温泉と人面瘡《じんめんそう》
最近あごの右の辺りフキデモノができたんだが、なかなか潰れてくれない。
もっとも、俺はフキデモノが多少出たところで、誰かに見られて困るということもないわけだが。
いわゆるヒキコモリだからな。
ヒキコモリだからといって、別に学校や職場にトラウマがあったとかいうわけでもないので悲観的にもなってない。ただ漫然と毎日を過ごして好きなことをしているだけだ。
俺の家には両親がいない。
死んだのでも出て行ったのでもない……というか、実際どうだったのかはあまり覚えていない。いつの間にか妹と二人暮らしだった。
生活がどうやって成り立っているのかもよくわからないが、俺はそういうことに極端に無頓着な性格なため、とりあえず困っていなければ問題ない。俺の世界は俺の部屋と、トイレと風呂場。あとは台所にある冷蔵庫……それで充分だった。
俺の日課は夜中に起き出して適当に冷蔵庫を漁り、適当に何かを食べてつつネット三昧というやつだ。ゲームをしたりもする。ただ、従量やアイテムが課金制のものはしない。せめてものルールだ。
夜中に起きると言ったが、時間は定かではない。俺は時間にも無頓着なので、多分夜中だろうな、というだけだ。とりあえず外は暗いし、妹も寝ているのか物音が聞こえないくらい静かだからだ。
まぁ、そんなわけでフキデモノのひとつやふたつは普段なら気にも留めないのだが、今回のはちょっと話が違うのだった。
まず、なかなか潰れる気配がない。それどころか、徐々に大きくなり続けている。
生活は不規則だが、俺は別に不潔なわけではない、と思う。起きた時にまず顔を洗う。風呂は二、三日に一度は使う。毎日じゃないのは、人に会うことがないためと、せめてもの光熱費節約のためだ。だいたい、昔の人は今のように毎日風呂を使う生活をしていなかったのだし、運動をしているわけでもなからその程度なら問題はないだろう?
まぁ、そんなわけで顔は洗っているのだから、そのうち勝手に潰れてくれるだろうと思って静観していたのだが、徐々に育って行くフキデモノが、ある時から突然気になり始めたのだ。
そんなある日、俺は夢を見ていた。周りは真っ白で見渡せないが、温かい湯の感触と硫黄のにおいが充満している夢だった。
――温泉かな。
俺は実際の温泉に行ったことはなかったが、硫黄泉という種類の温泉がこういうものだということは理解していた。
その時はそれだけの短い夢だったが、数日後、俺はまた同じ夢を見たのだった。
暖かい湯の感触と硫黄のにおい。どこかで水が流れるような音も聞こえている。いや、多分水ではなく湯が流れ出ているのだろう。かけ流しというやつか。
じゃあ、この真っ白な風景は湯気ということか……温泉の風景そのものを知らない俺のことだから、アニメの風呂のシーンを真似して湯気だらけにして誤魔化しているのかも知れない。そう考えて、俺は夢の中でくすりと笑った。
今度はその二日後、また温泉の夢だ。
その頃には慣れたもので、新しい発見がないかと目を凝らしてみたり、手足を動かしてみたりした。景色は相変わらず真っ白だったが、手に何か触れた気がした。柔らかくふわふわとしたもの――石けんの泡のようでもあった。
――ははぁ、『湯の花』というやつを再現しようとして、とりあえず見た目が似ている石けんの泡を思い描いたんだな。
夢の中の俺はそう納得した。
こうなってくると、よりリアルな温泉の夢を創り上げたい、という目標ができた。温泉を完全再現できたところで夢でしかないのだが、何しろヒキコモリで暇な俺のことだ。こんなことでも楽しいのだ。
検索を繰り返して、理想の温泉の風景を探した。湯船の周りは岩でできている方がいいとか、露天で風光明媚な景色を見てみたいとか、思いつく限りのキーワードで画像を検索しまくった。
* * *
いつの間にか、毎日その夢を見るようになっていた。
そんな日が数日続いて、ふと、妹の気配を感じなくなっていることに気付いた。
