり歩けるまで回復していた。卓也は起きるといつものようにボーっとしながら朝食が並べられた茶の間へとやってきた。


「おはよう……」


テーブルにはすでに勉が着いていて、その隣では父親が新聞を広げている。晶子と陽子は朝食の手伝いをしているようだ。


「つっと、もう身体は大丈夫なのか?」


「んーっ、まだ笑ったり寝返りうったりすると肋骨は痛むけど、あとは重度の筋肉痛みたいな感じかな」


「そっか。じゃあもう暫くは安静にしていないとな。今日はおとなしく冬休みの宿題でもしてな。休みは今日含めてあと三日しかないからな」


卓也はマグカップにインスタントコーヒーを入れながらそう言った。


「でっ、でもあの火事で宿題燃えちゃったし…… その辺は先生大目に見てくれるんじゃ……」


卓也は深くため息をつく。


「ワークはそうかもしれないけど、自主勉強ノートや書初め、新年の抱負はその理由通用しないだろ」


勉の顔に焦りの色がみえはじめた。そんな時新聞を見ていた父親が驚いたような声を発した。


「卓也、勉君。これ見てみろよ。YVの建物が火事だって」


そういって新聞を卓也達の前に置くと、テレビのスイッチを入れチャンネルを回し始めた。そしてニュース番組が出たところでその手を止める。卓也達は新聞のタイトルだけ見たところでテレビに目を向けた。そのニュースでは先日訪れたYVの研究所が映し出されたが、その外観は変わり果てたものとなっていた。


「へーっ、YVってこんな施設も持っていたんだな」


卓也の父親は呑気な声でこんなことを言いながら湯呑みのお茶を啜った。テレビに映った研究所は外壁が焼け落ちコンクリートの柱が剥き出しになっている。そんな建物を背に番組のリポーターはコメントをはじめた。


「ここは如月村にあるYVの研究所です。一月九日未明ここで火災が起き、その火は八時間後に消しとめられました。その焼け跡から一人の遺体が発見され身元の確認を行なっているようです。火元は一階のクリーンルーム内と見られ遺体もその中で発見されたとのことでした」


父親がテレビの映像に夢中になっている中、卓也と勉は新聞を持って顔を見合わせ、そっと茶の間をあとにして卓也の部屋にやってきた。


「タク! 一人の遺体って何だよ。俺が見ているだけでも十人以上死んでるぜ」


卓也は持ってきた新聞に目を向ける。そこにもそれ以上の遺体の数は書かれていない。


「うーん。恐らくあの大量の死体はYVが処分したんだろうな。俺があの書類を警察に送って、警察が入るのを見越してな……」


「組織の力って恐ろしいな。……で焼かれたのは長老か? 全部の罪を押しつけて自殺した様に見せたのか?」


勉の言葉を聞いて黙って俯いた。


「長老を一階の研究室に運んで火をつけたのは、建物全体を燃やしたかったから。幹部部屋で火を放っても下まで火がまわらない可能性が高い。俺たちが行った日からこんなに時間差があるのはあまりの惨状に掃除するのを手間取ったからか……」


「でもタク。お前、警察に資料送ったのって五日だろ? 何で新聞にその事がまったく書かれていないんだろうな?」


「それはアレだろ。匿名で送ったものをはいそれと信じて、公に発表できないからだろ。下手すりゃあ名誉毀損で訴えられるからな。まぁ、ある程度証拠が揃うまでは公には出ないんじゃないかな」


勉は口をムズムズさせながら黙っている。


「まぁ、何にせよもう大丈夫だよ。お前んちも、田嶋姉妹も……」


そんな時下から二人を呼ぶ晶子の声がした。


「どれ、飯食って冬休みの宿題しなきゃな。つっとは受験勉強もあるだろ?」


こうして田嶋姉妹と勉家族のYV研究所絡みの一連の事件は終結した。田嶋姉妹の母親は懲役十二年、晶子を襲おうとしていたYVの信者は無期懲役が言い渡され、当分娑婆には出て来れそうにない。

 その後晶子は卓也の部屋の隣で毎日遅くまで受験勉強に励み、勉は毎日卓也の部屋に通って算数の勉強と空手の稽古に精を出した。


約一年後



昭和六十二年三月十九日 木曜日

卓也達は卒業式を迎えた。同級生のみんなが地元にある杉沢中学校の制服に身を包んでいる中、勉と晶子はそれとは違った制服を身にまとって式に参加していた。在校生と保護者が見守る中、卒業証書の授与でその二人が壇に上がったときにはその見慣れない制服姿に児童や保護者からざわめきがおこる。在校生のざわめきが鳴り止まず注意される場面があったものの式は厳かに進行し、それが終わると保護者と児童は教室へ戻ってきた。教室のあちらこちらですすり泣く声がきこえる。勉と晶子を除く全同級生が揃って同じ中学へ行くとはいえ、六年間過ごした学舎を去るこの日は、多くの人が感傷的な気分でこの時間を過ごしているのだろう。教室に飾られた花の前で両親と一緒に写真を撮っていた勉に、担任の草苅が声をかけてきた。


