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側妃

新帝のご即位をお祝いして

 結論を先に言えば、中華風後宮に「側妃」は存在しません。


 中世ヨーロッパ風の異世界で後宮があったり「側妃」がいたりすると、ヨーロッパはキリスト教の一夫一婦制だからあり得ない、と思う人もいるみたいですね。現実のヨーロッパの王族だって愛人囲ってたわけだし、とりあえず異世界語が翻訳されて、正妻が「王妃」、側室が「側妃」という設定なんだと、私は思うことにしています。翻訳語だと思えば、古典にはない言葉だけれど、許容できる(*1)。


 しかし、中華風異世界の後宮を舞台にした作品でも「側妃」を使う人が増えてきました。中華世界の皇帝には後宮がデフォルトで付いてきます。でも、その後宮で「側妃」なんて言葉、使われません。中華王朝の後宮特有の理由があって、「側妃」は存在し得ないのです。中華王朝の後宮の特徴とは、宦官がいるとか、皇太后がやたら権力を持っていて皇帝も頭が上がらない、などなどありますが、後宮女性たちには明確な品階秩序がある、という点が挙げられると思います。要するに官職だからです。ピラミッドのように積み上げられた厳然たる階層性、身分差、皇帝の寵愛一つで階段を登っていく下克上、それもまた中華後宮の醍醐味ですから、そういった品階の設定がぼんやりしていると、中華後宮の世界を活かすことができず、ただ登場人物の名前が漢字で覚えにくいだけの、異世界後宮小説になってしまう。いわゆる中華風後宮を舞台にした物語なら、「側妃」という言葉は使うべきでない。ただ、ごくごく例外的な事例もある。それは最後に説明するとして、まずは、中華王朝の後宮に「側妃」が存在しない理由を述べていきたいと思います。





 


 漢字には、「妻」を表す言葉がいくつもあります。これは単なる言い換えではなくて、夫の身分によって妻の呼び名が変わるのです。


 后 > 妃 > 夫人 > 妻


という、明確な序列があります。

 「后」は世界の支配者である、天子の正妻の号です。中国の天子(=皇帝)の正妻以外には、「后」を名乗ることはできない、というのが建前です。つまり、中華皇帝の正妻は「皇后」、これ一択。「正妃」や「皇妃」は一見、それっぽいですがあり得ない。なぜなら、儒教の経典『礼記らいき曲礼きょくらい下に、


 天子之妃曰后、諸侯曰夫人、大夫曰孺人、士曰婦人、庶人曰妻。

 【訳】天子の配偶者は「后」と言い、諸侯(の配偶者)は「夫人」と言い、大夫(の配偶者)は「孺人」と言い、士(の配偶者)は「婦人」と言い、庶人(の配偶者)は「妻」と言う。


と書いてあるからです。わかりやすくまとめると、

 天子 > 諸侯 > 大夫 > 士  > 庶人、の階級に合わせ、その妻の号位もまた、

 后  > 夫人 > 孺人 > 婦人 > 妻、とそれぞれ異なる。これが中華世界の身分秩序です。


 現実の歴史でも、春秋時代(紀元前770年~453年)の歴史書『春秋』や、その注釈書『春秋左氏伝』の中で、周王の正妻は「王后」、魯や斉の君主の正妻は「夫人」と呼ばれています。身分によって女性の呼び方は違うのです。

 

 周王の権威がまだしも残っていた春秋時代は、周王の正妻だけが「王后」でした。ところが、戦国時代になると周王の権威はさらに弱くなり、各地の諸侯は自ら「王」を名乗り始めます。最終的には「戦国の七雄」といって、秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の七つの国が残ります。これらの国の君主は「王」を称し、奥方も当然、「王后」を称しました。この状態が、秦が天下を統一し、史上初めて皇帝号を名乗る紀元前221年まで続きます。


 始皇帝の奥さんが何と呼ばれていたか。残念ながら、史料に全く記述がない。皇帝の正妻が「皇后」と呼ばれるのが確認できるのは、次の王朝である漢以後で、それは最後の王朝である清朝まで受け継がれていきます。





  