いつからだったろう……? それまでは、たまに妹がまだ起きている時間に俺が活動していることもあったので、姿は見なくても「あ、今いるんだな」という気配はあった。
俺には曜日感覚もないので、ひょっとしたらその日が妹の休日に当たっていたのかどうかも定かではないが――とにかく、起きていても寝ていても、家に妹がいる時はその気配を感じていたのだった。
だが、ここ数日を思い返してみると、どうも妹はずっと留守をしているようだ。
仕事で出張でも行っているのか、友人や恋人の家に泊まりに行っているのか――妹の交流関係も、俺にはさっぱり知り得ない話なのだが――そんなこともあるのだろうな、程度に考えていた。
妹がいないということに気付いたのは、気配のほかにもうひとつ、食料が追加されていないことだった。
幸い、冷蔵庫はそこそこでかいし、ストッカーにも各種食料や保存食がたくさん入っている。
ただし俺は料理ができない。せいぜい湯を沸かすかレンチンする程度なので、じゃが芋やら玉ねぎやらがゴロゴロ出て来ても、カレーのひとつも練成できないのだが。
また数日が過ぎた。
相変わらず妹が帰宅した様子がない。
俺は徐々に残り少なくなって来た食料――そのまま食べられる果物や野菜などの生鮮食料は先に食べた――に、ほんのりとした不安を感じつつ、それでもいつもの日課を繰り返していた。
ゲームなどに加えて、温泉についての検索と、温泉の夢を創り上げることが、今の俺の日課になっていた。
ふと、あごが痒くてコリコリと掻いた時に、フキデモノがまた育っていたことに気付いた。
いや、徐々に育っていたのは知っていた。だが、いつの間にか結構な大きさになっていたことに気付いていなかったのだ。
なんとなく不安に感じた。何故これはいつまでも潰れないのか……ひょっとしたら、これは単なるフキデモノではないのかも知れない。俺は慌ててパソコンに向かい、『フキデモノ でかい』などのキーワードを入力した
『人面瘡』
リストの中にそんな言葉を見て、俺は血の気が引いた。いや、そんなものは都市伝説なのは知っている……知っているが。
俺はその言葉を最近聞いていたのだ――それは、夢の中で。
* * *
温泉の夢は、周囲の様子を感じ取れるほどまで『創り上げられて』いた。
残念なことに、相変わらず風景は白いままだったが、これは多分、温泉の情景を上手く思い浮かべられない俺の脳が残念なためなのだろう。
湯と湯の花の感触、湯が流れる音、硫黄のにおい、そして、最近は俺以外の誰かが同じ場所にいる気配――どうやら混浴らしく、その誰かは若い女性だった。
やったね、俺。
もっとも、若い女性といってもリアルで身近にいるのは妹くらいのものなのだが、妹と混浴したって面白くもなんともない。だが、嬉しいことに、その女性は妹とは別人らしかった。そして時々、女性の知り合いと会話しているような様子まで感じるようになっていたのだ。
彼氏と混浴だったらとんでもないお邪魔虫なうえに爆発必至案件だが、話し相手も女性らしい。よかった。
だが、今それを回想している俺には、よかったことばかりじゃないらしい。
何故なら、その夢の中の女性が『人面瘡』という言葉を口にしていたのを思い出してしまったからだ。
検索で出て来たのは偶然か。それとも、無意識に気にしていたせいで、夢の中の女性にそんな台詞を喋らせてしまったのか……
その日食べた濃厚なチョコバーは、何故かとても味気なく感じられた。
* * *
いつの間にか、寝ていたらしい。
真っ白な風景が広がり――そもそも広いのかもよくわからないのだが――いつもの温泉の夢だということに気付いた。
湯、湯の花、硫黄のにおい。いつものようにふわふわとした湯の花をもてあそんでいると、なんと誰かが俺の身体を洗っているではないか!
こ、これはもしかして――
優しく、時に少し力をこめられてするするとごしごしと洗われている俺の身体。相変わらず真っ白で何も見えないが、この夢の登場人物は俺の他にはあの女性たちしかいない。
――ラッキースケベ クル――?