「勉、その歳で親元を離れるなんて大変かとは思うけど、埼玉の学校に行っても元気でな」


「先生、どうもお世話になりました」


勉の両親も深々と先生に頭を下げ、それに草苅も礼を返した。


「それにしても私、テレビのニュースで空手の全日本優勝の知らせを聞くまで勉が空手を習っていた事知りませんでしたよ」


草苅は勉の両親にそういうと、勉の母はちょっと困った様な顔で答える。


「いえ、習っているわけじゃないんですよ。最初の頃は卓也君のお兄さんに教えて貰ったらしいんですけど、あとは卓也君と競い合っているうちに強くなったとか…… 私もよくわからないんですけどね。算数も受験すると決めてから一年くらい卓也君の家に通って教えてもらったらしいです」


その話に草苅は目を丸くして驚いた。


「……というと空手は我流で日本一になったのですか? 算数の成績もあまりに極端に伸びたんでびっくりしていたんですよ。へぇ……卓也に……」


「あっ、つっと、先生……」


卓也と晶子は勉と草苅の姿を見つけ、その場に近づいてきた。その後ろをたつように卓也の両親がついてくる。


「先生、どうもお世話になりました」


「おう、卓也も田嶋も中学行ってもしっかりな。卓也は羽川学園受験しなかったんだな。お前の成績なら余裕で受かっただろうに……」


「まぁ、ちょっと遠いですからね。それに明美と杉沢中行くって約束してたし……」


「そっか…… まぁ、お前なら何処へ行っても大丈夫だろうけどな。お兄さんみたいに頑張れよ」


草苅はそう言ったところで、他の生徒に呼ばれてその場を離れて行った。


「草苅先生、太一さんが卒業した後に赴任して来たのに知っているなんて…… さすが太一さんですね」


勉は感心した顔で草苅の後ろ姿を目で追った。太一は卓也と八つも離れているというのに、このように引き合いに出されるほど名が知れ渡っていた。


「そういえばさ。つっと達はいつ埼玉に行くんだ?」


卓也に言われ勉は教室に貼られたカレンダーに目をやる。


「三月の最終日曜日……二十八日だな。晶子と一緒にうちの車で行く予定だ」


「だとこっちいるのもあと一週間か…… なんか寂しくなるな。つっととは六年くらいの付き合いだけど、もっとずっと前から一緒にいるような気がするよ」


「まぁな。タクんち入り浸ってたしな…… 

 でもホントタクには感謝してるよ。ホント色んな意味でな」


勉は卓也の顔をジッと見て真剣な表情で言いだした。そして晶子も勉の隣で同じように卓也を見つめる。


「私もそう。卓也君と会っていなかったら多分こうしていなかったと思う。それに卓也君のお父さんやお母さん、お兄さんにいくら感謝してもしきれない。本当に今までありがとう」


この二人の言葉に卓也の胸に熱いものが込み上げてくる。


「おっ、俺も…… つっとと、晶子ちゃんと、明美と、陽子ちゃんと…… 皆んながいてくれて楽しかった」


感極まり涙を流す卓也に明美が駆け寄ってきてハンカチを手渡す。この卓也につられるように勉も晶子も涙が溢れた。

その週の土曜日、勉、田嶋姉妹、明美を呼んでお別れ会を卓也の部屋で開き、その一週間後勉と田嶋姉妹は卓也の前から去っていった。全てが終わって勉たちがいなくなると卓也の心にポッカリ穴が空いたように、何も手がつかない日々が続いた。



そしてそれから七年の年月が過ぎた。



平成六年三月二十六日 土曜日

長い冬は終わりを告げ、街を吹く風の冷たさが和らいできたこの季節。昼下がりの埼玉県某所某駅から一組のカップルが出てきた。女性は駅から出ると周りを見回し、忙しく行き交う人並みに住み慣れた田舎を離れた事を実感していた。そんな彼女を目を細めて卓也は見ている。


「とうとう俺たちも大学生だな」


「うん。卓也、ごめんね、一年間も私に付き合わせちゃって……」


卓也は駅を出てこれから大学生活の場となるアパートを目指して歩き始めた。あらかじめ荷物は引っ越し業者に頼んで部屋に運んでもらっているため手ぶらの引っ越し。受験、アパート探しを経て三度目の来県だと言うのに歩き慣れた調子で、ここまでの道のりを歩きすすめていた。


