前編
令和二年二月某日
突然だが俺は死を目前にしている。
ほんの数ヶ月前までは娘 由羅の勉強の面倒をみたり、息子の往人の空手の練習相手になったりと普通の生活を送っていた。しかし今は癌を患い病院のベッドに横たわりながら、家族に見守られあの世へ旅立つのを待っている。もう目開けることさえしんどい。体も動かせない。ベッド脇の妻や子供達の気配だけを感じながら、これまで生きてきた四十五年間が走馬灯のように……
(走馬灯って何だろう?)
『走馬灯』がどんなものかはわからないが、とにかくこれまでの人生が頭をよぎっていった。
(由羅 ちゃんと勉強して良い高校入れよ
往人 空手頑張って強くなれよ
瞳 これまでありがとう あとをよろしくな)
そんな事を考えていると、俺の意識は次第に深く暗いところに落ちていくのを感じた。
そう、俺は死んだ。
俺イズデッドだ。
子供の頃はよく『死んだらどうなるんだろう』なんて考えたものだが、どうもならないのだ。
天国も地獄もない。
幽霊になる事なんてありえない。
『命が消える』とは『無』になることだと理解している。その認識通りに俺はこの世から消えるのだ。
意識が遠のいて完全なる死を迎えたはずの俺が、眠りから覚めるように意識が戻っているのを感じる。
(ううっ、頭が痛い……
あれ? 俺って死んだんだよな。
なんで頭が痛いんだ?)
ボーッとした意識のまま今自分が置かれている状況を考える。
(あの状況からの生き返りなんて考えられない。もしかして俺は『あの世』ってところにきてしまったのか? ここは『賽の河原』という所なのだろうか?)
一瞬自分の信念が揺らぎ『あの世』の存在を認めてしまいそうになるが、ゆっくりとうっすら目を開いてすぐにそれを撤回した。
(天井? キンモクセイの匂い?)
今度は目を見開き頭を動かさないまま辺りの様子をうかがった。どうやら俺が寝ていたあの病室というわけでもなさそうだ。キンモクセイの匂いという事は今は秋なのか? それとも芳香剤? とりあえず手足の指に力を込めて動かしてみる。
(おっ、動くぞ)
今度は体を横にして寝返りをうってみた。
(おおっ、動く、動く!!)
長い間ベッドの上から動けなかったのが嘘のようだ。少し開けられた窓からはヒンヤリとした風と共に、キンモクセイの爽やかな香りが入ってきて部屋をみたしているようだ。俺は思い切って上体を起こしてみた。するとそこは見覚えのない部屋だった。しかし何処となく懐かしさを感じる。
(どこだろう。ここは?)
どう見ても病室ではないし、自宅の部屋でもない。
俺はどこにいるのだろう。自分の置かれている状況が把握できず、キョロキョロ見回しながら呆然とする。するとかすかに人の声が聞こえて、間も無くドアがひらいた。
「卓也、気がついたの!?」
そう言って入ってきた三十代前半と思われる女性。彼女は俺に駆け寄ってきた。
「えっ、ちょ、まっ……」
声をあげる間も無く、俺は見ず知らずの女性に抱きしめられますます困惑する。それに続き三十代後半くらいの男性も入ってきた。俺は全く掴めないこの状況に視線が泳いでいる。視線が定まらない俺に男は気づいて声をかけてきた。
「卓也、大丈夫か? どこか痛いのか?」
この男も俺の名前を呼び捨てにする。どう見ても俺より年下なのだが、そう呼ぶことになんの躊躇いもないように聞こえる。俺は先程から感じている頭の痛みに手を伸ばした。その瞬間、目の前を小さな手が通り過ぎたのがみえた。俺は頭に伸ばした手をすぐに引っ込め両手を顔の前に持ってきた。
「えっ、何これ……」
今度は自分が発した声におどろく。
「えっ! え! ……えっ!!! 何で!?」
(子供の手?? こどもの声?)
(体が縮んでる?)
取り乱す俺をなだめようと、目の前の二人は手の内に抱き寄せようとする。
「もうすぐお医者さんくるから! ねっ!」
(医者? ……何故?)
もうどうなっているのかわからない。俺は訳のわからないことを叫びながら、取り乱し、いつの間にか気を失っていた。
どれだけの時間が経ったのだろう。俺はさっきまで寝ていた床敷の布団に寝かされていた。枕元で何人かの話し声が聞こえる。
「先生、卓也は……息子は大丈夫でしょうか?」
「恐らく息子さんは頭を強く打ったショックで記憶が混乱しているのでしょう。一日休めば落ちつくのではないでしょうか」
意識が戻った俺は目を閉じたままこの話を聞いていた。にわかには信じ難いが、どうやら子供の頃に戻ってしまったらしい。未来から過去にタイムトラベル? 子供の頃の自分に転生? いや、この場合憑依とでもいうべきなのか? 体は子供、頭脳は大人、しかも過去に戻ってるって……コナンくんもビックリだぜ。そういえば以前母から、俺が小さい頃階段から落ちた話は聞いたことがある。そう考えると、今の俺は四、五才あたり。四十年前に戻ったってことなのか?
いやまてまて、そう結論を急ぐな。タイムトラベルとか転生とか漫画やアニメじゃあるまいし。
こうは考えられないだろうか? 俺が今まで経験してきたと思っていることはすべて今の俺の夢。死んだところで目が覚めたとすればつじつまが合うのではないか?
そこまで考えて俺は失笑してしまった。
(そんな訳は無い)
妻や子供達の名前、これまでの経験もリアルに思い出せる。このまま会社行って仕事をこなすことだってできるつもりだ。こんなのが夢なわけなかろう。そう考えるとタイムトラベルと転生を認めざるを得ない。俺は自分自信をなだめ落ち着きを取り戻した。
(さてとりあえず現状把握はできた。……となればこれからどうしようか?)
これはなかなか難しい。
いっそ両親に全てを明かしてしまうか? そうすれば今後はかなり動きやすくなると考えられる。神がかりでSFチックな話になりそうだが、おそらくコレを納得させるのはそれ程難しいことではないだろう。だがそうすれば両親にこの時代の俺がいなくなった事、四十五才で俺が死んでしまうという二重のショックを与えてしまう。これはやめておくことにした。しかしこのままこの体を使ってもう一度人生をやり直したとして、また同じ妻や子供達に会うことはないだろう。仮に同じ人と結婚したとしても、それは同じではないし子供だって俺の知っている由羅や往人ではないはずだ。それならわざわざこれまでの自分の生き方をトレースする必要は無い。
それにしても俺をこんな妙ちくりんな状態にしてくれちゃったのは何処の誰様なんだ?
キリストか?
釈迦か?
ヤハウェか?
とりあえず俺は方針が固まるまで四、五才の子供を演じる事にした。
その日、両親、八つ年上の兄、自分の中ではとっくに死んだはずの祖父母の六人で夕食を囲み、母親と一緒に風呂に入り、両親にはさまれながら眠りについた。
俺の兄 有馬太一。
彼は自分の記憶通りこの世界でも異常な程優秀で近所でも神童として知られている様だ。俺の記憶通りなら彼は将来外科医となり、四十年後俺を看取る事になる。俺のもっとも信頼している人物でもある。後々兄貴に自分の状況を伝えて、手を貸してもらおうと思っているのだが、いくら神童と言われていてもまだ十三歳…… 今はその時では無いことは明白だ。
しばらくは兄貴の弟らしく五歳児を振る舞うことにした。
俺は前世で後悔していたことが二つある。
一つはほとんどと言っていいほど勉強をしなかったこと。俺は中学入学とともに親元をはなれ、埼玉県では難関と言われる私立の中高一貫校へ入り、中堅私大に進学。就職は大学時代住んでいたアパート近くにある適当なソフト会社に就職したあと地元に戻り独立。客観的に見ればまぁ、可もなく不可もなくと言ったところ。しかし問題はどれも自分のコレと言った意志で選んだものでは無いと言うこと。私立中学進学にしても叔父が経営する学校に親から放り込まれた。後々この理由がわかって納得はしているものの、どうせなら兄貴のように野望を持ち叶えてみたいのだ。そのために勉強してハイレベルな大学に入りたい。どうせなら医者にでもなってみたいものだ。
もう一つが小学校の頃あるトラブルに巻き込まれたこと。コレにより同級生一人の命を失い、幼なじみがとんでもない事態に陥った。俺の不本意な私立中学進学もこのトラブルが関係しているだけに何とかしなければならない。
そのためには実践的な戦闘スキルを身に付け戦略を練る必要がある。現時点でも前世の経験である程度戦えるとは思うが、その技術は大人の力がベースなだけに、このまま大人と対等に戦えるわけはないのだ。そういう意味では筋力アップをはかりつつ筋力に頼らない戦闘技術を身につけなければならない。
俺は布団の中で小学五年の年に訪れるであろう災厄に照準を合わせ、伏線をはる方策を練った。
昭和五十四年十月某日
障子越しの朝日が俺の顔を照らし眼を覚ました。昨晩は色々考えているうち寝落ちしたようだ。両隣を見るとすでに両親は床にいなかった。下の階からご飯の炊けた匂いと魚を焼いたような匂いが漂ってくる。四十五歳の精神のまま子供言葉を使って子供の振る舞いをするというのはなかなか痛いものだが、またこの家族の中で過ごせるというのは存外悪い気はしない。そんな感傷に飲み込まれそうになるのを振り払い、俺は昨晩練った計画を頭の中で繰り返し寝巻きのままで下階の台所に向かう。台所前に吊るされた木の重いのれんをくぐる音で、若い母親は台所に入ってきた俺に気がついた。
「卓也、おはよう。頭、大丈夫? 痛くない??」
そう言って母は自分のおでこをくっつけて熱を確認した。
「……うん。大丈夫」
なかなか言葉が出てこない。ついこれまでの調子で言葉を発してしまいそうになり慌てて言葉を飲み込む。頭の中で喋る言葉を確認してから口に出さねば……
「お、お母さん。あのさ、頼みがあるんだけど……」
「ん? 何?」
神妙な面持ちで言い出す俺に、母は顔を近づけて聞き返した。
「えっと、あの…… 僕、合気道習いたいんだけど……」
「えっ? 合気道? 合気道ってアレ?」
母は俺の突拍子のない頼みに驚いている。
「でも合気道ってどんなのか知ってる?」
「もちろん知っているよ。相手の力を利用して投げたり倒したりする武道でしょ」
「!!」
母はビックリした表情を浮かべて、父の元に駆け寄った。
「ゲッ、しまった…… 普通に答えてしまった」
父もビックリした表情を浮かべて俺に駆け寄る。
「卓也、お前どこでそんな事を?」
「あっ、あのね。テレビ見てたら合気道やっててそれで覚えたんだよ」
これではまるっきりコナンくんじゃないか。アニメじゃあるまいしこれで納得するとは…
「そうかぁ…… でも卓也が合気道に興味持つとはなぁ~。よしわかった俺が良い道場探しとくよ。ちょっと待ってろよな」
(この親父チョレー)
俺は両親の問いかけをかわしホッとしていると、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。どうやら兄貴も起きてきたようだ。
「おはよう……」
兄貴は眠そうな顔で台所に入ってくるなり、冷蔵庫を開け牛乳を取り出しコップに注いだ。
「何騒いでんの?」
兄の太一はぶっきらぼうに母に聞くと、これまでのやりとりを兄貴に話した。
「へぇ。卓也が合気道ねぇ。何で合気道したいんだ?」
そう聞いてきた。
「だって僕子供だから力弱いでしょ。だから空手とかキックとかじゃ大人に通用しないじゃない。だから柔道とか合気とかパワーに頼らない…… ハッ!」
太一は俺が答える様子をジッと瞬きもせずに眺めている。
「ふーん…… そうか。じゃあ、柔道なら俺が教えてやるよ。部屋に来いよ」
そう言って俺の手を引き、二階へと向かう。
「えっ、ちょっ、ちょっと…… 兄貴!」
俺は殆ど強引に兄貴の部屋へと連れてこられた。兄貴の部屋は中学生とは思えないほど落ち着いていて、まるで書斎のようだった。机の上には大学受験用の参考書が積まれている。
(あんた受験するのは高校だろ?)
そんなツッコミを入れたくなるのを必死で堪えて、兄貴の動向をみる。兄貴は部屋の襖をぴったりと閉じる。
「兄貴? 何? 今、教えてくれるの? 柔道……」
「なぁ、卓也。お前……」
どう見てもこれから柔道を教えようとしているわけではなさそうだ。俺は恐る恐る兄貴を上目でみて、耳を傾ける。
「お前、子供の頃、俺を何て呼んでたか覚えてるか?」
「なっ、何を?」
変な汗が全身から吹き出す。
「まぁ、そう警戒するなよ。子供の名前は由羅と往人。奥さんは瞳さんだよな」
兄貴の口から出た意外な名前に体がビクリと跳ね上がる。兄貴の顔を覗きこんだ。そして更に兄貴の話は続く。
「そしてお前は四十五歳の時胃癌で死んだ」
そこまで答えてジッと俺を見たままニヤリと笑う。
「え、なんで!? もしかして兄貴なのか?」
そう目の前にいる中学生の姿をした兄は、前世の兄貴だ。ここまで話していてもこの状況が信じられない。
「でもなんで?」
そういうと兄貴は何処をみるとでも無く、中空に眼をおき思い出すように言葉を綴った。
「んー、何処から話そうか…… お前が死んで五年程経った時だ。俺の体にも癌が見つかってな、六十歳という若さで死んじまったんだよ。子供も手を離れてこれからってときにさ。ところが今から八年前、今のお前と同じ五歳の姿で目が覚めた。それで幼稚園から人生をやり直している訳だ。でもまさかお前とまた会えるとはな」
「……」
なんという状況だろう。このような『転生』とは日常的にあるものなのだろうか?
それにしたって兄貴は前世でも神童とか呼ばれていたのに、外科医の頭脳で五歳児なら神童どころか神と呼ばれてもおかしくない。この滅茶苦茶な実情に呆れ脱力しながら兄貴に問いかける。
「……で? 兄貴はこれからどうしようとしてんの?」
「どうって、また医者になるよ。医者って職業は気に入っているし、大学もどうせなら東大に入ってみたいしな」
「東大の理Ⅲって最高峰じゃねぇか」
俺は兄貴の相変わらずの強気な様子に笑いがこみ上げてきた。
「……で? 卓也。お前はどうなんだよ」
「うーん。そうだな…… 俺も医者になりたいかな」
「はぁ? 医者? 人を壊してばっかりのお前がぁ?」
兄貴にとって余程意外な答えだったのか、笑いをこらえながらそんな事をいってきた。
「でも、まぁ、いいんじゃねえか」
そう言って俺を見る兄貴。まるっきり前世の時の様な余裕と威厳。中学生の姿をしていてもそれが漂ってくる。この男は中学校でどんな生活を送っているのか気になってくる。
「ただ、その前に……」
俺は昨晩布団の中で考えていた、小学校の頃起こったあの出来事をなんとかしたい旨を伝えた。すると大きくため息をついた。
「そうか。そうだったな」
兄貴はそう言って腕を組み頷いた。恐らく当時の出来事を思い返しているのだろう。そんな事をしていると下から俺たちを呼ぶ母の声がした。
「太一、卓也早くご飯食べなさーい。学校遅れるわよ」
時計を見ると七時半を過ぎていた。
「やっば! 学校遅れちまう」
兄貴は焦った様子で身支度を整えると、部屋を出ようと襖に手をかけた。そんな兄貴を俺は呼び止める。
「あっ、あともう一つ。俺が死んだ後 由羅と往人は?」
「ああ。問題無い。由羅は北大の医学部、往人は琴羽の中学部に入ったよ」
「へ? 由羅が医学部? 農獣医じゃないのか?」
「ああ、癌を研究して苦しんでいる人を助けたいんだと」
俺の死で由羅の小さい頃からの夢を変えさせてしまったのか。まぁ、しかしこれはこれで由羅らしい。それに明確な目的ができたのなら俺の死も無駄じゃなかったといえる。俺はホッとしてこの世界で、やるべき事を全うする事を決心した。
「そうか。じゃあ兄貴、暫く俺の組手の相手してくれよ。どうもまだこの身体に慣れないし、戦闘なんて暫くしてないしな」
兄貴はフッと笑い、「わかった」とだけ言って部屋を出て行った。
数日後、親父は合気道の道場を見つけて、入門させてくれた。合気の道場に通いつつ、兄貴に組手の相手をしてもらい一年の時間が経過した。その頃、あの事件で人生の局面を変えられた同級生『勉』がうちの数件となりに引っ越してきた。兄貴や俺の転生という前世にないイベントが発生したことで、その辺りの歴史が変わってしまうのではないかという懸念があったが、とりあえずは今のところ俺の記憶通りの流れになっている。数年後に起こるトラブルに備えるため、勉にも訓練を受けさせておく必要がある。俺は言葉巧みに誘導して遊びがてらに兄貴との組手につき合わせた。結果勉は小学四年の頃には大人複数人と十分戦えるだけの戦闘力を身につけていた。前世でもかなりの戦闘力をもっていたし生まれ持ってのセンスなのかもしれない。
昭和五十九年八月
四方八方からセミの声がこの家を囲み、これでもかというほどの音量で家中に響いている。家中どこにいてもこの音から逃れられない。
現在夏休み真っ只中。夏休みの宿題ドリルは配られたその日のうち終わらせ、工作や読書感想文など面倒なものは休み前に終わらせておいた。前世ではあり得なかった完璧なまでの計画的な宿題対応。まだまだ先の高校受験に向けて兄貴のテキストを使いながら相応の勉強はしているものの、それ以外は悠々自適な夏休みライフを送っている。そんな俺とは裏腹に兄貴はこの冬の大学共通一次と二次試験勉強に追われて殆ど部屋から出てこない。流石の兄貴も東大理Ⅲともなるとこれ程必死に勉強しないといけないようだ。そんなことから神経質になっているであろう兄貴の部屋に、控えめなノックをしてそっと襖を開いた。
「なぁ、兄貴」
「ん? どうした?」
ずっと部屋に篭り机に向かうその姿に、かなりピリピリしているのだろうと思っていたが、意外にも普段と変わらない様子で迎えられた。
「こんな時、こんな頼みしづらいんだけどさ。金貸してくれない?」
その突拍子のない頼みに少しも驚く様子もなく答える。
「なんだ、株でも買うのか?」
「えっ、何でそれを……」
兄貴はニンマリと顔を緩ませ、俺に顔を近づける。
「今は一九八四年、来年あたりから株価が爆騰する。この状況でお前が動かないわけないだろ」
この兄貴には敵わない。そこまでわかっているということは兄貴も既に証券会社に口座を作って始めているのだろう。
「……で、幾らなら貸してくれる? 今後の活動資金をこの機会に稼いでおきたいんだよ」
いきなり核心を突く質問に兄貴は腕組みをして考えている。
「つってもな、元手がお年玉と小遣いだからな。まだ一千万くらいしか手持ち無いぞ」
「十分持ってるじゃないか! 一千万ももってる高校生なんて滅多にいないぞ! どうやったらそんなに稼げるんだよ」
開業医の感覚が抜けていないのか、兄貴の金銭感覚はおかしい。恐らくこやつは現時点で両親以上に金を持っていることだろう。彼は学費を稼ぐために株トレードをしているとのことだが、どう見ても開業資金まで稼ぎだそうとしている。
そんな兄貴に頼み込んで三百万を借りた。それを元手に株トレードして今後の活動資金を調達することにした。前世で株トレードをしていた時、バブル時の株価を調べたことがあった。その時高騰した銘柄を買えばあっという間に億単位の金を稼ぐことができるだろう。俺は兄貴に頼んで自分用の証券会社の口座を作ってもらった。それにしてもこの時代は株一つ買うのにいちいち電話しなきゃいけないのが面倒だ。こんなんじゃデイトレなんてできないし、中長期的なスイングトレードで稼ぐしかない。俺は記憶にある高騰銘柄をいくつか思い出し、リスク回避の為三名柄に分けて買い注文をだした。恐らくは二、三カ月もすれば兄貴に借りた金は利子を付けて返すことができるだろう。
昭和六十年二月某日
この日兄貴は大学入試。
鉛色の空から大きな雪が降り、親父が趣味で作っている庭は水墨画にでもなりそうな風景を作り出している。俺はこの庭の一部を除雪して勉と組手をしていた。勉は武道や格闘技を習ってはいないが、四年もの間俺や兄貴と組手をしていただけあって小四とは思えないほど戦い慣れしている。
俺は対峙する勉にかかと落としを放つ。勉は素早くバックステップでかわし、フロントステップで正面から手刀を打ってきた。反応速度もさることながら、バックステップから攻撃に移る迅速なスタンスをこの短期間に身につけるとは、恐ろしいまでの格闘センスを持っているといえる。そんな勉に、振り下ろした脚を回し蹴りに変化させて勉の体にヒットさせた。不安定な体制になっていた勉は蹴った方向にそのまま吹き飛ぶ。
「いててて…… タク(卓)ってホント容赦ないよな。そんな強いのになんで大会とか出ないんだよ。絶対全国いけるって!」
勉は服に付いた雪をを払いながらそんなことを言ってきた。
「俺はそういうのあんま興味ないから…… つっと(勉)の方こそ大会出ようとは思わないのか?」
「俺は空手とか合気道とか習っているわけじゃないからな。それにタクにだって滅多に当たらないし…… 勝てる気しないよ」
勉は俺や兄貴としか組手したことが無いためか、自分の戦いに自信を持ててないらしい。俺はそんな勉の自信のなさが気になっていた。このままでは誰かに襲われても戦わないままやられてしまうのではないか? そう感じずにはいられない。
「じゃあさ、今度空手の大会出てみようよ。ルールは俺が教えるからさ」
「えっ? まじ?」
自信なさげな表情を浮かべ勉はたじろぐ。
「いや、結構イイとこいくと思うよ。地方大会くらいなら優勝できるんじゃね?」
俺がそう言っても相変わらず勉は自信無さげだが、俺の見立てでは一般部に出ても全国に行けるレベルなのではないかと考えている。俺は勉を説得し翌月行われた某大手道場主催の県代表を決める大会に男子少年部Ⅱでエントリーした。
このクラスは十~十五歳までのクラスで三十五名がエントリーしていた。五回勝てば優勝となる。
そして一月の間勉に空手のルールを手ほどきし、そのルールでの闘い方を組手を通じて慣れさせていった。
昭和六十年三月某日
大会当日、会場となる県体育館に真新しい空手着を着て白帯をしめた勉がいた。俺は勉をサポートすべくジャージを着て付いてきた。
「白帯って俺だけじゃね?
