はしかのような恋心
顔も知らないような頃から決められていた婚約だ。
愛だとか恋だとか、わたしの意志はそこにはなかった。
でも。
「リゼット、今日限りでお前との婚約は破棄する」
彼にそう告げられた時、その言葉にショックを受けた自分に気がついた。
そして、自分で思っていたよりも彼のことが好きだったんだと、きがついた。
でも今となっては、彼に対して恋だとか愛だとか、そんな感情があったかどうかわからなくなってしまった。
◇ ◇
「どうして?」
わたしは彼に問いかけた。
声が震えないようにしたのはせめてもの意地だけれど、でも、上手く出来ていなかったかも知れない。
「お前が悪いわけではないけれど」
そんな言葉が聞きたいわけではない。
「婚約だって、単なる口約束みたいなものだろう。正式に調印されているわけじゃない。それに、俺たち、そんなにお互いのことを想っているわけじゃないだろ。」
そうだろうか。
そうかもしれない。
いまこの時、彼に対して何も言えないのだから。
彼が髪をかき上げて、わたしの目をまっすぐに見つめてくる。
そんな仕草も、憎らしいほどに様になっていて、自信にあふれている。
でも、彼がいつも自信があるように見せているのは、自分に自信がないことの裏返しだ。本当は、そういう時、彼は決まって後ろめたいことを話す。
「そっちの方がお互いに幸せだろう?」
結局、わたしの考えも気持ちも、なにも伝わってはいない。
彼はわたしの好きなものを1つでも言えるだろうか?
苦手なことを知っているだろうか。
わたしがいま、どう思っているか理解しているのだろうか。
確かに、彼が言うように、わたしたちの婚約はお互いの親が交わした、単なる口約束ていどのものだ。
だからそれが守られなかったとしても、いかほどの罪があろうと言うのか。そんなものは、結局、どれだけ相手に誠実か、と言うだけのことだとわたしは思う。
「………」
「言いたいことは、わかったわ」
「そうか、わかってくれたか」
彼が、ホッとしたように顔をほころばせる。
わたしはまだ、わかったとしか言っていないのだが、彼の中では既に決着がついたことになったのだろうか。
都合よく解釈したものだ。
彼が、……ウォルフがこんな愚かなことを言う理由は、なんてことはない、アリスのためだろう。
たった一人でわたしに告げに来たのは、ウォルフなりの誠意なのだろう。
バカバカしい。
いったい、だれに対するどんな誠意だと言うつもりなのだろうか。
言われる前から、気が付いていた。
ウォルフがアリスに惹かれていることも、わたしとの関係を煩わしく思い始めていることも。
でも。
わたしは期待していのかもしれない、ウォルフのいう、ただの口約束に。
でもウォルフはそうは思っていなかったようだ。
「………」
なんだ、わたしだって彼のことをよく知りもしないじゃないか。
悲しいのか笑いたいのか、なんだかわからなくなってしまった。
なんてことはない、それだけのこと。
だから、わたしは、自分の胸の痛みに気が付かないふりをした。
「ええ、よく、わかりました。その代わり──」
◇ ◇
扉を叩く音がしたので、わたしはその客人を招き入れた。
「やあ、ちょっと確かめたいことがあって来たんだけど、じゃまだったかな? 荷造りかい?」
金髪碧眼の少年の名前は、ロビンと言う。
わたしとウォルフの友達だ。
「いいえ。もうあらかた済んだところよ」
言葉の通り、わたしの学園にあるわたしの部屋は、既にほとんど荷物が片付けられていた。
「ふうん、と言うことは、あの噂は本当なのかな?」
「どの噂の事かしら」
「君がウォルフのことを振ったという噂さ」
「それなら間違いないわ」
わたしの返答を聞いて、ロビンはちょっと眉をひそめた。
「君がウォルフを振ったね。逆ではなく?」
「いいえ、間違いありません。わたしがウォルフを振ったのです」
「それはまたどうして?」
「ロビンなら、こういう時、振ったと噂されたい? 振られたと噂されたい?」
「あぁ」
と納得した様子をみせた。
「ご理解いただけたようで」
「まあねえ。と言うことは噂の出どころは君自身か。どうりで巡りが早いと思った」
わたしは笑った。
「それで、そのようなことを聞きに来たのではないのでしょう?」
「考え直すつもりはないかい?」
「なにを?」
「アイツとのことについて」
「嫌」
わたしはロビンの頼みを一言で断った。
なにを言い出すかと思えば。
「あいつは、初めて恋みたいなものをしてさ、ちょっと浮かれているんだよ。はしかみたいなもんだ。誰でも一度は通る道さ」
「それはロビンも?」
「………」
わたしの問いに、ロビンは答えなかった。
ズルい人だ。
はしかのような恋心か。
確かに熱病におかされたようなものだろう。
「決意は固いようだ。まあ仕方ないか。それで、これからどうするの? 家に帰るのかい? もったいない」
「ではロビンがもらってくれますか? ロビンなら、父さまも納得するでしょうね」
「はは、僕には愛するミーアがいるから、それは無理」
と、少しも悩むそぶりもなくロビンはその提案を断った。
まあ、そんなものだろう。
わたしを説得できないとわかって、ロビンは部屋を後にした。
最後に、こんな言葉を残して。
「いま君にこんなことを言うのは残酷かもしれないけれど、言っておくよ。リゼット、どうか幸せにね」