「でも無事同じ大学に入れてよかったよ。あの成績からここの看護科目指すなんて無謀かと思ったけど……なんとか引っかかってくれたな」


「もう、私だって卓也と同じ学校行くために頑張ったんだよ」


そう言って彼女は頬を膨らませる。その姿を見て卓也は笑いが込み上げる。


「あぁ、わかってるよ。明美が一生懸命だったのは…… 高校受験の時から五年間も専属の家庭教師していたからな。よく頑張った」


そういって卓也は明美の頭を撫でる。


「また子供扱いして! 髪もしゃもしゃになるじゃない! もぅ!」


そう言って歩いていた歩道脇のショーウィンドウに自分の姿を映して髪を整えはじめた。

 卓也は小学校を卒業して勉達が居なくなってから、何も手がつかない日々が暫く続いた。その時卓也のそばで慰め支えてくれたのが幼なじみの明美だった。そして二人は中二のころから交際を始めた。そのうち明美は卓也と同じ高校に行きたいと願い勉強を始めるが一向に成績が上がらず、中三の時から卓也の家に通って勉強を教わりはじめたのだ。だが卓也は県内一のトップ高校に入る中、明美はギリギリ中堅校に合格するに止まった。その後明美は卓也と同じ大学入学を目指して卓也宅での勉強を続け、一浪の末卓也が入学する埼玉県の医大の看護科に合格することができたのだ。


「あの勉君だって たった一年で羽川学園合格できたんだもん。私だって本気になればできるんだよ」


髪を整えながらガラス越しに卓也を見ながらそう言う明美に卓也はクスリと微笑む。


「そういえば勉君て今何しているんだろうね。小学校卒業してから全然会ってないもんね」


「まぁ、全寮制だったからな。よっぽど特別な事がない限り親族でもない俺たちは連絡とれないよ。留年してなきゃ去年卒業しているはずだけどな。勉んちはもう誰も家に住んでないから居場所も聞くに聞けないし…… 今も埼玉にいるのかなぁ……」


勉の家はYVに壊されたあと同じ場所に建てられたが、卓也が高校に入った頃父親が他界し、母親は施設に入ることとなった。似たタイミングで勉の兄は婿に入り家を出たため新しいその家は空き家となってしまった。

二人がそんな話をしながら再びアパートに向かって歩いていると、卓也はある建物の前で足を止めた。


「無差別格闘流 極道会……」


卓也は小さな声で看板を読み上げる。立派な門に分厚い一枚板に彫られた看板がかけてある。卓也が立ち止まるその脇で明美も足をとめると、卓也の視線を追って明美も声に出して読み上げた。


「すごい立派な門…… むさべつかくとうりゅう ごくどうかい?」


そう言って首をかしげる。


「ヤクザ屋さん?」


明美が卓也を見て聞いた時、二人は背後から声をかけられた。


「それはキョクトウカイと読むんですよ」


声の方に振り向くと、そこには卓也達よりも幾つか若いと思われるショートカットの女性が立っていた。彼女はホウキを持ち、足元にはチリトリがおいてある。この門の周りを掃除していたのだろう。


「えっと…… あなたはここの関係者ですか? 

 随分と立派な道場ですが、どういった格闘技なんですか?」


卓也は思わず聞いてみた。


「ここは空手やキックボクシングの様な立ち技打撃をベースとした格闘術を鍛錬する道場です。格闘技に興味がおありでしたら是非見学していってください」


そう言ってにっこりと微笑んだ。卓也は引き込まれるかの様に彼女の後を追い重厚な門扉をくぐって中に入った。明美もその後ろに続き道場に入る。門の中には実家の庭の四、五倍ほどの庭があり、庭に隣接するように道場が建てられている。


「本格的な空手道場って感じだな。あの子、ここの師範の娘さんか、お孫さんかな?」


「でもなんか、このお庭って卓也の家の庭と似てるね」


明美にそう言われて改めて見てみると、たしかにそんな雰囲気を感じさせる。玄関を入り道場に入ると正面に大きな神棚があり、その下では小学高学年から高校生くらいの男女が黒いジャージ姿で準備運動をしていた。


「ん? 皆んなジャージですけど、道着は着ないんですか?」


純和風な作りの道場に似つかわしくないジャージ姿の道場生を見て卓也は案内してくれた女性に聞いてみた。


「そうですね。帯の色と強さは別モノという師範の考えで道着や色帯などは取り入れてません」


「へぇ……」


感心しながら稽古風景を眺める卓也に、明美が背中をつついた。


「ねぇ、卓也。あの娘なんか見覚えない?」


明美にそう言われて卓也は案内してくれている彼女の横顔に視線を移す。その視線に気づいてか、彼女も卓也のほうを見て微笑んだ。


「言われてみれば…… でも誰だっけ?」


そんな疑問が卓也の頭に浮かんだ時、道場奥の扉から師範と思われる男が姿を現した。


「押忍! 押忍!!」


道場に入った彼は道場と神棚に挨拶をする。それに返す様に道場生が割れんばかりの声で「押忍」と返礼する。その入ってきた師範があまりの若いことに驚いた卓也だったが、卓也達に気付いた彼が向かってくるその顔を見て声を失った。