なぁ、タク。みんなどれくらい強いのかな?」
初めて感じる大会前の雰囲気に、勉は緊張を隠せないでいた。
「どうだろうね。俺は少年部の大会って出たことないから……」
「少年部?」
「あっ、いや…… 空手の大会に出たことないって事」
とっさに出た不自然なフォローを、緊張マックスな勉は気にする様子もなく、他の参加者が絞める帯の色を見ては「ヤバいよ」とか呟いている。勉の表情や仕草に緊張で硬くなっているのがわかる。実力を出せれば負ける訳ないのだが、こんなカチコチな勉ではまともに戦えない。自信を持たせるために参加させた大会が逆効果になってしまう。早急に何とかしなければならない。控え室となっている小体育館の中では多くの人が準備運動をしたり、約束組手などをして試合に備えていた。そんな人たちを見ながら顔を強張らせている勉に声をかける。
「なぁ、つっと。少しアップしておこうぜ。そんな緊張してたら勝てる試合も勝てないよ」
「ん、あぁ、そうだな」
勉は軽く手足をプルプルと振った後、大きく深呼吸した。
「じゃあ、いくよ!」
控室の隅で俺は勉と対峙する。
俺が軽くワンツーからの右中段回し蹴りを打つと、勉はそれを手だけで捌き、上段回し蹴りを打ってきた。それをスウェイで交わすと、すかさず逆側に中段回し蹴りを軽く当てる。
「上段蹴りはスキができるからあまり打たない方がいいよ」
「ああ、そっか……」
そんなやりとりをしながら組手をしていると、勉の集中力は次第に研ぎ澄まされ、いつもの動きに戻ってきた。俺は徐々に速度と力を増していく。調子が戻ってから十分ほど組手を続けたところでどちらからともなく手を引く。
「どう? 感覚戻った?」
「うん。多分……」
組手を終えて一息ついた時、選手を集めるスタッフの声が聞こえてきた。
「そろそろ出番みたいよ。気楽にやってみー」
そう勉に声をかけると、また少し表情が固くなり無言でうなずき何人かの選手と共に試合場へと向かって行った。俺は人混みを掻き分けながら会場に到着すると、ちょうど勉の試合が始まろうとしていた。
相手の体は勉より一回り大きいが同年代くらいだろう。黄帯を締めているところを見ると空手を始めてニ、三年といったところだろうか?
「正面に礼!
お互いに礼!
構えて…… はじめ!!」
主審の合図とともに対戦相手は勉の間合いに飛び込み、いきなり前蹴りを繰り出す。
(あいつ、白帯だと思ってナメてきてるな)
前蹴りは直線的な攻撃となる為、初心者にとっては防ぎ難い。とは言ってもなんの工夫もない前蹴りを打つのは、白帯だと思って油断しているとしか思えない。
勉はその蹴りのスピードよりも早く右前に踏み込むと、ゼロモーションから回し蹴りを繰り出し後頭部にヒットさせた。その瞬間対戦相手の体は崩れ落ちる。
「そこまで!」
たった一撃で勝負は決まった。
何秒かして相手は脳震とうから気がつくと、何が起きたかわからない様子で周りを見回していた。ようやく自分が勉の蹴りをもらったことに気がつくと、なんともしがたい表情で立ち上がる。互いに礼を行い試合場からでると、勉は見ていた俺に気がつき駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「うん、良かったよ。でもあいつナメてかかってきてたよな。次からはもっと上級者や黒帯も出てくるから気をつけてな。今の一撃でもうみんな油断しないだろうからさ。キバッていこうぜ!」
「ああ!」
この戦いで自信をつけた勉は、緊張が解けていつもの動きで危なげなく勝ち進み、あっさり優勝してしまった。
「やっぱ、余裕過ぎたな。でもちゃんと自分が強いってわかっただろ?」
「うん。……でも、そんな俺が全然歯が立たないタクってどんなだよ」
「ん? まぁ…… 俺はつっとよりかなり前から稽古してるし、合気道も習っているからな。そんなことより全国大会も頑張れよ」
そう言って勉の肩をポンポンと叩く。
「うーん。それはいいや。全国大会の場所遠いし、親は俺がこういうことしてるの知らないからお金出してって言いづらいしさ。うちの兄貴、中学の部活でお金かかってるみたいだから」
「そうか…… ちょっと勿体ない感じもするけどな」
勉は一瞬顔を曇らせる。
「ううん。いいよ、別に。俺の目標はタクに勝てるようになる事だから」
そう言って拳を俺の胸に突きつけた。
「オッケー。だけど俺だってまだまだ強くなるよ」
この日を境に勉との稽古はより実践的なものに切り替えた。
その後兄貴に東大理Ⅲの合格通知が届く。そして雪がとける頃、兄貴は進学の為実家を離れた。とうとうあの出来事がおこる年になる。
先刻から話題にしている”あの出来事”それは前世の小学五年の時にふりかかったトラブルだ。うちの近くにYV研究所という宗教施設ができて布教のため埼玉からある家族がやってきた。そしてその娘、田嶋晶子と陽子は俺の通う小学校に通い始める。田舎で異教の施設をつくり、あまつさへ休日には各家を訪問して勧誘にまわっている姉妹はすぐにイジメの対象となった。教師や保護者もイジメの事実を知っていたが、昔からの村に突如現れた異分子に快く思っていなかったことからそれらの行動は黙認されていた。そのイジメは日に日に悪質なモノになっていく。しかし通学班が一緒だった俺や勉は田嶋晶子と仲良くなり連むようになると次第にイジメはなくなり平和な学校生活に戻っていく。ところがある頃から田嶋晶子は学校にこなくなる。当時この施設内では日常的に児童虐待が行われているという噂があった。田嶋晶子 不登校の原因がこの施設にあると思った俺と勉は原因を探るべく施設内に潜入した。その中で虐待の現場を目撃するが、俺は教団に捕まり監禁されて怪我を負わされた上に薬でその日の記憶を消された。その後も俺はYVにマークされることとなり、奴らのマークから逃れるために叔父の経営する埼玉の全寮制中高一貫校に入れられたのだ。その後地元では田嶋晶子が焼身自殺。田嶋晶子と付き合っていた勉は県の教団幹部を潰すために十七年に渡り奔走することとなる。
これらの結末を知っていながら、同じ歴史を繰り返すようなことはできない。俺がこの時代に転生したのは、この事件を早い段階で解決するためではなかろうか? そんな因縁と使命感を感じずにはいられない。
昭和六十年春
俺の記憶通り春先にYV研究所の施設が近所にでき、田嶋姉妹も転校してきた。そして村の中ではYVの勧誘活動が始まった。学校前でYVのチラシ配りをする信者の姿を見かけるようになり、休日となれば大人と子供が一緒に各家を回ってチラシを配りYV会合への参加案内が行われる。
『子供が一緒なら酷いことを言われないだろう』と、子供を盾に使っているのが見え見えで実に腹立たしい。その代償に子供は学校でイジメに会うことになるのに…… 実に手前勝手なやり口である。
前世の記憶通りなら、この例のように田嶋姉妹は学校でのイジメに会うのだが、この世界では結構早い段階で俺や勉と仲良くなり連むようになった為、そのような事態に陥ることはなかった。そして勉は次第に田嶋晶子に惹かれていく。田嶋が埼玉の何処からやってきたのかは知らないが、少なくてもこんな田舎ではないだろうし、東京も近いので行く機会も多いだろう。田嶋晶子は決して派手さは無いが、他の同級生の女子にない垢抜けした雰囲気に惹かれたのかもしれない。晶子は多くの時間を俺たちと過ごし、俺や勉の家に遊びにくる間柄となっていった。
昭和六十年十二月二十二日 日曜日
今日はクリスマス会だ。
YVにとって異教のイベントの『クリスマス』は、これまで田嶋姉妹には無縁だったという。そのようなことからコッソリと田嶋姉妹をうちに呼んで、勉や俺の幼なじみの明美とともにパーティーを企てた。
田嶋晶子は学校でイジメられこそしていなかったが、毛色の違う雰囲気からかクラスの女子となかなか馴染めないでいるようだった。そのようなこともあって明美と田嶋姉妹との会話もはじめはギクシャクしていた。しかし田嶋姉妹の素朴で人当たりの良い性格と、明美の明るさから一時間もしないうちに女子三人はすっかり打ち解けていた。このまま学校でもクラスに馴染んでくれると良いのだが……
テーブルに並べられた人数分のショートケーキ。これは明美チョイスのちょっと豪華なケーキだ。ショートケーキにもかかわらず、上にはサンタの砂糖菓子とチョコプレートがのっている。明美はその隣に紙コップを並べつつ部屋の中を見回していた。
「久しぶりに入ったけど、相変わらずたくちゃんの部屋って子供部屋っぽくないよね」
そう言われ俺も部屋の中をみまわす。
「そうか? でもしっかりと片付いているだろ。ほら引き出しの中だってこの通り!」
そう言って、自分の引き出しをいくつか開けてみせた。机の中には几帳面に整理された小物が並んでいて、学校からのプリントはダブルクリップで綺麗にまとめられている。それを見た明美はジトッとした目で俺を見て呟く。
「うん、すっごいキレイ。ほんと女子みたい…… ねぇ、晶子ちゃん」
「うん……でも、卓也くんて凄く大人っぽい感じするよね。勉くんも他の男子よりしっかりしてるけど、それともちょっと違うっていうか…… 勉くんの部屋はずっと子供部屋っぽいもんね」
沢山のお菓子の袋を無造作に開けながらそれを聞いていた勉はとっさに口を挟む。
「いやいや、タクが変なんだって。小学生離れしているっていうか…… 太一さんもそうだけど、有馬兄弟って異常なほど年相応じゃないんだよな」
そりゃそうだ。
でもちょっとこの話は居心地が悪く話を逸らせたくなる。
「ナニ、人を変人扱いしてんだよ。それより早く始めようぜ。陽子ちゃんもこっちきて飲もうよ!」
うちにきてからずっと晶子の影に隠れるようにしている晶子の妹を手招きする。
「タク、酒みたいにいうなよ」
すかさず勉はそういって、同じように陽子をテーブルに招いた。勉はみんなのもとにコップがあるのを確認すると、コップをもち高らかに頭の上にかかげた。
「じゃあみんな、コップ持って!
それじゃあ、メリークリスマス!!」
「「メリークリスマス!!」」
この発声に乾杯をすると、俺はコップのなかのコーラを一気に口に流し込んだ。キンキンに冷えたシュワシュワの液体は喉を刺激しながら体内へと流れ込む。
「ぷはぁ~!! 美味い! スッキリしたぁ~!」
「ホントオヤジっぽいな」
勉は俺の姿を横目で見ながらコップを口にする。
「今年ももうすぐ終わりだな。あと一年で卒業なんて信じられないよ」
この五人、これといった共通の趣味も話題もなく、勉は自然と年の瀬的な話題を出した。
「そうだねぇ。中学入ったら何部に入ろうかなぁ」
明美はケーキの上のサンタを皿に移すと、チョコのプレートをかじりながらそんな事を呟いた。
「俺は柔道部かな。タクもそうだろ?」
「まぁ、そうだろうな。あんまし球技得意じゃないし。柔道だったら俺もやれるかもな。晶子ちゃんは?」
そういうとちょっと困ったような表情を浮かべて答える。
「んー、多分文芸部かな。武道や格闘技は禁止されているし、私運動苦手だから。それに小説は一度書いてみたいとおもってたから……」
文芸部。田嶋晶子はどんな小説を書くのだろうか? ちょっと読んでみたい気もする。
「陽子ちゃんも来年からクラブ始まるだろ? 何クラブ入るの?」
そういうと陽子も一瞬ピクリとしながら、静かに口を開いた。
「私は…… 書道クラブがいいかなと……」
「へぇ、いいね。そういや明美も書道クラブだよな」
「うん。結構楽しいよ」
明美はそう応え陽子に微笑む。そうしながらも手を休めることなくケーキをついばみ、もうすぐ無くなろうとしていた。俺はそんな明美を見て、軽くため息を漏らした。
「明美って昔からほんとケーキ好きだよな。俺のも食う?」
そういって明美の前にケーキ皿を差し出すと、「いいの?」と言いながらすでにフォークはケーキに向いていた。明美が二つ目のケーキを食べ始めた頃、勉は思い出したかのように話し始める。
「そういや、来年ってハレー彗星来るんだよね。一番近づいた時に空気が無くなるとか言うけどホントかな? 一回目は二月とか言ってたけど……」
「あぁ、ドラえもんでもしてたね。浮き輪に空気詰めて備えるとか。私も浮き輪準備しておこうかな。でもノストラダムスの予言では一九九九年に人類が滅ぶって言ってるし、それまでは大丈夫なんじゃないかな」
明美のノストラダムスの予言が正しいものとする根拠は何なのだろう? そしてこの話に晶子は身を乗り出してきた。
「えっ何? $£>$€#~ダム? 貯水池? ダムが決壊して人類が滅ぶの?」
これはギャグなのか? ネタなのか??
