【12】夫が帰る先は 4
◇ ◇ ◇
「まあ、それはお手数おかけして申し訳ないことを」
玄関先で出迎えた宗像の妻は、慎一郎が抱える夫を屋内に招き入れた。
「ただいまあー」と宗像は手を上げたが、すぐに壁を背にずるずるとへたり込む。
「尾上先生、いつも夫がお世話になっています。そして、こちらは」
彼女は秋良に目配せする。
「奥様ですね。この度はご結婚おめでとうございます」
宗像の妻が会釈をする仕草に、秋良は目を瞬かせた。
何だろう、この、何とも座りの悪い感覚は。
二の句が継げないままでいると、宗像が「水ー」と呻いた。
「ええ、お水ですね、用意しましょう」彼女は、ちょっとごめんなさいと言い置き、奥へ下がった。
「呑まれたな」
「……ああ、飲んださ」ふう、と酒臭い息と共に彼は応えた。
「秋良ちゃん」
「はっはい?」
「俺は、君のことが、大好きでしたっ!!」
酔漢らしい、なんとも紋切り型な口調で宗像は言った。
「けどっ、俺はぁっ! すまない、君とはケッコンできないっ!」
大きな声だったので、秋良は慌てる。
そこへ丸い盆にコップを携え、宗像の妻が来た。
宗像夫妻を除いた二人は石像のように固まった。
宗像はその後も譫言のように、好きだ、ケッコンだと喚き、「カミサン、ごめん!」と言ったが最後、再び切れたゼンマイ仕掛けの人形のように倒れた。
「水だぞ、飲むか?」
コップをさしだされた宗像は「……便所……」と言うなり、口元を覆う。
「ここではダメだ! 奥さん、トイレは?」
「このドアの向こうですわ」
宗像の妻はすっと指差す。慎一郎は友人を抱えてその方へ突進した。
慎一郎さん、何だかんだいっても面倒見がいいんだわ。
秋良は忘れたい過去をほじくり返す。慎一郎が秋良に禁酒を促すのは、彼女がひどく酔った時の経験があるからだ。介抱されたヨッパライの目からは、焦った彼の姿はすごく新鮮に映った。その時の様子を思い出して、つい笑みがこぼれた。
「ご迷惑をおかけして。本人は楽しかったようですけどね」
宗像の妻は言い、秋良は我に返る。
「すみません、私たち、よく見ていなくて」
「いいんですよ、いい歳した大人なんですから。それより、皆さん楽しめましたか? 時々、度を超して飲み過ぎて、その度にお仲間に運ばれるんですよ。ごめんなさいね」
「いえ、そんな!」
「あの人、今日は古い友人の祝いだって張り切って出かけたんです、自分が憧れていた人と結婚すると。よく言ってました、きれいな名前の人だった、名前だけじゃなくて、本人もステキな女性で高嶺の花だったと。あなたのことだったんですね」
「私は……」
秋良は瞳を伏せる。
「主人から聞いてます。プロポーズしたけど、けんもほろろに断られた、他に好きな男がいるから相手にしてもらえなかった、って。だから君と結婚したと」
「奥様」
「よく聞かされてたんですよ、昔の恋の思い出がよっぽど鮮やかすぎたみたいで忘れられなかったようですね」
「どう――思われました?」
秋良はぽつりと問う。
昔、夫が好きだったという女に問われて、良い気分のわけがない。けれど聞かずにはおれなかった。
「そうね、それこそ昔は驚きましたし、傷付いたし。何てデリカシーのない人だと呆れましたよ。でも、男ってどなたも似たり寄ったりではないかしら」
「はあ……」
「それね。何だかんだと言いつつ、帰ってくるのはここ。夫は妻の元へ帰るものですから。あなたも、わかる日が来るわ」
そう言って宗像の妻は微笑んだ。
彼女の笑顔に、秋良ははっとする。まるで合わせ鏡の向こう側に映る自分を見ているようだった。座りの悪さを感じたのは、彼女の顔立ちや雰囲気が自分に似ていたからだった。
ふたりが宗像家を後にした時、すでに日を跨いでいた。
「そうか」慎一郎は後にしたマンションを振り返り、言う。
「以前から宗像の奥さんが誰かに似ていると思っていた。君にだったのか。奴は……」
彼は言葉を飲み込んだ。
人はもちろん車もまばらになった往来は静かに夜の衣を纏っていく。
「君の帰りが遅いと、また道代さんに叱られる」慎一郎はふっと笑った。
「母のことは気になさらないで。もう慣れっこでしょう」秋良も答えた。「帰宅が夜中になる日もありますもの」
「でも、きっと寝ずに待っている」
「……ええ。そうです」
レジデンツ脇にあった公衆電話から、慎一郎は水流添家の電話番号を押した。
電話の応対から、向こう側にいる母の様子が伝わってくる。
何時だと思っているんです? 慎一郎さん。二人とも子供ではないのは良くわかってますよ、でも、もう少し早く電話ぐらい入れなさいな! いい歳した大人なんですから! わかってます? わかっているわよね???
「こってり絞られたよ」受話器を元に戻しながら慎一郎は苦笑した。
「ごめんなさい」
「秋良が謝ることはない、道代さんの心配ももっともだから、何時になってもいいから帰ってきなさい、だそうだ」
「……はい」
「タクシーが見つかるまで、少し歩くこうか」
秋良はこくりと頷いた。
こつこつと、長い影をひいて二人は行く。
平日の深夜だ。人はもちろん、車も来ない。
「普段なら、流しのタクシーぐらい拾えるんだが、時間的に出払っているんだな」
彼は腕時計を見る。つられて彼女も自分の手元を見たが、その手は彼に捕らえられた。
ずらした腕時計の場所に、唇を寄せる。
強く吸う口付けだ。
少しの痛みと心地よさに、彼女は頬を赤らめた。
「約束したろう、跡が消える前にこの上に口付けると」
「ええ」
彼がつけた名残の口付けの跡は、今ではすっかり消えていたのに、新たな痕跡を確かめるように彼は唇を這わせ、舐めた。
「果たせなかった」
「慎一郎さん」
「次は、必ず守る」
彼女は小さく頷いた。
つと、慎一郎は視線を移す。その先にはバス停があった。
最終バスはとうの昔に終わっている。秋良は人がいない待合いのベンチに誘われるまま座り、彼の肩に頭を預ける。
鼻孔を満たすのは、酒と煙草と、男の匂いだ。
誰よりも好きでたまらない。恋しい男の。
夫は妻の元に帰ってくるものよ。
宗像の妻が言ったひとことが思い浮かんだ。
「帰りたい」秋良は腕に頬を擦り寄せる。
「どこへ?」
「家へ」
「家?」
「私たちの家。これからあなたと作る家に帰りたい」
「ああ、そうだ」すがる彼女の身体を慎一郎は抱いた。
どこにでもある、ふつうの家庭と変わりない。
彼がいて、彼女がいて。
訪ねてくる友人がいて。
ふたりで食卓を囲み、他愛ないことをいつまでも語り合う。
100の笑いと、101回の愛、そしていつの日か産まれるであろう子供が言う。「ただいま」と。
彼らは「おかえり」と言って迎え入れる。
どこにでもある日々は本当はどこにでもあるものではない。
尊くて簡単に失われるものだ。
そのことは私以上に彼が知ってる。
愛しの我が家を欲しているのは慎一郎さんなのだから。
「帰ろう」慎一郎は言った。
「君がいるところが、僕たちだけの家だ」と。