表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

妄想論

なろうファンタジーと時代劇

作者: とびうお君

 度々エッセイで出てくる、なろうファンタジーと時代劇が似ていると言う指摘は中々鋭いと思う。ただ私はこれが悪しきレッテル貼りにも繋がってるのを危惧してる。なろうファンタジーを擁護しようとは思ってない。ただ自分が興味を持ったもので間違った言及が広がるのが我慢できないだけ。


 私は独特だと言われるが、自分ではそう思わない。私は通常人間がある方向に向かう脳の特性をかなり分かってるから。それに逆らってるのが大きい。経験上科学知識から、脳は人間をある方向に誘導する事がある。だがそのすべてが悪いわけじゃない。でも本能と言うハード的習性を修正するのがソフト的な脳の働きで、そのため脳自体もハード的に生得的な決まったプログラムがある事を見逃しガチになる。


 これらが良き結果をもたらさないなら逆らうベキなんだ。人間はレッテル貼りをしたがる何故か?楽だからだ。脳が楽をしてる。それ以上考えないで済む。処理する情報が少なくて済む。脳は常に楽をしようとするから、結論はそれに流されてはいけない。時代劇と似ているは確かに正しいのだが、似てない部分もキチンと考えなくてはいけない。


 なろうファンタジーは時代劇の代替品であり、かつ、別の物である個性がある。大筋のストーリーの作り方がとても似ている。これを言うと多分現代劇も似たような話はわんさかある。私が俺TUEEと言う定義に反対なのは、昔からある物語の王道を無理矢理今の流行にしない方が良い。今理解できない人間が現れたなんて思うと創作論が薄っぺらくなる。


 舞台が違えば面白さが違う。これをもっと深く追求すべき。大筋なんて実は面白さとして重要じゃない。どの作品も似たようなものだから、それを学んでも差別化に繋がらないからだ。実は面白さは舞台にこそある。これが時代劇と似ているって指摘が全く重要じゃない部分。なら一部の医療物や刑事ドラマも似ていると言えなくも無いからだ。


 結局は舞台が違うから、そういった部分の違いで新たな物語が再構築される。この部分をもっと真剣に扱うべきだ。時代劇と似ているって指摘って実は全く重要じゃない。何故映像向きじゃなく、軽く読む阻害となる設定過多の物語が多いか?これが世界観そのものだからだ。この辺りは調整が必要だが、誰だってこういった部分が軽く楽しむのに問題だと分かる。


 だから設定過多は作者の独りよがりと単純化されてしまう。これも脳の特性に流されてるだけだ。それは程度問題で話されるべきで、設定こそが世界を形作っている本当の面白さになる。どの話も大筋の流れ自体は同じだからで。結局時代劇と似ていると言うのは、舞台設定とストーリー構造をセットにした雑な話しで、ストーリーだけなら多分現代劇でも似たものは多い。


 問題は時代劇はそういった単純なストーリー運びが多いだけになる。実際は舞台が現代劇じゃない。本当の似てる点はこっちにある。現代劇は舞台に面白さが無いからストーリーのバリエーションが増える必然がある。これらが選択の自由を増す一方で、それは外れの確率も高めてしまう原因にもなる。


 多数派保守層であると書いた。何故時代劇は一定のファンをつけるのか?で何かを選ぶ?ここに面白さが集約されていて、戦いは戦いを始める前にすでに決着が付いてる。私の創作の自論はここにある。見る前からすでにかなりの部分で勝負は付いている。作品を選ぶ事と作品の面白さは別だろう?私はそう思ってない。


 舞台への好みと嫌いなストーリー展開を選択しなくて良い保守的な安定感が価値になってるから時代劇には一定のファン層が付く。この部分が面白さにとってものすごく重要だと取り上げた人はほとんど居ない。だからファンタジー一強に何故?と言う疑問しか出てこない。その答えは選択が中身の面白さに密接に関わってるから。当たり外れがある場合の選択は作品の面白さに深く関わる。


 作品が似てるのじゃない、この部分がなろうファンタジーと時代劇は一番似てるんだ。実際作品も大筋のストーリーは似ているが、これも高確率じゃなければ現代劇でも似たようなストーリーはわんさか見つかる。


 何故西洋ファンタジーばかりなのか?の答えもこれに絡んでくる。これも様々な世界観を選択する時の当たり外れにかかわるから。次に、ストーリーの面白さに直接関わる部分だけ、設定として細かく変えれば良い。あまり重要でない部分は保守的な多数派の好みに落ち着いてしまっているだけ。実際どの作品も細かい部分で全く世界観が違う。


 重要視する部分が、きちんと楽しんでいる人間と、あまりそうじゃない人間と全く違うって点。大枠の世界観自体をなろうファンタジーに興味が無い人間は楽しみにしてて、実際ストーリーをきちんと楽しめてない。読んで面白さが分かれば、ストーリーに重要じゃない部分は共通項で常識として説明をカットしてるからだ。