しかし晶子はそういうキャラでは無いし、恐らくは本気でそう聞いていると思われる。
「晶子ちゃん、違うよ。ノストラダムスって言う中世のフランスの予言者で、一九九九年第七の月に恐怖の大王がやってきて人類は滅亡するって言われているのがあるんだよ」
そう言うと晶子は目を輝かせ俺の話に食いついてきた。
いつもと違うテンション上げ上げの晶子の様子に勉と明美は苦笑いを浮かべている。この興味深々な晶子とは対照的に陽子は不安そうな表情を浮かべていた。確かに実際に起こるかもしれない話なら、コレは決して面白がるような話ではない。そう考えると他の三人はさほど信じてはいないのだろう。勉達の話に水を刺すのも気がひけるが、陽子にいつまでもこんな表情をさせておくのもしのびない。
「でもさ、ハレー彗星で空気が無くなるなんて事は無いと思うぜ。実際七十五年ごとに地球に近づいていて、その度に空気が無くなるならとっくに人類は滅びてるよ。
それにさ、ノストラダムスの予言だって、詩のような形で書かれていて、いろんな解釈ができるって話だよ。後からコレは当たってたなんて解釈は遅出しジャンケンみたいなもんだろ。理屈と膏薬は何にでもくっつくっていうしな」
そう言って陽子に目を向けるとちょっとホッとしたような、表情が少し和らいだようにみえた。
「タク、お前さぁ〜 ロマンってないわけ? そこら辺が年相応じゃなく見えるって言ってるんだよ」
勉は半分呆れたように俺に食いついてくる。
……とそんな時、二つ目のケーキを食べ終えた明美は思い出したかのように話しだした。
「予言で思い出したんだけどさ、今話題になってる女の子の予言知ってる? 多分歳は陽子ちゃんくらいだと思うんだけど、彼女の予言が凄く当たるんだって」
「ああ、そういえば最近テレビでよくみかけるな。何てったっけ? 月詠とかいう子だろ」
「そうそう! 月詠……有栖ちゃん!!」
(月詠有栖ねぇ……)
明美と勉にそう言われて思い出そうとするが、考えてみれば最近全くテレビを見ていなかった。
「俺ほとんどテレビ見ないからな。晶子ちゃんは知っているのか?」
「ううん。私の家、テレビ無いから……」
俺は聞いてはいけないことを聞いたような気になり、すぐに明美に質問を投げる。
「……で、どんな予言なんだ?」
明美は紙コップジュースを両手で包むようにもって語り出した。
「えーっとね。まず最近だと八月に起きた日本航空の墜落事故かな。あとはグリコ森永の事件とか、大韓航空の撃墜とか、大きな事件は場所や犠牲者をかなり的確に当ててるみたい」
「へーっ……」
小学校の低学年の子が的確に当てると言ったら、ノストラダムス同様遅出しジャンケンのようなものだろう。後から「当たっていた」とか周りの大人が言っているだけに違いない。このところのオカルトブームに乗っかっているだけではなかろうか。
「……で? これから先の予言は無いの?」
晶子はオカルト系の話が好きなのか、この話にも食いついてきた。
「んー、なんだったかな……
あっ、そうそう! 来年四月にソビエトで大きな爆発事故が起こるって……」
勉の口からでたそのワードに体が跳ね上がる。
「!! まじ!?」
その事故はチェルノブイリの原発事故のことではないだろうか? 俺が小学生のころ起こった事故であり、『黒い雨』が降るという噂がでて怖かったのを覚えている。今のところその事故が発生してないところをみると、恐らくこれから起こるのだろう。
「その子の予言てさ、どういう媒体で出てるんだ?」
「ばいたい?」
明美はこの聴き慣れないこの言葉を聞き返す。
言われてみればこの時代こんな言葉耳にすること無かったかもしれない。媒体じゃないとしたらメディア? コレもピンとこなさそう……
「んーと…… 例えば本とか、テレビとか、ラジオとか…… どういうものでその予言を見ることできるの?」
勉は腕を組み、明美は「うーん」と唸り声を上げて考える。
そんな時、か細い声が耳をかすった。
「……電話……」
「えっ? 電話なの?」
俺はその声の主と思われる陽子に視線を向ける。
「そうじゃなくて、下で電話鳴ってるよ」
妹の言葉を晶子は代弁するかのように俺に伝えた。耳をすますとかすかに黒電話が鳴る音が聞こえる。今この家の人は俺しかいないので出るしか無い。この話題に後ろ髪ひかれながら、部屋の戸を開けて下への階段を駆け下りた。玄関前にくると、その電話はけたたましくまだ鳴っていた。
「もしもし有馬です」
そう応えると受話器の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「ああ、俺だ俺」
「……って、兄貴かよ。オレオレ詐欺かと思ったぜ。今ダチとクリスマス会してんだよ。手短に用件言ってくれよ」
兄貴と電話しながらも、俺は予言の話が気になって仕方がない。しかし兄貴は俺の事情などお構いなしだ。言葉が終わる前に喋り出した。
「卓也、お前最近よくテレビに出てる女子小学生の予言って知っているか?」
「えっ? 何で兄貴がその事を…… ちょうど俺達もその話してたんだよ」
なんとタイムリーな話題だろう。東京にいる兄貴ならこっちよりもこういう情報に聡いかもしれない。
「今ちょうど日テレ系のテレビに映っているからすぐみてみろ。夜にでもまた電話するよ」
そう言って一方的に兄貴は電話を切った。俺はすぐにテレビをつけて観たい衝動にかられたが、せっかくなので二階にいる勉達をテレビのある茶の間に呼んで一緒に見ることにした。
四人が上から降りてきたところでテレビの電源をいれるとブラウン管特有のフェードインする映り方で画面が出てきた。ダイヤルを回して日テレ系のローカルチャンネルに合わせると居間のようなところに座って俯きポツポツと言葉を紡ぐ女の子が映し出された。
「あぁ、そうそうこの子」
明美はテレビの中の女の子を指差して言った。そう言われ俺たち五人はテレビの映像に見入る。
リポーターがその子に一九九九年のノストラダムスの予言は当たるのかという質問をする。これまたタイムリーな事を聞いてくれる。
「一九九九年に世界は滅びません。ですが一九九五年の一月に関西の方で大きな地震が起こって大きな被害がでるようです」
そう言うとリポーターや記者達の中でざわつきが起こった。
『起きない』、『起きる』とハッキリ言い切るところが、他の占いとも予言ともちょっと違っているように思える。それに何だろう…… この見た目の可愛らしさにそぐわない、大人びた受け答えは…… 予言に加えてこの子の素性が気になってくる。
「一九九五年に関西で大地震だって……」
「ホントかな?」
勉と明美はテレビを凝視したまま何やら話している。そんな二人の後ろでテレビを見ていた晶子は呟いた。
「この子何処かで見たような気がするんだけど……」
そう言うと晶子の前でテレビを見ていた陽子がポツリと言う。
「紗季ちゃんに似てる……」
「……ああぁ、早見紗季ちゃん!」
晶子はこの名前を聞いて納得しているようだ。
この田嶋姉妹の会話が耳にはいると、俺は自分の脳内で『紗季』と言う名前を検索するがヒットするものはなかった。
そうしている間に画面はテレビ局の番組セットに場所を移った。討論の合間合間に出てくる『月詠有栖』という名前。占い師に軽くありそうな名前でもあるし、芸名のようなものなのかもしれない。
「なぁ、晶子ちゃん。その有栖って子知り合いなの?」
そう問いかける。
「この有栖ちゃんて子が紗季ちゃんだとしたらね。……といっても埼玉にいたころ会合で一緒だったことがあって、ちょっと遊んだことがあるくらいなんだけどね」
「ふーん……」
この月詠有栖という子が予言した一九九五年の地震とは阪神淡路大震災だろう。発生した場所や時期もピッタリ合っている。宗教的な『預言』では日付まで指定して『世界は滅亡する』と言っていた預言者もいるが、それは当然ことごとく外している。それ以外の『予言』はもっとふんわりとした事を言うのが普通で、それが先ほどから言っている後出しじゃんけんのパターンなのだ。そう考えるとこの紗季という子はこの二つのパターンからは外れる。もしかしたらノストラダムス以上の予言者と言えるのではないだろうか? 俺はもう少し有栖という子の話を聞こうかと晶子に視線を向けると微妙な表情を浮かべてテレビを眺めていた。
「どうしたの?」
「……うん、ちょっと気になる事があって」
ちょっとという割には随分神妙な面持ちでいる。
「気になることって?」
「んー、YVって占いとか予言の類って禁止してるのね。それなのにテレビで大っぴらに予言とかして処罰されたりしないのかなって……」
「処罰?」
「そう。子供の場合は殆ど体罰だね。ムチ打ちとか……」
話としては知っていたものの、実際YVの晶子から聞くと真実味が湧いてくる。この時代ではまだ学校での体罰は残っているが、それにしたって『ムチ打ち』って中世かよと思えてくる。
それとさっきから頭に引っかかっているのが、この早見紗季という名前。字面を見たのか、音として聞いたのか、それすら思い出せない。目を閉じて記憶を掘りかえすがどうしてもその答えにはたどり着けなかった。
「ねぇ、たくちゃん。この紗季ちゃんてさ、お父さんとお母さんが五歳の時亡くなったんだって。その頃から未来が見えるようになったらしいよ」
勉と共にテレビに釘付けになっていた明美が話しかけてきた。
「へー、そんな事ってあるのかねぇ……」
明美は俺の頷きを気にする様子もなく、目はテレビに向いたままだ。晶子はさっきから表情を変えずにテレビの方を向いたまま何かを考えているといった感じだ。俺はこの晶子の様子が気になりその横顔をじっと眺めていた。
「タク、晶子。そろそろ上に戻ろうぜ」
その途端ハッと我にかえる。どの程度ボーッとしていたのだろう。テレビを見るとすでに別の番組に変わっていた。
「あ、あぁ、悪い悪い。晶子ちゃんも行こう」
「あ、うん」
テレビを消すと、勉の後をたって階段を昇り自室へと戻ってきた。
「なんか、せっかくのクリスマスパーティーなのに変な話ばっかりになっちゃったね」
明美は苦笑いを浮かべながら言ってきた。
「そうだな。まぁ、まだお菓子もいっぱいあるし、夕方までまだ時間もあるし気を取り直して食べようぜ」
そう言いながら俺はみんなのコップにジュースを注いでいると、勉はちょっと緊張した様子で話しかけてきた。
「タク、明美ちゃん。ちょっといいか」
「えっ? なに? 勉くん。どうしたの?」
いつにない真面目な様子に明美は不思議がり問いかける。
俺もその勉の言葉に耳を傾けた。
「実はさ、先週から俺晶子と付き合い始めたんだ。だからどうって事も無いんだけど、一応報告しておきたくて……」
俺と明美は固まったまま言葉が出ない。晶子に目を向けると顔を赤らめながら、勉の服の裾を握っている。陽子はすでに知っていたのか、ちょっと嬉しそうだ。目が泳ぎ、なかなか言葉の見つからない俺よりも先に、明美が二人に言葉をかける。
「おめでとう! なんかそのうちこうなりそうな感じはしてたんだけどそうなんだ! ビックリしちゃった!!」
女子だからなのか、明美だからなのか、こういう状況にもすぐに適応して言葉がでてくるのは流石だ。俺も何とか言葉を絞り出す。
「つっと、晶子ちゃんおめでとう。なんか安心したよ。子供は何人予定?」
そう言った瞬間、明美の手が思いっきり俺の頭を叩いた。
「オヤジか!?」
明美にツッこまれるとは……
しかしこの一撃でその場の空気が和らぎ、何処からともなく笑いがこみ上げてきた。それにしても勉と晶子が、この状況になるのは俺が考えていたよりも一年半程早い。これは早い段階で田嶋姉妹と仲良くなり、また勉自身 空手の大会で優勝するなどして自信をつけたためと思われる。そう考えると
「グッジョブ! 俺!!」
突然小さくガッツポーズをする。その様子を明美は不思議そうにながめていた。でもコレで状況は良い方へ転がっていくはずだ。あとは何とかYV施設内での起こる暴行を回避すれば俺がこの世界に来た意味があるというものだ。勉は俺たちに報告してホッとしたのかさっきよりものんびりとこの時間を楽しんでいるようにみえる。明美は陽子とともに晶子とガールズトーク中だ。
少し乾き始めたケーキを食べ始める勉に話しかけた。
「つっと。さっきの話聞いたばかりでこんなこと言うのも心苦しいけどな……」
「おっ、おおっ……」
俺の真剣な様子にマジ話する事を察したのか、勉はコップのジュースで口の中のケーキを流し込むと、座り直して俺の顔を覗き込んだ。
「わかっているとは思うけど、晶子ちゃんだけでなくお前もYVに襲われるかもしれないからな。ここでこんな事言いたく無いけど、晶子ちゃんの母親も敵だぞ」
「ああ、わかってる」
勉の目に覚悟が見えた。敵が正攻法でくるのならどうとでもなるだろうが、薬物や火器、武器…… 何を持ち出すかわからない相手だけに油断ならない。それに教団施設内は治外法権だ。例え殺人が起きても表に出ることはない。
「まぁ、俺が言いたいのはそれくらいだ。がんばれよ」
「ああ。タクは明美ちゃんと付き合わないのか?」
勉は突然そんな事をいうので、飲んでいたコーラを吹き出しそうになる。
「な、何でそこで明美の名前が出てくんだよ」
「まぁ、まぁ……」
何が「まぁ、まぁ」なんだか……
俺と勉は女子三人の傍で、くだらない話で盛り上がっていると、窓の外はすっかり暗くなっていることに気がついた。
時計を見ると十七時を過ぎていた。
「ありゃー! もうこんな時間だよ。そろそろお開きかな」
そういうと、明美と晶子はテーブルの上の皿やコップを片付けようとしている。
「明美、晶子ちゃん。片付けは俺がやるからいいよ。もう遅いし家まで送るからさ」
そして俺はジャンバーを着ると、みんなと共に部屋をでた。
みんなで階段を降りていくと、ちょうどそこに俺の母親が玄関から入ってきた。
「あら、みんなもう帰り? 明美ちゃんも久しぶり」
そう言われてみんなはお辞儀をする。すると母親の目は、見慣れない女の子に目が止まる。
「えーっと、あなたたちは初めましてかしら?」
そういわれ、俺はとっさに
「あの、同じ通学班の……」
そう言い出したところで、晶子は一歩前にふみだす。
「初めまして。卓也くんたちと同級生の田嶋晶子です。こっちが妹の陽子です。今日はお邪魔しました」
そういうと陽子も前に出てペコリとお辞儀した。
田嶋姉妹の噂は村中に広まっているだけに、どんな私感を持っているかわからない母の反応をドキドキしながら見守る。
「あら、お行儀がいいのね。また遊びにきてね」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
「「お邪魔しました!」」
そう言って四人は玄関を出る。
「お母さん。ちょっと明美達を送ってくるよ」
そう言って俺も玄関を飛び出した。外に出ると吐く息が白い。冷たく澄んだ冬の空気を感じる。そのおかげか空の星は六等星まで見えるかの様に空いっぱいにみえた。四人も満天ともいえる星空を玄関先で見上げていた。
「こういうの、クリスマスっぽくていいね」
明美は誰に言うでもなく呟いた。
「クリスマスは三日後だけどね」
そういうと明美は俺に向かって頬を膨らませてみせる。
「明美は俺が送って行くから、晶子ちゃん達はつっとが送って行ってな」
「言われなくてもそうするよ」
田嶋姉妹の家は勉の家の少し先にあり、明美の家は勉や田嶋姉妹の家とは反対方向にある。俺たちは家の前で別れて歩き出した。星月夜の下を明美は俺の数歩先を歩いて空を見上げている。
「晶子ちゃんっていい子だったんだね。今日一日一緒にいてよくわかったよ」
明美は空を見上げたまま言った。
「当たり前だろ。いい子でなかったら俺たちは連まないし、つっとだって付き合おうとは思わないだろ」
明美は短めの髪をなびかせながら振り向く。その直後微笑んでた明美の顔が少し陰る。
「でもさ、それなのに何で他の人は晶子ちゃんたちを避けるみたいするんだろう」
「そりゃ、YVの勧誘で顔知られているし、みんな関わりたくないと思っているからだろ」
当たり前の事を口にする俺に明美はため息を吐いて応える。
「それはわかっているんだけどさ。でも晶子ちゃん達は何も悪くないのに理不尽だよ」
そう言って口をとげる明美。
「学校ではつっとと同じクラスだし、そう阻害感はないだろう。でも明美だけでも仲良くやってくれよ」
そういうと明美は無言でうなずきまた歩き出した。
「そういえば、明日の終業式終われば冬休みだよね。たくちゃんは休み中どっか行くの?」
「いや、今のところは何も…… でもせっかくだし兄貴んとこにでも行ってみようかな。まだ行ったこと無いし……」
「そっか。お兄さん東大なんて凄いよね。たくちゃんも凄く勉強できるけど……」
そういうとまた明美の顔が曇る。
「たくちゃん、東京とか他の中学行ったりしないよね?」
不安そうに俺に顔を向ける明美と目が合う。それをすぐにそらしてハッキリと答えた。
「そんな気は更々ないよ。兄貴だって地元の中学行って、一番近い高校入ったんだぜ。わざわざそんなところ行かなくったって勉強はできるよ」
そういうと明美の顔に安堵の表情が戻った。そんな事を言っている間に俺たちは明美の家の前迄来ていた。明美は笑顔のまま玄関にかけていく。
「たくちゃん! じゃあ、また明日!」
「ああ」
そう言って明美に手を振ると今来た道を引き返す。この道も一人で歩くとやけに遠く感じる。
「ただいまぁー」
家に着いた俺は玄関でそう叫ぶと、奥から母親が息をきらしながら駆けてきた。えらく慌てているようだ。
「たく! 勉くんとは一緒に帰ったんだよね?」
「ん? ああ、俺は明美を送って行ったから玄関前で別れたけどな。勉は晶子ちゃん達を送っていったはずだよ」
話しを聞くと十八時を過ぎているのにまだ帰っていないと、勉の家から電話があったそうだ。勉の家と晶子の家は目と鼻の先。送って家に帰るのだって十分とかからないだろう。
陽子ちゃんもいるのにデートしているとも思えないし……
俺の頭に悪い予感が芽生える。
(まさか……)
俺は前世で暴行を受けた、YVの部屋のイメージが鮮明に浮かび上がる。呼び止める母親の声に耳を向けず、すぐに玄関を飛び出してYVの建物を目指して走った。
さっきまで心地よく思えた冬の冷たい空気が喉に刺さる。全力で走り、息を切らせながらYVの建物の前に立つ。正面からみえる窓に灯りは見えない。恐らく正面玄関の扉は閉じているだろう。俺は建物の壁に沿って空いている窓やドアを探した。幸い開いていた物置の窓から忍び込むと、記憶を辿りながら俺が暴行を受けた部屋を探した。
(たしかこの辺りだだだような……)
そう思ったドアの隙間から明かりが見え、人の気配も感じる。音を出さないようにそっとドアを開けると、そこには全裸でぐったりと横たわる田嶋姉妹がいた。その体には無数の傷痕ができ、その近くには一メートル程のムチを持ち息を荒立てている五十代くらいの男。その脇には三、四十代の女が立っている。その女はたしか田嶋姉妹の母親だ。遠くにみえる窓付近には頭から血を流した勉が倒れていた。
男はおもむろにズボンとパンツを脱ぐとグッタリしている晶子に近づいていく。男のモノはギンギンに反り上がっている。二人の母親はあたかもそれが当然のようにその様子を伺っている。
(やばい!!)
俺はドアをそっと開け部屋に忍び込むと、男の背中目掛けて飛び蹴りを放った。その蹴りをまともに食らった男は吹き飛び、備え付けの家具に顔を強打し悶えた。そして間髪入れず、視界に入らないよう女の足を払うと倒れ込む頭目掛けてカカトを振り下ろす。女は力なくその場に崩れ落ちる。
再度俺は男に近づくと左手で髪の毛を掴みあげると、右手の指を両眼球にねじ込む。男の口からはより一層大きな呻き声が発せられ、顔を押さえたままのたうち回った。
(この男はこれで襲ってくる事も逃げる事もできないだろう)
俺は倒れている田嶋姉妹に着ていた服を掛けると、今度は勉に駆け寄った。
「つっと! 大丈夫か?」
肩をさすりながら呼びかけると、唇が微かに動く。
「あ、晶子…… ハッ!」
言葉を発した途端に目を見開いた。
「晶子!」
叫びながら飛び起きた勉は、眼前で顔面血だらけで転がり回る男の姿を目にした。
「コレ…… タクが……?
