【2】招かれざる客 7
「おじさん、手が止まってる」
「いや、今、何て言った」
「いいから、後続けて」
「答えなさい」
「うーん、約束あるのよ」
「約束はいい、デートって言わなかったか」カサカサと紙をより分けながら、眼鏡越しに問う。
「うん。そだよ」
「男か」
「女としてどーすんの」
「あ、いや、そうだが……」
「手、止めないで」と彼女は急かす。
「お前の父親には言ってるのか」
「やだー、何で父さんが出てくんの」
つんっとそっぽ向く裕はまだまだ幼い。
「叔父さん、告げ口とかしたら許さないから。父さんと母さんと……あと秋良も! 伯母さんも」
「いや、しかし」
「ひとっことも漏らしたら許さないんだから」
「相手は誰だ」
慎一郎と裕以外の口がぷーっと吹き出した。
「ほらーっ、叔父さん笑われちゃったじゃん!」
「らしくないことするなよ、慎一郎。まるで娘の動向を探るチチオヤそのものだぞ」田中が口を挟む。
「叔父さんがおとーさんなんて、絶対イヤだからね」裕は憤慨した。
「だから相手は」
「大人だよー。とってもステキな人なんだから」
今日は厄日か?
このことを知ったら、裕の父親、つまり彼の兄が血相を変えて文句つけに来るに違いない。
本当に頭痛を起こしそうになった所に、コンコンと歯切れ良くドアを叩く音がする。
今日何度目の来訪者だ。「入りたまえ」と努めて平静に答えた。
「失礼します」男子学生だった。
「岡部か」
はい、と慎一郎には目礼を、視線を移した先にいる裕には白けた顔を向け、そして改めて室内のカルテット達には目礼以上の礼を送った。
彼は名を岡部仁という。慎一郎の教え子で、慎一郎と仁は旧知の間柄だ。
二人の出会いは慎一郎がイギリスに留学していた頃に遡る。同じく訪英中で、当時はまだ白鳳の小学部に在籍していた仁と出会った。白鳳出身が縁を取り持った形だった。
「尾上」仁は裕に向かって言う。
「何よ」
「忘れ物だ」
「私?」
仁の手には今では珍しい青焼きのコピーがあった。
「あっ」
「コピー室にあった。一人長々とコピー機を占拠してたって係員が言ってた。お前のだろうからって」
「いけない、原稿台においたままにしちゃったんだ」
へへっと彼女は舌を出す。
「保管期限は過ぎてるが、マル秘扱いの資料じゃないのか」
「うん、たくさんあってさ、忘れちゃったのよ」
「忘れちゃった、じゃなく」
「ふんだ、あんたに関係ないし」彼女はそっぽ向いた。
おやおや、と学生二人を除く大人は目配せし合う。
「岡部、ありがとう。それだけ足りていなかった。裕、残念だが、パーフェクトとはいかなかったな」
「ええーっ、今回も減俸ーっ??」
「当然だろう」
「しょぼーん!」
「と言いたいところだが、岡部のフォローが入ったことで免除しよう」
「やたーっ!」
「デート代、減らされなくてよかったね」と言う宗像へ、裕はうふふと笑って返した。
「デート?」と仁は呟く。
「うん、そう! あ、もう時間だ、じゃ、叔父さん、今度はいつ来ればいい?」
「今週はもうない。来週にでも電話する」
「うん。じゃその頃には秋良も帰ってきてるね。楽しみーっ。るかもね。じゃ、また!」
室内にいた仁を除く面々にばいばいと手を振って、裕は足取り軽く出て行った。
「恋する女はイキイキしてていいねえー」
「そっか、裕ちゃんもお年頃かあ」
「彼氏、大人って言ってたな、ここの学生かね。まさか社会人かな。君、もしかしてフラれた?」
ぽつねんと立つ仁へ、宗像は言う。
「は? 自分ですか? いや別に」
「そう? 放心してるように見えたからさ」
「そんなことないっすよ」
じゃ、自分もこれでと言って、仁はぺこりと一礼し、裕が去ったのとは反対の方角へ足を向けた。
「なんかショック受けてるみたいだったねえ、彼」
「ん? 岡部――仁がか?」
「そ。知らない間柄じゃなさそうだったし」
「裕となら、まあ、あるような、ないような」
首を振りながら答えた。
姪と教え子との間に流れる緊張感溢れる空気は、大人たちにはなじみのあるもの。かつて知ったったる甘酸っぱい感情だ。
当人同士は努めて無視しているが、第三者だからわかることもある。しかし、この二人は不器用もいいところだ。
「ま、いろいろあらあね、若いとね。いいなあー、若者」
元若造はうらやましそうに言い、ふっと場が和む。
慎一郎の研究室で課外活動の面倒を見ていた高校生が、友人・岡部仁について耳打ちしたことがあった。
ねえねえ、先生。あのさ、仁さ、先生んとこの姪が気になってるみたい。高等部の頃からかな。あの子、先生んとこにわりかし来てたじゃん、遠くから見てたみたいだよ?
僕が先生に言ったこと仁に聞いてもダメだよ。何だよそれ、って絶対相手にしないから。あいつ、本気で好きな子には素直じゃないんだあー。
やれやれ。
当人同士が知らないところでは、もつれきった糸は丸見えなのだな。――人のことは言えないか。
君たちの前途が明るいことを祈るばかりだ。
「ところで、各々方」
蛯名は厳かに宣う。
「本気で取りかからないと、本当ーっに期日までに本ができないのだが。今日、徹夜する覚悟はあるのかい?」
確かに。
男達はそれぞれに自分の持ち分に向き合う。
この日、研究室の電灯はとうとう消えることはなかった。