 上に引いた『礼記』では、「妃」は一般的な配偶者の意で使用されています。「妃」は、ハイという音もあって、配偶者の「配」と同じ。男である君主の「配」は当然、女だから、女偏をつけて「妃」なのです。中国は一夫多妻と言われますが、実は漢民族もそれこそ新石器時代以来、厳然たる一夫一婦制なのです。ただ、男性は妾を持つことが許された。正妻は一人だけ(「二嫡無し」)が原則です。

 

 本来「正妃」という言葉は、「正式な配偶者(女)」=正妻、という意味の、身分に関わりなく使われる言葉でした。正妻(正妃)に対する側室の意で「側妃」と使用するならば、別段、おかしな用法ではない。私が、ヨーロッパ風異世界での「側妃」なら許容するのは、このためです。しかし、中国ではそういう意味でも「側妃」が使用されることはあり得ない。それは、漢代以降、「妃」が「后」に次ぐ、二番目に高い妻の位号として定着していくからです。「妃」が「后」に次ぐ妻の位を意味する場合、「側妃」という言葉はちょっとばかり妙な言葉になります。


 天子の後宮であれば、「后」でない時点で正妻でないことが明らかですから、わざわざ「側」をつける必要がありません。また、天子(皇帝)に次ぐ皇太子や諸王の正妻が「妃」と呼ばれるのですが、正妻は一人だけで、正妻以外は「妃」から一級下がった位号を名乗りますので、「側妃」などとという言葉はあり得ないのです。




 「妃」が「后」に次ぐ二番目の地位を獲得する過程を簡単に見ていきましょう。

 前漢において、「妃」と言えば皇太子の正妻のことでした。妃の下に「良娣」、さらに「孺人」と三段階の夫人の階級がありました。妾は呼び方から違う、これもまた、中国の後宮の特徴です。一方、皇太子以外の皇子様は、「諸侯王」という、地方の大名に封建されます。地方でミニ宮廷を持ち、ミニ皇帝とも言うべき権力を持っていました。諸侯王の正妻は、前漢時代は「王后」と称しました。


 皇帝―――皇后  皇太子――妃

 諸侯王――王后  王世子――妃?


 地方にミニチュア版の皇帝がいるのは、中央の皇帝にとって大変、目障りです。故に諸侯王の権威・権力は中央の皇帝によってどんどん削られ、後漢になると諸侯王の正妻は「王后」ではなく、「王妃」と呼ばれるようになります。奥さんの称号が一級下げられてしまったわけです。そして諸侯王よりもう一段下の、列侯という爵位を持つ封建領主の正妻は、「夫人」でした。ちなみにそれぞれ母親には「太」の字がつきます。


 皇帝―――――――(妻)皇后(母)皇太后 

 皇太子、諸侯王――   妃    太妃

 列侯―――――――   夫人   太夫人


 と、 后 > 妃 > 夫人 という序列が、おわかりいただけるかと思います。





 後漢までは、「妃」は皇太子や諸王(皇子)の正妻の号で、皇帝の後宮にはいませんでした。前漢の初めのころ、後宮の女性たちは「美人」とか「夫人」とか「」とか呼ばれていました。前漢武帝の時、皇后の下に、倢伃(しょうよ)(史料によってはオンナ偏だったりします)以下の階級が整備され、元帝の時に倢伃の上に昭儀がつくられ、全部で十四等でした。それを全部書くと大変なので、ここでは割愛します。

 後漢を再興した光武帝は、十四等も無駄だとバッサリ減らして、「皇后」と「貴人」の上級の妻妾と、「美人」、「宮人」、「采女さいじょ」の三等の下級の女性だけにします。

 

 皇后(正妻) 

 貴人(貴妾)

____________

 美人・宮人・采女(賎妾)


 正妻でない、という点では同じですが、貴人とそれ以下では天と地ほども待遇が違いました。

 しかしまだ、皇帝の後宮には「妃」は登場しません。「妃」が皇帝の後宮に登場したのは、三国の魏の時代です。


 魏晋南北朝時代、中国では儒教経典に基づく国家制度の整備が進みます。後宮の女性たちの階級も立派な制度ですので、儒教的でなければならない、と考えられたわけです。

 儒教経典である『礼記らいき』婚義に、

 


 古者天子立六宮。三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻。




とあるのにちなんで、三の倍数ピラミッドの後宮制度、総勢120人態勢が完成します。以下は隋の制度です。


  (三夫人)貴妃、淑妃、徳妃

  (九嬪)順儀、順容、順華、修儀、修容、修華、充儀、充容、充華

  (世婦)倢伃12員、美人、才人で15員

  (御女)宝林24員、御女24員、采女37員(『隋書』后妃伝は「三十七員」だが、計算が合わない。33員の間違い?)