……やりすぎじゃないのか?」
「そうは言うけどな、お前も晶子ちゃん達もヤバかったんだぜ。下手したら死んでたぞ」
そう言って横たわる田嶋姉妹の方を指した。勉は俺の指差す方を向く。二人に掛けられた俺の服の下に、傷だらけの晶子の全裸が目に入る。そして慌てて二人に駆け寄り息を確認する。
「生きてる……」
「あの男にムチで相当打たれて気絶したんだろう。早くは病院に連れて行かないと……」
勉はホッと安堵のため息をついたかと思うと、今度は怒りの表情を露わにして俺の言葉が言い終わらないうちに、勉はのたうち回る男に近づいて行った。
「よくも晶子にこんな事を…… ぶっ殺す!!」
勉は男の足を爪先で蹴りあげると、開脚された部分に見えたブツに思い切りカカトを振り下ろす。勉のカカトでソレは断絶され、さっきまでは生き物のような形態をしていたソレは生殖機能はおろか、排尿すら出来ないであろう形に変わり果てた。泡を吹き気を失う男の頭に踏み砕きをいれようとする勉に、俺は飛びつき寸前のところで阻止する。
「もうやめろ。こんな奴でお前の手を汚す必要はない」
勉は我にかえり自分が踏みつけ断絶した男の一部をみて、震えだしその場で嘔吐し始めた。俺は勉の背中を擦りながらいった。
「今回のことは警察に連絡しよう」
そういう俺に勉は意外そうな視線を向ける。
「ここでこいつを殺しても恐らく表沙汰になる事はないだろうが、代わりにここには別の奴がやってくる。この母親だってそうだ。晶子ちゃん達と一緒に暮していれば必ずまた虐待を繰り返す。それならいま警察に処理してもらって、ここの施設を閉鎖に追い込んだ方がいい…… でないと元の木阿弥だ」
そう説明していく中で、次第に勉の震えはおさまり「わかった」とだけ言って手足に込めた力を緩めた。
「とりあえず、晶子ちゃん達を別の場所に移そう。ここは寒いし、こんな状況女の子に見せられない」
痙攣続ける男を見ている勉にそう告げる。
勉が吐いてしまうような現場だ。女の子がこんなのを見たら精神的外傷を負ってしまうに違いない。俺たちは田嶋家族が寝泊りしていると思われる部屋を探し二人を連れて行った。
その間に警察への連絡を済ませ、程なくしてパトカーがこの施設へとやってきた。
男の怪我があまりに酷い事から過剰防衛になりかねないと思われたが、状況からなんとかそれを免れることができた。
そして男と田嶋母は警察病院へ移送され、田嶋姉妹は救急車で近くの病院へ搬送された。その間も二人は気を失ったままだった。勉も救急車に乗る事を勧められたが、明日精密検査を受ける事で納得させて、事情聴取のあと俺や勉の親が迎えに来てようやく開放されることとなった。
親たちに連れられ外に出ると、各々自宅を目指して歩き出す。その間親たちは何かを聞いてくるわけでもなく黙って並んで歩いていた。
「じゃあな。俺は明日病院だから、終わったらタクの家に行くよ」
勉は家の前にくるとそう言ってうちの親にお辞儀をして母親と共に家の中に消えていった。普段と違いその姿はひどく弱々しくみえる。今回のことは勉にとって相当ショックだったに違いない。そして俺が家に着くと時計はすでに二十二時を過ぎていた。その後両親からの執拗なまでの質問責めを受け、自室に戻ってきたのは日付が変わってからだった。散らかったままのクリスマスパーティーの後が、夕方のショックを倍増させる。
(片付けは明日でいいや……)
あの楽しかったパーティーから一転したさっきの出来事。田嶋姉妹や勉にとっては悪夢の様な転落だったろう。この詰め込み過ぎともいえる今日の出来事を思い出していた。
(あっ、そういえば兄貴の電話…… でもこんな時間だし流石に寝たよな……)
(晶子ちゃんたちは大丈夫かな……)
(つっとも……)
(明日、明美に何て言おう……)
幾つもの事が頭を駆け抜けて、いつの間にか俺の意識は深い眠りへ落ちていった。
昭和六十年十二月二十三日 月曜日
この日小学校は終業式が行われる。
明日から約二週間の冬休みが始まるというのに、昨日の一件で朝から憂鬱な気分が続いている。
登校班の待ち合わせの場所に向かうとき、昨日の現場となった教団施設前を通る。そこには青いビニールシートが貼られ、黄色いテープを張って入れないようされている。その付近には何人かの報道関係者と見られるひとがたっていた。俺はそれを横目に見ながら待ち合わせのゴミ集積所にたどりつく。この近辺には六年生がいないため俺たちは五年が下級生たち学校まで連れて行かなければならない。そしてその場所にポロポロと下級生たちが集まってきた。昨日の事件が噂になったのか、普段は子供だけがやってきているのに、親同伴で近くまで来ている子もいる。今日の登校は勉も田嶋姉妹もいないため、班員が集まるとこの下級生達をひきつれながら通学路を黙って歩きはじめた。普段は勉と喋りながら歩くこの道も一人だとなんとつまらないものだろう。
(通学路ってこんなに長いんだっけ?)
そう思わせるほど、たんたんと歩くだけの時間が過ぎ、ようやく学校に到着した。昇降口を上がり自分の教室に向っていると、各教室がいつもよりざわついているようにおもえる。特に自分の五年一組はそのざわつきが大きい。
「おはよう」
俺はいつものように教室に入る。その途端俺に一瞬その声が静まりクラスメイトの視線が集まった。
(なんだ? この雰囲気は?)
教室内に異質な空気を感じながらも、鞄の荷物を机にいれ始業の準備をしていた。その間も教室内の子供達は俺に話しかけたいのに話しかけられないといった様子だった。
「たくちゃん。ちょっと、ちょっと……」
この声の方を向くと、廊下から顔を覗かせ俺を呼ぶ明美の姿があった。同じクラスなんだから入って呼べばいいのにどうしたのだろう。そんな明美の方に寄っていくと、彼女に手首を掴まれて人気のない三階の廊下へと連れて行かれた。
「なんだよ明美。こんなところ連れてきて……」
「ねぇ、たくちゃん。昨日あの後何があったの?」
その様子に事件の事を新聞か何かで読んでビックリしているのだろうと思った俺は、昨日明美と別れてからのあらましを説明した。明美は暫く黙り込んで何かを考えているようだった。
「……。やっぱり男女児童三人て勉くんと晶子ちゃん達だったんだ。じゃあ通報した児童というのはたくちゃんなのね」
「ああ」
そういうと明美はおもむろにランドセルから新聞を出して見せた。県内版のトップ記事にあの教団施設の写真が載っている。
「これ見た?」
「いや、見てない。昨日寝たの遅くて、起きてすぐ学校きたから……」
そういいながら新聞に目を向けると見出しには『児童三人を暴行、地下室から二人の遺体と違法薬物、男女二人を逮捕という文字が並んでいる。
「何? 遺体!!」
「そう。その一人はちょっと前にいなくなった町内会長みたい…… ほら、YV追放グループの中心人物だったから、前から教団に連れて行かれたって噂あったじゃない」
確かにそんな話は聞いたことあるけど…… だとすると昨日は本当に危機一髪といった状況だったのかもしれない。一歩遅ければ勉の遺体がそこに並んでいたのだろうか。そんな事を考えながら記事を読み進めた。その内容は遺体や薬物の他、盗聴器なども見つかり教団資料とともに押収されたようだ。
そして逮捕されたのは晶子ちゃんの母親とあの男。名前は榊原というそうだ。こうなってしまうと、田嶋姉妹は暫く学校に来れないだろう。
「ん〜、どうしたもんか……」
そんな声を上げるのを見ていた明美は
「それで勉くんと晶子ちゃん達は大丈夫なの?」
「晶子ちゃん達は昨日救急車に運ばれて入院している。怪我はしているけど恐らくは命に関わるものじゃない。つっとは精密検査のために今日休みだよ。終わったら会う約束している」
「そうなんだ。それじゃ私も……」
そう言いかけたところで始業のチャイムが鳴り、教室に戻ることとなった。一度教室に集まって、体育館で一時間程度の終業式を終えると冬休みの宿題やお便りなどが配られ、十二時前には下校することとなった。家が近いことから勉の家に今日の配布物を届けにいかなければならない俺は一旦自宅にカバンを置くと、学校からの配布物を持ってすぐに家を出た。
(もう帰ってきているかな?)
呼び鈴を押す前に中の様子を伺うがシーンとしている。
そして呼び鈴を押すも人が出てくる気配はない。
(まだ終わってないのか……)
諦めて帰ろうとしたとき、勉は母親と共に戻ってきた。勉は俺の姿に気がつく。
「あれ? 俺が行くっていったじゃん」
「あ、いや、学校からの配布物届けに来たんだよ。つっとは検査大丈夫だったのか?」
そういうと勉はよろけて俺の肩に寄りかかってきた。
「ああー、大丈夫そうだな」
棒読み風にそういうと、俺の顔の前に親指を突き立て笑って見せる。
「でさ、午後からどうするよ。なんか明美も来たいみたいな事言ってたぞ。晶子ちゃんってさ、病院行って会えるのかな?」
「うーん。行くだけいってみるか。心配だし……」
「じゃあ、昼飯食べたら俺がつっとんちいくよ」
そう約束して勉と別れる。何はともあれ勉が元気でよかった。俺は自宅に戻り、昼食を食べ終えようとした時玄関の呼び鈴が鳴る。
(明美かな?)
そう思って玄関にいくと、やはりそこには明美の姿があった。
「こんにちは。ちょっと早かった?」
「ううん。大丈夫。ちょうどごはん食べ終えたところだから…… そういやさっきつっんち行ってきたよ。検査大丈夫だったって……」
そういうと明美は、胸に手を置きホッとした表情を浮かべた。
「そう、良かった。それでこれこらどうするの?」
そう聞いていた明美に、ついさっき勉と決めた予定を話した。
「わかった。それじゃお見舞いのお花買って行かなきゃね」
「ああ、ちょっと待ってて着替えてくるから……」
そう言って俺は着替えに部屋に向かった。正直今回の詳しい経緯を話していない明美を連れて行って大丈夫かとも思ったが、女子のお見舞いに男だけでいくのも気がひけるという手前勝手な理由で付いてきてもらう事にした。
昨日今回のことに関わった人は逮捕されている。あの状況で他のYV関係者に勉達のことを知られる事はあったとしても容姿までの情報を伝える事はできないだろう。そういう時代なのだから……勉の身の危険は無いと判断した俺は着替えを済ませると明美の待つ玄関へ行き、二人で勉の家に向かった。すると勉はすでに玄関前にでて俺たちがくるのを待っていた。
「待ちくたびれたよ。早く行こうぜ」
そう言って俺たちの前を早足で歩く勉。明美は俺に耳打ちしてきた。
「勉くん、晶子ちゃんが心配でしょうがないんだよ。きっと!」
「うん。つっとってああ見えて結構優しいからな……」
後ろでクスクスと笑う二人に勉は気がつく。
「お前ら何笑っているんだよ。タクと明美ちゃん見てるとまんま彼氏彼女って感じなんだけど、ホント付き合ってないのか?」
「ねぇよ。つか今くらい周りに気ぃ張ってたら、昨日お前一人でやれたんじゃねぇか? 相当油断していたんだろ」
「油断してたのは確かだけど、暗闇で歩いていていきなり後ろから殴られたら、さすがにのびるよ」
(歩いていて殴られた?)
俺はてっきり送って行った施設の前でやられたとばかり思っていた。
「どのあたりでやられたんだよ」
「たしか……」
そう言って、勉の口から出た場所は、殆ど勉宅の真ん前といったところだった。何だってこんなところに待ち伏せしていたんだろう? いや、それよりここで勉を気絶させてどうやって教団の施設まで運んだ? ……車か? いや、車なら人に目撃されるリスクが高まる。小学生とはいえ三人の人間をあの男と田嶋母だけで襲って教団施設まで拉致るのは難しい。こんな田舎でもこんな所で騒がれたら近所の人が出てくるだろう。
「……となると、あと一人か二人……か」
「タクもそう思うか?」
気がつくと勉は立ち止まって、俺の顔を見ていた。
「どういう事?」
明美は不思議そうに聞き返す。
「昨日襲った奴らのことだよ。こんなところでつっとを気絶させたんだ。気を失った人を担いで他二人に騒がれず施設まで連れて行くってそう簡単に出来ると思うか?」
「そう、その状況で叫び声をあげたら近所の人に気付かれてしまう。それに仮に俺が気を失わなかったら…… そう考えると逮捕された男と晶子ちゃんの母親だけじゃ手に負えないんだよ」
明美は人差し指を咥えるような仕草で考える。
暫く黙っていたかが、不意に顔を上げる。
「あっ、じゃあ、勉くんの命を盾にして晶子ちゃんを脅したとか……」
「うん。考えられなくは無いけど、つっとが気絶しなければその交渉はできないだろう」
そう明美に説明すると、明美は手をポンと叩いた。
だがそう言ってから更に疑問がおこる。俺はてっきり規則を破った田嶋姉妹を罰するために襲ったのだと思っていたけど、それにしては大袈裟過ぎはしないだろうか? 罰を与えるだけなら帰ってから晶子たちを問いただして罰っすればいい。一緒にいた勉にまで危害を加える理由は無い。他を巻き込めば教団で揉み消す難易度はグッと上がるだろうから。晶子たちが家の人にクリスマス会をする事を話すとは思えないし、前もって知らなければこんな大人数での待ち伏せなど考えられない。
「わっかんわないな。つっとを襲ってなんの得があるというんだ?」
つい頭の中の言葉が口に出てしまう。
「ドラマみたいな見ちゃいけないものを見ちゃったとか? 口封じって定番だよね」
「んー 口封じねぇ…… って明美! なんで俺の考えててた事わかんだよ?」
「たくちゃん、口に出てたよ」
明美は楽しそうに笑ってみせた。
そうしている間に俺たちは最寄りの杉沢駅に着いた。ここは無人駅なので、電車に乗ってから切符を買うことになり、駅には切符の販売機すらない。唯一駅らしさを出している壁の時刻表を確認すると、あと十分もしないうちに電車はくるようだった。
ホームに入り電車を待つ。月曜日の午後と言うことで、俺たち以外ホームに人はいない。程なくして電車がやってくると、それに乗車し二駅先の駅に降りた。たった二駅しか離れていないと言うのにまるで街並みが違う。アーケードの商店街があり本当に街と言った感じだ。ここから田嶋姉妹が入院する病院までは徒歩で十分程。勉達はこの辺りにまったく土地感がないようなので、俺の案内で目的のところまでいくことになった。
「わぁ、すごい。いろんなお店並んでるー 屋根あるよ屋根! ……それにしてもたくちゃん、よくこの辺の道知っているね」
キョロキョロしながらそういう明美にこたえる。
「何度か来た時あるからな」
そう言いながら俺自身もキョロキョロしながらお見舞いに持っていく花屋を探している。普段花を買う事なんかないし、しかもこの街に来たことがあるのは前世での話。道路はあまり変わっていなくても、俺の記憶している町並とはまるで違う。そして立ち並ぶお店の中から適当な花屋を探し、小さな鉢植えを買うとそれを持って病院に向かった。
着いたその病院はこの辺りで唯一の総合病院で、院内は人であふれていた。ひっきりなしに放送が流れ、ナース服の看護師、通院の患者、薬をもらいに来た人、お見舞いの人が行き交っていた。案内で田嶋姉妹の病室を聞くと七階だと教えてくれた。受付脇にあるエレベーターに乗って七階で降りると、下とはうって変わって静かな空間となっていた。廊下を歩くひとはパジャマ姿の患者と看護師だけ。いや、この時代は看護婦というのか…… そんな中を俺たち三人は田嶋の病室をさがす。
「あっ、ここだ」
病室前のプレートを確認すると、田嶋姉妹二人だけの名前が書いてあった。明美は病室のドアをノックすると、中から「どうぞ」という聴きなれた声が返ってきた。小声で「失礼しまーす」と言いながら部屋に入ると、ピンクのパジャマを纏った晶子と陽子の姿があった。二人は勉強していたのか、陽子はベッドの上で晶子が手書きで書いたと思われる計算問題に向い、晶子はその横で椅子に座ってその様子をみていた。
「晶子ちゃん、陽子ちゃん。具合どう?」
「うん、大丈夫。わざわざ来てくれてありがとう」
陽子もコクリとうなずく。晶子は入ってきた勉の頭を見上げる。
「勉くんは? 頭大丈夫?」
「うん。全然大丈夫。晶子、ごめんな俺何も出来なかった……」
力なくそういう勉に黙って首を振る。一応晶子たち元気そうなので安心はしたものの、気絶する程ムチで打たれたり、母親が逮捕されたり心身共に相当まいっていると思われる。
「晶子ちゃん。これお見舞い……。それと何か困った事あったら遠慮しないで言ってね」
明美は晶子のところに歩み寄ると、さっき買った観葉植物の鉢植えをベッド間にあるサイドテーブルに飾った。
「かわいい! 明美さん。ありがとう」
その鉢植えを覗き込んだ。
そして晶子は入り口付近の俺と勉にチラリと目を向ける。
「明美さん。早速なんだけどお願いしてもいい?」
そういうと晶子は俺たちと逆側を向いて明美に耳打ちをする。
「えっ、それなら今何個かもっているよ」
そう小声でいう明美の声が聞こえる。
そしてさらに晶子は明美に耳打ちをする。その瞬間明美の顔がポッと赤らみちょっと困った顔をする。
「……それ私使った事ないから、どういうのがいいのかわかんないよ」
その会話に俺はピンときたが、勉はわかっていないようだ。
「うん、わかった。じゃあ買ってくる」
そう言って明美は俺たちに「買い物にいく」と告げ出て行こうとする。状況を把握していない勉は「俺が行こうか?」と明美に申し出るが、「大丈夫」とだけ言ってそそくさと部屋を出て行った。明美が出ていくと俺は早速晶子に切り出す。
「……で、晶子ちゃん。今回の事ってどれくらい把握しているか確認したいんだけど……」
「うん。私達に罰を与えていた榊原さんやお母さんが逮捕された事は警察人から聞いた。あと休憩室にあった新聞で建物から人間の遺体が出てきた事は知ってる」
そういうと晶子の目から涙が溢れて頬を伝う。
「ごめんね……二人とも…… 大変なことに巻き込んじゃって…… 勉くんに怪我までさせちゃって……」
晶子は泣きじゃくりながら言った。
「晶子、謝らなくて良いよ。俺が未熟だったからやられたんだし。それより晶子達を守れなかったことが悔しくて……」
