刑務官。
私は巡回が苦手だ。○○中央拘置所の刑務官として勤務してもう一年が経過する。ここは残虐な殺人犯で溢れていて彼らはただ死刑執行のその日まで四畳半の部屋にて一日を過ごす。
240番異常なし、ん、私は気だるそうに机に寝そべる囚人番号240番の坂倉昌也に声をかけた。
「坂倉。大丈夫か?具合が優れないなら言いなさい」
返事はなかった。坂倉の目には生きる気力が感じられなかった。当たり前か自分が死ぬことが確実にわかっていてその日をビクビクしながら待つだけの日常は私なら耐えられない。精神が壊れてもおかしくない。私は拘置所の窓から見える空を恨めしそうに眺めた。
「槇塚さん、なにをなされているのですか?」
背中から聞こえた声に気づき私は帽子を深くかぶりなおした
「私語は慎みなさい数原」
数原は注意を受けるとおとなしく座りなにも話さなくなった。数原健吾は不思議な男であった。誰に対しても笑顔で反抗的な態度を見せない。しかし彼には人間臭さが感じられなかった。彼がいまなにを考えているのか私は全く予想もつかない。
「坂倉に動物を飼うことを承認して欲しいか。なぜだ」
巡回を終え課長に報告を終えた私は坂倉のことが気になり提案した。
「はい。最近坂倉はめっきり生気をなくしています。小鳥などを飼えば少しは気晴らしになると思いまして。」
「囚人にやすらぎなどいらない」
「矢崎さん」
仕事を終えた矢崎さんは鋭い眼光で私を睨んだ。
「槇塚お前なにを言っているかわかっているのか?やつは何の罪もない弁護士の夫婦を強盗目的で殺害した殺人犯だぞ。」
「わかっています。しかし…彼にも最低限の人権があるはずです」
「なにをバカな」
矢崎さんは私の胸ぐらを掴み壁に体を押し付けた。
「死刑囚に人権などあるものかあいつは目の前で親を殺されて泣き叫ぶ兄妹を縄で縛って三日間監禁したやつだぞ」
「わかっています。ただ彼も人間です。せめて人間らしく扱ってやりたいだけです」
「お前には妻と子供がいるよな。その言葉を自分の家族が殺された時に言えるのか。残された遺族に言えるのか。答えろ」
「いい加減にしろ」
しびれを切らしたように課長が仲裁に入り矢崎さんはようやく手を離した。
「矢崎の言いたいことはわかる。しかし槇塚の意見も一理ある。たとえ残虐な殺人犯と言っても人間だ。だが勘違いするな我々の仕事は無事に刑を執行すること。過去に他の拘置所で囚人が自殺を図ったとの報告も受けている。槇塚の案は一応検討しておこう」
「ありがとうございます。」
腑に落ちない様子の矢崎さんは私を睨んだあと課長に一礼して自分のデスクに戻った。時計の針はとっくに十二時を回っていた。
遅めの昼食を終え私は中庭に足を運んだ。気持ちを晴らすにはとっておきの場所だ。本当は坂倉を連れ出してやりたいがそうもいかない。ゆっくり二人で散歩しながらじっくり話を聞いてあげたい。矢崎さんや他の職員は死刑囚をゴミとしか思ってない。深いため息をつき視線を降ろすと一輪の野菊がさいていた。私はその野菊を坂倉に持って行ってやろうと両手でやさしく摘んだ。
確かに彼らは罪を犯したしかし生まれもっての悪人はいない。彼らは心が弱いだけなのだ。いつも接している私にはわかる。
坂倉は私がいきなり部屋に入ってきたことに困惑していた。私が野菊を手渡すと坂倉は震えた手をもう一方の手で押さえながら受け取った
「心配ない何か言われたら私から貰ったと言えばいい」
弔いの花か
坂倉はぶるぶると体を揺らし出した。
「弔いの花だ。死にたくない、死にたくない、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」
うぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁぁぁあ
床や壁を叫びながらたたき暴れる姿に私は圧倒され身動きがとれなくなった。息を荒げ坂倉は獣のような目つきで私を見た。そして勢いそのままに私に飛びかかった。
「殺してやる」
首を絞められ意識がもうろうとするこのとき私は死を始めて意識した。もうダメだと諦めた刹那ドタバタとすごい足音が聞こえ一瞬矢崎さんの声が頭に響いた。
「槇塚大丈夫か」
私は医務室で目を覚ました。体を起こすと課長と鬼の形相の矢崎さんがいた。
「課長。私は…坂倉は、坂倉はどうしましたか」
「坂倉は保護房だ、入れるのにだいぶ手こずったが今はおとなしくしている。」
「そうですか」
「おい言いたいことはそれだけか」
矢崎さんはそう言うと私の頬を殴った。
