姫
以前とはユーザーネームを変更していますが、中の人は同じです。
姫。
ひめ。お姫さまです。王様の娘や偉い人のご令嬢など、高貴な女性のことです。英語で言うところの、プリンセスの訳語で、「なろう」の異世界恋愛もの、あるいはハイファンタジーものなどでは、必ずと言ってもいいくらい、登場しますね。
姫騎士……姫なのに騎士やってて、オークに捕まって「くっころ」って言うそうですが、オークと言えば木材しか知らなかった私にとっては、全く未知との遭遇でした。女騎士と姫騎士ってのは違うんですか? 身分? 年齢? ジャンヌ・ダルクは十代だから年齢はクリアしているけど、農民の娘だからダメとか、そういうんでしょうか?
というわけで、今回は中国古典学から見る、「姫」です。
いや、姫は普通名詞であって中国古典学とか関係ないだろって?
本来の日本語の「ヒメ」、はまあまあ身分の高い女性のことで、対義語は「ヒコ」です。「小さい」「若い」「可愛らしい」みたいな意味で使用されることもあります。「ヒメリンゴ」とかですね。
「比売」、「媛」、あるは「日女」……などなどの字を当てることもあります。要するに「ヒメ」という和語に「姫」という漢字を当てているだけですね。
ちなみに、中国語では「プリンセス」の訳語は「公主」です。「白雪姫」は「白雪公主」。皇帝の娘は化粧料としてもらった領地名をつけて、「〇〇公主」(〇〇は領地名)と呼ばれます。
このほか、満州語由来で、「格格(gege)」という言葉があります。(発音は、ガーガーとゴーゴーの中間ぐらいの音)。「還珠格格」という中華ドラマがありましたが、これが日本だと、「帰ってきた真珠姫」というタイトルで放映されていました。「還(=帰ってきた)珠(=真珠)格格(=姫)」というわけですね。
現代中国の用例もそうですが、本来「姫」という漢字には、プリンセスという意味も、高貴な女性という意味もありません。日本人が、高貴な女性を意味する「ヒメ」に「姫」という漢字を当て、さらにプリンセスの訳語としても使用しているだけなんですね。
*実は、中国で使用するのは「姬」であり、「姫」とは別の字です。ですが、日本では姫の字を使用するのが慣用となってしまい、今、文字パレットで「姬」の字を入力しようとしても、見つけられませんでした。日本語の環境で「姬」の字を入力するのは大変面倒くさく、環境によっては表示されないかもしれません。ですから、このエッセイでは「姫」の字で通すことにします。
もともと、「姫」は中国の古代、周王朝の王室の姓、のことです。
「姓」というのは、同一の祖先から出た血縁集団のことです。「姓」の構成員が増えてくると、内部の家系を区別するために、「姓」の下部集団である「氏」に分かれます。たいては領地名や官職などです。
例えば、周の武王の弟、周公旦。彼の子孫は魯に封建され、代々、魯国の君主を継承しましたので、氏としては「魯」氏を名乗ります。しかし元をたどれば周王の一族ですから、「姓」は姫姓のままです。さらに、君主の一族が分家して「公孫」氏を名乗ったり、代々世襲する官職を氏として名乗ったりしました。例えば、軍事を司る官職「司馬」を、氏として名乗った「司馬」氏などです。
中国には古代から続く、「同姓不婚」という原則があります。姓と氏の区別があいまいになり、姓という血縁集団のしばりがなくなった現在にいたるまで、姓氏を同じくする同士では基本的に結婚しません。よく、「同姓は結婚できない」という言い方をされますが、厳密に言うと少しニュアンスが違います。結果的には同じことだと言われるかもしれませんが、「結婚とは異姓同士でするもの」なのです。
夫昏禮、萬世之始也。取於異姓、所以附遠厚別也。(『礼記』郊特牲)