 ただ単にすぐに理解できるからだとはっきりとした矛盾がなろうファンタジーには多い。そこを設定過多だと単純に見るなら、それは現代のような時代には相応しくは無い。これは現代的な楽しみだとはっきり書いておく。何故か?創作飽和の時代には選択の部分が作品の面白さと深く関わるから。


 選びたくてもそもそも数が揃ってない時代にこれは面白さにならない。作品が豊富じゃない時代ほど選択が面白さに関わる比重は激減する。時代によって面白さは変わってしまう。ストーリーにとって重要じゃない部分は、常識として説明しないで住む同じ世界観で共通するのは、面白さの最適化と言えると私は思ってる。


 なろうのエッセイではただ単純に常識として説明しなくて良いからとなってるが、それは重要じゃない。先ほど書いたように矛盾点があるからになる。それが設定過多だ。説明クソ多い。そこでそれは作者が下手糞だからとなる。それは無い。説明を楽しませる技量の差は間違いなくあるが、なるべく減らそうって単純さは価値にならない。バランスととって、上手く減らそうと考えないと意味が無い。


 何故ならそれこそが現代劇も時代劇も大筋は変わらんって部分と差別化する最も重要なストーリーのキーだからになる。エンジンが重いから出力が低い軽いエンジンを積んで負けてしまったとする。これになんでだろう?って分からないってエンジニアが居たらどう思うか?馬鹿だと思う。それは外から見てもすぐ分かる問題点だから。


 でも実際なろうファンタジーだけじゃない、現代劇でもそうだ。差別化するための独自のストーリーに重要な世界観の説明をカットして面白さになるわけが無い。仮に単純な話がヒットしたとしてもそれは結果論に過ぎない。誰か一人ぐらいはそういった成功を得るからだ。それは多分多くの失敗の中のまぐれに過ぎない。結果だけ見て、設定過多はやっぱり駄目なんだと。


 そういった言及は時代が違う。なろうファンタジーは文字だからか?ならそんな単純な話じゃない。誰か一人宝くじに当たるような成功を得たいならそういった単純化には耳を貸すべきだと思う。だがそれはとてもじゃないが現代必然とはいえない。ストーリーの面白さは普遍的じゃない。時代とともに常に最初にやったもの以外はシンプルな原型は受け無くなって来る。


 頭を使わない軽い作品で設定過多は良くないってのは古い常識だと私は見ている。重要なのはバランスを取る事になる。設定がもたらす結果が伴わない場合にだけ過多と言われるべきだ。単純な設定説明の量で決めるような話は、メディアの違うアニメ漫画でも駄目な話しだと私は見ている。過去の成功作の例に倣うことは単純には出来ない。


 次にもう1つ同じ点に触れよう。時代劇となろうファンタジーは現代より古い時代の世界観が根底にある。これがかなり重要になってる。なろうファンタジーのファンタジー要素以外の中世的世界観。この時代性は間違いなく時代劇と似ている。これを私はどう見てるか?と言うと、機械文明、管理社会的現代文明。こういったものへのアンチ的なもの。


 ただこれだけじゃない。なろう独自の奴隷少女などはおそらく古臭い抑圧的な女性観を求める男性の価値観と多分絡まっている。これはひょっとすると、外の世界で強烈な嫌悪を抱かれる可能性がある。時代が持つ人権への意識の違いで、わざとそういったメンドクサイ現代的価値観からの逃避があると見ている。


 ただし、これは絶対的なものじゃない。何故なら、日本は奴隷制度じゃなかったので、異文化としての面白さとして捕らえているケースも考えられるから。


 しかめっつらで、否定するのではなく、基本物語は個人のわがままを実現する気持ち悪い部分も重要な要素だと知ったほうが良い。虚構だから良いのだって部分。これは笑いとすごく似ている。問題発言を冗談だと許されるか否か?が笑いの根底にはある。単純に笑いと言う刺激があるわけじゃなくて、これが笑える空気なのか?この試験紙として笑いは使われることも多いのだ。


 虚構だから楽しめるって部分に、そういった気持ち悪さを完全に取り除いたら創作は面白くないとはっきり書きたい。現実だとやばいじゃんってのを許容する空気、これが笑いと似ているとなる。根本的に創作ってのは気持ち悪いものだと理解したほうが良い。創作への悪口として、気持ち悪いをあげる人が多いが、それを楽しむ人以外には気持ち悪くて当たり前なんだ。


 むしろ気持ち悪いと思わない人間が居ない創作は楽しむ人への面白さが作り出せて無いと言い切って良い。それは多分空気みたいに刺激が無い裏返しだと言える。客観的評価の権化に犯されて、まともに思考できない人が嫌になるほど増えている。それもすべてただ叩くためのネタを探してる創作を楽しんでる人じゃない人の玩具にされてるネットの悪癖だろうと私は見ている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