【14】ロング・グッドバイ 2
◇ ◇ ◇
「ごめんなさい」
彼女はぺこりと頭を下げた。
「いろいろ振り回して、迷惑かけたわ」
「もう終わったことだ」
「そう言うと思った」
にい、と三浦は笑顔を見せた。
「ホント、張り合いがない。あんまり物わかり良すぎても面白みなくて、女に振られるわよ。ねえ、そう思うでしょ、あなた」
秋良をチラ見する。
ええ、とも、はあ、とも返せず、秋良は珍しく返答に迷った。
「私ね、思い出したの」
秋良の方に顔を近づけ、三浦は言った。
「どこかで会ったなあー、ってずっと気になってたの。ディックも同じこと言うのよ、帰ってから二人でどうしてかしらね、って言い合ってたの」
「博士とはアンカレッジからご一緒しましたから、そのことをおっしゃっているのでは」
「ううん、それより前よ。もう何年前になるかしらね、日本へ帰る便の機内だったと思うの。酔漢がいてね、ひどく乗務員に絡んでいて。その人、いやな雰囲気になった機内で気丈に応対してた。客にお酒かけられてもにこにこしてちっとも取り乱したりしないの。まわりの日本人達は見て見ないフリ。いくじなしばっかで、見てられなかった」
秋良は顔を上げ、慎一郎も彼女と視線を交わす。
「あなただったのね」
「――乗っていらしたんですか」
「私、ハラ立っちゃって口だそうとしたら、止められたの、隣に座ってた人に。自分が代わりにするから、って」
「ええ、助け船を出してくれたお客様がいました」
「それね、ディックよ」
「え?」
「それまでぐーすか寝てたのよ、でもぱっちり目を開けて。いい加減にしたまえ、って立ち上がって。あの図体だからヨッパライも黙ったのよね。尾上君、いくら彼女を独り占めにしたいからって家の中に閉じ込めるようなことしちゃだめよ、日本人の男は結婚したら女は家庭に、が当たり前だって思うもんだから」
「君に言われるまでもない」彼は答える。
「彼女は自分らしく生きる術を知っている。私は見守るだけだ」
「ああ、そうですかー。心配した私がばかでした。もう聞いちゃいられない」
「落ち着いたら、カナダへ来て。ディックもジョンも大歓迎するわよ。だって尾上君のおかげで私はディックと会えたようなものだから」
「それがわからない。私が何をした? 君もジョンも忘れたのかと聞くが、何のことか皆目見当がつかない」
「本気で言ってる?」
「もちろん」
「あなたにとってはその程度のことだったのね」
ふうと三浦はため息をついた。
「いいわ、教えてあげる。いつだったか、子供の頃の話をしたことがあったわ。お母さんに連れられて方々に出かけた。近場だったり、遠かったり。外国にも行った、って。そこで見たシャチの姿が忘れられないって言ってた。私聞いたのよね、『見せてくれる?』って。そしたら、あなた『ああ』って答えたの」
「記憶にない」
嘘だった。
確かに口にした。三浦との寝物語の時に出た話題だ、ここはすっとぼけるしかない。
三浦の目がきらりと光る。その眼差しは『嘘でしょ』と満足そうだった。
「他愛無い口約束を真に受ける程、私も初心じゃないわよ。ジョンがまだ小さかった時かな、彼に見せたいなと思ってね、出かけたの。シャチのコロニーがあるところを調べて、知り合いを総動員して研究者を紹介してもらって。それがディックだった。びっくりしたわよ、以前隣の席で座ってた人じゃないの。彼も覚えていてくれてね。そこから息子ぐるみのお付き合いが始まったの。彼がその筋では有名すぎる学者だと知ったのは後になってからだけど、出会うきっかけを作ったのは尾上君から話を聞いたからだわ。人の縁って、どこでどうもつれて繋がるかわからないものよね。これでもあなたには感謝してるつもり」
じゃあね。
そう言うように、三浦は手をひらひらと振って二人に背を向ける。
bye
三浦はかつんと踵が低い靴のヒールで一回大きく床を蹴ってその場を去る。
まっすぐ前を向いて。
ぴんと背筋を伸ばして。
――そう、私もしなやかに歩く足を持っている。
あの人みたいに、まっすぐに前を向いて。
私は私。
秋良はこの世で私ひとりだけ。
慎一郎さんを追いかけていた少女の頃の自分と、今の自分。
どちらも同じ人間なの。
過去の自分は、きっと今の私を羨む。
でも、少しだけ、片想いに焦がれていた、一途な自分も大切にしてやりたい。
その思いを胸に抱いて温めていたから、今の私がある。
「ねえ、慎一郎さん」
「うん?」