夫れ昏礼は、万世の始めなり。異姓より取るは、遠きに附し別に厚くする所以なり。
昏禮者。將合二姓之好、上以事宗廟、而下以繼後世也。(『礼記』昏義)
昏礼なる者は、将に二姓の好みを合し、上は以て宗廟に事え、而して下は以て後世を継がんとすればなり。
つまり、婚姻とはそもそも異なる「姓」の集団から、花嫁を迎えることでした。だから、妾にするために奴婢を買う場合、その奴婢の姓がわからない場合は占いをせよ、と経書には書いてあります。……そんな出自もはっきりしない奴婢を妾にするのは諦めたら……と現代の我々は思うのですが、まあそのくらい、古代中国において「同姓不婚」は重要なキマリでした。
ですから、女性はお嫁に行っても姓を変えたりはしません。旦那さんと別の姓であることが、その結婚が正当なものである動かぬ証拠なのです。
こういった結婚の文化も関わって、中国の古代では、女性は姓を名乗りました。どこの姓の出身であるかが重要だったからです。一方、男性はより家系が分かりやすい氏と個人名を名乗ります。ただし、本名である諱ではなく、呼び名であるところの字で呼ぶのが普通です。
*中国では、諱を呼ぶのは大変失礼なことでした。中国の皇帝の諱の文字は、その王朝が続く限り、使用できなくなります。例えば、清の乾隆帝の諱が「弘暦」なので、清代には「暦」の字を使用することができません。明に「万暦」という元号がありますが、清代に書かれた歴史書『明史』ではすべて、「万歴」に書き換えられています。
男性が氏と個人名(諱、もしくは字)、女性は姓を名乗るのは、偶然でしょうが、古代ローマ人の名乗りと同じです。
一番有名な古代ローマ人、カエサル(シーザー)を例にとりましょう。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
ガイウスが個人名、ユリウスが氏族名、カエサルが家名です。ユリウス氏族内の、カエサル家の、ガイウス。
氏族名は同じ祖先をもつ集団の名前、家名は氏族内の、個人を特定するためのものですから、氏族名は中国古代で言うところの「姓」、家名は「氏」に相当します。ユリウスが姓、カエサルが氏、ガイウスが名(諱)、というわけです。
古代ローマでは、女性は氏族名の女性形を名乗ります。ユリウス氏族の女性形は「ユリア」です。カエサルの姉も娘も養子の娘も、父方親族の女性が軒並み「ユリア」なのはこのためです。オクタヴィウス氏族の女性は全員「オクタヴィア」、クラウディウス氏族の女性は問答無用で「クラウディア」です。個人名はあったのかもしれませんが、少なくとも記録には残らない。区別する必要が生じた場合は、大とか小とか、姉妹の順番とか、夫の名前だとかをつける。要するに、どこの氏族の娘かがわかれば問題なかったのです。
女性は「姓」を名乗る、と言われてもピンと来なくても、カエサルの娘も孫もユリウス氏族だから、全員もれなく「ユリア」だよと言われれば、なんとなく理解できるのではないでしょうか。
女性が「姓」名乗る。姫姓の女性は「姫」を、姜姓の女性は「姜」を名乗ります。必要に応じて、出身国や姉妹の順序を表す「伯」「叔」、あるいは夫の諡号などを加えて区別します。宋の共公の正室は魯の伯姫ですが、夫の諡号を取って共姫とも呼ばれます。姜は太公望が封じられた斉国の姓ですから、斉国の公女は孟姜とか斉姜とか呼ばれるわけです。この時、「〇姓」と姓が後に来ます。殷の紂王を誑かした悪女・妲己は己姓、周の幽王を滅亡に追い込んだ褒姒は姒姓です。
関わる男を破滅に追い込む傾国の美女・夏姫。
真夏の太陽のような美貌と情熱で、男たちを次々に虜にするファム・ファタルだから「夏姫」――そんな風に思っていた時期が私にもありましたが、大間違いです!
