人間の頭の中
人間の頭の中を見てみると、人間について深く知ることができます。
人間の頭の中に興味があった私は、子供の頃から数え切れないほど解剖してきました。
そして絶望して、人間が嫌いになりました。
せっかくなので、人間の頭の中の仕組みについて書いておきます。
■ 多数者に同調する性質
第一は、やはりこれですね。
みんなに叩かれないような方向性の意見を言いますよね。
そして内面的にも、みんなに叩かれないような方向性の考えや感情へ流れる。
安全策ですよね、保身のための。
馬鹿なんじゃないですかね。
わずかな自我もないし、倫理的な責任感もないってことですからね。
特に、誰かが悪者にされているときに、同調して悪者にするのが見苦しい。
石を投げられている者を見て、自分も石を投げるというか。
数によって正当化されると、相手の痛みへの共感は消滅するんですよ。
つまり大衆にとっての倫理的な正しさって、政治的な安全地帯の言い換えでしかない。
そして風向きが変わって、自分が虐げられる側に回ると、かつて自分が行った罪など忘れて悲鳴を上げます。
自分が他人に対して平然として行っていた残酷さを、自分に向けられたら、ひどいひどいって泣き喚くって。
それって、頭悪い感じですよね。
■ 権力に媚びる性質
上で、「多数者に同調する性質」について触れました。
それは、人間社会において原則として、数が力だからですよ。
数以上の力があるとき、人は平然と、権力に寄り添い、多数の人間を残酷に虐げます。
大企業だって、自然界の猿山と変わらないってことですよ。
そして、地位よりも普遍的な権力として、お金があります。
相手が持っているお金によって軽薄に態度をひるがえす人。
経済的な成功者には敬意を感じ、貧しい他者の尊厳は軽視する人。
ほとんどの人間には、多かれ少なかれ、そんな卑しい性質があります。
まあ、権力に媚びることまでは、処世術として正当化できるのですが。
権力に沿った言論をなし、ひいては権力に沿った思考をなすところが、人の人たる由縁でしょう。
つまりコピペでしか思考していない。
その人の存在そのものが、受け売りだってことです。
自分の頭で考えてないし、一生考えない。
その人にとって、吐く言葉も、内なる思考や感情も、それ以上ではなくて、そのことに満足している。
ただ、能力が低いこと自体は、少しも罪ではありません。
フェアな議論や思考などしていないのに、フェアな議論や思考をしたかのように、社会的正当性を自覚して、利己性や他者への残酷性に転換するところがアウトなのです。
人間が愚かであることは、そのような反社会性をもたらしますから、結局は、能力が低いこと自体が罪のようにはなってしまいます。
■ 意見を言わない性質
最悪なのは、意見を言わない性質。
矢面に立ちたくないからって、意見を言わない人って多いですよね。
本当に孤高の世捨て人ならいいですけど、リスクは避けるけど与えられるものは得る人がほとんどです。
腹の内では他者に否定的な考えも持っていて、誰かが否定的な意見を言ったときに、リラックスして笑ったり。
保身を優先する人ほど倫理観はないわけですから、いじめっ子の主犯にはならなくても、派閥に属してそれを手伝ったり、結局は一番残酷なわけです。
でもそういう人ほど、謙虚な善人を自覚してますから、最悪というわけです。
自分はこう思うとか、自分はこう考えると表明することは、社会の一員としての基本的な社会性の一部ですよ。
そのような意見が調整された集まりが、社会の運営なのですから。
風当たりを恐れて責任逃れをすることの罪が自覚できないなら、社会的な思考能力の不足です。
極端には、共産党員やキリスト教徒や同性愛者がいたとして、その人それぞれの尊厳をまずは尊重する多様性への寛容が、人の世の目指すところです。
まあ、議論を避けていれば、頭いいつもりでいられますからね。
なぜかワンランク上のつもりでいる並以下の人ってたくさんいます。
■ ポジションで贔屓する性質
政治的な論点については、例えば左翼や右翼なんていうポジションの分類があります。
この人の意見はつまり左翼だからダメだなと考える右翼とか、この人の意見はつまり右翼だからダメだなと考える左翼とかがいます。
なぜ、異なる派閥の全員が自分より愚かだと思えるのか、謎です。
相手の短所を見て見下そうとするのではなく、相手の長所を見て学び取ろうとしましょう。
それができないということは、何かを学ぼうとしているのではなく、誰かを蔑んで自尊心を慰めようとしているので、脳が老化して凝り固まってます。
愚かな人ほど、ごく幼い時から、そういったレッテル貼りで思考することに収束していってしまいます。
親米派とか親中派とかでもそうですね。
派閥で贔屓して、他者の知性を歪めて測ってしまう性質が人間の脳にはあります。
自分に近い派閥に属しているかどうかを見て他者の知性の価値を測るのではなく、客観的で公正で論理的な議論ができているかどうかを見て、他者の知性を測りましょう。