「勉? 勉なのか!?」


「タク! 久しぶりだな。小学校卒業以来だな」


「えっ? 本当に? 勉君なの?」


驚きの表情で勉をみる明美に、勉はその顔を食い入る様に見返す。


「ん? もしかして明美ちゃんか?」


「もしかしなくてもそうだよ。有名進学校に行ったから、てっきり大学行ったと思ったのに……って、これバイトとかじゃないよね?」


その言葉に苦笑いを浮かべる。


「違うよ、俺の道場だよ。元々そんなに勉強好きじゃないからな。学生のうちに実績積んで去年この道場を開いたんだ」


その言葉に明美は驚きの表情を浮かべる。


「タク、明美ちゃん。すまないけどこれから稽古だからさ、今夜にでもうちに来ないか。タク達の話も聞きたいし、俺もいっぱい話したい事あるからよ」


「ああ、じゃあちょっと稽古見せてもらったら一旦帰るよ。今日この近くのアパートに引っ越してきたんだ。これからまたよろしくな」


そして勉は道場生のところに戻り稽古が始まった。一通りの基本稽古をした後、型の練習を三十分程して約束組手、ライトスパーへと続いた。


「へぇ、なかなかレベル高いな。何人かはそのまま全日本でも戦えそうなのもいるし……」


「そうなんだ…… 勉くんて指導者としての才能あったんだね」


「そうかもな…… さて……じゃあ帰るか。荷解きもしなきゃなんないしな」


そう言って卓也は立ち上がり勉に右手を上げて合図を送ると、道場を出て再びアパートへ向かいはじめた。卓也は腕時計を見るともうすぐ十六時になろうとしている。


「随分と道草食っちゃったな」


それから十分程歩くと茶色い外壁の真新しいアパートの前へとやってきた。


「わぁ、綺麗。新築みたい」


「新築だよ」


そういう卓也の話をスルーして明美は話出す。


「ここで卓也と一緒に四年間暮らすんだぁ〜 なんだか新婚さんみたいだね」


明美は照れた笑いを浮かべながら微笑んだ。


「俺は六年だけどな」


卓也がそういうとまた頬をぷっくり膨らませて明美がいった。


「ええっ? ズルい! 私、二年留年しようかな……」


「やめてくれ! 俺が明美のお父さん達に怒られちまうよ!」


「冗談だよ。すぐ本気にするんだから……」


二人はじゃれあいながら部屋の鉄扉を開けた。すると新築特有の匂いがして、部屋には引っ越し業者が運び入れてくれた段ボールが数十箱とホームセンターから配送してもらった組み立て家具の箱がいくつか並んでいた。二人はこれを見てこれからの作業に気が滅入りそうになる。


「あぁーあ…… 荷解きするだけでも二、三日かかりそうだよ。とりあえずカーテン付けて布団だけ出して勉君ち行っちゃう?」


卓也は明美のこの言葉に大きなため息をついた。


「明美、めんどくさいからって後回しにするなよ。勉の稽古が終わるまであと二時間くらいあるんだからさ、できるところまで片付けちまおうぜ」


そう言って卓也は先立って部屋へと入っていった。薄暗い室内に明かりをつけるためホームセンターに運んでもらった荷物の中からカーテンを取り出し取付ける。電気をつけると箱に書かれた名前と内容物から箱を仕分けして、すぐに使いそうな物をとりだしていく。明美は自分が送った荷物を片っ端から開けていたが、それらを目の前にして呆然としている。


「ん? 明美どうした?」


「……何から手を付けたらいいかわかんない……」


卓也は二度目のため息をついた。卓也は明美の荷物の中から最当たり使いそうなものだけを取り出すと、箱を閉じて部屋の隅に積み上げていく。


「卓也、手慣れた感じだね。引っ越しなんてしたことないのになんでそんなにテキパキできるの?」


「そうか? こんなもんじゃないの?」


前世での数回の引っ越し経験が活きて、二時間の間に人間二人が住めるだけの生活空間が出来上がった。卓也は腕時計に目をやると十八時半になろうとしている。


「んー、なんか思いっきり飯時だな。適当に外で食ってから行くか?」


「そだね。そうしよっか」


二人は上着を羽織り玄関から外に出た。さっきまで暖かかった外の気温は下がり薄手の上着では寒さがすぐに身体に伝わってきた。


「まだ夜は寒いな」


「そうだね。実家から厚手のコートとか持ってくれば良かったよ」


その後来る途中で見つけたファミレスで軽く夕食をとって勉の家までやってきた。玄関で呼び鈴を鳴らすと「はーい」という声がして、玄関の鍵が開けられた。出迎えてくれたのは先程道場に案内してくれた女性だった。


「こんばんわ。先程はどうも……」


「お待ちしてました。勉さんは奥で待ってますのでどうぞ上がってください」


「はい、お邪魔します」


二人は彼女に導かれ奥の部屋へと通された。主屋の方も道場と同じように品の良い和風の作りになっていて、歩いている廊下は分厚い床板が使われているのがわかる。


「凄いね。なんでうちらと同じ歳でこんなお家が建てられるんだろ?」


「そうだな。道場でそんなに稼げるとも思えないけどな……」


卓也も明美と同じ疑問を抱いていた。そんな事を考えていた時、明美は卓也の背中をつついたあと小声で話しかけてきた。


「ねぇ、卓也。彼女一体誰なのかな? どう見ても高校生くらいだよね」


「うーん。この時間もいるって事は一緒に住んでるのか? 晶子ちゃんとは別れちゃったのかな?」


その時彼女は襖の前で立ち止まった。そして軽くノックして襖を開く。


「勉さん。卓也さん達がきましたよ」


開かれた襖の奥には十二畳ほどの和室があった。中央には木を輪切りにして作られたテーブルが置いてあり、普段着に着替えた勉がくつろいでいる姿がみえた。勉は卓也達に気づくと立ち上がって出迎えた。


