もう一人の男友達
「津田!」
由佳子は声をかけられ、振り向くと、
「荻野君」
合同オーケストラ部で同じ第一ヴァイオリン担当、J大・一年の荻野昌大が後ろから由佳子に歩み寄ってきた。
「どうしたんだ、最近。今日も音がすこぶる不安定だった。らしくないな」
「ごめんなさい……」
「いや。俺に謝らなくてもいいんだけど」
180㎝の長身の荻野が困ったようにくせのない髪をわしわしとかきあげながら、160㎝弱の小柄の由佳子を見下ろす。
「何か。悩みでもあるのか?」
遠慮がちにだが、そう問うた荻野の問いに由佳子は答えなかった。
「ごめん。出過ぎた詮索だな」
瞬間、荻野は横を向いた。
これ以上、痛々しい由佳子を見据えるのは耐え難い。
「でも。音に出るほどだ。よほどのことだと思う。大事にしてくれ」
じゃ……と、その場を離れようとして荻野は絶句した。
由佳子が、その大きな瞳から大粒の涙をぽろぽろと流している。
「ご、ごめんなさい……」
「津田!」
踵を返した由佳子の後ろ手を、とっさに荻野は掴んだ。
「悪い。でも」
荻野は、由佳子の腕を掴んだまま離さなかった。
離してはいけない……そう思った。
由佳子は、J大キャンパス内ということも忘れて、荻野の胸の中でただ泣いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふうん」
暖房の効いた暖かいカフェの席で、荻野は珈琲カップの淵をカツンと弾いた。
ここは、J大前の珈琲ショップ。
荻野は、とにもかくにも由佳子を落ち着かせ、話を聞いた。
男の荻野に由佳子はかなり喋りにくそうにしながらも、普段オケの時間、ヴァイオリンのことで率直な意見を交わしている間柄のせいか、存外、深いことまで由佳子は荻野に話して聞かせた。
「まあ。男として、彼氏の気持ちも理解できなくはない」
荻野の言葉に、びくりと由佳子は体を震わせる。
これは、彼氏もしんどいだろうな……
ポリポリと荻野は頭を掻いた。
健全な大学生男子なら、好きな彼女は抱きたいだろう。自分のカノジョなら抱いて当然と考えても、まあ仕方がない。ましてや、由佳子のようにとんでもなく可愛い女の子なら尚更だ。
しかし、目の前の由佳子を見るまでもなく、好きな娘に本気で泣かれたら、男としてはもう打つ手がない。
「で。今、彼とはどういう感じなんだ?」
荻野のその問いに、由佳子はフルフルと頭を振った。
「晃輝さんとは……。あの夜以来、逢ってない。LINEはするけど。よそよそしい。私も、どうしていいのか」
「津田はどうしたいんだ?」
「わ、たし……?」
「ああ。津田は本当のところ、彼とどうなりたいんだ?」
「私は……」
私は、本当はどうしたいんだろう。
晃輝に抱かれる。
それは、決して嫌なことではないはずなのに、実際にそういう場面になると拒否ってしまう。
晃輝さんが好き、なのに……
「わかった! わかったから、これ以上泣くな! 俺が泣かせてるみたいじゃないか」
「ご、ごめんなさい……」
そう言うと、由佳子は手早くバッグからハンカチを取り出し、涙を拭った.。
「まあ。男の本能と、女の気持ちとのせめぎあい。なんだろうな」
「本能……?」
「男なら、抱きたい。それが本能。でも、女の子はもっとロマンチックな方がいいんだろ? それこそ、キスひとつとっても夢見るようなシチュエーションとか」
荻野は、かけているメガネを外し、手元でいじりながら言葉を継ぐ。
「本当は、津田はもっとゆっくり彼氏との間に絆を育みたいんじゃないか。もっと言えば、つきあうきっかけがキスだった、て、津田には無理があったんじゃないのか」
荻野の言葉に、また涙ぐみそうになった由佳子は、再び慌ててハンカチで目元を押さえる。
その何気ないが優雅な仕草は、由佳子の育ちの良さ、可憐さを際立たせていて、故意に外した視線の外で荻野は、由佳子の一挙一動に目を奪われている。
しかし、由佳子は涙を完全に拭うと、荻野を上目遣いながらもしっかり見上げた。
「晃輝さんは、初めて好きになった人で……。感情も行動も、何もかもが初めての体験で。でも……」
膝の上の両手の握り拳に一瞬、力を籠めると由佳子は言った。
「私は。晃輝さんについていきたい」
荻野は、由佳子の瞳を再びまっすぐ見据えた。
その瞳には、迷いは見受けられない。
「なら。決まりだな」
荻野は呟いた。
「津田、頑張れよ」
「ありがとう。荻野君」
由佳子は、固い泣き顔から初めて、にっこりと微笑んだ。
その笑顔はさながら天使のようで、荻野はまた目を奪われる。
俺の恋路もここまでか……
荻野は、嬉しそうに微笑んでいる由佳子の天使の笑顔をただ見つめていた。