朝田時彦の人生年表
これないと多分話が理解できないので載せます。
産まれる
生家は、剣道の家で、母はお針子さん。
小中高までは普通。防衛大に入り、そのまま自衛隊に入隊
二十二歳、防衛大学校卒になり、幹部候補生となり、しごかれる
二十三歳、候補生を卒業後、航空自衛官の航空機パイロットの試験を当たり前のように通過。そして訓練漬けになったのだが、何故かケロリとしていた。そして戦闘機パイロットになったが、アグレッサー部隊を前に新人とは思えない動きで翻弄。最終的には数の暴力で負けたが、それでも周りからはアイツは別枠とまで言われるようになった。そしてなんとか扱きたい上司からレンジャー行ってみる?と言われて快諾し、周りのレンジャー訓練生を時には応援し、時には煽りながら引っ張った結果、何故かレンジャーも獲得。そして仕方がないから米軍との模擬空戦にぶつけたらなんかF-22をF-15EJでしかも一対二なのに勝ってしまい、送り出した日本側も当てられた米国側も「そうはならんやろ」と口を揃えてしまった。そしてコレが米軍上層部の目に留まり、米軍に派遣。その後、戦争に参加。そして、強すぎたのが災いし、FBIにGO。
二十九歳、内閣総理大臣となる。そして、男女比一対一の内閣を組閣。そして、長期的な目標を見据えた防衛戦略、経済政策を打ち立て、短期的な行動も行い、一時は不支持が圧倒的に上回り、不信任決議も提出されたが、朝田の粘り強い説明や行動によって最終的に支持率は80%を超えた。
34歳、元自衛隊隊員であったことが発覚。文民統制の破壊の象徴とされた。不信任の根拠にもなった。しかし、決議前に辞任。名誉を保ったまま、政界から姿を消した。
その後、職人として腕を研く。
朝田のかごを結成。
四十歳、いきなり、衆議院選挙に立候補、そのまま当選。そして総理に。そして五年後、辞任。この五年間は、新世紀の朝と呼ばれている。
四十二歳、株式会社零れ落ちた水を設立。なお、株式は100%朝田が保有。
事業内容は、軌道エレベーターの運用や、精密機械の部品などの、非常に高度な技術や精度を必要とする品の製造、又は、第三者による品質保証を行う会社となっている。
四十七歳、国連事務総長に就任。
七十二歳、死亡。