夢の中とはいえ、俺は大いに期待した。だが、その『洗う手』は、俺の上半身を洗い終わるとふっと消えてしまったのだ。
――なんだ……
期待が大きかった分、気落ちも結構なものだった。だが、この夢は少しずつ創り上げられるものだったのを思い出した。いきなり全身洗いあげられるようなことがなくても当然の話だ。
そして気付くとまた湯に浸かっている場面に戻り、混浴しているらしい女性の声が聞こえて来た。
「――人面瘡だったらどうする?」
やはりだ。夢の中でこの言葉を聞いていた。
心配しているような、面白がっているような、曖昧な感情を含んだ言い方だった。
* * *
妹の気配がなくなってから、一体どれくらい経ったのだろう。
温泉の夢が気になって仕方がないせいで、俺はあまりゲームなどに没頭できなくなっていた。だからといっていつでも寝られるわけでもなく、以前より尚漫然とゲームをして時間を潰し、空腹を感じたら何か食べることを繰り返していた。
食料も残り少ない……これが尽きる前に、買い物に行った方がいいのだろうか。
そんなことを考える。
買い物に行くといっても、そういえば家の外がどうなっているのか、俺はよくわかっていない。いつからこの家に住んでいるのかも既にうろ覚えだ。そもそも、財布を持っていないし、この家のどこに金目のものがあるのかも興味がなかったので知らないままだった。
ひょっとして、妹はヒキコモリの兄の世話をすることを放棄して出て行ったのかも知れない、という考えがよぎる。いや、そもそも妹の気配が消えて二、三日でそういう結論に思い至ってもいいはずだった。
興味がないのではなく、現実を直視したくなかったのだ……俺は愕然とした。
とんでもない『真実』に気付いてしまった途端、その事態の重さに吐き気をもよおした。だが、胃がひっくり返りたがっているところを、俺は必死に抑える。
――出すな……! 出さないぞ……今ここで出したら負けだ。
そんなことより考えろ……とにかく考えろ。もしも妹が俺を見捨てたとしても、食料はまだ残っているし、水も電気も通っている。今のところなんらかの健康被害が出たこともないから、外界で天変地異が起こっているというわけでもなさそうだ。
インターネットもゲームも普通に動いている。
――じゃあ、何が今までと違うのか――
そのヒントは、夢の中にありそうだった。
そもそも、あの夢を見始めたのはいつからだっただろう? と、俺は振り返る。
そうだ――あごのフキデモノが気になり始めた頃からだったはずだ。
そして、夢が出来上がって行くのと同時進行で、フキデモノも大きくなって来ている気がしていたではないか。更に、夢の中の女性が発した言葉――
あの夢はまさか、俺のあごに巣食っている『コイツ』が見せている夢なんじゃないのか?
突拍子もない話だと思う。莫迦莫迦しい、と、他人が話したことなら一笑に付しただろう。だが、他人ではなく自分の話だ。自分が、夢とはいえ体験している話だ。莫迦莫迦しいでは済ませない心境だった。これが、俺の現実逃避だとしても。
どうしたらいいのか、どうすれば俺はこのフキデモノとあの夢の正体を掴むことができるのか。チーズ味のライトミールをぼそぼそと齧りながら、俺は必死に考えた。
――よし、今度夢を見たら、夢の中で誰かが俺の身体を洗い始めたら、そいつを捕まえてやろう。
俺がそう決心したのは、もう意識がもうろうとするくらい眠くなってからだった。
* * *
やはり夢の中は真っ白だった。しかし、今日は気のせいかうすぼんやりと周囲が見渡せているようにも見える。なんというか、『何か』が動いている気配が、気配だけではなく淡い陰影のように浮かんでいるのだ。
――これなら、ひょっとしたらいけるかも知れない。
夢の中の俺は、見えない手をぐっと握りしめてガッツポーズをした。
湯の感触、湯の花、硫黄のにおい……ふわふわとした湯の花の感触に、今日もまたのんびりとした気持ちになるが、それに流されないように自分に気合を入れる。
――だが、ひょっとしたら、今日こそは全身洗ってもらえるんじゃないだろうか?