「さっきは悪かったな。ちょうど稽古が始まる時間だったんだ。まぁ、立ち話もなんだし入れよ」


そう言われて二人は中に入ると、テーブルを挟んだ勉の対面に座った。


「勉、ホント久しぶりだな。たまには戻ってくるのかと思っていたけど全然戻ってこないしさ…… お父さん亡くなった時も来なかっただろ?」


「ああ、あの時は進級がやばくてさ、晶子につきっきりで勉強教わってたんだよ。父さんはそのうち帰った時にでもお墓参りすればいいかと思ってな」


その勉の言葉に明美がピクリと反応する。


「そういえば勉君さ。晶子ちゃんとはどうなったの? さっきいた子って誰? 新しい彼女?」


いきなり核心をつく質問に卓也はハラハラしながら勉の返答に注目した。そんな時、襖をノックする音がするとその女性が入ってきた。


「卓也さんはコーヒーでいいですか?」


「あ、はい」


そういうと卓也の前にコーヒーカップが置かれた。


「明美さんはケーキと紅茶の方がいいですよね?」


「えっ? どうして私の名前を……」


明美の反応にその女性は驚き、状況を察した勉はケタケタと笑い出した。卓也はなんとなく状況を勘づく。


「もしかして……陽子ちゃん?」


「はい……」

 

そう言って微笑む女性は晶子の妹の陽子だった。


「ええーっ!! 陽子ちゃん?」


「俺も全然わかんなかった。前はセミロングだったのに髪短かくなってるし……」


「卓也さんは女の子を髪型で区別してるんですか? 私はすぐ卓也さんと明美さんだってわかりましたよ」


陽子は卓也に悪戯っぽくいった。


「でも本当に陽子ちゃん? なんか凄く綺麗になったよね」


明美はまじまじと陽子の顔を覗き込むと、陽子は照れた様に目を逸らした。


「確かに。それに表情が明るくなったよな」


陽子は勉の前にコーヒーを出しながら答えた。


「それは卓也さんや勉さんのおかげです。あの頃の私は、こんな楽しい未来を想像できなかったですから…… それに今はこうして私立の高校にも通わせてもらって、いくら感謝してもしきれないです」


「陽子ちゃんは何処の高校なの?」


「千石女子です」


「へぇー、名門じゃん」


「私が中三の頃、お世話になってたおばあちゃんとおじいちゃんが亡くなって高校も諦めかけていたんですけど、勉さんとお姉ちゃんがここへの進学を薦めてくれたんです。受験料や学費まで出してくれて」


卓也は勉に目を向けると、珍しく照れて居心地の悪そうな顔をしてコーヒーを啜っていた。あの勉が陽子のために学校案内を見比べる姿を想像すると、卓也は微笑ましく思えていた。


「でもその学校なら大学選びたい放題じゃない?」


「いえ、私、そこまでは…… 高校卒業したら勉さんの道場手伝おうかなって…… 勉さんからは進学を勧められたんですけど……」


「へぇ…… 勉がねぇ……」


卓也はニヤニヤしながら勉を見ると、勉はますます居心地が悪そうな顔を浮かべている。


「勉って意外と教育パパタイプだったんだな」


「うん。すっごく意外。だってあの勉くんだよ!?」


明美もびっくりしながら言葉を加えた。勉は口をムズムズさせながら何かを発しよとするが、言葉が見つからないようだ。


「俺の事はいいからよ、お前達はどうなんだよ」


「あっ、話無理やり変えた……」


明美はボソリと呟いた。卓也は小学校を卒業してからの自分や明美の話をした。


「お前達はそのうち付き合いだすとは思っていたけどな。でもあの明美ちゃんが卓也と同じ学校の看護科なんてな。明美ちゃんに看護師なんて務まるのか? 不安しかないんだけど……」


さっきの仕返しのつもりか、勉の矛先は明美に向けられた。卓也は勉の言葉を聞いて無言でうなづいている。


「だ、大丈夫だよぉー!」


「吃っているし……」


陽子は三人のやりとりを楽しそうに眺めていた。


「この雰囲気懐かしいですね。勉さんもこんなに楽しそうにしているの久しぶり……」


陽子の言葉に三人はフッと一息ついた。


「そうだな。俺もなんかホッとしている」


「そういえばタク。なんでいきなり道場にやってきたんだ? 俺の道場だなんて知らなかったんだろ?」


勉がそう聞くと、陽子も卓也の返答に注目する。


「いや、道場を見つけたのはたまたまだよ。ただ、あの看板に書かれた無差別格闘流というのが気になってな、見てみたいと思ったんだ。まさかお前が師範だとは思いもしなかったけどな」