だって、事実を軽視したら、主観的な宗教論争になってしまって、客観的な倫理的正当性を失うでしょう。
自分のことを肯定してくれる人がいたって、何も理解していなくて、状況が変われば手の平を返す人かもしれないし、対極のポジションに立っている人だって、世の中の議論全体のためには社会に貢献しているかもしれませんよね。
ポジションで贔屓してしまっては、それだけで議論は破綻します。
だから、少しでもポジションで贔屓する人は、客観的な価値のない脳の人ということになってしまいます。
生命界は競争ですから、派閥や贔屓はありますが、敵を過小評価する虚言はともかく、本心の認知まで歪んでいたらアウトだということです。
■ 優れた者が勝つと思う性質
頭悪い人ほど、知的能力の自己肯定感に不安があるのか、他者の知性を根拠なく見下そうとします。
特に、政治的な敗者が後世、馬鹿と言われたりする。
実際には、有名になれる人や、地位を得る人は、ほとんどの人より賢いですから、どうという実績のない人が見下して侮辱しても、変ですよね。
馬鹿な判断をしたから負けたとか、馬鹿な判断をしたから死んだとか言われるほとんどは、賢かったけど偶然負けたとか、賢かったけど偶然死んだとかです。
要するに、単純な抽象化をして安心感を増加したいわけです。
でも、名誉を誹謗して、不当に犠牲者を生むのですから、そんな歪曲はアウトです。
他人の名誉を犠牲にしてでも自尊心を高めたい、っていう卑しい脳の回路が露出しちゃっている恥ずかしさが自覚できていない頭の悪さがアウトです。
常に人類は進歩しているっていう、明るい世界観を持ちたがるのです。
そのために、技術的な進歩と、幸福の増加を混同してしまう。
計量しやすい物質的な豊かさの陰で、計量しにくい精神的な豊かさを軽視してしまう。
だから、競争の敗者には愚劣の烙印が押される。
失敗とされたことの責任は、悪役とされた者のもとに集約される。
フェアで自業自得だという世界観が誇張されて、実在する残忍が正当化されてしまう。
■ 性格を単純化して認知する性質
総じて、人間には、他者の知的能力を任意に過小評価する性質があります。
自分よりずっと賢い人を、自分よりずっと愚かな人として認知することが、どんな愚かな人でも簡単にできるように、脳の回路はできているのです。
魔法みたいですね。
そしてそれは、多数者や権力に同調したり、保身第一に生きて、なおかつ自尊心を決して傷つけないよう事実を歪めて認知するときに起こります。
そのとき、人々が何よりも愛するのは、わかりやすい説明。
例えば、性格的な欠陥とか。
つまり、納得感のある自己正当化が求められるのです。
それが、人気のある言葉となり、やがて社会的な通念や正義となる。
でもその、納得感のある自己正当化は、本人より賢い人から客観的に見られたならば、かなり恥ずかしいものになります。
だって、自分の自尊心が傷つくことを恐れて、自分の認知を捻じ曲げ、結果的に客観的な言論を阻害して、他人の幸せを間接的に犠牲にしてしまってますからね。
その卑しく愚かな自分の心を自覚できない頭の悪さが、解剖された脳においては明らかに露見してしまうのです。
■ まとめ
まあ、人間の悪口はこれくらいでいいでしょう。
悪口を言ったところで、悪口を言う理由を言いましょう。
人間には知性があって、地上には人間がたくさんいます。
そして社会を形成しているのですから、知性は協調して発揮されるものと期待されます。
しかし実際にはそうはならず、生産性は著しく制約されます。
なぜなら、人間の脳には、フェアに議論する能力はないからです。
それぞれの個体には、認知する能力や思考する能力があります。
そしてその情報や考察は、言葉によってやり取りされます。
もし全員が、限りなく正直かつ誠実に言葉を使ったならば、人数に相関して飛躍的な生産性が得られます。
しかし各々の立場によって言論はねじ曲がり、そもそも内心の認知や思考すら歪曲されるので、人と人との間で言葉が本当に伝わることはありません。
各々が、自らの利益に合理的に議論を歪曲したならば、それは処世術として肯定されます。
ですが実際には、生物学的な限界によって本能的に認知バイアスが生じてしまっているだけであり、協調によって得られたはずの利益を大きく逸失しています。
そしてそのことが、人という種の限界です。
その限界を見定めるために、こうして、人間の頭の中を見てみる必要がありました。
結果的に、悪口みたいな感じにはなりましたが。
悪口そのものが言いたかったわけではないというわけです。
歴史的な言論は世界的な権力や権威によってコントロールされてきたし、そのコントロールに対して、民衆が行う考察や議論はいつだって完全に無力でした。
歴史を公正に評価したいと思う人がいたとしても、フェアに分布する史料はありえないし、少数者がたどり着いた事実に何の力も宿りえません。
ですから、人間の頭の中を見てしまった人には、絶望する権利はあります。