 一番上級の三夫人が、全て「妃」となっています。続く唐制ではさらに洗練されますが、何故か四妃に増えています。


  (夫人)貴妃、淑妃、徳妃、賢妃

  (九嬪)昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛

  (世婦)倢伃9人、美人9人、才人9人、

  (御女)宝林27人、御女27人、采女27人


 「なろう」界隈で中華風後宮ものを真面目に調べて書いている人は、この『旧唐書くとうじょ』に見える後宮制度を採用している人が多いようです。この制度が、後の宋以後にも継承されていくからでしょうか。このピラミッドのような後宮の階級制度の存在、これこそが中華後宮の特徴であり、醍醐味です。「妃」はその中の最高位の位号であり、官僚で言えば宰相クラスと同格でした。「側」などという字を加えて貶めてよいものではないのです。





 ここまで、一般的な「お連れ合い」の意味だった「妃」が、皇后に次ぐ位階にまで登り詰めた過程を追ってまいりました。唐制まで、「貴妃」というのは三夫人(あるいは四妃)の中の一つでしかありませんでした。しかし、いつの間にかこの「貴妃」は他の「妃」よりも一段上の位階、皇后と「諸妃」の間の位階として独立していきます。そして明代以降は「貴妃」の上にさらに「皇貴妃」という位号が加わります。清朝の後宮制度は、


 皇后 > 皇貴妃(1)> 貴妃(2)> 妃(4)> 嬪(6)> 貴人・常在・答応(定員なし)

*()内の数字は定員。

 

になります。先ほどまでの唐制では、「淑妃」とか「麗妃」が後宮の位階ですが、清では位階は「妃」で、それぞれ区別するために「賢」とか「静」とか、よさげな文字をくっつける形式に変わります。そして唐制に比べれば一目瞭然、ピラミッドの下部がばっさりなくなっています。位の低い妾に対する、皇帝の興味のなさがよくわかります。


 皇后(正妻)

 皇貴妃・貴妃・妃・嬪(貴妾)

 貴人・常在・答応(賎妾)

 

 という感じに簡略化できるでしょう。




 中国皇帝の後宮において、正妻は「皇后」ただ一人です。そして「妃」は皇后に次ぐ、次の位です。「妃」であるだけで正妻でないことは明らかで、わざわざ「側」の字をつけて、正妻でないことをアピールする必要はないのです。もし、皇后以外の女性たちをまとめて呼びたい場合は、「側妃」ではなく、「諸妃」「妃嬪」といった言い方をします。


 そして、皇帝から一つ下がる位である、皇太子や諸王(皇子たち)の正妻の称号は「妃」でした。この場合も正妻は一人だけですから、他の妾たちは「妃」を名乗ることはできず、愛人たちを「側妃」と呼んだりはしません。少なくとも漢民族の中華王朝の後宮には「側妃」は存在しなかったのです。






 ところが……!

 最後の王朝である清の歴史書、『清史稿』には「側妃」が出てくるのです。これが最初に触れた例外的事例です。『清史稿』に「側妃」が見えることについては、榛李梓氏の「小説家になろうで散見される「側妃」という語のルーツを探る」(*2)というエッセイがすでに指摘しています。


 『清史稿』の「側妃」は、后妃伝と輿服志に出てきます。


 太祖諸妃稱側妃者四。伊爾根覺羅氏、子一、阿巴泰、女一、下嫁達爾漢。納喇氏、孝慈皇后女弟、女一、下嫁固爾布什。其二皆無出。(『清史稿』巻二百十四・后妃伝一)

 【訳】太祖(=ヌルハチ)の諸妃の中で、「側妃」と称した者が四人。伊爾根覺羅イルゲンギョロ氏、男児一人、阿巴泰アバタイ、女児一人、達爾漢ダルハンに嫁ぐ。納喇ナラ氏、孝慈皇后(太宗ホンタイジの母)の妹である。女児一人、固爾布什クルブジーに嫁ぐ。他の二人は所出の子がいない。