勉がそういうと、晶子は無言で首を振った。俺は「ふぅーっ」と大きなため息を吐く。
「つっとも晶子ちゃんも全然悪くないよ」
俺がそういうと勉と晶子は顔を合わせ、俯いてしまった。そう、この二人は一ミリたりとも悪くない。このような危険を危惧していながらそれを回避できなかった俺が悪い。
「それより、これからどうするかだよ。恐らく……というか、十中八九 俺達を襲ったのはあの二人だけじゃないぜ。また襲ってくるかもしれない」
「えっ、私、昨日は捕まった榊原さんとお母さんしか見てないよ」
「いや……、多分タクの言う通りもっといたはずだ。襲われるちょっと前から視線を感じていた。それは晶子のお母さんの視線ではない。もっと殺気立ってて……俺はそれに気を取られている時に後ろから殴られた。それと……」
勉は言いかけた言葉を手に力を込める。
「それと……、恐らく奴らのターゲットは俺だと思う」
晶子はこの勉の言葉に目を丸くする。
「えっ、で、でも…… 何で勉くんが?」
「やっぱりつっともそう思うか? ……実は俺もつっとと同じ事を考えていた。何故つっとが狙われるのかはわからないけどな」
晶子は黙って勉を見る。俺はその根拠を勉達に披露する。
「まず今回晶子ちゃん達を罰したいだけならつっとを襲う必要がない。仮に決まりを破らせたつっとを罰したいとしてもわざわざ施設に連れて行く必要は無い。大体晶子ちゃん達はお母さんやYVの人に『クリスマス会に行く』なんてこと言ってないだろ? だとしたらそれが理由で勉が標的になる事はおかしい。偶然突発的に見つかって……というのであれば、そんな大勢で襲撃するなんて有り得ない。恐らくあいつらは別の目的でそこにいたんだ。そして偶然通りかかった勉をその目的遂行のために拉致った。殺さなかったのは勉を生かしておく必要があったから……」
晶子は黙って聞いていたが、勉はさっきから口をムズムズさせている。話を遮りたくないが、何か言いたい時の勉のクセだ。
「だったら奴らの目的って何だよ。うちの家族は誰もYVの追放運動とかに参加してないぜ?」
「俺もつっとの家族の誰を狙ったのか、何故狙ったのかはわからない。さっき明美が言っていたように気がつかないうちに見られたくないものを見てしまったのかもしれない。でも状況から察するとつっとんちの誰かなのは間違い無いと思う」
勉は口に溜まった唾をゴクリの飲む。
「晶子ちゃん達はお母さんが捕まった事からYVから狙われる可能性は少ない。でも念のため退院したら俺ん家で暫く過ごしてはどうだろう? ちょうど兄貴の部屋も空いているし、つっとんちも近いからいつでも会える……」
「いいの?」
「まだうちの親には言ってないけど、事情が事情だし多分オッケーしてくれる」
するとまた勉は口をムズムズさせている。
「おっ、俺は? 俺はどうすればいい?」
勉は自分が狙われているのは察していたが、その目的が勉の家族かもしれないという可能性を知り、どんな行動をとるか決めかねているようだ。
「まぁ、つっとはなるべく家にいた方がいいんじゃないか。これからはなるべく俺がつっとんちに行くようにするから」
「……わかった。そうするよ」
そんな時病室の扉をノックする音がきこえる。晶子は「どうぞ」と声をかけると、小さくドアが開き明美がひょっこり顔を覗かせた。
「いいかな?」
俺たちの頭に疑問符が現れる。
「帰ってきて、部屋入ろうとしたらみんな真剣な声でお話してたから入りにくくて……」
「いや、そんな事ないよ。みんなのコレからの話をしてたんだよ」
そういうと緊張した顔からいつもの明美に戻って室内へと入ってきた。明美は大きな紙袋を抱えている。明美は入るなり晶子に駆け寄り、紙袋の封を開けて晶子に覗かせた。
「コレでいいのかな? おざぶもいるんだよね?」
「うん、ありがとう。そろそろだったからどうしようかと思ってたんだ」
「おざぶ?」
勉は未だこの女子二人のやりとりを理解していない。それにしても女子がこういう話をしている時の居心地の悪さは、いくら中身が大人であっても変わらない。俺は帰ってきた明美に、田嶋姉妹が退院したらに暫くうちにいてもらう事を話した。それを聞いた明美は怪訝な表情を浮かべていたが、今時点でこの姉妹が帰る場所がない事を話すと渋々納得したようだった。
「まぁ、暫くはいいとしてさ、晶子ちゃん達はこれから行くあてはあるの?」
明美はベッドの陽子に視線をむけ晶子に聞いた。
「うん、一応埼玉のお母さんの実家にお世話なろうかなって思ってはいるんだけど……」
「えっと…… それって、その……」
晶子は、俺が聞きたかった事を察し微笑みながら答える。
「ううん。おじいちゃん達はYVじゃないよ。お母さんがYVに入信したのは私が三歳くらいのことだからね。その時私大きな病気になったらしいんだけど、同じ頃お父さんが務めていた会社が潰れて唯一の収入か断たれたらしいの。お母さんのお腹には陽子がいたから、先の見えない状況にお母さんはいつもイライラしてて、それを私にぶつけていたみたい。そんな時にYVの勧誘がやってきて会合に行ったんだって。そこには話を聞いてくれる人がいて、みんなで助け合って…… そんな場所はお母さんにとって居心地がよかったんだろうね。お母さんは毎日のように奉仕というYVの勧誘にでかけ、私への虐待は『神様からの罰』といって行われた。そんなお母さんについて行けなくなったお父さんは、他に女の人作って出ていっちゃった。それでますますお母さんはYVに嵌ってしまって……」
晶子はあっけらかんと話しているがかなり壮絶な話だ。勉に方に目をやると、呆然としながらその話を聞いている。こんな田嶋姉妹の身の上をこれまで知らなかったことがショックだったのだろう。しかし大人の恋人同士であっても、そんな闇の部分を打ち明けるなのは、相当親密になってからだ。小学生同士なら知らなくて当然といえる。そしてその話の中で母方の祖父母は、そんな母親と暮らし続ける姉妹をずっと気にかけてくれていたと話してくれた。
「せっかく勉くんとお付き合い始めたのに……ごめんね……」
晶子は震えながら目に涙をため、勉の顔をジッと見つめている。勉は目を合わせられないのか、下を向き拳をグッと握っている。
「晶子ちゃん、……だとすると埼玉の中学行くのか?」
晶子は涙をパジャマの袖で拭きながら応えた。
「うん。でもおじいちゃんもおばあちゃんも結構歳だから、私たち二人の面倒見るのは大変そうだし、全寮制の羽川学園というところに行こうと思っているの。受験はあるけど中高一貫だから六年間そこに居られるし……」
「羽川学園!? マジ!?」
「えっ? 何? たくちゃん知ってるの?」
俺は耳を疑った。この羽川学園は前世で親に放り込まれた学校で、しかもこの学園を経営しているのは俺の叔父だ。こんな偶然あるだろうか?
「おい、つっと!! お前も羽川受験したらどうだ?」
唐突に矛先を向けられた勉はビクりとしながら答える。
「無茶いうなよ。俺の学力で中学受験なんてできるか! だいたい私立中学の学費なんて家で払えるわけがない」
全力でダメ出しする勉に、俺は説得を試みる。
「特待生になれば学費免除で、しかも毎月奨学金が貰えるぞ」
「だーかーらー、おれにそんな学力ないって言ってるんだよ。俺は晶子やタクとは違うんだぜ!」
明美はそれを聞いて自分を指差し勉の顔を見る。
勉はそれを軽くスルーした。確かに明美の成績は悪くはないけど、……かと言って取り立てていうほど良くもない。
「でもな、晶子ちゃんと同じ中学に入れば、これまでバトル路線だったのが、ラブコメ路線に変わるかもしれないぜ」
「コメディーかよ!!」
すかさずツッコミを入れる勉をその気にさせるべく、即興でストーリーを組み立てる。
『晶子は「気怠い……」と息をもらしながら、勉の背中にまわした手をゆっくりとおろしていく。
「もうどうなってもいい」
未知ならぬ愛欲の海に身を沈めて彼女はそう思う。
やがて晶子の手が、勉のそそり勃つ肉杭に触れると……』
「……とか?」
『…… グビッ!!』
そう言って勉の方を向いた瞬間、明美と勉の手が同時に飛んできて頭を叩いた。
「「それの何処かラブコメじゃ!! オヤジか!!」」
俺は前のめった。
勉と明美の熟練した絶妙なコンビネーションだ。台詞まで同じとは、この卓越した技術はそうそう真似できまい。
「いたたた…… まぁ、それは冗談だけどよ」
頭をさすりながらそういう俺に、明美は呆れ顔で呟く。
「たくちゃんて本当に小学生なの? 中にオジサンが入ってるんじゃない?」
(明美、鋭い!!)
「それはそうとさ、さっきの『グビッ』って何だったんだ?」
そういうと勉は申し訳なさそうに小さく手を挙げた。
その様子に四人は勉に注目した。
「スマン。あれは俺のリビドーが具現化した音だ……」
『……』
三人は目は点と化す。陽子は意味が分からず首を傾げた。
「つっと……、やっぱお前はコメディーだよ……」
こんな四人のバカげたやりとりを繰り返しているうちに、勉は羽川受験に少しずつ興味を持ち始めた。簡単なことではないのはわかっている。でもまだ一年もあるんだ。やるだけやってみるのもいいだろう。
ふと窓の方を向くと外が暗くなっていたことに気がついた。時計を見ると十六時半を過ぎている。
「やべ、もうこんな時間だ。そろそろお暇するよ。長々とごめんね」
そういうと話に入りこそしなかったが、楽しそうに話を聞いていた陽子もベッドから降りて晶子と共に見送ってくれた。
「陽子ちゃん。騒がしくしてごめんね」
「ううん、楽しかった。また来てね!」
「じゃあ、晶子ちゃん。退院が決まったら教えて。準備しておくから……」
「うん。今日はありがとう!」
そして病室前で二人と別れ病院を後にした。外に出ると辺りはすっかり暗くなり、街の明かりで影となった街路樹がさらに黒くぼんやりと浮かんでいるのが見える。気温はグッと下がり昼の気温に合わせて着てきた防寒具ではまったく意味をなしていない。明美は着ているジャンバーを抱きしめるように腕組み震えながら歩いている。病院を出て駅に向かっていると、昼間は気づかなかったアーケードの装飾に灯りが灯り、街路樹のイルミネーションがクリスマスの雰囲気を否が応にも醸し出す。それを目当てにきたと思われる高校生カップルもちらほら目に入る。
「なんかクリスマスムード一色って感じだね」
明美は俺の隣でポツリとそう言った。
「そうだな。明日がクリスマスイブか…… 明美はうちの人からプレゼントもらったりするの?」
「うん。毎年もらっているよ。今年は赤いコートお願いしちゃった。たくちゃんは?」
明美はまっすぐ見て歩く俺の顔を覗き込んできた。
「んー、小学校の低学年くらいまではもらっていたけど、ここ数年はもらってないかな。特に欲しいものも無いし……」
「えーっ! 欲しいものないの? 私なんか欲しい物いっぱいあるのに……」
びっくりした顔で大げさにそう言う明美を見てクスリと笑った。それに気づいた明美は口をとげていった。
「あーっ、今子供っぽいとか思ったでしょ!」
「いや、思ってない! 思ってない!!」
その様子にますます笑いが込み上げてくる。すると前を歩いていた勉は立ち止まって微笑しながら俺たちを見ていた。
「お前らホント仲がいいな。これで付き合ってないってのが嘘みたいだぜ」
そう言われ俺と明美は顔を見合わせてどちらからとも無く笑いだした。
「それはそうとさ、小学校高学年の女子が喜びそうなプレゼントって何かな?」
唐突な勉らしからぬ問いに驚いていると、明美は即座に勉に問い返す。
「晶子ちゃんにプレゼントするの?」
「なっ……! 何でそれを……」
俺と明美はこれでもかと言うほど大きなため息を吐く。
「「何でわからないと思うかな?」」
「……」
勉は珍しく赤面しながらも強がるように俺たちに言い放つ。
「お前らも同じ台詞言って…… いいコンビじゃねぇか」
そして勉は明美からのアドバイスを受け雑貨店にはいる。そこで暫く悩んだ末可愛らしい赤いマグカップを買った。また陽子には白いふわふわのシュシュを選んだようだ。支払いに行った勉を俺たちは店の外で待つ。明美は街の明かりに目を向けている。
「ねぇ、勉くんと晶子ちゃん。ずっと一緒にいられるといいよね」
そう呟く明美の横顔をみて、一瞬言葉に詰まる。
「……まぁ、大丈夫なんじゃね。あの二人がそれをそ望んでる限りは……」
そう言って俺は明美から目線を逸らす。
「そだね…… たくちゃんもサポートしてくれるみたいだし……」
「羽川受験のサポートはするけど、結局はつっと自身がどれだけ頑張れるかだ」
そう答える俺を、真剣な顔でジッと見つめる。
「たくちゃんてさ、ホント大人っぽいよね。面倒見もいいし、いろんなこと知ってるし……」
そう言って暫く黙り込む明美だったが、意を決したように言葉を発した。
「私も…… たくちゃんに勉強教わろうかな」
「えっ? 明美も羽川学園入りたくなったとか?」
明美はブンブンと首を振る。
「ううん、そうじゃないの。勉くんも、晶子ちゃんも目標見つけて頑張り出したじゃない。私、そう言うの無いから…… せめて自分がやりたい事が見つかった時に学力が無くて諦めなきゃいけないなんて事にならない様にしたいなって……」
まっすぐな目線でそう言う明美は、これまでの子供っぽさが消え嘘のように大人びて見えた。俺は自然と明美の頭を撫でてしまった。
「えっ? 何?」
無意識の行動に自分自身が驚き、フォローの言葉を入れる。
「あっ、いや、何となく……」
「もぅ、髪もしゃもしゃになったじゃない」
ショーウィンドウに自分の姿を映して髪を整える明美に俺は声をかける。
「でも……俺に手伝える事があるなら言ってくれ。微力ながら手伝うよ」
「うん」
その時、『カランカラン』というドアベルの音ともに勉が紙の手提げ袋をぶら下げて店から出てきた。
「お待た。……ん? なんだ? チューでもしてたのか?」
「してねぇよ! なんでそうなるんだよ」
「いや、何となく入って行きにくい雰囲気だったから……」
合流した三人は再び駅を目指して歩き出す。平日だというのに、さっきよりも街中の人は増えているように見える。俺たちはその中をかき分けて自宅のある村へ行く電車に乗り、帰宅の途についた。
俺は自宅前を通り過ぎ明美を家まで送り届け、家にはいった時、十八時半頃をさしていた。
「ただいま」
玄関先でそう叫ぶと、母親がいると思われる台所に向かう。田嶋姉妹の件を早めに頼んでおかなければならないと考えたのだ。台所に入ると都合の良いことに父親もいて、夕食を待たずに晩酌を始めている。コップに注がれた琥珀色の飲み物は前世での記憶を呼び覚まし、ゴクリと喉が鳴った。
「卓也遅かったな。田嶋さんは大丈夫だったか?」
「あ、うん。……え? 俺お見舞いに行くって言ったっけ?」
そういうと親父はニヤニヤしながら答える。
「まぁ、昨日の今日だしな。それに息子の考えていることくらいお見通しって事だ」
恐らくさっきのにやけはこの台詞を早く言いたくて顔が緩んだのだろう。俺は小さく溜息を吐いた。
「でさ、ちょっと相談というか頼みがあるんだけど……」
俺は二人に事のあらましを説明し、晶子が小学校卒業するまでうちにおいてもらえる様に頼んだ。思春期に入ろうかという男女を一つ屋根の下に置くのもどうかと、母親は言い出したが、事の論点がそこならば説得できると踏んで言葉を続ける。
「晶子ちゃんはさ、今つっとと付き合ってるんだよ。つっとの彼女をどうこうしようなんて思わないよ」
黙ってそれを聞いていた二人だったが、親父はボソリと口を開いた。
「卓也。お前ってさ…… ホントに小学生か? 何つーか、言葉一つ一つが大人びてるって言うか…… たまに俺や母さんも使わないような難しい言葉使う時あるよな」
俺は一瞬ギクリとしたが、力づくで話を戻す。
「いや今の論点はそこじゃなくて、田嶋姉妹をうちにおかせても良いかってとこだよ」
「まぁ、それは構わないけど。卒業後はどうするんだ?」
(構わないのか……)
この親ならば承諾してくれるとは思ってはいたものの、田嶋姉妹の同居をこんな軽く受けてくれるとは思ってもいなかった。どんだけ器が大きいのだろうと感心する。卓也は晶子に病院で聞いた事を両親に話した。
「それとさ、この冬休み中に兄ちゃんのことに行ってきたいんだけど良いかな。まだ行ったこと無いし……」
そう言うと親父は腕を組んで考えだす。
「そうだなぁ〜 うーん……」
(……って、おい!)
その様子につい突っ込んでしまいそうになる。田嶋姉妹の同居をあんなにアッサリ認めたのに、だだ単に兄貴んちのいくだけの事を何で悩む必要があるんだよオヤヂ!
「まぁ、良いんじゃないか。気をつけて行ってこいよ。一人で電車大丈夫か?」
(そこかよ!)
確かに小学五年生の子供が、行った事のない東京に一人で行く事に不安を覚えるのもわかる。しかしこの両親の感覚と自分の感覚のズレに変な疲れを覚えてしまう。
そこへ母親は「そえそう」と思い出したかのように話しかけてきた。
「そういえばさっきね、お兄ちゃんから卓也に電話あったわよ。まだ夕飯できるまで時間かかるから今かけてきなさい」
そう言われて、昨日兄貴と電話する約束をしたことを思い出した。俺は玄関前の電話器のところへ行くと、兄貴のアパートの番号にダイヤルする。
「もしもし、兄貴。悪い…… 昨日電話出れなかった」
そういうと兄貴は
「ああ、母さんから聞いた。大変だったみたいだな」
「まぁな。それでさ……」
俺は昨日の出来事を大雑把に話し、兄貴の部屋に暫く田嶋姉妹を住まわせる事になった事を話した。
「それは良いけどよ。ヤバ気な物はお前の部屋に移動しておいてくれよ。押入れとか、机の奥とか……」
俺は兄貴のいう『ヤバ気な物』の意味がわからなかった。
「なんだよ。ヤバ気なものって」
そういうと言い出しにくそうに話しだす。
「いや、なんだ…… その……エ○本とかオ○ホとか……」
「あんた中学生か!!」
精神年齢では高齢者の部類に分類されてもおかしくない兄貴が若い身体を手に入れて精神まで若返ったのだろうか?