「うんうん、なんか卓也と勉くんの縁を感じるねぇ……」


明美は腕を組んでしみじみいうのを聞いた二人は照れた笑いを浮かべた。陽子はいつのまにか空になっている卓也のカップと明美の皿に気がつくと、立ち上がりカップと皿を盆に乗せた。


「卓也さんはまたコーヒーでいいですか?」


「ん? あぁ、ありがとう」


「明美さんは? ケーキもう一つどうですか?」


「えっ? いえ流石に…… 私もコーヒーいただいていい?」


「わかりました」


そういうと陽子は盆をもって部屋を後にした。卓也は陽子が襖を閉じたのを確認すると、テーブル中央まで身を乗り出して小声で勉に話しかけた。


「勉。ところでさ。晶子ちゃんとはどうなったんだ? もしかして別れて陽子ちゃんに乗り換えたとか?」


そういうと、明美も同じように身を乗り出す。


「私もずっと気になってた。勉くんが陽子ちゃんの妹属性に惹かれたのかなって……」


「うん。今は勉さんなんて呼ばれてるけど、俺たちが帰った途端お兄ちゃんとか呼ばれてたりしてな……」


卓也がそういうと明美はケラケラと笑い出す。卓也達が好き勝手に想像話しているのを聞き、勉は拳を握りしめてプルプル震えていた。


「お前らな、どういう目で俺を見てんだよ」


「こういう目……」


卓也は自分の目を指さして見せる。


「でもさ、陽子ちゃんみたいな可愛い子からお兄ちゃんなんて呼ばれたら勉くんイチコロだと思うけどな」


「明美ちゃん、卓也に相当毒されてないか? 

 まったく…… 晶子の話じゃなかったのかよ」


この和室の雰囲気からは想像できない馬鹿話に盛り上がっていると、襖をノックする音がして陽子が戻ってきた。陽子のいる前でその話をするのはまずいと思ったのか卓也は話題を変える。


「それにしても、お前その歳でよくこんな立派な家建てられたな。郊外とはいえ相当なもんだろ?」


卓也は室内を見回しながら聞いてみる。


「そりゃな。それなりの値段はするよ。でも一生もんだし商売道具でもあるからな。有り金の殆どをはたいて建てちゃったよ」


「へ? キャッシュで買ったの?」


「ああ。俺がローンなんか組める訳ないだろ。道場の収入なんて微々たるもんだし」


「だったらどうやって……」


陽子は卓也と明美の前にカップを置くと、勉の前にも新しいコーヒーをおいた。


「はい。お兄ちゃん……」


その瞬間勉は吹き出しそうになり、卓也達は「やっぱり!」と勉を指を指した。


「よ、陽子……何を……」


慌てて勉は陽子にそう言った。


「冗談ですよ。さっき襖の前でそんな話が聞こえてきたから面白いかなって……」


勉はそう聞いても動揺を隠せないでいる。


「陽子ちゃん。グッジョブ!!」


卓也は陽子に親指を突き出した。勉はむせ返りながら話を進めようとする。


「……で、この家をどうやって買ったかだろ?」


「ああ、そうだったな」


卓也は陽子を交えて勉をからかいたい衝動を抑えて、道場購入話の続きを聞くことにした。


「金は地下格闘技のファイトマネーや賞金だよ。こっちきて寮の生活にも慣れた頃、お前とやってたような稽古したくなってさ、実戦的な稽古できる道場やジム探していたんだ。そんな時ひょんなことから地下格闘技場の噂を聞いたんだよ。それにはさまざまな格闘技や喧嘩屋が出てくると言うから戦ってみたくてさ、調べに調べてようやくそこに行き着くことができたんだ。最初その試合を見た時は震えたよ。まさに命懸けで戦ってるって感じでさ。そして歴代のトーナメントチャンピオンを見てとんでもない人を見つけて全身に鳥肌がたった。誰だと思う?」


突然の勉の問いに卓也はさまざまな格闘家の顔を思い浮かべた。


「勉がそういうくらいだから有名な人だよな。佐竹雅昭とかブランコシカティックとかか?」


そう答えると勉はため息をついていった。


「俺プロの格闘家知らないし…… まぁ、いいや。太一さんだよ」


「兄貴が?」


「ああ、しかも三年連続チャンピオン。知らなかったとはいえ、俺はとんでもなくすごい人に習ってたんだなと思ったよ」


そう言われて太一が東大に入った年の冬の事を思い出した。


「そういえば前にそれらしい事言ってたな。東京でどうやって稽古してんだって聞いたら、やろうと思えば何処ででもできるみたいな……」


「そう。俺もそれを思い出して、これだったのかって…… そして俺もそこで三年間戦って三年目でトーナメントチャンピオンになった。まぁ、別に金が目的だったわけじゃなかったんだけどこんな家が建つくらい稼いだよ。地下格闘技ってファイトマネーもすごいけど、賞金は目玉が飛び出るほどもらえるんだぜ。今も実践の感覚が鈍らないようにたまに試合に出ているから特に金には困ってないんだよ」