 

 太宗諸妃。元妃、鈕祜祿氏、弘毅公額亦都女、子一、洛博會。繼妃、烏拉納喇氏、子二、豪格・洛格、女一、下嫁旺第。稱側妃者二。葉赫納喇氏、子一、碩塞。扎魯特博爾濟吉特氏、女二、下嫁夸扎・哈尚。(『清史稿』巻二百十四・后妃伝一)

 【訳】太宗(=ホンタイジ)の諸妃。元妃、鈕祜祿ニオフル氏、弘毅公の額亦都アイトの娘である。男児一人、洛博會ロボホイ。継妃、烏拉納喇ウラナラ氏、男児二人。豪格ホーゲ洛格ロゲ。女児一人。旺第ワンディに嫁ぐ。「側妃」と称する者二人。葉赫納喇エホナラ氏、男児一人、碩塞ショセ扎魯特博爾濟吉特ジャルートボルチギット氏、女児二人。それぞれ夸扎クジャ哈尚ハサンに嫁ぐ。


 *満州語の人名の読みはかなりあやしいです。

 

 太祖ヌルハチに四人、太宗ホンタイジに二人の、合わせて六人の「側妃」がいたとありますが、これはいわゆる「入関以前」の、清朝がまだ紫禁城の主となって、中国全土を支配する前の時代です。『清史稿』は漢文で書いてありますが、ヌルハチやホンタイジが喋っていた言葉は満州語ですから、ここで言う「側妃」も、もともと満州語だったものを中国語に翻訳し、漢字を当てたものです。



太祖初起、草創闊略、宮闈未有位號、但循國俗稱「福晉」。福晉蓋「可敦」之轉音、史述后妃、後人緣飾名之、非當時本稱也。(『清史稿』后妃伝一)

【訳】太祖ヌルハチが初めて興起したとき、まだ制度も整っておらず、後宮の位號など存在しなかった。但だ満州族の旧習に従い、「福晉(ふくじん、フージン)」と称した。福晋はおそらく「可敦」の音が転化したものである。歴史書が后妃について述べる際、後の人がそれらしい名称をつけたのであって、当時の本来の呼び方ではない。




 ヌルハチからホンタイジの時代には満州の伝統に従って後宮女性は「福晋」と呼ばれ、それは「可敦」(北方、鮮卑系の民族の国主「可汗カーン」の夫人の号)の音が転じたものだ、とあります。『清史稿』后妃伝によれば、中国風の皇后以下の階級が採用されたのは康熙帝以後のことです。

 この「福晋」の号は皇子(諸王・貝子らの皇族)の妻の号として残り、正妻が「(嫡)福晋」、側室が「側福晋」と呼ばれました。『清史稿』は「福晋」=「妃」と考え、輿服志は「側福晋」の意味で「側妃」を使用しています。非常に特殊な用法と言えるでしょう。


 以上のように、『清史稿』に見える「側妃」は満州族王朝特有の、非常に特殊な状況で使用されている言葉であるとわかります。そして中央研究院の漢籍データベースで「側妃」を検索しても、ヒットするのは『清史稿』のみ。極めて例外的な用例なのです。基本的には伝統中国には「側妃」なんて言葉はない、のです。


 結論:正統派中華王朝風の後宮が書きたいなら、「側妃」は使うな。入関以前の清、及び清朝っぽい異世界の皇子の後宮なら、例外的に使ってもいい。でも正しい名称は「側福晋」だから。満州族風の名前を考えるのも大変だし、ヒーローが弁髪なんて一部マニアにしか受けないと思われるので、おススメはしない。ヨーロッパ風異世界なら、翻訳語だし言語としてはおかしくはないので、世界観の説明をキチンとすれば、私は別に構わないと思う。



*1

Veilchen(悠井すみれ)氏「なろう的異世界における「側妃」の訳出を考える」


*2

榛李梓氏「小説家になろうで散見される「側妃」という語のルーツを探るhttps://ncode.syosetu.com/n4875dq/


いずれも「なろう」のエッセイです。

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