「はぁ〜〜〜っ……」
俺の口からこれまでにないくらい大きな溜息が漏れた。
「酷く大きな溜息だな。疲れてるんじゃないのか?」
「いや…… 今疲れたんだよ。……で?」
「……で、って何?」
兄貴のこの返答に更に疲れがのしかかる。
「だから、昨日の夜電話するって言ったてた内容だよ」
兄貴は電話の向こうで今思い出した的な反応をした。そして兄貴が話を始めようとした時、台所の方から夕食を告げる母の呼び声が聞こえてきた。
「あっ、ちょっと待って! メシだって。兄貴の話は後で聞くから、こっちの用件だけ言っとくわ」
「ああ」
俺は休み中、兄貴のアパートに行きたいと告げると、明後日なら良いという答えが返ってきた。そして兄貴の話は会った時に話すということだったので、俺は電話を切り台所へと向かった。食卓につき並べられたハンバーグを食べ始めると、さっきから晩酌をしている親父がおもむろに話し始めた。
「そういえば田嶋さん達がうちに来るんなら、このテーブルじゃちょっと小さいな。一回り大きいのに買い換えるか?」
親父ははそういうが、ちょっと前までここに兄貴が座っていたことを考えると、全然問題ないようにに思える。
「大丈夫じゃないの? 晶子ちゃんと陽子ちゃん足しても兄ちゃんよりは大きくないよ」
「そうなのか?」
そう言って親父は手酌でビールを注ぐと、グイと一飲みで空にした。
昭和六十年十二月二十五日 水曜日
兄貴のアパートに行く約束の日がやってきた。
俺は朝早くに実家を出発し、最寄りの杉沢駅から電車を乗り東京駅を目指した。この時代実家付近から新幹線が止まる駅までのアクセスが無いため、関東エリアに入るまでは在来線での移動となり東京まで約九時間の長旅となる。もっともこの時代から三十年経った 前世の時代でも五時間程度はかかっていたので、実家の場所がいかに辺鄙なところなのかがわかる。それ程遠い場所なだけに、両親は一人で兄貴のところに行こうとするのを渋ったのだろう。
夕方六時、俺は兄貴のアパートがある最寄駅に到着した。駅の公衆電話から兄貴に電話をするとベンチで兄貴が迎えにきてくれるのをまつ。今日はクリスマス当日だというのに、駅中や周りの店舗ではツリーやリースなどクリスマスの飾り付けが外され、部分的に早くも正月仕様に変わっているところもあった。
(まったく…… 気が早いもんだな……)
ベンチの冷たさが、ジャンバーを通り越して身体に伝わる。寒さで足をガタつかせながら待っていると、前方から兄貴が姿を現した。。
「よう。卓也。久しぶりだな」
そう言ってコートのポケットから缶コーヒーを取り出して俺に差し出した。そのコーヒーを受け取ると両手で包み込むように持って手を温める。
「ああ、久しぶり。三日間よろしく頼むよ」
そう言って手のひらの缶コーヒーを開け一口含んだ。缶コーヒーならでわのやけにミルク臭く、甘ったるい味が口中に広がる。普段はブラックで『砂糖やミルクなんて要らない』と言っているが、この寒さの中ではコレくらいの甘さが心地いい。そしてもう一口……
「卓也、そっちはどうよ。うまくいっているのか?」
「うーん、どうだろう…… 晶子ちゃんたちや勉に怪我を負わせちゃったり、避けきれなかったところはあるけど前に比べれば悪くはないと思うよ。過去の出来事とはいってもそのままリプレイされるわけじゃないからな。なかなか難しいよ」
そういうと兄貴は微妙に笑いながら「まぁな……」とだけ答える。寒空の下を十五分ほど歩いたところで兄貴のアパートに到着した。茶色の外壁に白いバルコニーがついているなかなか小洒落た外観だ。
「へーっ、綺麗なアパートじゃん」
「まぁな」
そう言って俺たちは兄貴の部屋の前までやってきた。
そして兄貴は鍵を開けると思いきや、自室の呼び鈴をならした。すると中から「はーい!」という女性の声が聞こえ、しばらくすると鉄扉の鍵がガチャリと開く音がする。
「ただいま」
そう言って中に入る兄貴。俺はその行動を唖然としながら見ている。そんな俺に兄貴はニヤリとした表情をおくり、我に返った俺は兄貴に続いて玄関に入る。
「おかえりなさい。寒かったでしょ」
「お邪魔します」
予想もしていなかった出迎えの存在に驚きながらそう答え、迎えてくれた女性の顔を食い入るように見てしまう。
「えっ、あ、あの…… 亜由美さん?」
「えっ?」
目の前の女性も驚きの表情を浮かべている。
そう目の前にいるのは見た目にはかなり若いが、間違いなく前世での兄貴の奥さん、亜由美さんだ。俺は目の前で起きている状況を把握できず、兄貴に目向けるとこの様子をまたもニヤニヤしながら眺めている。その反応に満足したのか兄貴はニヤケ顔をやめて二人の近くにやってきた。
「卓也。紹介するよ。こちらは島崎亜由美さん。五月くらいから付き合っている彼女だ」
そういうと彼女は丁寧にお辞儀をして自己紹介を始める。
「はじめまして。太一さんと同じ大学に通っている島崎亜由美といいます」
そう言われて俺も自己紹介をする事にした。
「おっ、俺、……いや僕は弟の有馬卓也です。小学五年です。兄がお世話になっています」
辿々しくそう言った。玄関先で簡単な挨拶を済ませると奥のリビングへと通される。温かな部屋のテーブルには三人分の夕食が並べられ、亜由美さんは台所でまだ何かを作っているようだ。俺は兄貴に小声で話しかける。
「何で亜由美さんがいるんだ? 亜由美さんは埼玉の医大の看護科じゃなかったのか?」
そういうと思い出すかのように答える。
「ああ、だから学内で見かけた時は心臓が止まるかと思ったよ。気がついたら声をかけてた」
「信じられないな。そんな事があるのか……」
すると兄貴は得意気な顔になり
「それだけ亜由美との縁が強いって事だな。前との違いは亜由美も医学生ってとこだ」
そんな時亜由美さんが、盆にスープを載せてやってきた。
「何の話ですか?」
「いや、学校で亜由美を見たとき運命的なものを感じたって話だよ」
「……」
よく臆面もなく俺がいる前でそんな事が言えるもんだ。
だが兄貴の言うように、亜由美さんとはよほど強い縁なのかもしれない。
「それにしても入ってくるなり、卓也さんに名前を呼ばれた時はびっくりしましたわ。太一さん、私のこと卓也さんに話していましたの?」
「いや、びっくりさせようと思っていたから話してないよ」
(このー!! 兄貴が一言 話したと言ってくれれば丸くおさまるものを……)
俺は頭をフル回転させ、フォローの言葉を考える。
「い、いえ。知り合いに亜由美さんてコがいて、その人とそっくりだったんで……つい。ごめんなさい」
「いえ、謝られる事ではないですわ」
兄貴は亜由美さんの斜め後ろでまたもニヤニヤしている。それにしても十八、九歳にしてこの落ち着きはどうだろう。この頃からあの気品と気高さは形作られてきたのだろうか?
「亜由美さんはココで兄さんと一緒に住んでいるんですか?」
「いえ、ここから数駅のところで家族と住んでいます」
そう言われて亜由美さんが東京出身だった事を思い出す。俺たちは穏やかな雰囲気の中、亜由美さんが作ってくれたビーフシチューを食べた。前世で何度となくご馳走になったが、この世界でもやはり料理上手なようだ。食事を終えた亜由美さんは身支度を整えだし自宅に帰るとのことだった。兄貴は駅まで見送ると申し出るも、それを断りまた明日来ると言ってアパートの外で別れた。
「いや、マジでびっくりしたよ。田嶋姉妹のこともあって必ずしも同じ事が起こる訳ではないことはわかっていたけど、それは俺や兄貴が関わったからだと思ってた。亜由美さんは俺たちと関係無く東大に入ってきたと言う事だよな」
「そうことになるな」
部屋に戻りながら寒空の下でそんな話をしていた。部屋に入ると兄貴は冷蔵庫からビールを一本取り出すとすぐにタグをあけた。
「あんた、まだ十九だろう?」
「良いんだよ。精神は七十超えてるんだから……」
「身体と精神年齢は関係ないだろうが」
とは言っても身体が若いせいか、兄貴の行動自体に年寄り臭さは感じない。また組手をしていても高齢の空手家のような動きではなく、パワーを活かしつつ無駄のない攻撃をしてくる。ある意味もっとも戦いに向いたコンディションといえよう。
「それはそうと、卓也は何をしにきたんだよ」
「兄貴に逢いに来るのに何をしにも何もないだろう。……てか、電話だと親とかに聞かれたりしてないか気になって落ち着かないんだよ」
「そっか……」
兄貴は缶ビールを一気に喉に流し込んだ。
「……でだ、この前電話で話してた女子小学生の予言者見ただろう?」
夕方からの一件ですっかり頭から飛んでいた。俺はあのクリスマス会でのことを思い出しながら話し出す。
「えーっと…… 月詠……有栖だっけ? 占い師らしい名前だし、多分芸名だとは思うけど……」
「まぁ占い師や予言者が名乗る名前なんて芸名以外ないだろう。そう言う人たちは本名や生年月日を知られるのは、魂のしっぽを握られたようなものだと言うしな。まぁ、名前はどうでもいいけど、あの予言どう思った?」
「そうだな。予言にしては具体的過ぎると思ったよ」
初めて彼女の予言を見た時に感じた違和感を話した。
「ああ、俺もそうだ。しかもかなり正確に的中させている。そして彼女のあの振る舞いだ…… 十中八九俺たちと同じように未来から転生している」
確かにそう考えれば全てがしっくりくる。
「そういえば晶子ちゃんは、その有栖って子YVの会合にいたとか言ってたよ。本名、何て言ったかなぁ〜? 早見、早見……、早見…… あれ?」
「ん? どうした?」
(この名前何処かで聞いたことあるような……)
既視感……とはこの場合言わないか…… しかしこの『早見』という名前は聞き覚えがある。
「早見優か?」
「違う! そうぢゃ無くて……」
俺はこの記憶を探し自分でこの名前を呟く。
「早見。早みぃ〜。早見? 早見!! ……ん?」
兄貴はこの様子を興味深そうに黙ってみている。
「思い出した…… あれだ! えーっと…… 佐藤由美!」
「えっ? 誰だよ、それ?」
確かあれは前世の三十才くらいの時。勉に呼ばれて埼玉のYV施設に行った。あの時勉に殺されたアーミーナイフ女…… その時YVの男がその女を早見と呼んだのだ。あんな鮮烈な出来事を今のいままで思い出せなかったとは、俺の頭のポンコツ具合に呆れてしまう。恐らくはあの時勉に殺されてこの世界に転生したのだろう。
これまで誰にも話していなかったこの出来事のあらましを兄貴に話した。すると兄貴は大きく鼻で息を吸い込むと、小さくため息をつく。
「なんだかなぁ〜 この世界にお前が現れた時は、よく考える事があったんだけど、時代を超えての転生ってそんなにあるものなのかな?」
「んー…… でもさ、俺たちだけがそうなるって話の方がおかしいだろ。しかも兄弟でだぜ。どんな確率だよって……」
この広大な宇宙で今現在、地球以外の知的生命体の存在は確認されていない。宇宙でただ一つ…… という怪しさと同じくらい、この件に関して怪しさを感じてしまう。転生なんてよくある事…… 言わないだけでそこいら中で起こっている。そう言われた方が余程しっくりくる。
「この早見って子が、いつこの世界にやってきたのかはわからないけどな、俺たちを含めた三人の中では俺が最初にこの世界にやってきた事になる」
「?? 何が言いたいんだ? 死んだ順番からいえば早見じゃねぇの?」
そういうと兄貴はテーブル下から新聞のチラシを取り出して裏返した。そしてペンで一本の線を引く。
「これが時間軸だ。その中で最初に死んだのはその早見と言う人だが、彼女は今小学二年生くらいだからここ八年の間にこっちにやってきたと思われるわけだ。まぁ、お前とどっちが早いかはわからないけど、俺はそれより前の十四年前に来ている」
「まぁ、そういうことになるな。……で?」
そえいうと兄貴はさっきよりも大きなため息をついて話を続ける。
「だからさ、お前の記憶で俺は何処の大学に入ったんだよ」
「何処って、埼玉県の医大に決まってるじゃん」
「だろ?」
「??」
さっきから兄貴は何が言いたいのかわからない。
「同じ時間軸で過去にやってきたのなら、お前の記憶で俺は東大に入ってなきゃいけないだろ?」
「あ……」
ようやく兄貴の言いたい事が見えてきた。
つまりはこの世界は俺たちの前世とは別次元にあると言いたいのだろう。確かに同じ時間軸にあるならタイムパラドックスが起きて、『卵が先かニワトリが先か』状態になっていることになる。前世の記憶が入ることによって多少の人間関係に違いは出ているが、個人の魂は同じ世界ってことか。似非科学チックな話になってきたけど、確かにその通りなのかもしれない。
「でもなんかホッとしたよ」
「ん?」
「いや、俺たちが過去にやってきた事で由羅や往人たちの存在が無くなったんじゃないかって思っていたからさ……」
そういうと兄貴もふっと穏やかな表情を浮かべた。そして思い立ったかのように口を開いた。
「卓也。その人と……、早見って人と会ってみたらどうだ?」
「えっ? 何で?」
兄貴の話を聞くとYV関係者ならこの早見という子から何か情報を得ることができるだろうとの事だ。早見が予言を生業としているのなら、こっちには交渉に使える武器がある。それをもとにYVの情報を引き出せばいいと。
「でもどうやって早見を探すんだよ。この時代でネット検索なんて使えないんだぜ?」
「それについては大丈夫だ。月詠有栖って都内に豪邸を建てたって有名なんだ。今は彼女の兄と二人暮らしのはずだ」
そう言って都内の地図を取り出すと、持っていたペンでおおよその場所を指し示した。そこはここから電車で一時間程の場所だった。
「わかった。じゃあ明日早速行ってみるよ」
兄貴は話が済んでホッとしたのか、再び台所の冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、リビングに戻りながらタグを開けて飲み始めた。
昭和六十年十二月二十六日 木曜日
俺は今、都内某所を地図を持ちながら散策している。小学生の子供が地図を持ちながらキョロキョロしているというのに、誰一人声をかけてくる人はいない。三十年後の世界であれば無闇に話をかけないというのが世の中の常識となっているが、この時代だと田舎なら必ず「どうしたの?」と話しかけられる。こんな状況が「都会の人は冷たい」という印象を与えているのだろう。
最寄りの駅を降りてから三十分ほど探し回りようやく目的の場所を探し出す事ができた。閑静な住宅街で異彩を放つ近代的、いやこの時代から言えば未来的とも言えるデザインの家。こんな家を作るハウスメーカーにも驚くが、都内でこれだけの家を建てるとなると二億や三億では建たないだろう。二人が暮らすためだけにこれだけの家を建てる感覚にも驚かされる。その門の表札には『月詠』と書いてある。
(早見じゃねぇのかよ……)
漫画の中の金持ちの家にあるような門にインターホンが付いていて、俺はそのボタンを押した。
「はい」
インターホンのスピーカーから女の子の声が聞こえてきた。
「月詠有栖さんでしょうか? 私有馬と言いますけど、少しお話をお聞きしたいのですが?」
できるだけ丁寧にそう尋ねる。
「生憎ですが有馬様という方は存じ上げておりませんし、アポもありませんのでお引き取りください」
まぁ、当然の結果だろう。有名人ともなれば尚更だ。
「早見さん…… いや、佐藤由美さんの知り合いなんですが……」
そう言った途端に無言でありながら、インターホン越しに相手の警戒心が伝わってきた。そして何秒か後、重苦しい鉄門が開く音と共に門が開かれた。
「どうぞお入り下さい」
(ビンゴだ)
この人は百パーセントあの佐藤由美だ。
……となると、ここからは気を引き締めて行かなければならない。人に躊躇なくボーガンをぶっ放し、ミリタリーナイフで切りつけてくるような奴だ。何を仕掛けてくるかわからない。門から玄関までの通路を通り、入り口のドア前にたどり着いた。たった十二、三メートルの距離がこんなにも長く緊張するなんて経験はした事がない。俺は玄関前で呼び鈴を鳴らす。そしてすぐにドアの鍵が開く音がした。
「どうお入り下さい」
そう言われてドアを開けると、目の前にはテレビで見たままの女の子が立っていた。見た目は小学校低学年の容姿。それにいかにも高そうなブランドものの服を身につけている。普通の女の子がこんな服を着ても違和感があるものだが、それを感じさせないほどの貫禄を纏っている。
「こちらへどうぞ……」
彼女に導かれるままに奥の部屋へと足を運ぶ。その通路の脇には数部屋分の扉がある。兄妹たった二人でこれだけ広い家に住む理由があるのだろうか? そう思わずにはいられない。通された部屋は八畳程度の洋室で、五脚のソファーがあり俺はその一つに座った。彼女はテーブルを挟んだ対面に腰を下ろす。
「私に聞きたいことというのは何でしょうか?」
唐突に本題に入ろうとするが、その前に本人の口から聞いておかなければならない事がある。
「その前に……、ええっと……まず、貴方を何て呼べばいいですか?」
「紗季でいいですよ。早見紗季は本名ですから……」
「じゃあ紗季さん。ある人に紗季さんはこの世界でもYVの会合にいたと聞いたんだが、そのYVについて答えてもらえるか?」
「田嶋さんですね。そのある人というのは……」
ドキリとするが、この場で否定したところですぐに嘘だとバレてしまうだろう。
「ああ、その通りだ」
俺は正直に答えた。
「私はもうYVではありません。だからいま教団にどの様な事が起きているかはわかりません。それに例え知っていたとしても、私には貴方に情報を提示するメリットがありません」
「俺が知りたいのはこの世界のYVでなくても良いんだ。数日前俺の友達がYVに襲われてゲガを負った。どうやらそいつの家族の誰かが狙われているようなんだ。どんな些細な事でもいいから何かヒントが欲しいんだ」
「それにしたって私にはメリットありませんよね」