「死刑囚に怖気付きやがって腰抜けが
立場をわきまえろこの腑抜け」
「すいません」
私は殴られた頬を押さえながら力なく言った。
「坂倉は悪くありません。私が勝手に花を差し出したばかりに恐怖感を与えてしまいました。あの行動は人間として当然です。仕方のないことなんです」
「お前は飛んだ馬鹿野郎だな。監禁された兄妹は親を奪われた喪失感と恐怖心で苦しんでいるんだ。それを知ったやつは可哀想だからあのとき一緒に殺せばよかったと言い放った。そんな奴をお前は人間というのか」
拳を固めた私には強い意志があった。
「言えます。弱い人間だから過ちを犯すんです」
矢崎さんはぐっと私を睨んだあと医務室を出た。矢崎さんの拳は固くて重いあの人も覚悟を持って職務にあたっているのだ
「槇塚確かに私達にとっては目の前の坂倉の姿だけが真実だ。だから同情するなとは言わない。だがしつこく言うが本来の職務を忘れるな」
課長は私の肩をポンとたたき職務に戻った。
私は腫れた頬を冷やしながら自分の未熟を痛感した。
私は保護房から出てきた坂倉に会いに行った。一言謝りたかったのだ。部屋を覗くと坂倉と目があった。
「この前はすまなかったな」
坂倉はバツが悪そうに頭をかきながら言った。坂倉の頬は腫れていた。保護房に入れられるときにやられたのだろう。
「坂倉。何か始めてみないか?詩を書くのもいいし、絵を描くのもいい自分ができることを一緒に探してみないか」
坂倉は拍子抜けした顔をしたあとにこりと笑った。彼がどんな重い罪を背負っていても私の前では人間なのだ。だから処刑の日を迎えるまでせめて心やすらかに生きていてほしい。そのために私はなにか手伝いたい。そんな刑務官がひとりいてもバチは当たらないと信じたいものだと思った。
「今日坂倉久志の刑を執行する」
朝の朝礼で課長の言葉に私は耳を疑った。
「担当を槇塚に任せようと思う」
「なぜですか。坂倉は一生懸命やってます」
「それは分かっている。しかし法務大臣の指示だ」
しかし……私が口を開く前に矢崎さんが私の前に割り込んだ。もう何も言うなという意味なのだろう。
坂倉の独房までのわずかな距離を歩くさなか私は思い出していた。
絵が描きたいといった坂倉にスケッチブックと鉛筆を渡したことがあった。翌日坂倉は自分が描いた絵を見せてくれた。
それは私の絵だった。
絵の中の私は凛々しく一片の迷いがない刑務官だった。
私がありがとうと言うと坂倉は嬉しそうに笑う。その顔は澄んでいて私は目の前の男が死刑囚であることを忘れてしまうほどだった。
「坂倉でろ」
坂倉は落ち着いていた。私に気がついた彼は頭を下げいった。
「俺の絵を褒めてくれてありがとうな。最後の最後に人間らしい気持ちになれた」
坂倉は暴れたりはしなかった処刑場についた後も落ち着いていた。
壁の向こうが見えない目の前にあるのは押せば床が抜けるボタンだけだった。
このボタンは五つある。
合図があればこのボタンを五人同時に押す。これは少しでも刑務官の心の負担をなくすためのものらしいが私にとっては気休めにもならなかった。
嫌な静けさが壁の向こうを包む。私は震える右腕を必死に抑えた。
立会人が私たちに向かって手を挙げた。
カチッ、
床が抜ける音がした。
微かに断末魔の叫びが聞こえた。五分もすれば静かになる矢崎さんはそう言っていたがその五分が永遠に続くように頭に残って離れないのだ。
「昨日はお疲れ様でした」
数原は巡回中の私に声をかけた。いつものように笑顔で、
「なぜ私なんだろうな」
「はい?」
「この国には一億人の人間がいるのになぜ私が執行人なんだろう」
「それがあなたの仕事ではないですか?立派な仕事ですよ」
「違う。立派とかそういうことじゃない。坂倉を恨んでいた人はたくさんいたはずだ。だったらその人がボタンを押すべきじゃないのか。なぜ、なぜ私なんだ、私が間違っているのか?」
私は自分でも驚くほど気持ちが高ぶっていた。
「あなたはこの仕事を辞めた方がいい」
「なんだと」
「あなたのように優しい人はこの先罪悪感で身を滅ぼす。しかし気を悪くしないでください。人には向き不向きがある。それに私はあなたのような刑務官がいたことを死ぬまで忘れないでしょう」
数原の言葉通り私は一ヶ月後に移動となった。
その二年後私は仕事を辞めた。数原が言ったように人には向き不向きがあって私には不向きな仕事だったのだ。
いくつか年を重ね自分が刑務官だったことを忘れかけていたある日の朝刊で数原の死刑が執行されたことを知った。
数原は何を思いその日を迎えたのだろうか。今では知る由もなかった。