そんな邪な考えが一瞬よぎる。
「いや、そんなことをしている場合ではない」という俺。
「でも、この夢も今日で最後かも知れないんだぜ?」という俺。二人の俺が、俺の左右で口論を始める。
天使と悪魔の口論を聞き流しながら、今日、この夢に結着をつけたら――と、俺は考えていた。
まず、妹の部屋に入り、妹が出て行ったのかどうかを確認しようと思う。
ひょっとしたら、この夢から解放されて、今まで通りの生活に戻るだけなのかも知れない。ひょっとしたら、俺は何日も眠り続けていて、この『妹がいないという日常』自体が夢なのかも知れない。
最悪――温泉の夢とは関係なく、妹が本当にいなくなっていたとしても、何か手懸りがないのか、家捜しすることをいとわないだろう。その結果いかんによっては、俺はこのヒキコモリ生活を終えて外に出なければいけないのだから。
――やはり、最後の最後にオイシイ体験をしておいても罰は当たらないんじゃないか? どうせ、この夢は――もしも、人面瘡が見せていたのだとしても――俺の想像の産物でもあるのだし。
どうやら、口論は悪魔が辛勝したらしい。負けた方の天使も「そ、そこまでお前が言うのなら、まぁ、しょうがないな……俺は見届けるしかない」と言い訳をしていた。
果たして、気付くと俺は湯から出ており、また誰かの手で洗われているのだった。
たっぷりの泡に包まれて、ふわふわゆるゆると、時々強めにこすられたり、ほんの少しつままれたり……どうやら前回よりも洗う時間が長いぞ、と俺は心の中で親指を立てた。
洗っているやつの正体を確認するため、そいつを捕まえなくてはいけないのだが、でももう少し、もう少しだけ――そう思っているとやがて――
――あ、ヤバい……これは、出そうだ……!
* * *
「――きゃぁっ」
気付くと、鏡にまでそれが飛び散っていた。
「やだぁ……強くつまみ過ぎたかしら」
まだ少し垂れているものを鏡越しに確認しながら、ぶつぶつと文句を言う。
「なぁに? 出ちゃった?」
「うん、出ちゃったというか出しちゃったというか……」
* * *
「あ、あんたまたつまんだんでしょ。痕が残るからやめなさいって言ってんのに」
悲鳴を聞いて様子を見に来た姉のサキエは、洗面所の惨状を見てため息をついた。
鏡には、ニキビを潰した時のものと思われる薄朱い脂の飛沫が盛大に散っていた。
「でもさぁ……これ、いつまでもしつこく育ってたから、やっぱ焦るじゃん? このまま人面瘡になったりしたらいやだなぁ、って。メイクもできないしぃ」
妹のミノリは、顔を泡だらけにしたまま口を尖らせている。サキエは最近、その台詞を何度となく聞いて、そのたびに妹の変な心配を笑い飛ばしていたのだった。
「ただのニキビがそんなオカルトな育ち方するわけないじゃん。現にこうして――ちょっと無理矢理だけど、解消したわけだし」
「そんなに笑わないでよ……でもさ、これより後にできたニキビは、毎日頑張って洗ってたら素直に消えてくれたのにさぁ。こいつだけやたらしつこかったし」
ミノリは洗面台のシャワーノズルを伸ばし、鏡についた汚れを洗い流す。それからお湯を溜め直して、洗顔料を洗い流しに掛かった。
ニキビ用の洗顔料なので硫黄のにおいが洗面所に漂う。だが二十歳を過ぎたサキエには、そのにおいですらもう遠い過去の記憶のようで、ミノリの若々しさの象徴を羨ましくさえ思っていた。
「あと、こいつができてから、なんか変な夢を見るようになっちゃったんだよね……それもイヤで」
洗顔料をすっかり洗い流したあと、タオルでそっと顔をおさえながら、ミノリが鏡に向かってまた口を尖らせた。
「へえ? 夢ってのは初耳だわ。面白そう――ブログネタにできそう? ちょっと教えてよ」
「待って、化粧水つけたら行くから――」
* * *
洗面台は渦を作り、湯に溶け出したすべてを排水溝へと流すのだった。
実際フキデモノができていて、それがいつまでも消えてくれないなぁ……と思っていたら浮かんだ話です。
思い付きで書き殴ったので、ひょっとしたら辻褄が合わない箇所があるかも知れません。
まぁ、普段はしょっちゅうこんな変なことばっかり考えてるわけです。
よろしければ感想など、お待ちしております。