やはりこちらの要求だけを言ったところで応じてはくれない。まぁ、当然だろうが…… 俺はここにくる前から考えていた取引を持ちかける。
「それじゃあこういうのはどうだろう? 紗季さん、貴方は今予言を生業にしている様だけど、貴方が亡くなった西暦二〇〇三年までの事しかわからないでしょう? 俺はその後も二〇二〇年まで生きていた。貴方にYVの情報を提供してもらう代わりに、その間の出来事を教えるというのはどうだろう?」
紗季は腕を組み、人差し指を口のところに押しあてながら暫く無言で考えていた。一、二分が経過した頃紗季はようやく静かに口を開いた。
「わかりました。その条件を呑みましょう。それで有馬さん。貴方はYVのどのような事が知りたいのですか?」
「まずは俺のダチ…… いや、友達やその家族が何故YVに狙われているかだ」
「貴方の地元は田嶋さんが配属されたところでしたね。
先ほども申し上げた通り、ここではYVからは抜けています。あくまで前の記憶ですからその事を踏まえて聞いてください」
「ああ、わかった」
紗季はうなづき話始める。
「前世の私が小学低学年だった頃、田嶋さんたちが有馬さんのところに行くちょっと前の話です。YVの本部からある機密文書が持ち出されるという事件がありました。持ち出したのはとある二世信者で吉永幹雄というひとだったと思います」
「はぁ……」
俺は聞き覚えのない名前を記憶すべく、手のひらに聞いた名前を指で描いてみた。
「彼は教団の幹部でした。ある日幹部層にある計画を言い渡されたのですが、彼はその計画の中止を訴えました。ところがこれはヤハウェの意思と教団は言い、彼の訴えを棄却しました。そして彼はその計画が書かれた文書を持ち出し姿を消したのです。教団は血眼になって探し彼の身柄を確保しましたが彼はその書類は所持していませんでした。教団は手を尽くして自白させようとしたのだけど、その最中に彼は亡くなったそうです」
この話、紗季はやんわりと話しているが、ありていに言えば拷問して口を割らせようとしたら死んじゃったということだろう。なかなかエグい話だが紗季は何の躊躇いもなく口にした。それにしてもこの話が後の話にどう結びつくのか先が見えない。どの部分に注意しながら話を聞けばいいのか分からず、とりあえず全部を記憶しようと紗季の口元に注目する。
「でも彼の死後もその文書を探すために尽力して、吉永幹雄が生前 遠くに離れて暮らす弟と接触していたことがわかったのです。それが田嶋さんが配属された地、有馬さんの住んでいるいるところです。そして彼の弟の身柄を確保しその周辺を探したのですが、それでも文書は見つからなかった。こうなることを予想していた彼はその文書を何処かに隠していました。彼はその地に作ろうとしていたYV施設建設を反対する団体のリーダーでした。YVはその団体関係者宅に盗聴器を仕込んで調べた結果、有馬さんのご友人のところにあたったのだと思われます」
「それにしても二世信者の弟なんだろ。それがなんだってYV反対派のリーダーなんてしてんだ?」
「二世信者はYVが嫌いな人多いですよ。私自身もそうですが、小さい頃から苦しめられていますし、それに吉永さんの場合はYVが原因で一家離散していますから恨んでて当然でしょう」
確かに田嶋姉妹も親が逮捕されて、憑物が落ちたような穏やかな顔になっていた。
「そういえば紗季さんは前世で会ったときはYVだったでしょ? この世界ではYVから抜けたようですがどう言う事情なのですか?」
「貴方も薄々気付いてると思いますが、環境や人間関係を変化させれば私達が前世で通ってきた歴史と同じになるとは限りません。私の両親はYVでしたが、それらが亡くなって人間関係が変化した結果がコレです」
「へー。両親が亡くなるって、そんなに大きく変わることもあるんだな」
紗季はフッと不敵な笑みを見せ答える。
「変化を与えればかわりますよ」
紗季は続けてこう話す。
「有馬さんはいつどの様なタイミングで今の世界にやってきましたか?」
「ああ、それは五歳の時階段から落ちたとか言ってたよ。気がついたら布団に寝かされていてこの姿になっていた」
紗季はさっきと同じように人差し指を口に押し当てて何かを考えているようだ。そして何かを思いついたのか俺の顔を見て話し出す。
「それは恐らくこの世界の有馬さんは、その時亡くなったのだとおもいます」
「それは俺もそうかと思っていたよ」
紗季は目を伏せて思い出すように語り出す。
「私は前世で子供の頃から日常的に両親から虐待を受けていました。そしてこの世界でもやはり同じように虐待されていたようで、私が五歳の姿でこの世界で目覚めた時、全身に深い傷を負い激痛の中であったのを覚えています。恐らく虐待の中で息絶えたのでしょう。それなのに両親は床に横たわる私に見向きもしなかった。私は横たわったまま隙をうかがい、父が一人になったとき後ろから近づいて、近くにあった果物ナイフで頸動脈を切断しました。周りに血飛沫が舞わせながら父は倒れ、とどめに父の首を切断していたとき、買い物から帰ってきた母親に見つかってしまいます。床に転がった父の死体と部屋中の血痕。それを見た母は恐怖し外に逃げ出そうとします。それを私は後ろから切りつけました。五歳児の力ではなかなか致命傷を負わせられず、命乞いをする母を何度も何度も切りつけようやく動かなくなりました。その後警察が入りましたが、物取りか怨恨の外部犯という結論になり、五歳の私に疑いがかかることはありませんでした」
紗季はそこまでいうと顔を上げた。
「私は前世であんな風に殺されましたが、今となってはよかったと思っています。またこうやって人生をやり直せるのですから」
紗季の両親に関しては自業自得感しか無いが、彼女の説明は場の惨劇を生々しく想像させ、憂鬱な気分に落とされた。
「そうか……」
それしか言葉は出ない。
「紗季さんはお兄さんと暮らしていると聞いたけど、お兄さんは虐待にはあっていなかったのか?」
「兄も幼い頃から受けてました。でも高校生になった頃、暴行する父を殴ったのをきっかけに力関係が変わったのです。兄に虐待を加えれば兄は両親を動かなくなるまで殴り続けるようになりました。また兄は私のことを可愛がってくれていたので、私が暴行されても兄は親を殴っていたのです。だからそうなってからは私も暴行を受けることはなくなっていたのですが、ある時父が兄の寝込みを襲い大怪我をしてしまいます。それでも兄は両親に反撃しました。結果親子共に入院することになったのです。兄より怪我が軽かった両親は先に退院して、兄への仕返しをするかの様に私に危害を加えました。恐らくそれがきっかけで、この時代の私が死んでしまい私がここに転生したのだと思います。この部分は後に兄から聞いた話ですが……」
「だけどお兄さんは親を制圧できていたのに、何故両親と一緒に住んで、YVにも居続けたんだ? 前世で紗季さんにあった時点で二人ともYVにいたよな」
そういうと紗季は小さくため息をついてこたえる。
「そうですね。兄が両親と共にいたのは私がいるからだったとおもいます。いくら身体的に強くなったとはいえ高校生です。経済的にも一人で生きていくのは難しいです。まして生まれた時からYVの中にいて、YVの常識しかないわけですからなおさらです。そんなわけでYVから離れられなかったのです。この世界では私自身が前世の記憶を使って稼ぐ事ができるので、何とかYVからは脱しましたが……
すみません。話……逸れました。有馬さんが聞きたいのはこのような事では無いですよね」
「ああ、まぁそうだが……」
俺は紗季の話を聞き、田嶋姉妹も似たような境遇にあったことを考えると、YVに対しどうしようもない怒りが芽生えてくる。しかし、紗季の言うように今聞くべきことを思い出して目の前の紗季の顔に視線をもどした。
「それでその、YVの計画っていったい何んだ? 持ち出された文書にはどんな事がかいてあるんだ?」
「それは……」
それはその答えを耳にして全身にエタノールを浴びたような寒気を感じた。
「持ち出された書類はYVが起こそうとしていたテロの計画書です。その書類には場所や時間、方法が事細かに書かれていたのです。具体的には都市の地下鉄での毒ガスによる大量殺人です」
「そんな…… でもYVは(前世で)そんな事件起こしてないよな」
「そうですね。結局その文書はYVには戻らなかったのですが、警察などの機関に渡ることもなかったので公になりませんでした。それにYVはそのテロを起こす必要がなくなりました。他の宗教が似たような事をやってしまったので、事足りてしまったのです」
「事足りた?」
それはどういう意味なのか?
俺はその理由を紗季に尋ねる。
「YVがテロを起こそうとした理由はかなり稚拙なもので、百年以上前から唱えているハルマゲドンの実現を匂わせたかったためです。いくらマインドコントロールや洗脳がかかっているとはいえ、中には何も起こらない現状に不信感を持つ人だって出てきますからね」
随分短絡的な理由に逆に驚いてしまう。
しかし狙っているものがわかってしまえば、先にそれを見つけて公表してしまえば、この一件にはケリがつきそうだ。俺は早く兄貴のところに帰って今後の方策を決めたいところだが、この話を聞いてちょっと確認したい事が出てきた。
「紗季さん。さっき別の教団が大量殺人を実行したことでYVはするのをやめたと言ったけど、仮にその教団のテロとYVの企てを阻止したとしたらあの事件は起こらなかったのだろうか?」
そう問いかけると、俺は口に溜まった唾を飲み込んだ。
「どうでしょう…… こういう仕事をしていると歴史の矯正力のようなものを感じる時があります。もちろんちょっとした事で未来を変えられることもあります。でもいくらその出来事の原因を潰しても、他の事象からその出来事が起こってしまうこともあります。もしかしたら運命に逆らえないこともあるのかもしれません」
だとすると予言者が曖昧な時期や出来事を言うのはその為なのかもしれない。俺はここまで聞いて約束通り、紗季に俺が知っている未来の情報を伝える。東日本大震災や熊本の地震、北のミサイル発射には流石に驚いていた。ふと部屋にかけられた時計を見るとすでに正午を過ぎていた。
「ではそろそろ帰ります。長々とすみませんでした。助かりました」
「いえ、こちらこそありがとうございます。田嶋さんの良い未来が掴める事を祈っています」
そして紗季は丁寧にお辞儀をして見送ってくれた。
立場と出会うタイミングによって、このようにウィンウィンの関係を築くことができるのだと改めて思ってしまう。
俺は兄貴のアパートまでの帰路につく。紗季の家まできた経路を辿り、今朝降りた駅から兄貴の最寄り駅までの電車にのった。冬休みということもあって、私服姿の中高生の姿が多い。
(確かあの事件て地下鉄の電車の中で起こったんだよな)
車内の様子をグルリと見廻した。
(この状況で毒ガスなんて巻かれたらいったい何人の人間が死ぬだろう……)
『ハルマゲドンの想起させるため』などという馬鹿げた理由で、人間を殺めるなど絶対に許せる事ではない。あの事件だってそうだ。自分たちの教団が追い込まれて日本を転覆させようだなんてどうかしている。後者の首謀者はすでに分かっているのだから今殺ってしまえば、少なくとも一つの芽は詰む事ができるのだろうが……
そこまで考えて失笑してしまう。
罪を起こす前に裁くって、裁かれる方も釈然としないだろう。「十年後あなたは大量殺人を犯すので今ここで殺します」と言って納得できる方がおかしいだろう。まぁ、納得させる必要もないのだろうが…… そして法律からすれば当然殺した私が罪にとわれる。しかし大量殺人が起こる事が分かっていながら何もしないというのはどうなのだろう。法律には引っかからなくても、俺は罪人になってしまうのではないのだろうか? そう考えると、紗季を含めた預言(予言)者というものは、そういった事件や災害の可能性を提示する事で皆に警告し、その発生を回避、もしくは実害を軽減させているのかもしれない。ならば当たるにしろはずれるにしろ世の中には占いや予言というのは必要なのかもしれない。
その様な事をボーッと考えている間に兄貴のアパート近くの駅に到着していた。俺は改札をでてアパートを目指して歩き出す。
(そういえば今夜も亜由美さんが夕飯作ってくれるって言ってたな)
そして昨日食べた料理の味を思い出して顔が緩んでしまった。兄貴や悠人は毎日あんな美味しいものを食べていたんだから舌が肥えるのも無理ないよな。前世での兄貴達の息子 悠人と遊びに出かけたときよくハーゲンダッツを食べていたのを思い出す。
(あれ? そういえば亜由美さんは何で埼玉の医大の看護科になんて入ってたんだ?)
そんな疑問が湧いてくる。前世の亜由美さんも兄貴に匹敵する程頭が良く、また頭のキレや洞察力も半端無かった。実際現世では日本の最難関である東大の理Ⅲに入っている。そんな亜由美さんがわざわざ実家から遠い大学を選ぶなんてどんな理由があったのだろう? 兄貴はその理由を知っているのだろうか? 歩きながらそんな事を考えているといつの間にかアパート前にきていた。兄貴の部屋の呼び鈴を鳴らすと、ドアが開いて亜由美さんが迎えてくれた。
「あっ、亜由美さん、こんにちわ」
「こんにちは。卓也さん、お友達の家は迷わずに着けましたか?」
兄貴は亜由美さんに去年東京に引っ越した友達の家に行くと伝えたらしい。
「はい、何とか…… ところで兄さんはいますか?」
「太一さんは今着替えをしていますよ。新宿の本屋さんに行くって言っていました」
そういうと部屋の奥に目線を向けた。すると丁度奥からコートを着ながら兄貴が出てきた。
「よう、卓也。無事辿り着けたか?」
「うん。本屋さん行くの? 僕も行っていい?」
そして俺は兄貴と再び駅を目指して歩き出す。亜由美さんは家で夕飯を作りながら留守番していると言っていた。恐らくは俺が兄貴に話があるのを察しての事だろう。三十分程で新宿駅に到着した。電車を降り、改札を出て歩いていると通路脇にはダンボールでできた家と思わしき物がいくつも並び、その中に人が動いているのが目に入った。
「ここってこの時代はこんな状態だったんだなぁ」
「ああ……」
兄貴はまっすぐ見ながらそう答える。後から聞いた話では、ここにいるホームレスと不用意に目を合わせてしまうと、思わぬトラブルになりかねないとのことで、見ない様にしているとの事だった。地下通路から抜け出し地上に出るとそこには新宿らしいビルが立ち並んでいた。
「おおっ! シティーハンターの世界だ!」
つい声に出して言ってしまった。
「馬鹿な事言ってないでいくぞ」
そう言って先に歩き出した兄貴は数歩歩いて立ち止まり俺を見る。
「そういえば、お前昼飯食ったのか?」
「いや。でも今食うと亜由美さんのご飯食べれなくなるからいいや」
そういうと兄貴はちょっと考える仕草を見せ、こう言う。
「じゃあ、その辺の喫茶店で何か飲むか。少し腹に入れないとこの寒さはきついだろう?」
そう言って俺が答える間も無く近くの古びた喫茶店へと入って行ってしまった。俺は後を追う様にドアを開けて飛び込む。
「いらっしゃいませ」
マスターの低い声が耳に入った。
ドアを開けた時のベル音がレトロな雰囲気を一層際立たせた。店内には新聞を見ながらコーヒーを飲む人、カウンターでマスターと話をしている人など、外界の時間の流れに取り残されたような、シシリエンヌでも流れてきそうなセピア色の空間に何人かの客が見受けられる。俺たちは適当な空いた席に腰を下ろすとコーヒー二つとフレンチトーストを一つ注文した。
「で?」
ここまでの道中、紗季やYVの事にも全く触れなかった兄貴は唐突に俺から話を引き出そうとする。まぁ、どこで誰が聞いているかわからない道中に話す様な事ではないのだが…… 俺は午前中に紗季から聞いたYVの企みや紗季兄妹の話をザックリと説明した。すると話を終えてからしばらく黙っていた兄貴は「ふぅ……」と深い溜息を漏らす。
「何だかなぁ〜 何で終末論を唱える宗教って、揃いも揃ってこういう考えに行き着くのだろうな。集団自殺とか大虐殺とか……」
「まぁ、それを唱えて信者を集めてたわけだからね。引くに引けなくなって、自分達を消すか、世界を消すかって考えに至るのはわかる気もするんだけど、考え方が短絡的すぎるよな」
俺は目の前のフレンチトーストをフォークでちぎって口に運ぶ。寒い中長いこと歩いてきた体にこの甘さと油分は心地いい。続けて二口、三口と食べ進める。
(フレンチトースト一枚くらいなら、亜由美さんの料理を食べられなくなることもないだろう……)
そんな事が頭をよぎった時、さっき頭に浮かんだ疑問を思い出した。
「そういえばさ、亜由美さんの事でちょっと気になった事あったんだけど……」
「ん? 何だ?」
俺はそこまで口に出してから、この質問をどう言い出すか言葉を選んだ。
「亜由美さんて前は看護科だっだでしょ。……で今は東大の理Ⅲ…… 前だって相当頭良かったし洞察力もあって切れ者って感じだった。十分医学科だって行けたと思うんだけど、何で実家を離れてまで埼玉の医大の看護科になんて行ったんだ?」
そう言った途端兄貴の表情が硬くなった。持っていたコーヒーカップをテーブルに置いて腕を組む。なかなか開かない兄貴の口元に注目するが言葉を発する気配がない。
(何かまずい事聞いてしまったのだろうか?)
そんな考えが頭に浮かんだ時、兄貴らしからぬ小さな声で話し始めた。
「あれは俺が結婚する少し前に亜由美から聞いた話なんだが……」
俺は緊張感から息をするのを忘れ、聴覚に全神経を集中させていた。
「亜由美には四つ離れた妹がいたんだ。二人は超が五つもつくような中高一貫の進学校に通っていたんだが、妹が中二の春に友達と一緒に埼玉での勉強会に参加してくると言って出かけて行ったらしいんだ」
(「いたんだ」って事は後にいなくなるという事なのだろうか?)