「私、シャチが見たいわ」
秋良は慎一郎にしなだれかかる。
「あなたが知ってるのと同じものを」
「シャチをか……?」
「だって、あなた仰ったでしょ。どこへでも連れて行ってくれるって」
「……言った」
「私は子供の頃のあなたが何を見たか、知りたい。ただそれだけなんです」
過去に遡って同じ時を過ごすことはできない。でも、思い出なら共有できる。
秋良は想像する。
鈍色の空と海原。そこにいるのは大きな海洋生物。
その場所はきっと寒くて、暗くて、海は広く、人はいない。
側には彼が愛した家族がいて、少年だった慎一郎が歓声を上げるのだ。
彼が大切なもの、好きだったこと、愛した過去。
全てを受け止めたい。
秋良は腕に頬を寄せ、『夫』を見上げた。
夫を見つめる妻へ、返す夫の眼差しは熱い。
身の内に湧き上がるのは、心を満たす温かさと、一度覚えてしまった身体の疼き。
満たされていないのだと言って、彼女を揺さぶる。
秋良は気を紛らわせたくて深く息を吐き、慎一郎は彼女の手を撫で擦る。
ひやりとした掌を包み込みながら、彼は指先で文字を書いた。
君が欲しい、と。
答えは最初から決まってる。
秋良は甘い予感に身を震わせた。
あとのあがき書き
いつもありがとうございます、作者です。
今年は去年よりはあれこれ書きたいと思いつつ、
もう6月になってしまいました。
年初に立てた抱負を振り返るに、
ちょっと……書き成分が足りてません。
少し早いですが、残りの半期、まいてかかりましょう。
……って、会社に提出する自己申告書みたい。
(うちの会社は、年に3回、業務報告を書き、
その都度プレゼンをし、評価を受けるんであります……
この報告書を書いたり、プレゼンしたり、
フィードバックを受けるのに費やす時間がもったいないと思うのは
私だけかしら。)
今年、作品に時間が割けていない理由の最たる原因は、
ずばり、英会話をはじめたことかと。
昨年暮れ、ちょっとしたきっかけから
「これは真剣に話せるようになっておかねばなるまい」と一念発起。
1月末からやりはじめ、3月頃からレッスン数を増やし、
4月頃からほぼ毎日レッスンを入れるようにし、
本日、2016年6月初旬現在続いているんですが、
全然話せる気がしないのは何故かしら?
だってですね、記憶力が柔軟な10代にぼろぼろな成績だったんです。
片っ端から物事を忘れる年代だというのに、無謀にも程がある。
先生達の努力を片っ端から台無しにしてる私。
さあ、年末には流暢に英語を話せるようになっているでしょうか!
やっぱり、「話せる気がしない」と言い続けてる気がします……
果たして継続は力なりとなるでしょうか。
自分に期待しよう。
……書き時間を取られてる言い訳、これにて終了!
さて、本作です。
当初、ちょっとした小話、短編を予定していましたが、
結構長めになりました。
こんなはずではなかったなあ……
毎回思うことで、
毎回解決できないことです。
自分の世界観くらい自分で好きなように動かしたいんですけど……
登場人物達が勝手に動いてくれるので
それを追いかけるので精一杯。
そんな一杯一杯だった本作、
単純に、
婚約者の元に元カノがやってきた、子連れで。
さあ、どうしよう?
ってところを書きたかったんです。
しかし、こんな男でいいのか? 秋良?
君にはもっとふさわしい相手がいたのではなかろうか。
今更ながらに思います。
なんで、いじめてしまうんですねー、慎一郎君を。
今回もさんざん慎一郎氏をいじめました。
そこんところは作者的に満足でございます (^.^)
皆様、ここまでの御拝読、本当にありがとうございました。
これで「ふたりになるまでの時間」シリーズは
一応、おしまいとさせていただきます。
拙い本作、作者ばかりが堪能した世界、
はたしてお読み頂いている皆さんにちょっとでも
いろんな感情を動かせるものになっているといいのですが……
また近いうちにお目にかかれますことを祈って。
ではではー。
作者 拝
次回作は、そうですねー、
夏頃から掲載開始できればと思ってます。
主人公は、すんません、シリーズ終わったといいつつ、
ここで既に出てる子達を使います。
実は本作、その、次回作へのつなぎの意味で書いてました。
高校の頃に考えたキャラを、今の価値観でどこまで動かせるのか、
作者だけが楽しんで書いてる話になっちゃいますが、
よろしければご覧いただけると嬉しいです。