彼女は鄭の穆公の娘ですから、姫姓です。陳国の大夫、夏御叔に嫁いだので、夫の氏をとって「夏姫」と呼ばれます。美女だから「姫」と呼ばれているわけでも、諸侯の娘だから「姫」でもありません。姓が「姫」なんです。
酒池肉林で有名な殷の紂王を倒し、周王朝が天下の主となると、姫姓の一族を諸侯に封建します。王室も、主だった諸侯も皆、姫姓です。江戸時代、各地の大名には徳川さんと松平さんがいっぱいだった、ちょうどあれと同じ状況です。王室と姫姓諸侯の娘は全員、〇姫を名乗っていたのですから、その時期の高貴な女性の、かなりの割合が〇姫でした。
姫姓以外の、異姓の諸侯の後宮も〇姫ばかりでした。
春秋時代、諸侯が正室を娶る際、姪(兄の娘)や妹が一緒に嫁ぐという、風習がありました。強制的姉妹丼です。嫁入りについていく同姓の女性を、「媵」と言いました。
媵者何。諸侯娶一國。則二國往媵之、以姪娣從。姪者何。兄之子也。娣者何。弟也。諸侯壹聘九女。諸侯不再娶。(『春秋公羊伝』荘公十九年)
媵なる者は何ぞ。諸侯一国より娶らば、則ち二国往きて之に媵し、姪娣を以て従わしむ。姪なる者は何ぞ。兄の子なり。娣なる者は何ぞ。弟なり。諸侯壹たびに九女を聘す。諸侯は再娶せざればなり。
【訳】諸侯がある一国から正室を娶った場合、他の二国が「媵」として側室を送る。姪とは何か。兄の娘である。娣とは何か、妹である。諸侯が一度に九人の女性を娶るのは、諸侯は再婚をしないからである。
衞人來媵共姫。禮也。凡諸侯嫁女。同姓媵之。異姓則否。(『春秋左氏伝』成公伝八年)
衞人来りて共姫に媵す。礼なり。凡そ諸侯 女を嫁がせるには、同姓之に媵し、異姓は則ち否なり。
【訳】春秋の魯国から共姫(宋の共公の夫人になる)を宋国に嫁がせるにあたり、魯の同姓である衛国が媵として公女を送ってきた、これは礼制に適っている。春秋時代の一般的なキマリとして、諸侯が公女を嫁がせる場合、同姓の国は媵として公女を派遣し、異姓の国はそれをしない。
漢文ばっかりで意味がわからないよ、というあなたのために、しつこいですがもう一度説明しましょう。これは春秋時代の魯国の歴史書、『春秋左氏伝』に書かれている、歴史的な記録と、その注釈です。
まず、魯の成公の八年(紀元前583年)、魯国(姫姓)と宋国(子姓)の縁組が整いました。すると、その年のうちに、同じ姫姓の衛国が、媵(側室)として公女を送ってきました。どうも、一旦、正室の国に入ってから、そこから嫁ぐキマリであったようです。翌、成公九年に、魯の伯姫は宋の共公のもとに無事に嫁ぎます。そのすぐあとに、晋国(姫姓)もまた媵を送ってきた。
この一連の出来事について、西晋時代の杜預という儒学者は以下のように解説しています。
古者、諸侯取適夫人及左右媵。各有姪娣、皆同姓之國、國三人、凡九女。所以廣繼嗣也。魯將嫁伯姫於宋、故衞來媵之。
古者、諸侯 適夫人及左右媵を取る。各おの姪娣有り。皆な同姓の國なり。國ごとに三人、凡そ九女。繼嗣を広める所以なり。魯 將に伯姫を宋に嫁がしめんとすれば、故に衞 來りて之に媵す。
【訳】古来、諸侯が正室を娶る場合は左媵と右媵の側室を同時に娶り、それぞれ姪と妹を従える。すべて同姓の諸国の出身で、一国ごとに三人ずつの、合計九人が同時に嫁ぐ。後継者を広めるためである。魯国はちょうど伯姫を宋国に嫁がせようとしていたので、だから同姓の衛国が媵を送ってきたのだ。
魯国(姫姓)から、正室として伯姫が宋国(子姓)に嫁ぎます。
魯国からは伯姫の外に、姪である魯A姫と妹の魯B姫がついていきます。
同じ姫姓である衛国が「媵」として公女(姫姓)を派遣する。「媵」は二人いて、どちらかが「右媵」となり、少しだけ格が高くなります。このケースで、どちらが右媵であったかは、わかりません。ひとまず衛国からの媵を衛姫と呼ぶとすると、その姪っ子の衛C姫と妹の衛D姫が、ユニットとしてついていきます。
翌年、やはり同じ姫姓の晋国が公女(姫姓)を派遣してきました。『左氏伝』によれば、媵を出すのは正室と同姓の国ということです。こちらの「媵」を晋姫とすれば、姪っ子晋E姫と、妹の晋F姫のユニットで、一旦、魯国に入ってから、宋国に嫁ぎます。