そんな悪い予感を感じながら兄貴の話に耳を傾ける。
「その後も土曜日や日曜日に頻繁に勉強会に行くといっては埼玉に出かけて行ったそうなんだが、次第に帰る時間が遅くなり半年が経つ頃には学校を休んでまでそれに参加していたというんだ。はじめ家族は恋人でもできたのではないかと思ったらしいんだが、それとなく亜由美が聞いても否定して、ただ勉強会とだけ言ったらしい。そんな行動を不審に思った亜由美は隠れて妹の後をついていこうと考えるが、ある時妹はその勉強会に出かけたきり帰ってこなかった。妹が出かけた日の翌日、警察に捜索願いを提出するも中学生が一日家に戻らないくらいでは相手にもしてくれない。そこで家族は妹の部屋に何か手掛かりがないかと調べ始めた。そして机の引き出しを開けた時、奥に隠すかのようにしまってある紙袋を見つけた。中には旧約聖書といくつかの冊子、それとYVの入会申し込み書の写しが入っていた。亜由美の両親は慌てて申し込み書に書かれた電話番号に電話をかけた。しかし会合には来ていないと言われて一方的に切られた。亜由美と両親はその住所を頼りに埼玉県にあるYVの本部を訪ねるが、来ていないの一点張り。中を見せてくれと言うと、信者以外を入れられないと言ってドアを閉ざしたという。
亜由美はこのYVの情報を得るために教団本部の近くにある医大の看護科に進む事を決めたという。この大学は医大という事で、比較的富裕層が多く資金調達のため、この学内での勧誘に特に力を入れていたというのだ。亜由美は看護科の合格をうけ、大学近くにアパートを借りて妹の捜索を始めようとした矢先、別件で警察の捜査が入った施設で亜由美の妹が変わり果てた姿で発見された。一年近くもの間狭い部屋に監禁され、大量の薬物を投与されて肉体的にも精神的にも崩壊してまともに言葉も発せられなかったという。何故このような事になったのかは結局わからなかった。妹と一緒に行き始めたという友達が誰なのかさえわからない。亜由美の妹は実家近くの大きな病院で入院したが、一ヶ月ほどしてようやく歩けるまで回復した時 病院の屋上から飛び降りてしまった」
この兄貴の話を聞き終えた時、俺は背中が冷たくなるほどの汗をかいていた。何と胸糞悪い話だろう。俺の中のYVに対する嫌悪感が数倍にも膨れ上がるのを感じた。
「……で、亜由美さんとはどの時点で知り合ったの?」
「ああ、それは俺の友達がやはりYVの勧誘にあってな。あまりに危なっかしい奴だったから勧誘に乗ったフリをしてついて行ったんだよ。俺自身YVを知ったのはこの時が初めてで、実家近くにコレと同じマークの建物があるなぁ〜くらいにしか知らなかった。そしてその会合に行ってみると、中高生や大学生がやたらと多い事にびっくりした。その中にちょっと他と雰囲気の違う女性の姿があって、それが亜由美だった。それから何度目かの会合に出た時、トラブルがあって亜由美は何人かの男に無理やり別の場所に連れて行かれるような状況に遭遇した。抵抗する亜由美はそのうちの一人に殴られて気を失った。その時、俺は飛び出してその男たちの何人かを張り倒してやつらから亜由美を引き離し背負って外に逃げ出した。暫くして気がついた亜由美から何があったのかを聞くと、会合を録音しているのがバレて捕まったという……」
「何だよ。その時録音していた理由を聞かなかったのか?」
だが何故こんな状況があって「結婚寸前まで妹がいた事を知らなかったのか」という疑問が湧いてでる。兄貴ならトラブルの内容を聞かないままというのは無いだろうから……
「もちろん聞いたさ。ただその時亜由美に言われたのが、友達がここに来てから行方知れずになったとの事だった。この状況を経験した後なら軽くありそうなシチュだろ? これはこれで本当なのかもしれないが、とにかくその時、妹がどうという話にはならなかった。まぁ、気持ちはわかるがな」
確かにそうだが最初の話を聞いてからだと何故それで納得してしまうのだろうと思ってしまう。
「それから何度か外でYVに襲われる事があって、なるべく側にいる事にしたんだよ」
「……で? いつしか付き合い出したって訳か……」
一応大筋においては理解できたが、まぁ何を言ったところでこれは前世の話である。亜由美さんが埼玉の大学に行った理由がわかったに過ぎない。
「ん? それでその……この世界での亜由美さんの妹さんは?」
「ああ、健在だよ。何度かあった事もあるし、彼女も東大 理Ⅲを目指しているって言ってたよ」
俺はホッと胸を撫で下ろした。紗季は起こる原因を潰しても他の要因で起こり回避できないことはあるかもしれないといっていた。でも亜由美さんの妹はそうはならないようだ。俺はさらに残ったフレンチトーストを口に放り込むと、コーヒーで流し込んだ。
「さてと…… そろそろ出ようか。兄貴本屋いくんだろ?」
「ああ。ちょっと買いたい本もあるしな…… 卓也も買いたい物あるのか?」
そう言われちょっと考えたところで勉と晶子の顔が思い浮かんだ。
「ああ。実は勉がさ……」
俺は勉と晶子が羽川学園を受験する事を話すと驚きながらも感心していた。
「女の子を追いかけて中学受験するなんて今時って感じだねぇ〜 でもそれなら田嶋さんの護衛にもなるし安心だな」
「まぁな。そのつもりもあって勧めたんだけどな」
俺は新宿の本屋で羽川学園の過去問を二部購入した。もちろん晶子と勉の分だ。まぁ、晶子は大丈夫かとは思うが、勉はこれから一年間みっちりと勉強しなければならない。現在勉の成績は学校で真ん中といったところだ。この状態で模試を受ければ恐らく偏差値40もいかないだろう。羽川学園はおよそ偏差値65…… たった一年でこの差を埋めなければならないのだ。
……とはいえ勝算が無いわけではない。羽川学園は中学にしては珍しく自己推薦枠があり、算数の試験プラスなんらかの得意分野アピールで受験する事ができる。俺は勉の算数力を高めつつ、空手の全国大会で成績を残して受験に使おうとしている。
(完璧な計画!! 俺って塾講師にも向いてるんじゃね?)
その後本屋を出た俺たちは、明美、田嶋姉妹、勉へのお土産を購入して亜由美さんの待つアパートへと帰宅した。そこで今日も亜由美さんの手料理をいただいた。外は寒いし、せっかく三人いるからと鍋物を作ってくれていた。三人は卓を囲んで食べ始める。
「やっぱり、寒い日は鍋ですよね。太一さんと二人だけだと、鍋物しようとは思わなくて……」
亜由美さんは鍋を取り分けて俺の前に出してくれた。
「はい、すごく美味しいです。そういえば大学って結構休み長いんですよね。亜由美さんは何処か行ったりしないんですか?」
「ええ、行きますよ。年末に妹と長野の祖父の家に行こうかと思ってます」
亜由美さんは嬉しそうにそう答える。その途端昼間の兄貴の話を思い出し、今あるこの状況にホッとした。
「兄さんは実家帰らないのか?」
お椀に盛られたスープをすすっていた兄貴は顔をあげる。
「ああ、大晦日に帰るぞ。休み明け試験あるから年明け三日にこっちに戻るがな……」
そういうと再びお椀を啜り始める。
今日もそんな穏やかな時間を過ごした。亜由美さんはこの日アパートに泊まって、翌日俺を見送ってくれた。こういうキチッとしたところが実に亜由美さんらしい。そして夕方頃 二日ぶりに実家へと帰ってきた。
昭和六十年十二月三十一日 火曜日
大晦日。
この世界に転生してずっと懸念していた最初の年が終わろうとしている。多少のいざこざはあったものの田島姉妹はなんとかYVから離れられ、勉と晶子は予定よりも早く付き合い始めた。あの一件のあと入院していた田嶋姉妹は二十八日に退院して、俺の隣にある元兄貴の部屋で暮らし始めた。同年代の女の子と同居ということで何かと気を使うことはあるものの、三日経って少しずつこの生活にも慣れだしている。俺って意外と適応力あるのかもしれない。いや、この三日の間にうちの両親と打ち解け仲良くやっている両親や田嶋姉妹の方が適応力は上か…… とにかくあと一年ちょっとこの生活を楽みながら過ごすこととしよう。
あとはあれだ、勉宅にあると思われるYVの秘密文書を見つけ出してYVを潰せば、何の心配も無く勉の受験勉強に打ち込めるというものだ。
その勉は現在、俺の部屋のちゃぶ台で受験勉強真っ最中だ。今朝朝飯を食い終えホッとしているときに玄関の呼び鈴がなり、出てみるとそこには勉の姿があった。東京の土産と一緒に渡した羽川学園の過去問をやってみたらサッパリわからないと泣きついてきたのだ。晶子にも同じものを渡したが、彼女からは今のところ何の反応もない。勉は学年で真ん中程度の成績。都市部の方でも中学受験に挑むのは成績上位三分の一くらいだが、そんな人たちが凌ぎを削る受験では、学校では上位でも模試では下から数えた方が早いということが普通におこりえる。しかも羽川学園はどちらかと言えば難関校に分類される。勉の学力でこの問題を解くのは相当難しいだろう。とりあえず俺はこれまで習ってきたところで怪しいところを見つけだして潰し、三月までに習っていない所も含め小学校算数を終わらせる計画をたてた。そして俺は勉の勉強を見ながら本を読み始めた。
「タクー、これ習ってないよ。さっぱりわかんねー」
読んでいる本から顔をあげ、勉が指し示す問題をみた。
「その問題は学校で習わないからな。鶴亀算、和差算、旅人算とか、その辺は受験算数特有の問題だ」
「鶴亀? わさ?」
勉の頭の上にはいくつも疑問符が浮かんでいるのが見える。
「鶴亀てのはさ、鶴の足は二本で、亀の足は四本だろ。それと鶴亀合わせた数と足の数がわかれば、それぞれ何匹いるかわかるという計算法だ。方程式を習っていない小学生ならではの計算法だな」
「そうなのか……」
「考え方は単純なんだが、使いこなすのがちょっと難しい。念のため並行して連立方程式くらいまでは使えるようにしていた方がいいかもしれないな」
そういうと勉は俺の言っている事が理解できなかったのか、黙って再び机の上の問題集に視線を戻してまた唸っている。
「がんばれ! 晶子ちゃんとのラブコメ路線を目指すんだろ」
「だから、コメじゃねぇし……」
恐らく晶子も隣の部屋で羽川受験に向けた勉強をしていることだろう。時々陽子に勉強を教えているような声が聞こえるが、今日は朝食後から姿を見ていない。
「そういえばつっとは今夜初詣は行かないのか?」
「うーん…… どうしようかなぁ……」
勉は顔も上げずに答えた。いまいち乗り気でないらしい。まぁ寒いし無理もない。
「晶子ちゃん達、初詣なんか行ったことないだろうから、明美も誘って連れて行こうかと思ってたんだけど……」
「うーん、それなら俺も行こうかな……」
仕方なく感が伝わってくる返事だがよしとしておこう。
仮に明美が都合悪かったりすると、田嶋姉妹と三人で行く事になってしまう。陽子がいるとはいえ彼氏のいる晶子と行くというのは後ろめたさを感じてしまうのだ。
「わかった。じゃあ夜の十二時、うちの前集合ってことで……」
「ああ、わかった」
勉はテキストの問題を解きながら答えた。
「ああ、あと夕方兄貴が帰ってくるんだよ。明日の午前中庭で組手練習してるから、暇ならこないか?」
「いく!」
(こっちは即答かよ)
「じゃあとっとと勉強済ませようぜ。どうせ冬休みの宿題も終わってないんだろう?」
俺は本に目を戻しながらいった。それからカツカツと紙の上を鉛筆を走らせる音だけが部屋に響いている。隣の部屋からも殆ど物音がしないまま時間が過ぎていった。時計が十二時になろうとしていた頃……
「ふぅ、何とか書けた……」
勉は大きなため息と共に顔をあげ、腕を上げて伸びをした。
「おつかれー 丸つけして、後で俺が解説するよ」
「まじ? タク、お前あれ普通に解けんの?」
「まぁな。俺数学得意だし…… あれくらいなら即興で解説もできるぜ」
「数学?」
とっさに出た言葉に勉は疑問をいだいた。多くの大人はそうかもしれないが、どうも算数というワードがとっさに出ない。そんな時階段の下から昼食と呼ぶ母の声が聞こえてきた。そして隣の部屋から「はーい!」という返事がして部屋の戸を開ける音がした。
「ああ、もう昼か…… じゃあ俺帰るわ。さっきの問題は次ん時頼むわ」
そう言って勉は持ってきた勉強道具をカバンに片付けた。部屋を出る勉の後ろをたって階段を降りると、そこに母が立っていた。
「おじゃましました」
「あら、昼ごはん食べて行かない? 勉くんの分も用意してるわよ」
母はそうすすめてきた。
「ありがとうございます。じゃあ、いただきます」
「どうぞ。茶の間に晶子ちゃんたちもいるわよ」
俺たちは茶の間に入るとすでに晶子と陽子は席にについていた。テーブルの上には天ぷら蕎麦がのっている。
「あっ、勉くん。どう? 勉強はかどってる?」
晶子は勉の顔をみるなりそう聞いてきた。
「うん、まあまあかな?」
「どこが!」と、とっさにツッコミを入れたくなったが、二人の会話に水を差すのも悪いのでグッとこらえる。
「そういや、晶子ちゃんは羽川の過去問どう? 解けてる?」
「うん…… だいたいは解けるんだけど、算数がちょっと難しいね……」
晶子は渋そうな表情をうかべそういうと、すかさず勉は口を挟んだ。
「ほらぁ! あんな問題小学生で解ける奴なんかそうそういないって!! タクは即興で解説できるっていうんだぜ」
勉は力一杯力説した。
「いやいや、あれは中学受験の問題だぞ。小学生が解かなくて誰が解くんだよ」
「グゥ……」
「グゥ」の音もでないとはよく言うが、勉は「グゥ」の音は出るようだ。
「じゃあ、午後から俺が解説するよ。人に教えるのってあんまり得意じゃ無いけど…… 晶子ちゃんもどう?」
「いいの? ……じゃあ、お願いしようかな」
そして四人はテーブルに出されている蕎麦を食べ始めた。
「蕎麦食べてると大晦日って感じするな……」
勉はしみじみというと、
「私は年越し蕎麦って初めてだよ。テレビの中の世界だけかと思ってた」
と晶子は続けた。
「そういう意味では、うちはおせちがそうだな。テレビで見るような重箱に入ったおせちって有馬家では見たことないかも……」
うちはなますや昆布巻き、数の子豆は一応作るものの、普通の料理と同じように皿に盛り付けるだけだ。もっともおせちの定番メニューにそれほど魅力を感じないので、残念とも思った事がない。
「あっ、そうだ。晶子ちゃん、今夜明美を誘って初詣に行こうかと思っているんだけどどうかな?」
「わぁ、行ってみたい! 陽子も行きたいでしょ?」
「うん。これもテレビでしかみた事ないよね。お姉ちゃん」
黙って蕎麦を食べていた陽子は、晶子の問いかけに答える。
「じゃあ、陽子も明るいうちに冬休みの宿題しときなよ」
「わかった。夜が楽しみだよ」
陽子は嬉しそうにはしゃいでいる。
もう半年くらい田嶋姉妹と行動を共にしているが、こんな姉妹らしい会話を聞いたのは初めてかもしれない。みんなの丼はいつのまにか空になっていた。俺は丼を集め流しに持って行く。みんなは二階へ上がり、勉と晶子は俺の部屋へ入った。陽子は隣の部屋で自分の宿題をするようだ。
テーブルの真ん中に午前中勉が解いていた問題を広げ、勉と晶子は並んでそれを見る。俺はその対面に座ると俺が問題文を読み上げた。
この問題は池の周りをA B二人が同じ方向に歩いて行き、一方がもう一方に追いつくのは何分後?
「晶子ちゃんこの問題解けた?」
晶子は首を振った。
「旅人算使うんだとは思うけど……」
自分で羽川に入りたいというだけあって、晶子は受験算数については知識があるようだ。でも晶子の算数力もさほど高くは無いように思える。
「これはねAとBの遅い方から見て、速い方が……」
俺は時折二人に解説を入れながら演習を行い、二人の様子を確認する。二人とも公式にあてはめる事に頭がいっぱいになってしまい、本質的な部分がわかっていないような感じだ。約三時間算数の問題をやって、だいぶ日が傾いてきたような薄暗さになっていた。
「あっ!」
晶子は思い出したかのように声を発した。
「おばさま、今日は餅をつくらしいから、私手伝ってくるよ」
そう言って部屋を出ようとする。居候しているからそういったことに気を使っているのか、台所で晶子をみかける事がよくある。
「ああ、だったら俺も帰るわ。うちも餅にするって言ってたしよ」
そういうとテーブルの上の問題集を鞄に入れた。いまいち勉が家の手伝いをする姿を想像できないのだが、勉が台所に立っている姿を思い浮かべるととちょっと微笑ましく思えてくる。まぁ、何にせよ今日の勉強はお開きだ。三人が揃って階段を降りていく。台所からは餅米を蒸した匂いがして、いやがおうにも年末らしさを感じてしまう。晶子は勉に「あとでね!」とだけ言って台所に入っていく。俺は勉を見送るため外にでた。家の中の様子とは裏腹に、外は雪ひとつなく明日から正月だという気がまるでしない。しかし雪があったらあったで雪掃きをしなければならなくなるので、俺にとっては無い方がありがたい。陽が大分落ち薄暗くなって冬の寒さを感じる。勉はジャンパーのチャックも閉めずにポケットに手を突っ込んで道路へとでた。
「じゃあ今夜!」
そう言って駆け足で家に向かおうとする勉。
「つっと! ちょっと待って!」
俺は半駆けの勉に声をかけると、数歩進んだところで足を止めて振り向いた。立ち止まった勉に駆け寄って小声で話かけた。
「つっと、こっからちっちゃい声で話せよ」
「ん? あ、ああ……」
勉はよくわからないまま、俺の言ったことに同意した。さっきまでと違った固い表情に気づいての事だろう。勉は頭を俺に近づけた。
「この前の事もあるから家の中で話せなかったんだけどな、先日YVの施設で見つかった死体。その人からお前のお父さんが書類のようなものを預かっていたようなんだ。そして恐らく奴らはそれを探している」
「えっ、でもうちの父さんはYVの反対運動とかに参加してないぜ?」
「だからだよ。だからYVのマークがないと思って預けたんだ」
勉は複雑そうな表情を浮かべて考えている。
「でな。奴らがそれを探すのにてこずるようだと、その書類を消すために家に火を付けたり強行手段に出かねない。下手すりゃつっとのお父さんを殺そうとするかもしれない」
「なっ……」
想像もしていなかった事に勉の言葉が詰まった。
「いや、その可能性もあるという事だ。だからそのつもりで警戒してほしい。そして出来るだけ早く奴らとの決着をつけたい」
あまりにびっくりした反応をしたのでとっさに補足を加えると勉は黙ってうなずく。
「……で、俺は何をすればいいんだ?」
「まず、お前の家族がみんないない日ってないか? できればまるっと一日……」
「うーん…… そうだな。三日ならみんな年始に出ているな」
「よし、それじゃその日にしよう」
「??」
勉は何の説明もないまま、「その日にする」と言われ困惑している。
「詳しい話は明日にでもするから、とにかく勉は三日の日は空けておいてくれ。どこで誰が見ているかわからないから、ごく自然に振舞ってな」
そういうとうなずいて俺に手を振って家へと帰っていった。普段そんな事しない勉が、自然さを出す為にそんなことをすると、あまりにもわざとらしくて笑えてくる。
俺は「ちょっと」のつもりで薄着のまま外に出てきたせいで体が冷え切った。俺はブルッと体を震わせるとポケットに手を突っ込んで玄関を開けて家に入る。台所からは餅つき機のゴーッという音が聞こえ、もち米の匂いが鼻に伝わる。そっと台所を覗くと猫柄のエプロンをつけた晶子が、雑煮の材料を刻んでいる。その姿はとても可愛らしい。
(こんな姿をつっとが見たら『ズキューン』とくるんだろうな。見せてやれないのが残念だ)
実際、ちょっと前の晶子からこんな家庭的な姿を誰も想像できなかっただろう。俺はそっとその場から離れ自室のある二階へと上がった。そういえばさっきから隣の部屋がやけに静かなのが気になる。俺は自室の隣のふすまをノックして、そっとふすまを開く。その隙間から中を覗くと、陽子はテーブルに宿題のテキストを開いて、その上に頭をのせて寝息を立てている。陽子のこんな穏やかな顔も晶子同様想像できなかった。安堵のため息を吐くと再びふすまを閉め自室に入った。