「へぇ…… 格闘技は続けているとは思ったけど、そんなに強くなっているとは思いもしなかったよ。俺は稽古らしい稽古は随分していないからな。体鈍りまくりだ…… 今度お前が暇な時にでも手合わせ頼むよ」


稽古話に夢中になっている二人の間に入れずにいた明美は、この話の切れ目に入ってきた。


「でさ、勉くん。晶子ちゃんとはどうなったの?」


何の悪気もなく陽子のいる前でそう聞く明美に、卓也は耳元で小声で話しかける。


「明美。陽子ちゃんの前でそんなこと聞くなよ」


その様子に陽子は卓也が何を言っているのかを察した。


「卓也さん、大丈夫ですよ。卓也さんが心配しているような事にはなってませんから」


陽子はにこやかに言った。


「あっ、そ、そうなんだ。それじゃあ……」


そういうと勉と陽子は顔を見合わせて微笑む。


「晶子は病院だよ」


「「えっ!?」」


そう言うと卓也と明美は驚き同時に声をあげる。


「晶子ちゃん……病気?」


明美はオロオロしながら聞いた。


「いや、その……なんだ……」


勉はどもり言い出せずにいると、陽子が嬉しそうに話し出した。


「お姉ちゃん、一昨日赤ちゃん産んだんですよ」


「「え〜っ!!!」」


再び卓也たちは驚きの声を同時に発する。その反応に勉は照れた様子で頬を掻いている。


「まぁ、そういうことだ。まさかこんなに早く親になるとは思ってもいなかったけど……」


「おめでとう!!」


明美は勉が話し終えるのを待たずに、テーブルの中央まで身を乗り出して祝福する。


「ねぇ、男の子? 女の子?」


明美は興奮しながら勉に聞く。


「お、男の子だよ」


勉は明美のテンションに気圧されながら答えた。


「へぇ…… 早く見たいなぁ。勉くんと晶子ちゃんの赤ちゃん」


それを嬉しそうに眺める陽子。卓也は何年かぶりに感じるこの空気感が心地よく穏やかな気持ちにさせてくれた。


「今日も午前中晶子のところへ行ってきたところだよ。明後日の月曜日には退院できるって……な」


勉はそう言って陽子と顔を見合わせる。陽子はうなづいて卓也達の方を向いた。


「……ねぇ、勉くん。さっきから気になっていたんだけどさ……」


明美はちょっと目を細めて、急に怪訝な顔で勉と陽子を見ている。勉達はその様子に明美に顔を向けた。卓也も明美の急なテンションの変化に、明美の顔を覗き込む。


「どうしたんだ? 明美」


「勉くんと陽子ちゃん……なんか距離近すぎない? 晶子ちゃんの話聞くまで、てっきり勉くんと陽子ちゃんがくっついたんだとばかり思ってたよ。まさか晶子ちゃんがいないのをいいことに陽子ちゃんに手を出したりしてないよね?」