幸せって、なんだろう。
◇ ◇
「どうぞ、こちらになります」
老執事に案内され、わたしはその部屋に入った。
応接間でわたしを待っていたのは、エルメロと言う名前の、わたしより8つも年上の貴族だ。
わたしの実家よりも格式が高く、すこし緊張する。
なぜわたしがこんな所にいるのかと言えば簡単だ。
縁談のためだ。
父さまからの命令で学園から実家に戻ったあと、間を置かずにこの縁談話がわたしに舞い込んできた。
「ああ、君はもうさがっていいよ」
エルメロはそう言って、老執事を下げさせた。
すらりとした長身だが、陰気で人当たりは良くなさそうな印象を受けた。癖のある黒髪の奥から、落ちくぼんだ眼窩の双眸がわたしを覗いていて、不健康そうに顔色が悪かった。
「さて、わざわざご足労いただいた客人にこんな事を言いたくはないけれど、僕は君を歓迎しない」
開口一番そんな事を言われて、わたしは面食らった。
なんだこいつ。
「まあ、歓迎していただけないのは残念ですけど、それなら理由くらいは聞かせていただけますか?」
私の返答に、エルメロはちょっと面白そうに笑った。
「そうだね。それはそうだ。ちかごろ滅多に他人と話さなくなっていてね。ついつい不躾な言い方をしてしまう。すまなかったね」
「それは大変そうですね」
「うん。大変だ」
わたしの皮肉に、エルメロはなんてこと無いように頷く。
エルメロは、あまり面白い話じゃないけれど、と一息入れて、それから話し始めた。
「そもそも僕にはね、愛する人がいる───いや、いたんだ」
「いた、ですか」
「うん。そうなんだ。でも1年前にね、はやり病にかかって死んでしまったんだ」
大事な人がいなくなってしまったと、もの悲しそうに語るエルメロを見て、私もなぜかひどく寂寥感を覚えた。
「……大切な人だったんですね」
「ああ。僕は彼女を愛していたけれど、彼女との間に子をなせなかった。まあ、だから今現在、僕には後継ぎがいないわけだ」
「だからこその、この縁談でしょう?」
「僕としてはそんな気持ちになれないんだけれど、節介やきの友人がいてね、口車に乗せられたと言うかなんと言うか、気の迷いと言うか、そそのかされて。ほら、気の置けない友達ってのは貴重だし、大切にしないとね。特に、こんな年になるとね」
「……友人」
「君の父親のことだ」
「は?」
一瞬、エルメロに何を言われているかわからなかった。
「意外かな?」
「え、ええ。正直に言えば、すごく。父と貴方では年齢も違いますし」
「年が離れていると、友達ではいけないかい?」
「いけないと言う事はないですが」
「ではなにも問題はないね」
そうだろうか。
「まあ、わかりました」
「うん」
それで、とエルメロが続ける。
「まあ会うだけあってもいいかなって思ったんだけど」
「それで開口一番、あれですか」
私の反応に、エルメロは言い訳がましく慌てて言葉を付け足す。
「君だってこんな年の離れた男は嫌だろう? 嫁いだっていいことない。まあ、縁談なんてそんなもんだって言われたらそれはそうだけれど」
確かにエルメロの言う通りかも知れないが。
それはなんというか。
「夢がない話ですね」
「そう、と言うことは現実的と言う事だ」
「面白味がないってことです」
「現実はつまらない?」
「愉快ではありません」
喋っていて不愉快な気持ちになってしまい、知らずぶっきらぼうな答え方になってしまった。
だから、気持ちを切り替えるようにしてわたしはエルメロに告げた。
「わたしは構わないわ、貴方との婚姻」
「本気?」
「冗談でこんなこと言わないわ」
「ははあ、君、さてはあれだね。やけばちになってる?」
「失礼ね。そんなことないわ」
「実はね、君の父親から君のことについてある程度聞いているんだよ」
「ふうん、なにを?」
「君と君の王子さまについてのアレコレ」
王子様というのはウォルフのことだろうが、ウォルフは王族ではないのでもちろん比喩的な意味だろう。
「あのね、わたしはもう白馬の王子様を信じるような年じゃない」
かつてわたしはウォルフに期待していた。
でも、期待していただけだ。
それじゃダメなのだ。
「父さまとの話はついてるんでしょう? だから、しばらくここに厄介になるわ」
わたしは笑った。
「まさか無下にしたりしないわよね」
「まいったな。父親に似たのかね」
「それは光栄ね」
エルメロは肩をすくめた。
「貴方の考えを変えてみせるわ」
「ああ、まあ、好きにするといいよ。期待してないけど」
「そう。好きにするわ」
好きになるように。
なんとなくだが、エルメロとはうまくやっていけそうだ、とわたしは思った。
いや、うまくやっていくのだ。
◇ ◇
「そう言えば、君は知らないだろうから、君の王子様のその後について知りたいと思わない?」
「いいえ」
わたしの返答が意外だったようで、エルメロは首を傾げた。
「ウォルフがどうなったかなんて、興味ないわ。例えこの先、ウォルフが破滅しようが成功しようがどうでもいいわ」
だって、わたしにとってウォルフはもう過ぎ去ってしまった過去なのだから。
でも一時の感情でわがままを通すような人間だ。
ロビンは誰もが通る道だと言ったけれど、通り方しだいではタダではすまないだろう。
それは、はしかのような恋心。