つまり、以下の姉妹丼ユニット3人×三か国からの合計九人が、宋共公に嫁ぐわけです。(ただし、年齢の若い者は国許で待機してもいいらしい。)
魯国(正室) 伯姫 姪魯A姫と妹魯B姫
衛国(媵) 衛姫 姪衛C姫と妹衛D姫
晋国(媵) 晋姫 姪晋E姫と妹晋F姫
このように、姫姓の国から奥さんをもらうと、いきなり九人もの、「○姫」が後宮に溢れるわけです。高貴な女性を表す「ヒメ」に「姫」の字を当てる、下地はここにあるのでしょう。
春秋時代と戦国時代、春秋・戦国と併称されるけれど、実は非常に大きな社会変革のあった時期でした。その一つが、姓という血縁集団の解体です。氏が強くなり、姓と氏が混同され、姓が意味を持たなくなる。そういう中で、「姫」にも大きな変化が起こります。
先に、春秋時代の有名な傾国の美女・夏姫を例に挙げました。彼女は夏氏に嫁いだ姫姓の女性だから、夏姫だと。
しかし、戦国時代にはもう一人、夏姫と呼ばれる人物がいます。秦の孝文王の側室で、秦・始皇帝の祖母にあたる女性です。彼女の姓はわかりません。この時期になると、「〇姫」が問答無用に「姫」姓だとは言えなくなってきます。始皇帝の母は趙国出身の踊り子で、大商人の呂不韋の愛人でしたが、趙姫と呼ばれています。少し時代は下りますが、前漢文帝の母は薄姫と言います。前漢の初期には確実に、「姫」は後宮の妃妾のことを指すように変化しています。
だいたい後漢時代ごろまで、特に皇帝の親族である諸侯王の後宮にいた女性が「〇姫」(〇は氏)を名乗る事例が散見しますが(例えば、前漢哀帝の母は丁姫、後漢安帝の生母の左姫など)、六朝から唐代にかけて、「姫」を以て後宮の女性を指したり、あるいは高貴な女性を意味したりする用法は、ほとんど見られなくなります。
ところが。
北宋末の風流天子、徽宗が、政和三年(1113年)に皇帝の娘「公主」を「帝姫」に改める、という改革を行います。
この時、「公主」→「帝姫」、「郡主」→「宗姫」(諸王の娘)、「県主」→「族姫」と改められます。
徽宗がいったい何を考えて、こんな改革をしたのかわからないのですが、十三年後の1126年、靖康の変が起きて、この「帝姫」たちは北宋皇帝の皇后以下の後宮妃嬪たちとともに、根こそぎ、金軍の捕虜として北方に連れ去られてしまいます。彼女たちは金で国営の妓楼「洗衣院」に入れられ、屈辱に耐えられずに自ら命を絶つ者(欽宗の皇后朱氏)、劣悪な環境で命を落とす者多数と、辛酸を嘗め、そのほとんどが異郷の地で屈辱のうちに人生を終えます。
男性の皇族もほぼ全員、捕虜として連れ去られ、ただ一人、都を離れていたため難を逃れた康王趙構が即位して、南宋の高宗となります。高宗は北に連れ去られた妻・邢氏を皇后に立て、金と帰還の交渉を続けますが、邢氏もまた金の地に没します。ただ母親の韋氏だけが1142年に息子、高宗の元に帰ることができました。
靖康の変の直後の建炎元年(1127年)の六月、「帝姫」らの称号は元の「公主」に戻されます。公主の号に戻すことを提案した官僚は、
「もともと女性は姓を称します。わが宋王朝は実に商(殷)の末裔で、姫姓ではありません。姫を以て称するべきでないことは明白であります。中には、姓氏の姫ではなく、姫侍の姫であると。これはさらによくありません。どうして、至尊である皇帝の娘が、へりくだって姫侍を称するのでしょうか?……あるいは公主の主の字を忌避したのだ、との説もありますが、(公主、郡主らの)主の字を一斉に除いたことで、民間では『主が無くなった』(天下を奪われた)という説も出てくる始末です。また姫は飢に通じ、財政難の予言であったも言われています。……望むらくは、祖宗以来の制度に戻されますように」(『宋会要輯稿』帝系八・公主条より筆者が意訳)
と、さまざまな理由を挙げて、「帝姫」という呼称が制度に合わず、縁起が悪いと述べています。「姫」が戦国時代から漢代にかけて、後宮姫妾の意に使用されていることを思えば、それを皇女の呼称に使うのは――つまり、異姓の王朝の後宮に入れられるという意味だから――確かに大変、縁起が悪いことだと、筆者も思わずにはいられません。
当たり前のように使われてきた「姫」ですが、なかなか壮絶な歴史があるのです。
○還珠格格
✖︎環珠格格
なぜ間違えたし…ヽ(;▽;)ノ(直しました)