「手を出す?」


そう聞き返す勉。同様に陽子も明美の言っていることがわかっていないようだ。


「俺が陽子を叩くわけないだろ……」


「その手を出すじゃな〜い!!」


この噛み合わない二人に卓也は肩が抜けそうになる。


「だから……一緒に寝たりとか……その……」


「え? 一緒に寝てますよ。私がここにきた時から毎日……」


陽子は何の躊躇いもなくそう答える。


「そりゃな。家族なんだから一緒に飯食って、風呂入って、寝ても何の不思議もないだろ?」


「ええっ!? 陽子ちゃんと一緒お風呂入ったの?」


「入ったっていうか、よく入るよなぁ」


「はい」


平然とそう答える二人に明美の声は次第に大きくなる。


「だいたいさ、昔卓也んちに晶子達が居候してた時から何度も一緒に寝てるんだぜ。何を今更……」


明美はその話に少し冷静になる。


「……それって小学生の時の話でしょう」


「そうですね。でも最初は驚きました。朝起きたらお姉ちゃんと勉さんが裸で寝てて……」


その陽子の言葉に明美は目を大きく見開いて顎を落とす。


「ああ、それは俺も覚えてる。小五の正月ん時だよな。勉ん家が燃えた日から冬休みの間うちに泊まったんだ。朝、隣の部屋で大騒ぎしていたっけ。懐かしい……」


卓也がそういうと、明美は頭を抱えだした。


「小五の時って…… そんな早くから? 卓也も知ってたの?」


「まぁ、うちでの出来事だしな」


明美は頭をおさえながら大きくため息をついて聞いてきた。


「陽子ちゃんの前でこんな話するのもアレだけど、小学生の二人がしちゃって大丈夫だったの? その……避妊とか?」


明美は急に声を抑えて聞いてきた。


「ああ、それなら兄貴がゴム渡してたよ」


「太一さんも絡んでたんだ…… まったく有馬兄弟は……」


明美は呆れながらも冷静さを取り戻してきた。そしてまたも大きなため息をつく。


「でも、大丈夫? お姉ちゃんいないところで二人きりで寝るなんて……」


「大丈夫ですよ。勉さん、私とする時はちゃんと避妊してくれますし、私もピル飲んでますから……」


「「えっ!?」」


陽子がサラリと発した言葉に卓也と明美はギョッとし、勉の顔をみる。


「おま…… 晶子ちゃんがいないからって!」


「そうよ! 勉くんどういうつもり!?」


二人はもの凄い剣幕で勉に言いよる。勉は二人のあまりの迫力におされたじろいだ。


「ちょ、ちょっと待って……」


勉は二人を宥めようとした時、横から陽子が勉の前に出てきた。


「違うんです。お姉ちゃんが勉さんに頼んでくれて…… 普段は三人でしてるんですけど、お姉ちゃんが生理だったり妊娠の初期の頃はお姉ちゃんの寝ている隣でしていたくらいですから……」


内容についてはともかく、この陽子の言葉に卓也達は毒を抜かれたように冷静さを取り戻した。


「……うん、わかった。ごめんね大きな声出しちゃって……」


震えながら力説する陽子の肩に、明美はそっと手をのせてそう言った。


「俺もごめん。勉、悪かったな怒鳴ったりして……」


「いや、わかって貰えればいいんだけど…… でも、俺達の話で何か変なことあったか?」


勉は今の関係に何の疑問も持っていない事がわかると、卓也達は顔を見合わせてため息をついた。


「変というか、普通はあまり無いかもね。まぁ、男女間の愛情ってそれぞれだし、三人が幸せならいいんじゃないかな」


明美は脱力感いっぱいで勉と陽子に言った。


「はい。私、勉さんやお姉ちゃんと一緒に暮らすようになってからとても楽しくて幸せです」


そう笑顔で話す陽子にその場の緊迫感が解けた。そんな時玄関のほうから柱時計がなるのが聞こえ、卓也は腕時計に目をやると二十二時を指していた。


「明美、もう十時だ。そろそろおいとましようか」


そういうと明美も自分の時計を確認する。


「あっ、ホントだ。勉くん、陽子ちゃん。遅くまでごめんね」


「いえ、あの頃に戻ったみたいで楽しかったです。これからも姉ともどもよろしくお願いします」


陽子は丁寧に卓也達にお辞儀をした。卓也達は着てきた上着をきて外へ出ると、勉達も門前まで見送りに出てきた。


「じゃあな、また遊びにくるよ。俺たちのアパート、こっから十分くらいのところだからさ。勉達も遊びに来いよな」


「ああ。お前も身体動かしたくなったら今度道場にこいよ。歓迎するぜ」


そう言って突き出してきた拳に、卓也が拳をぶつけると、二人は勉の家を後にした。外は来た時よりもさらに寒さが増し吐く息は白くなっている。卓也は繋いだ手をそのままジャンバーポケットに突っ込んだ。


「勉くん全然変わってなかったね。陽子ちゃんも幸せそうだったしホントよかった」


透き通るような夜空を見上げそう呟く明美の手をポケットの中で卓也はぎゅっと握る。


「そうだな。俺も久々に勉と話せて楽しかった。最後はエッチの話だけになっちゃったけど……」


そういうと明美は卓也を下から見上げて、悪戯っぽく笑った。


「卓也、陽子ちゃんのエッチな話聞いてて興奮してたでしょ? ちょっと前屈みになってたからすぐわかったよ」


明美はケラケラと笑う。卓也は明美の顔から目をそらした。


「だってしょうがないだろ。田嶋姉妹と勉が抱き合ってる姿が目に浮かんじゃったら……」


明美はその姿に更に笑い出す。


「うん。しょうがないよね。私もパンツ冷たくて…… 早く履き替えたいよ」


『グビッ!』


卓也はポケットの中から右手で股間を押さえる。


「フフッ…… 卓也ってすぐわかるね」


明美は一瞬前屈みになるのを見逃さなかった。


「じゃあ明美が風邪ひく前にとっとと帰ろうぜ」


「うん!」


これから始まる生活に胸を踊らせ、二人は寒空の下軽い足取りで歩きはじめた。


最後まで読んでくださりありがとうございます。

これは私の処女作『同級生〜失われた記憶〜』の続編です。

皆さんは今の自分のまま、あの頃に戻れたら…… そんな事を考えた事はありませんか? 

あの時何故ああしなかったのだろう。

今ならもっと上手くやれたのに……

そんな後悔の念をいくら抱こうが叶うわけがありません。言うまでもなく時間に可逆性は無く、そんな遅出しじゃんけんの様なことはできるわけが無いのです。これはそんな現実にはおこり得ない事を実現してしまった三人の物語です。

この二つの『同級生』という話は九十九パーセントフィクションです。ですがベースとなる現実の出来事があり、その人達を思いながら書いたモノなので各登場人物にはそれなりの思い入れがあります。最初の物語ではバッドエンドとは言わないまでも決してハッピーエンドとは言えない結末に些かの心残りがありました。この作品でそんな心残りも解消し、ようやく一区切りできたと思っているところです。

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